スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ポメラDM200、最高です

 今年10月に発売された新型ポメラのDM200をとうとう買ってしまった。値段がめちゃくちゃ高かったので、最初はもうちょっと安くなってから買おうと思っていたのだが、どうせ来年になっても3万円ぐらいまでしか値段は下がらないだろうし、次のポメラが出るまではそれ以上安くなるとも思えない。次の新型ポメラがいつできるかもわからないのに、2年も3年もひたすら待って結局3万円前後で買うぐらいなら、4万円でも今のうちに買って1万円分使いこんだほうがいいのではないかと思い直し、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ってみた。最初はやっぱりもったいなかったかなーとか思ってしまったのだが、家に帰ってきて数日使ってみたら、やっぱり買って正解だったと大満足。使えば使うほど買って良かったと思えてしまう。これ、すごくいい。

 特にキーボードが打ちやすいのと、漢字変換でストレスを感じない点がすばらしい。パソコンのワープロで打っているのとまったく同じスピード、同じ感覚で文章を書くことができる。昔買ったポメラのDM20と比べると起動がちょっと遅くなってしまったが、それでもコンピューターを立ち上げるのに比べたら断然早い。スイッチ一つでここまで使いやすいワープロが立ち上がるのだから言うことなしだろう。こんな使い勝手のよい機種は15年ほど前に使っていた富士通のウィンドウズCE機以来だ。

 画面のサイズが大きいのとバックライトがついている点も文句なし。ちなみに私は去年あたりから急に小さい文字を読むのがつらくなってきて、らくらくホンかと周りに馬鹿にされながらもiPhoneのフォントを大きくして使っていたりするわけで、ポメラもフォントサイズは上から3番目の大きさの32dotという結構大きなサイズで使っているのだが、それでも30文字×14行で表示されるので文章も書きやすい。書いている時、画面が狭いとはまったく思わない。普通の人だったら20dotか24dotのフォントサイズで大丈夫だと思うので、画面はさらに広く感じるはずだ。

 もう一つ特筆しておくべき点は、ctrl+Hでバックスペースと同じ前文字一字削除というショートカットが使えるようになったことだ。このショートカットは歴史が古く、UNIX系のEMACSというエディタあたりから使われ始めたんじゃないかと思うのだが、今ではMacBookでも使える非常に便利なショートカットだ。一つだけ難があるとしたら、あまりにも便利すぎて一度このショートカットを使うようになると、もうこれなしでは生きていけなくなってしまう点だろう。これが使えないものはなんであれどうしようもなく不便に感じてしまう体になってしまう。結果、私のようにこれが使えないというだけで、いくら安くてもウィンドウズ機が最初から選択肢に入らないという、金がないくせにグルメみたいな悲劇に見舞われてしまうのだ。前回までのポメラはこのショートカットがなかったのだが、今回とうとう標準装備された。これだけでもDM100ではなくDM200を選ぶ理由としては十分すぎるだろう。

 ちなみにコントロールボタンを押しながらF、B、P、Nでカーソルを上下左右に移動するというショートカットもついているのではないかと期待した人もいるかもしれないが、それは残念ながらついていない。矢印キーで上下左右するしかない。そこらへんは上記のショートカットに慣れた人には不便といえば不便かもしれない。ただ、プログラムのコードを書く時と違って、文章を書くときは基本どんどん右方向に文章を書いていくだけでカーソルを縦横無尽に動かす必要もないのだからctrl+Hが使えない時のような不便さは感じないと思う。文章を読み直して修正を加えていくときなどはキーボードの上に手をずっと置いておく必要もないわけで、普通に矢印キーなどを使ったほうが読むのに集中できるだろうし。

 あと、先日偶然に発見してなにげに便利だと感動したのが、ファイルから開くを選択してファイル一覧が表示されたときにファイル名の上で→を押すと、ファイルを開かなくてもファイルの中身が確認できるという機能。もしかしたらDM100のときからこの機能はあったのかもしれないが、私が持っているDM20にはなかった機能なので、矢印ボタンを偶然押したら画面がいきなり出てきて一人で感動してしまった。意外と細かいところまで、きちんと作り込んでいるなーという感じ。

 もう一つ非常に便利じゃないかと思い始めたのがカレンダーに書き込むメモ欄だ。これはDM100とはほとんど同じらしいが、私が使っていたDM20とは使い勝手がまったく違う。DM20ではカレンダーはメモを書くと、そのメモを書いた日にちの部分にマークがついて、それを開くとメモが読めるという作りになっていた。つまりカレンダー画面ではメモが読めず、メモを読むには日付ごとにメモを開いていかないといけなかった。メモや日記を読むのにひとつひとつ開いては閉じてを繰り返して行くのは非常に面倒くさい。ということで、ポメラのカレンダー機能など使いものにならないと思っていたのだが、今のポメラはカレンダー表示のときにメモのプレビューが見れるようになっている。あまりにも長い文章だとメモを開かないと全部は読めないが、そこまで長い文章でなければプレビューだけで読めてしまうから便利この上ない。私はスマホのデジタル手帳は使っていない。何度か試してみたが、なんかデジタル手帳は好きになれなかった。だから基本的に男は黙ってアナログ手帳という考えなのだが、ポメラで日記もありかなーとか乙女チックなことを考えてしまった。そのぐらいよく出来ていると思う。

 こんな感じで、使い始めて2週間ちょいだが今のところ不満はほとんどないし、むしろ買って良かったと感じることばかりだ。文章を書くのが楽しいと感じる日々を送っている。コンピュータを閉じてから書いていた論文に付け足したいと思った文章をメモっておくのも楽になったし、ブログなどちょっとした文章を書きたいと思ったときもすぐに書ける。今まではなにかアイデアが浮かんでもコンピューターを開いていないと面倒だから後で書けばいいやと思って結局書かずに終わってしまっていた備忘録的な長文メモも多かったが、これで解消された感じだし。とりあえず自分的には久しぶりにヒットな買い物をしたという感じだ。

 アウトラインとかiPhoneとの同期とか他にも書きたいことがあるのだが、まあそこらへんはまた今度ゆっくり書いてみたいと思う。


応援よろしくおねがいします
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

国民全員が外国語を流暢にしゃべれるようになるべきか パート2

前回の続きです。前回のエントリーは↓

国民全員が外国語を流暢に喋れるようになるべきか?


前回のエントリーでは、もう少し書きたい事があったと思ったので、続きは明日とか書いてしまったのだが、あれから何度か下書きを書いては消してを繰り返したが、どうにも話がまとまらない。というか、勢いで書いていると、どんどん意味不明な話になっていき収拾不可能にになってしまう。で、書き直し。それを繰り返していたら、疲れた。そもそも俺は一体何を言いたかったのだろう?という気持ちになったので、何を言いたくて前回のエントリーを書き始めたのかもう一度考えてみた。そしたら言いたい事はほとんど前回言ってしまっているんじゃないかという気がしてきた。なので、前回、続きを書くとか言ってしまったけど、前回のぐだぐだの文章を簡単にまとめて、ちょっとだけ付け足す程度に急遽変更しました。すいません。。。

前回述べた事を、まずまとめたい。というか前回のエントリーの文章がぐだぐだだったので、多分ほとんどの人は、何を言いたいのか理解できなかったと思う。そういうことで、もう一度簡単にまとめると、だいたい次のような感じのことを言うつもりで書いていた。

ようするに外国語を習得するのには莫大なエネルギーを必要とする。すべての国民が莫大なエネルギーを費やしてまで外国語をしゃべれるようになる必要があるのか?私はないと思う。ここで注意してほしいのは私は外国語を学ぶ事に反対しているわけではない。多様な価値観を学ぶ上で、外国語を学ぶことは有益だと思っている。また通訳や翻訳家あるいは研究やビジネスで必要だから外国語マスターしようと考える人たちの事を取り上げているわけではない。実際、後で述べるように通訳や翻訳家といった外国語の専門家の存在は重要だと考えている。私が述べたいのは、こういう人たちではなく、日常生活においては外国語を必要としていない人たちまで喋れるようにならないといけないのかということだ。もっと言えば、外国語をしゃべれるようにならないといけないというような風潮に反対したいのだ。例えば英語公用語論や小学生からの英語教育、国民全員が英語で日常会話が出来るようにならないといけないというような国民的強迫観念。そういうものに反対をしたいのだ。外国語を習得するのは苦手でも、他の才能に恵まれている人もいるだろう。外国語習得に費やすエネルギーを、他の才能を伸ばすために費やす方がいい場合もあるはずだ。国際化の時代だから国民全員が外国語をしゃべれるようにならないといけないというのは、語学習得の才能が無い人に無駄な努力を強いるだけだ。結果としてその人の才能を国のために活かす事ができなくなってしまうだろう。長い目でみたら、全体として国の力を弱めることにつながる可能性がある。

面白い事に、明治期の日本は逆の戦略をとった。つまり外国語を学ばなくても外国の知識を日本語で吸収できた方がいいと考えた。しかし西洋の先進的な知識を日本語に翻訳することは容易ではない。なぜなら、多くの場合、対応する日本語の単語がなかったからだ。西洋の知識を日本語で理解するためには、その知識を理解するために必要な概念や知識などに対応する日本語の単語が必要になる。だから膨大な新しい単語が作り出された。漢字の熟語で作り出された「新語」は、最近のカタカナで表記された外来語とは違い、漢字を見れば意味が分かる。このような「新語」を使う事によって、外国語に堪能でなくても、高等教育を受ける事ができるし、専門でない分野の知識にも容易にアクセスできる。もちろんアカデミックな世界とは無縁な人たちも新しい知見を容易に取り込む事ができる。

このようにして語学の才能が無くても、日本語で様々な分野の勉強をすることができるようになった。もちろん語学の才能がある人は、その才能を伸ばして行ける。語学の才能がある人と無い人、相互に依存し合う事によって、無駄な努力を最小限にすることができるようになった。デュルケームの社会分業論ではないが、相互に依存し合う事によってよりwin-winの関係になったということができる。

このように自国の言語で高等教育ができるようになれば効率が上がり、国家の教育レベルも上がるだろう。だから他の非西洋諸国でもこのような発展の仕方をするのが得策だったと思う。しかし、旧植民地の世界ではしばしばエリート層が宗主国側と結託して自国の民衆を支配するという構図になることが多かったのではないだろうか。その理由はいろいろあると思うが、一つには教育に使われる言語がエリート層と大衆の対立を助長する要因になってしまったのではないかと思う。なぜなら旧植民地では、宗主国の言語が公用語になっている事が多い。旧植民地の人間が高等教育を受けるためには、外国語を使わないといけない。高等教育にかぎらず初等教育から外国語で学ぶ国も多いだろう。その結果、教育を受けるためには、まず外国語に堪能でなくてはいけないということになってしまう。語学が堪能でない人間は、もし仮に他の分野で才能があったとしても外国語のハンディがあるので、自分の隠された才能を活かせるチャンスを得る事無く一生を終える事になる。また、そのような成功するかしないかというような事でなくても、ごく普通の人が持つような知識でさえ外国語を介してしか伝える事ができないと国民全員が同じ考えを持つ事を阻害するだろう。つまり国民の間で対話が成り立たなくなってしまう。例えば、老人など教育を受けていなかった人たちと、若者たち教育を受けている人たちの間には、知識量の格差が生じてしまうかもしれない。若者の間でも、教育レベルの差が歴然になってくるだろう。結果的にエリート層と大衆の二極化が進んでしまう。このように、何かの才能があっても語学の才能がないというだけで、その才能を伸ばす事ができず、また国民の間に知識レベルで格差が生じて、結果的に社会の二極化が進み、相互に依存し助け合うシステムが構築できない。このような状況は、国全体として見たら大きな損失になる。

韓国や台湾がこのような道を進まずに、急激に近代化を成し遂げる事ができた要因は日本人が作り出した「新語」が大きく貢献していたのではないかと思う。もちろん、だから日本に感謝すべきだと言いたいわけではない。日本人は日本のために「新語」を作っただけだ。しかし漢字で作られた「新語」は容易に漢字文化圏の国に流用できた。台湾の状況は詳しく知らないが、韓国語を学んでいたときに聞いた話では、韓国語には日本で作られた熟語が多く入り込んでいるという。その結果、韓国でも台湾でも高等教育を自国の言語で受ける事が可能になったはずだ。もちろん日本の統治時代、韓国や台湾の教育レベルがあがった事も無視してはいけない。例えば朝鮮が清朝やロシアに併合されていたら、おそらく清朝やロシア政府に迎合するエリート層の両班と、農民などの一般大衆との格差は是正されなかったと思われる。ここでも大衆が受けられる教育の存在が大きな意味を持っていたと思われる。もう一つ例を挙げると、中米でマヤ運動というのがあって膨大な量の新語が生み出されているらしいのだが、興味深い事には初等教育や中等教育だけでなくマヤ大学構想も考えられているらしい。この例からも言語や教育が社会にとってどれくらい重要かがわかる。

まとめると次のような事が言えるのではないだろうか?明治日本では大衆や国民の教育レベルをあげることによって、西洋の技術文化の恩恵を一部のエリート層が独占するのではなく、国民全体で享受する道を選んだ。その結果、一部の選ばれた者だけが富むのではなく、国が全体として発展し、結果的に国全体の力が高まった。これに対して、旧植民地では、一般国民は西洋の技術や知識にアクセスするのが不可能とは言わないまでも、困難になってしまっている。なぜなら外国語でしか高等教育を受けられないからだ。その結果、語学の才能があるものや、小さい頃から特別な教育を受けてきたものに有利な社会になってしまった。これは国内での格差を助長する要因になってしまった。さらには、そのような選ばれたものたちは奨学金などを利用して海外に行き、国に戻ってこないということも起こりえる。私が調査に入っていたツヴァルなどでは、国費でフィジーやニュージーランドに留学したのに卒業後、国に帰って来ようとしないとこぼす人が何人かいた。もちろんツヴァルは国が小さいため国内に留学生を受け入れるポストが十分ではないということもあるのだが、問題の核心は、若い留学生には、誰のおかげで今の自分がいるのか、何のために、そして誰のために自分たちはがんばるべきかという観点が抜け落ちてしまっているからではないかと思う。実際、留学先から休暇で帰ってきている若者達の中には、西洋人になったつもりなのか、おしゃれな服をきて、自分たちの伝統文化やツヴァルの年長者を非科学的だと卑下する若者もいた。彼らにとっては外国で暮らす事は、すばらしいことなのだ。同じ事が日本でも言えるのではないだろうか?最近のTPPの議論は経済や農業の話として語っているが、その核心は実は国家観を持っているかどうかではないかと思う。

つまり国家や国民の方を見るのか、それとも企業や個人を見るのかの違いに感じるのだ。TPPで外国を見るのではなく、まずは国の内部に目を向け、国民の生活レベルやGDPをあげるために内需を拡大しようとするのは、まさしく教育レベルをあげて全体的な国力をあげた明治二本の戦略に通じるものがある。

SF映画「ブレードランナー」では、エリートは新天地を目指して宇宙に出て行ってしまい、地球に残された人たちは下層民だという設定になっている。映画「They Live」では密かに地球に侵略し地球を経済的に支配しているどん欲なビジネスマンのエイリアンと、彼らとともに一般大衆を支配している地球人の成金財界人たちが現れる。国家観を持たずに個人主義を突き詰めて行けば、国を容易に捨てたり、自分の利益のために仲間を支配するようになるのではないか。それがTPPで危惧されることのような気がする。そのような動きを牽制するためには、国家や国民という枠組みの中に自分をきちんと位置づける作業が大事になってくるのではないかと思う。

って、ここまで、書いてしまってから、またTPPネタの部分を消すべきかどうかを悩んじゃってるんだけど、まあ、とりあえず消さずにアップします。ただ、実際、TPPがいい事なのかどうかは、私もわかりかねてます。一つだけTPPの問題で注目しておきたい事は、新しい対立軸を鮮明にしてくれたという点です。つまり左翼vs右翼とか、共産主義vs反共産主義とか、保守vsリベラルではなくて、リバタリアンvs反リバタリアンという対立軸を明らかにしてくれたという点がこれからの国家や社会の将来を語る上でとても重要になってくるのではないかと思うのです。ということで、TPPネタを書くのは少し気が引けるんだけど、近いうちにTPPによって明らかになった思想的対立みたいなエントリーを書きたいと思ってます。



応援よろしくおねがいします
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

国民全員が外国語を流暢に喋れるようになるべきか?

数日前、フジテレビのニュースでエリート中国人学生の就職活動の話が取り上げられていた。途中から見たので、全体として何を報じたかったのかはわからないが、コメンテーターがCMに入る前に、次のようなコメントをしていた。
最近、韓国や中国の学生は勉強に熱心で外国語も英語以外にもう一ヶ国語を学んでいるのが普通だ。彼らは外国に出ようと必死になっている。日本の学生も外に向かって行くべきだ。みたいなことを言っていたと思う。
まあ、最近よく言われる日本の学生は内向きで元気が無さ過ぎる。もっと外に向かって行くべきだという意見と同じ流れだろう。よく考えるとTPP交渉参加賛成はの意見にも同じようなメンタリティが見え隠れしているような気がする。貿易立国の日本は外国に目を向けて外需を積極的に取り込むべきだ。そのためにもTPPを推進して行かなくてはいけない。みたいな感じだ。最近とくに開国とか黒船という単語もよく耳にするようになった。とりあえず外国に出て行けばいいとか、外国からいろいろ安いものや有益なものが入ってくるとか、外圧で日本の悪しき慣習を壊して貰おうとか、まあすべては外国頼み。外国に素晴らしいものが存在するというマレビト信仰にも似たメンタリティだ。植民地根性丸出しだから、カーゴカルトの方がお似合いか?

もちろん外国の方が優れている面もたくさんあるから、ある程度外国のモノや文化を受容するのを問題視するつもりはない。ただすべての人が外国語を学ぶべきだとか、すべての人が外国に出て行くべきだという話を聞くと、ちょっと違うだろという気持ちになってしまう。そこで日本人全員が外国語喋れるようになるべきだということに反論してみたい。
結論から先に言ってしまえば、外国語を学ぶことは必要だが、日本人全員が外国語を喋れるようにならないといけないとか、英語を公用語にしようとかいう意見はナンセンスだと思っている。あと、日本の会社で日本人しかいないのに、英語で会議をするなんて馬鹿だろうと思う。

なんでこういうことを言うのかというと、外国語を習得するのに莫大なエネルギーを費やすからだ。もちろん、日本語を廃止して英語などの外国語を導入するなら話は別だ。母国語として習得するなら、エネルギーを必要としないし、語学習得の才能も必要ない。ほとんど誰でも母国語としてなら問題なく習得できるだろう。ただ、言語は文化の根幹であり、思考法から世界観、行動様式まですべてのものが言語と関係しているということを理解していれば、安易に日本語を捨て去ることなどできはしないはずだ。世界中の少数民族が絶滅寸前の自分達の言語を復活させようと運動を起こしているこの時代に、グローバル経済活動で有利だからとかくだらない理由で自分達の言語を捨て去る決断をしたら笑いものになるのは明らかだ。まあ、日本語を捨て去ろうなどという極論はさすがに聞かないから、その心配はないと思うが。

ただ日本語を捨て去らないとすれば、やはり英語などの外国語は第二外国語として習得しなければならないということになる。そして、それは母国語を習得するのとは桁違いのエネルギーを必要とすることは、多くの日本人が痛感していることだろう。そこまでして外国語を習得する必要があるのか?私は無いと思う。外国語を学ぶことはいい。外国語を学ぶことによって、他の文化の見方や考え方に触れることができる。自分の文化を相対化することができる。日本語を学ぶ外国人の苦労を知ることができる。もちろん外国の人たちと交流することもできる。異文化を理解したり、多様な見方や考え方を習得するのに、外国語を学ぶことは有利だ。だから、外国語は少なくとも一つは学ぶべきだろう。

ただ、仕事や研究で本格的に使えるようにならないといけないというわけではないと思う。多くの日本人は日本語だけ話せれば別に問題はない。国家としては通訳や翻訳家が必要であろうが、それは語学の才能がある人が仕事に選べばいい話であって、日本人全員が外国語を話せるようにならないといけないという意見はどうかと思う。

私がアメリカに行って間もない頃、シンガポールから来た中国人とよく遊んでいた。彼は子供の頃から学校の授業は英語だったから、英語を普通に喋れた。私のルームメイトはフィリピン人だったが、彼も英語が公用語だったから、最初からビジネススクールの大学院に通っていた。他にもアメリカンサモアやポーンペイ島の友人も英語が公用語だから英語で苦労することはなかった。少なくとも会話で困ることはないと言っていた。外国語習得の才能がない私は、彼らがうらやましかった。ただ、それでも私は日本に生まれてよかったと思っている。日本人は日本語を大事にしたから、ここまで凄くなったと思うからだ。

私は、昔、大学で国文学の授業を受けたことがあるのだが、そのなかで明治期の日本人が日本語についていろいろ議論をしていたことを学んだ。詳しいことは忘れてしまったので、前島密とかそのあたりの名前しか思い出せないが、凄く簡略化してしまうと、明治期、アヘン戦争に負け植民地にされた中国と西洋列強の強大な力を見せ付けられた日本人は、その国力の違いが言語にあると考えた。漢字表記がローマ字に劣っていたから中国は西洋に屈したと考えた。そこで、漢字廃止論が唱えられ、ひらがなだけを使おうとする人や、カタカナだけを使おうとする人、そしてローマ字で表記しようとする人たちが現れた。授業では彼らの主張などが書かれた本を読んでいたのだが、結局、日本人は漢字かな混じりの今の表記法に落ち着いた。その授業を終えてから、私はずっと漢字と仮名を併用している日本文化をすごいと思っていた。韓国では一時期漢字の使用を極力減らしハングル表記を推進したらしいが、もともと日本と同じで同音異義語が多い韓国では漢字を併用しないと大変らしい。それと比較すると、日本はひらがなだけとかにしなくてよかったとつくづく思う。

もう一つ、明治期の日本人に感謝したいことは、膨大な量の翻訳語を作り出してくれたことだ。西洋文化は、明治初期までほとんど日本に入っていなかったから、明治の開国でたくさんの西洋文化が流入し、西洋の学問や知識が入ってきても、専門用語や専門的な概念などに対応する日本語の単語がなかった。つまり翻訳しようにも翻訳できなかった。普通なら、そのまま英語やドイツ語を使ってしまうのだろうが、当時の日本人は(たしか福沢諭吉とかだったと思うが)、漢字の熟語で単語を作った。よく知られているように、哲学や経済など多くの単語が作られたという。明治の人たちはいろいろな点で優れていたのだが、私は日本語の新しい単語を作ったという点が一番評価されるべき点ではないかと思っている。

日本がなぜ急激に発展できたのか、日本が占領していた韓国や台湾が戦後急速に発展できたのはなぜか?英語が公用語の旧植民地はなぜ発展が遅れているのかという理由の一つに、この日本人が作った単語があるのではないかと思うのだ。もちろん日本と外国の植民地経営の仕方が違うということも挙げられるだおる。例えば、地理学の有名な話で、イギリスなどの西洋の植民地では列車の線路が海から山に向かって何本も伸びていた。なぜなら、山から切り出された資源を港に運ぶためだけに線路が敷かれていたからだ。だから、海岸線に沿って横に広がって行くような発達はしなかった。そのあたりが日本の場合と大きく異なるという。そういう違いもあるので一概には言えないが、それでも私は日本人が作った多くの単語がその後の発展に大きく貢献したのではないかと思っている。なぜなら、日本も韓国台湾も、日本人が作り出した多くの単語によって、自分達の言語で専門分野の勉強をできるようになったからだ。他の旧植民地では英語など宗主国の外国語で専門知識を学ばないといけない。だから、まずは英語などの外国語をマスターしていることが必要条件になる。つまり外国語を習得する能力がない人間は最初から専門知識を学ぶことができないのだ。実際には外国語を学ぶことが苦手でも、数学が得意な人間がいるかもしれない。しかし、そういう人間は外国語が出来ないためだけに、専門分野にアクセスできないのだ。

と、ここまで書いていたら、相当疲れてきたので、続きは明日。


続きはこちら↓

国民全員が外国語を流暢にしゃべれるようになるべきか パート2



応援よろしくおねがいします
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


銀魂見て感動した 「国家」や「個人」より「国民」が大事なんだよ

実は先週テレビをつけたら銀魂というアニメがやっていた。俺はコメディやバラエティは基本的に一人で見ない。別に嫌いなわけではないから、見始めたら笑ったりするのだが、自分から見ようとは思わない。ただ先週たまたま見たら、面白くて、それが先週と今週の続きものだったので見た。そしたら、なかなか感動する台詞が一つあったので、今回はその台詞を紹介したい。と、その前に、どういう話だったかということを説明したほうがいいと思うので、時代設定などとともに簡単に。といっても、俺は99パーセント理解できていないのだが。。。

舞台は江戸の町(っぽいところ)で、登場人物たちは侍や町人などの日本人と他もろもろ。よくはわからないが、江戸の町に宇宙人が攻めてきて、幕府が宇宙人に開国してしまったから、地球は宇宙人に支配されているという設定らしい。とウィキペディアに書いてあるが、ほとんど理解できていないので、興味のある人はアニメを見てください。まあ、とりあえず、江戸が舞台だけど、宇宙人も出てくるSFで、「うる星やつら」の江戸時代バージョンみたいな感じか。「うる星やつら」もほとんど知らんから、なんとも言えんが。

まあ、そういうことで、世界観ってのは、何でもありのSFコメディらしい。で、登場人物は幕府が開国ってとこからわかるように、幕末の志士がモデルの人物が結構でてくるようだ。ちなみに今回は坂本龍馬がモデルの坂本辰馬が出てきた。俺が感動した一言を発したのは彼である。

さて、その話の内容だが、今回は蓮蓬軍という宇宙人が地球に侵略してきた話だった。この悪い宇宙人を、間違って、手引きをしてしまったのが、快援隊の坂本辰馬だったのだが、蓮蓬軍の企みを知って、主人公の坂田銀時らと、蓮蓬軍の侵略を阻止しようとする。で、話の後半で、坂本辰馬と坂田銀時が敵の中に切り込んでいくのだが、坂田銀時が刀で戦っているとき、坂本辰馬(坂本は実は戦わせたら強いらしいが、争いよりも商売が好きで、商売によって平和を成し遂げようと尽力しているらしい)は敵の大将に商談を持ちかける。地球を明け渡すとかなんとか言う。で、敵の大将が地球を裏切るのかと聞くと、坂本辰馬の次のような感じのことをいう。

「地球なんていらない。住んでいる人たちさえ元気ならいい。だから地球人が他の星に行けるなら、地球なんて惜しくない。必要なのは中身であって、器である地球なんてどうでもいいんだ」

みたいなことを言った。他の事をしながら、ボーっと見ていたわけだけど、この部分を聞いていたら、なんか一人で感動してしまった。やっぱ日本のアニメって凄いねーって。

当たり前の事を言っているようだし、見方によれば、国家よりも個人が大事だという安っぽい左翼的言動にも取れるかもしれない。ただ、俺は、最近、中野剛志(著)『国力とは何か』という本を読んでいたので、違う解釈をしてみたかったのだ。まあ、そこらへんは、人それぞれ受け取り方が違うと思うが、俺は、中野氏の国家と国民の違いを記述した次の文章と関連付けてみたくなったわけ。


「国家(ステイト)」とは、政治的・法的な制度あるいは組織である。「ステイト」は、支配力、法の支配または権威といった様々な手段によって人民を統合する。
(中略)
これに対して、「国民(ネイション)」とは、一種の共同体として理解される。それは、構成員の社会的想念により統合され、共通の歴史的記憶、公的文化、言語、領土、伝統といったものを基礎にする。
(『国力とは何か』 78ページ)



これをベースに考えてみると、坂本辰馬が重要だと考えていたものは国家でも個人でもない。地球もしくは江戸の町人という「国民」だったのではないかと解釈できる。

もちろん、国民さえいればいいという坂本の極端な考えは理想論でしかない。実際には、国を持てなかったユダヤ人は大変な苦労をしたというし、アメリカ先住民のように辺鄙な土地に追いやられてしまったがために、厳しい生活を余儀なくされている人たちもいる。だから、国民や共同体の成員さえ元気ならば、国が無くなっても、土地を手放しても大丈夫だなんて軽々しくは言えない。ただ、国家と国民のどちらが重要なのかということになると、やはり国民でなければならない。と同時に国家よりも個人が大事だという議論も反対しなくてはならない。国家という器が大事なのではないことは明らかだが、だからといって完全にお互い無関係な個人の集合である群集が国家よりも重要だと見なすのは無理がある。

今回の大震災では地域共同体の重要性が再確認されたとよく言われる。それは地域共同体の行政システムという器よりも、むしろ共同体に住む人たちの絆であり、日本国民が日本という一つの共同体の成員として感じた絆であったと思う。被災地の共同体が津波で押し流され、行政などの制度が一時的に麻痺してしまったとき、被災地の人たちが助け合ったのは、やはり共同体としての仲間意識があったからだと思う。同様に、国民という概念がなければ、被災地の人たちを助けようと考える日本人は現れなかったはずだ。すべては同じ共同体の成員であるという感覚があったからこそなのである。また仮設住宅や避難区域の方達も、ばらばらに避難するのではなく、同じ地域の人たちがなるべくかたまっていられるように配慮されていたようだ。人は個人では生きていかれない生き物だということを再確認させてくれた。衣食住が足りていても、孤独で生きていけるほど人は強くない。他者との交流なくして、人は生きていけないのだ。こんな感じで考えてみると、器としての共同体や国家よりも、中身である共同体のメンバーや国民の方が重要であると訴えた坂本辰馬の思想に共感することができるような気がする。



応援よろしくおねがいします
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

ハロウィンパーティーのコスチュームとコスプレは何が違うのか?

ハロウィンパーティーが日本でも定着してきたのだろうか。今年はハロウィンの衣装を着た子ども達が町(それも住宅街)を歩いているのを2度ほど見かけて驚いた。子ども達の後ろをコスチュームを着せられたお父さん達が恥ずかしそうに歩いていくのをみて、少し同情してしまったのだが、それにしても、10年前には考えられなかった光景だ。

10年以上前、福岡の天神にあるデパートなどではハロウィンパーティーを盛り上げようとコスチュームパーティーを企画していた。デパートや店が盛り上げようと必死だったが、コスチューム着ている若者などはごく一部だったような気がする。ましてや小学生の子どもたちは、たぶんハロウィンの存在すら知らなかったのではないだろうか。クリスマスやバレンタインと同じようなノリで日本人とはまったく関係のないハロウィンも日本に定着させようと必死な企業に、そうとう違和感を感じたのを覚えている。そのときはハロウィンは日本人に向いていないだろうという感覚だった。特にコスチューム着て馬鹿騒ぎするパーティーは日本人に向いていないと思っていたのだ。しかし、私の知らない間に日本でもハロウィンが定着したようだ。

さて、何の抵抗もなくハロウィンを受け入れる日本人に、笑いを禁じ得ないわけで、なぜ日本人はハロウィンを容易に受け入れたのかということの裏側に西洋文化を崇拝するメンタリティーが残っているのではないかなどと勘ぐりたくなってしまうわけだが、まあそこらへんは置いておいて、今回はハロウィンのコスチュームについての私見を述べてみたい。といっても、私の好みは魔女の帽子だとかそういう個人的な嗜好の話ではない。まあ私の長年の人類学の研究によって、魔女のコスチュームが汎文化的に最も好まれるコスチュームであると結論づけているわけだが。。。ちなみにキャットウーマンのコスチュームもいい。逆に看護婦さんの白衣やスチュワーデスはイメクラにはいいかもしれないが、ハロウィンには向いていない。特にピンク系のミニスカの白衣を着て、でっかい赤十字のマークが入った帽子をかぶって、おもちゃの注射針を持ってくる勘違いした女の子がたまにいるが、ああいうのはやめたほうがいいだろう。場がしらける。というかハロウィンパーティーで色気を出すと男はしらけるような気がする。そういうのは俺の家に来てから、おやりなさい、お穣さんって感じだ。

まあ、そういうことで、俺の下らん嗜好などどうでもいいと思いながら、久しぶりに文章を書いていたら、止まらなくなってしまって申し訳ないのだが、ここらで本題に戻ろう。

私が今回述べたいことはハロウィンのコスチュームとコスプレはどこが違うのかということだ。なぜ、このような事を書くかというと、先日どこが違うのかと聞かれて少し考えてみたからだ。もちろん専門でない私の意見だから、勝手な思い込みかもしれないが、まあ、研究論文でもないし、私の勝手な意見ということで聞いてほしい。

さて、ハロウィンのコスチュームとコスプレは本当に違うのかというと、そこに何らかの違いがあることは、多くの人が感じることだと思う。ハロウィンパーティーでコスプレの格好をしていったら、少し浮くという点に異論はないと思う。もちろん反論する人もいるかもしれない。いや、そんなことはない。ハロウィンのコスチュームもコスプレのコスチュームも同じだ!という人がいるかもしれないが、それはそれで結構。私の負けです。というか、自分でも自分の考えが正しいかどうかなんてわからないんだから、反論する人を論破することもできません。まあ、違和感を覚える人だけ読んでください。

で、話を戻すが、違いがあるという前提で話を進めよう。それでは、何が違うのか。まず考えられるのはコスプレはアニメキャラの衣装だという点だ。コスプレ会場にきちんと行ったことないので偉そうなことは言えないが、たぶんコスプレでスチュワーデスや看護婦などの衣装を着ていたら、なにそれ?といわれるのではないかと思う。それはコスプレの基本はアニメとかマンガのキャラだからだ。一方、ハロウィンパーティーでは伝統的なキャラクターの衣装が主流だ。例えば魔女や悪魔、お化け、赤ずきんちゃんなどだと思われる。

ただ、それではハロウィンパーティーでは、まったく新しいキャラクターが登場しないのかというと、実はそんなことはない。例えば、スターウォーズのエピソード1に出てくるダースモールとか、映画スクリームに出てくるお面の男とか、13日の金曜日のジェイソンとか、カリブの海賊のジャックスパローとか、バットマンとかいろんなキャラがいる。そして、これらのキャラの衣装を着てハロウィンパーティーに出席しても違和感を感じることはない。それなのに、なぜアニメキャラだと違和感を覚えるのか?考えると、少し不思議な気がする。

私の勝手な結論は、たぶんキャラクターに原因があるわけではないということだ。そうではなくてキャラクターへの思い入れが強いかどうかということではないかと思う。コスプレでなぜ衣装を着るかというと、もちろん周りの人に見せたいという欲求もあるだろうが、それよりも変身願望が強いように思う。つまりキャラになりきりたいという感情が強いのではないだろうか。そのキャラクターは衣装を着ているだけの何かなのではなく、自分が同化したい人格を持った「キャラ」なのだ。世界中に一つしかいないキャラである。つまり固有名詞としてしかあわらせられないキャラクターだ。

他方、ハロウィンのコスチュームでは、キャラクターへの思い入れはほとんどない。というよりも、キャラクター自体にそもそも人格などはないのではないか。固有名詞で表されるどこそこの魔女や赤ずきんちゃんではなく、普通名詞の魔女や赤ずきんちゃんなのだ。だからそのキャラクターになりきりたくでも、そもそもなりきるような人格がない。単にキャラクターを指し示すシンボルとしての衣装があるだけだ。これは映画のキャラクターでも同じことのだと思う。映画のキャラクターといっても、彼らはあまり強い個性を示していない。ジャックスパローは例外だが、他のキャラクター例えばジェイソンやスクリームの仮面の男がどんな人物かなどということはほどんど意味がないし、ハロウィンパーティーで彼らの衣装を着ている人たちは、これらのキャラクターと同化しようなどとは思っていないはずだ。つまり、ハロウィンでコスチュームを着ている人たちは、そのキャラクターに何か強い思い入れがあるわけではなく、単に自分の奇抜な衣装を友達に見せたいと思っているに過ぎない。

まとめるとハロウィンパーティーではコスチュームは友達に見せるために着るものであって、そのキャラクターを演じるために着ているわけではない。コスチュームは場を盛り上げるためのもので、友達との関係を深める役目しかない。コスプレでは、人に見せるよりも、まずは自分の好きなキャラクターになりきるために着ている。友達に見せたいという欲求以前に、自分の好きなキャラになりきりたいという変身願望が根底にある。だから、ハロウィンのコスチュームとコスプレは似ているようで、まったく違う行為なのだ。その違いを多くの人たちはなんとなく感じているから、ハロウィンでコスプレのノリでコスチュームを着てくると、違和感を覚えてしまうのかもしれない。逆にコスプレ会場でキャラに思い入れができない普通名詞で表現されるスチュワーデスやナースなどのキャラクターの制服を着てくると違和感を覚えてしまうのだろうと思う。まあ、私の個人的な意見としてはアニメキャラのコスプレもハロウィンのコスチュームも好きなわけだが。ちなみにコスチュームとしては魔女以外に、婦警さん、スチュワーデスも好きなのだが、誰も俺の好きなコスチュームなどには興味はないと思うので、脳内妄想が臨界点を超えて暴走するまえに、ここらでとめておこう。



応援よろしくおねがいします
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

スポンサードリンク
最新記事
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
プロフィール

kemmaarch

Author:kemmaarch
右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

本や映画の感想はアマゾン・レビューにも書いています。ぜひ遊びに来てください。
アマゾン・レビュー
はてなブックマーク

ツイッター(Kemmaarch)
検索フォーム
ブログ・ランキング
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
フリーエリア
リンク
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
スポンサードリンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。