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宗教の役割

 前回は幸せについて書いてみた。その中で、幸せを感じるためには、世界をどのように認識し、どのように感じ、どのように考えるかということが大事だということを述べた。実はこれはすごく大事なことだ。映画『羅生門』で描かれているように世界に真実はない。同じ場所、同じ時間を共有していたとしても、必ずしも同じ感じ方をしているとは限らないのだ。同じ現象を体験していたはずなのに、その現象を違った解釈で理解していく。世の中に絶対的な真理なるものは存在しない。だから、もしも幸せな人生を願うとき、現実を変えるのではなく、その現実をどのように感じているかという自分の中の内面を変えてしまうことも一つの手になる。

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 もちろん、幸せな人生を送るために、まずしなくてはいけないことは、一生懸命生きることだろう。まじめに働いて、無駄使いをせずにお金をためて、周りの人と仲良くし、幸せな家庭を築いていく。こういうことが大事なのは言うまでもない。しかし、現実はとても厳しいときがある。きちんと生きていても、自分にまったく非がなくても、苦難が降りかかってくることがある。ちっぽけな個人では対処できないような不幸が起こるときがある。

 例えば、アメリカの黒人奴隷(なお独立前の黒人奴隷の生活は従来考えられていたよりも自由で人間らしく扱われていたとする歴史考古学の研究もあるようだ。ここではそこまで考えないことにする)などがいい例だ。彼らは別に何も悪いことはしていない。黒人として生まれたから奴隷として働かされていたというだけだ。そのような状況を変えることは容易ではないし、もちろん、そのようなときに、その苦しい境遇は自分の責任だと自分を責めても意味がない。黒人がその苦しい生活から逃れることができる方法は限られていた。一つは脱走することだ。南北戦争前後のころでは北部に逃げ出す黒人が多かったという。これは自分で環境を変えていく方法である。もう一つは、宗教に助けを求めることだった。つまり、自分の境遇を変えるのではなく、その苦しい境遇に意味を持たせることで、苦しさを和らげるのだ。このように、自分ではどうしようもない不幸が降りかかってきたときに、人が取れる方法に、自分の内面を変えるということがある。それは決して不幸から目を背けているわけでも、現実から逃げているわけでもない。自分で何かを変えていけるような状況では、もちろん現実と向き合ってそれを変えるように努力していくべきだろう。お金が必要ならば働けばいいし、資格が必要なら勉強すればいい。しかし自分ではコントロールできないような不幸が降りかかってきたときに、その苦しい現実を直視し、それに立ち向かっていくためには、現実を変えられない以上、自分の内面を変えることでしか対処できない。そのようなときに必要なものが宗教と哲学だ。

 宗教の存在は苦難に満ちた現実に意味を持たせることだ。苦しみは意味を持たせることによって、苦しみではなくなる。ちくま新書の『親鸞』の冒頭にまったく同じことが書かれていたので、興味のある方はぜひ読んで頂きたいのだが、そこで指摘されていたことを簡単にまとめると、宗教の役割とは苦難に満ちた現実に意味を持たせる「物語」を提供することにある(←おととい本屋さんでぱらぱらっと読んだ程度なのできちんとした文章は思い出せない)。この指摘は重要だ。アメリカ南部の教会で黒人が陽気な歌を歌っているのを見たことがある人もいるだろう。黒人がキリスト教に救いを求めたのは偶然ではない。奴隷としての境遇に意味を持たせ、その苦難に満ちた人生を強く生き抜いていくためには、そのような意味が必要だったのだ。しかし、その行為はアヘンのように宗教によって思考能力を麻痺させ現実逃避を試みていたということでは決して無い。そうではなくて、自分達の不遇な境遇を物語によって意味を持たせる。無意味な人生に意味を持たせることによって、人は生きる希望を得られるのだ。奴隷という境遇は悲惨である。それをそのまま受け入れるのは容易ではない。しかし、もしもそれが神が与えてくださった試練であると考えることが出来たらどうだろうか?自分は神に「選ばれた」が故に今は試練を与えられていると考えたらどうだろうか?その試練を乗り越えた先には本当の幸せを神から与えられると信じたらどうだろうか?その希望はもしかしたら死後の世界や来世に訪れるかもしれない。もしもそうならば、それを証明する手立てはない。しかし、重要な事は、それを信じられるかどうかである。もしも、信じられるのならば、今の苦難を耐える力になるだろう。そこにこそ宗教の本来の役目があるのだ。

 逆に意味を持たせれば人間はどんな苦難な道も歩むことができるのかもしれない。例えば、先日、私は靖国神社に参拝させていただいたのだが、靖国神社の就遊館には、先の大戦で戦死された方がたの記録が残されていた。大東亜戦争では様々な物語が語られていた。国家神道もその一つだし、靖国神社もそのようなイデオロギーの中心的役割を担っていた。そのような物語、例えば国のために死ぬことを美化する物語によって、日本人は勇敢に戦うことが出来たのだ。人は死を恐れる。これは動物の本能として当たり前の事だ。死とは、ある意味究極の不幸であろう。しかし、勇敢に戦うことを評価し、国家のために命をかけることを当然とする物語さえあれば、究極の不幸であるはずの死を選択することが出来るのだ。このような物語を作り出す力が、宗教にはある。もちろんだからこそ宗教を悪用されたときはおそろしい。カルト宗教やテロ行為などを引き起こすこともありえる。(なお私は国家のために命を落として日本を守ってくださった日本軍の方達を犯罪者扱いしたり、特攻隊をテロリスト扱いするような安っぽい反戦運動家の人たちの意見には反対だ)。 そのような危険な集団を擁護するつもりもないし、宗教は時として狂気に変わる危険性を秘めているのは確かだろう。しかし宗教を人間社会から排除することはできないと思う。

 19世紀後半、西洋の社会思想家の最大の敵はキリスト教であった。理性を持った人間達はよりよい社会を作り出していくという近代思想全盛のころ、キリスト教が西洋社会の中で唯一非理性的、非不合理な教えだったのだ。近代社会では科学の発展が目覚しかった。社会はすべて科学によって説明・理解可能な現象だと信じられていた。そこには人間が理解できない現象はありえなかった。社会は科学の力によってより住みやすい社会に常に進歩していった。だから、スペンサー、フレイザー、マルクスからフロイトに至るまで、科学というものに絶対の信頼を置き、それによってキリスト教を排除しようと試みていた。非西洋社会を野蛮と見なした単純な進歩史観を提唱したとして彼らを非難する意見があるが、彼らの真の目的はむしろ西洋社会の野蛮な慣習であるキリスト教排除にあったのだ。

 しかし、キリスト教と科学、もっと言えば宗教と科学のどちらが人間に幸せを与えてくれるのかということに関しては難しい問題もある。説明不可能な現象はひとまず置いておいたとすれば、なるほど、科学は確かに説明してくれるだろう。しかしある現象を説明するという科学的な理解の仕方で、はたして人間は救われるだろうか?あなたの一番大切な人が急に亡くなったとする。科学によって、死因は解明され、昨日まであんなに元気だった人がなぜ死んだかという理由は説明されたとする。心臓が急に止まった理由はこうでこうでこういうことが起きたからです。と、頭のいいお医者さんが教えてくれたとする。しかし、そのような説明をされただけで、あなたは悲しみを乗り越えられるだろうか?あなたが知りたいのは、病気の名前とか死んだ直接的な原因を知りたいわけではないだろう。それよりもむしろ、なぜその人が、他の人ではない、その人がその時に死ななければならなかったのかという理由を知りたかったのではないだろうか。そのような理由や意味を知ってこそ、その人の死を受け入れられるのではないだろうか。科学では、無味乾燥な説明しか与えてくれない。科学は「意味」を教えてくれない。人間はこのような意味のない世界、ニヒリズムが蔓延した世界で果たして生きていけるだけの強さがあるのだろうか。人間はそこまで強くないだろう。だからこそ、いつの時代にも宗教が必要なのだ。

 数年前に「エミリー・ローズ」という映画があった。悪魔に憑かれた少女エミリーローズを救うために悪魔祓いの儀式を執り行った神父の話だ。少女が死ぬところから物語が始まる。現代医学の治療よりも悪魔払いを優先させた神父さんが殺人罪の罪で裁判にかけられる。医学的処置を断念させたことが少女の死を早めたとする検察側と、少女を本当の意味で救おうとした神父を擁護する無神論者の弁護士の攻防を描いた映画である。少女は医学的処置によって救われたかもしれない。しかし、それは結果論である。しかも少女に精神的な異変が起こったとき、彼女はまず大学の医者に見てもらっていた。しかし現代医学の治療では回復する気配がまったくない。むしろ悪化していく。そこで少女は子供の頃から世話になっている神父さんに相談することにしたのだ。少女の家族も敬虔なキリスト教徒であり、彼らが最後にすがれたのは、信頼する神父さんでしかなかった。残念ながら悪魔払いは失敗に終わったのだが、少女も少女の家族も心の平安を感じることができたのは確かだろう。現代医学ではこのような心の安らぎを与えることはできなかったはずだ。この映画は、科学と宗教のどちらが人間の生活に必要なのかということを描き出した傑作である。レビューにも同じことを書いているので、もし時間があれば、ぜひアマゾンにいって、私のコメントに清き一票を入れていただきたいのだが、この映画で述べられていることは、科学では救えない人が世の中にいて、彼らを救済できるのは宗教しかないということだ。


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 ということで、人生に意味を与えてくれる物語は宗教で語られることが多い。もちろん、宗教以外にも、国家のために死ぬことは尊い行為だという考えや、一人の女を愛することは素晴らしいことだといった様々な事柄が物語として語られる。だから宗教以外でも生きる意味を与える物語は今まで数多く語られてきた。世界に、そのような意味を与えることによって、人は苦しいものを乗り越える力を得ることができるからだ。

 例えば、硬派な生きかたがかっこいいという考えが共有されていれば、女などに構わぬ硬派な生きかたをすることに誇りが持て自己満足できる。逆に、そういう考えが共有されていなければ、自分の欲望を押さえ込むことは馬鹿な行為に映ってしまうだけだろう。(ほとんどの)男は誰しも女とセックスをしたいと願う。そのような性欲を抑えられるのは「セックスを我慢できる男は責任感がある」とか「愛するものとだけセックスするべきだ」といった言説だ。それが無ければ犬猫の交尾と同じように愛のないセックスしか求めない男だけになってしまうだろう。アメリカでも日本でもモラルが崩れてきている原因のひとつは、このような欲望を抑える物語が消失してきているからだと言える。共有された価値観が具現化された物語、つまり大きな物語が消失してきた現代に硬派な男が減ってきているのは偶然ではないのだ。

 我々に必要なのは生きる意味を与える物語だ。それは宗教に限らない。価値観を共有し、自分の利益にならないような行動を礼賛するような物語があって初めて人は自ら進んで苦難に立ち向かい、誰かのために自分に不利益になるような事柄もすすんで行うことができるようになる。すべては世界に意味を与える物語なのだ。そのような人生に意味を与えてくれる物語とともに生きていくことで人は人としての幸せを感じて生きていくことができるのではないだろうか。



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梅林古墳に行ってみた

今日地図を見ていたら、梅林古墳(福岡市早良区梅林)というのを見つけた。

近くだったので行ってみた。

団地の一角に公園のような古墳が保存されていた。場所が場所だけにちょっとういているが、古墳はちゃんと保存されている。


小さくて可愛い古墳だった。解説によると、全長27メートルの前方後円墳。後円部直径が15.5メートル。高さ3メートル。横穴式石室で後円部の中央に入り口を西に向けて築かれていたらしい。5世紀後半のものだという。








これが後円部。


こっちが前方部。





前方部から後円部を見たところ。前方部から後円部を見ると、後ろの山が気になる。景観考古学的研究とかGISで空間分析とかしたい~。まあ、すでにいろいろ研究されているんだろうけど。

とりあえず古墳の上に登れるので楽しいです。近くに住んでいる人は是非!
ただ資料館とかトイレとか駐車場とかはありません。ただの小さな公園です。


人間は他の生物と分かり合えるのか?

 我々は、人間に愛情を抱くのと同じようにイルカにも愛情を注げるのかということが、興味深い論点なのではないかということを前回述べた。本当はその話を最後まで書いていくつもりだったのだが、前回はどんどん話がずれていってしまい、最後の方では、いつのまにかイルカ映画批判になって、何を言いたいのかわからなくなってしまった。なので、今回はイルカ映画には触れずに、異種の生物に愛情を注げるかという点について、もう少し考えてみたい。なんでそんなことにこだわるのかというと、なんとなく、面白いねたなんじゃないかという気がするからだ。というか、それ以上の深い理由はまったくない。

 そもそも、他の種の生物に人間に対してと同じような愛情を注げるのかというのは、実はよくわかっていないと思う。人類史上、他の種に対して愛情を注いだなんてことは、おそらく無かったのではないだろうか。もちろん、犬や猫などのペットや、コアラやパンダ、アシカなどの可愛い動物に対して愛情を感じることはあった。しかし、これらの愛情はペットなどにむけられた愛情であって、今、問題にしている愛情とは本質的な部分でまったく異なっていると思う。ちなみに今話題のイルカ映画が世界中の視聴者に訴えている多くの部分は、このペットに対する愛情によっている。愛くるしいイルカに対して、こんなひどいことをしているというような感情だ。誰だって目の前でかわいい犬が痛めつけられていたら、助けてあげようとする。しかし、目の前でゴキブリが追い回されていてもかわいそうには思わない。それと同程度の感覚だ。

 一方で、捕鯨反対を唱える人たちが、他の動物保護と違う点は、イルカやクジラに高い知性があるということで特別視しているのも事実だ。高い知性があるから、人間と同等に扱うべきだというのが彼らの主張であり、そこには異種の生物に対して人間に対するのと同じように愛情を注ぐべきだということになる。

 今までだったら、犬や猫と人間のどちらかが死ななくてはいけないという非常事態になったら、人間が優先的に生きる権利を与えられてきた。もちろん、南極物語のように、それを理不尽だと思ったり、悲しんだりする気持ちもあるが、犬を救うために人間を見殺しにしたとなれば、世間はもっと大騒ぎになるだろう。つまり人間は特別視されてきたのだ。

 異種の生物を人間と同等に扱うということは、このような場合に人間を見殺しにしても、イルカを救うべきだという論理になる。もちろん、イルカが人間以上というわけではない。ただ例えば雪山で遭難して、ふたりの人間のどちらかしか助からない状況でどちらを選ぶかというジレンマと同様に、人間とイルカのどちらかしか助からない状況で人間を見捨ててイルカを選ぶ選択肢があるということだ。なぜなら、人間だから助けたとか、イルカだから見捨てたという論理が、そこでは成立しえないからだ。どちらか一方だけしか助けられないのならば、助かる可能性の高いほうだけを助ける。そのような判断になるはずだ。

 今まで、このような愛情は生じてこなかったといったが、実はいくつか例外が思い出される。例えば、映画「愛は霧のかなたに」のモデルになった、アフリカでゴリラの研究に従事した女性人類学者が、おそらくこのタイプだったのではないかと思う。また、数年前にブックストアで安売りされていた小説なのだが、女性霊長類学者が研究対象のチンパンジーかなにか、とりあえず霊長類に恋をしてしまうという小説だ。もちろん今注目している感情は、愛情といっても恋愛感情に限定しているわけではなくて、人間に対するのと同じような感覚をむけることが出来るかということだ。西洋人にとっては、自分たち人間と同等に扱うためには、自分たちと同じ程度の高い知能があって意思の疎通が出来なくてはいけない。だから、霊長類かイルカ・クジラなどがこのような愛情の対象になるのは理解できる。ただ、このような愛情は本当に成立するのだろうか?

 SF映画には異星人と友情や恋愛関係を結ぶようなシーンがよく出てくる。ファンタジーでも、エルフと人間の間に恋が芽生えるなどというような話は枚挙にいとまがない。このような関係は、どこか人種を超えて交流している、コスモポリタン的幻想と思想的に同じように見えるのだが、果たして、このような関係になれるのだろうか?人種間の違いを乗り越えることは、これに比べたら、遥かに容易だろう。単純に外部を設定すればいいからだ。外部がつくりだされると同時に内部というものが自動的に創出される。そして内部の人間達は人種の垣根を超えて同じ仲間として人間関係を結ぶことが出来るようになる。しかし、このような人種を超えた人間関係が成立する条件は、外部が作り出されたというだけではないような気がする。それ以前に、人間という同じ種であることが最低限必要だったのではないだろうか。人間社会は様々な文化を作り出してきたが、それでも身体的な特徴はほとんど同じであり、多様な文化も実は限られた文化要素の組み合わせに過ぎなかった。

しかし、異種生物間では、こうはいかない。これは未開社会に調査に行ってハムレット(マクベスだったかな?)を朗読したが、政治組織のまったく異なる社会に住む村人たちにはシェイクスピアの意図が伝わらなかったとかそういう次元の話ではない。もっと根本的な違いを見せ付けられるのだと思う。例えば人間は視覚に頼って生きている。言い換えると、視覚情報で構成された世界観をもとに世界を理解している。しかし、嗅覚や聴覚を使って世界を認識している生物にとっては、それらの情報をもとに世界を再構築しているのだ。つまり、世界というものは唯一のものだとしても、我々は感じ方が異なる。そして、その感じ方には正しいというものはない。我々の構築した世界観と、彼等の世界観では、どちらも真実であって、真実ではない。そのような全く異なる認識方法を持った生物間で、果して理解しあえるのだろうか?The Coveでは、イルカショーのイルカは楽しそうに見えて、イルカは実はストレスで胃潰瘍になっていると延べていた。楽しそうにしているのは人間の思い違いだというのだ。同じように、イルカと分かり合えるというのも幻想ではないだろうか?

もし仮にイルカが人間のように知能が高く、意思の疎通ができたとする。世界観や思考法まですべてが異なる生物と意志の疎通ができるのかということすらも疑問なのだが、もし意志の疎通が出来たとしても、おそらく理解はし合えないのではないだろうか。少なくとも、人種間の違いですら克服できていない今の人類に、考え方も概念もすべてがまったく異なる生命体と理解しあえるとは思えない。ただ、もちろん、もしも意思の疎通が出来るようになって、それぞれの思考法や世界観を披瀝しあえるようになるならば、それは非常に興味深いことだし、新たな歴史の幕開けになることは間違いないだろう。



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映画『アバター』 身体と魂

 俺のお気に入りのブログに「批評学園」さんのブログがある。数ヶ月前からちょくちょく読んでいるのだが、そのブログで最近アバターが取り上げられていた。「批評学園」さんの視点は斬新で、興味深いことが語られることが多いのだが、このアバターのエントリーでも、いろいろと興味深い考察がなされていた。その中で「身体」と「魂」を対比させ、アバターを「身体」という視点から論じている部分が特に興味深かったので、その部分を引用してみたい。

重要なのは心(魂)であり、身体ではない。むしろ身体などはその器にすぎない…というのは、西洋思想の一つの大きな流れだが、この作品ではそれを踏まえている。魂こそが実態であり、身体などというものは、人間としての肉体も、遺伝子操作で作られたクローン身体も、(コンピューター上の仮想身体も)全ては等価であり、全てアバターに過ぎないという結論が見て取れるのではないか。
http://hihyougakuen.blog113.fc2.com/blog-entry-664.html


 映画『アバター』に関しては、俺も以前に2回ほど取り上げたし、実はさらにあと何回かに分けて違うネタも取り上げたいと思っていた。ただ、俺が書きたかったのは3DCGのリアリズムとか、漫画の影響、そしてナヴィの世界観についてなどで、実は、この映画を見て「魂」とか「身体」について考えたことはなかった。だから、この「批評学園」さんのブログを読んで面白い視点だと思ったのだ。

 まあ、よく考えたら、確かにアバターを魂の容器としての身体としている点は、この映画の根幹をなしているし、そこからエイワというナヴィ社会の宗教観が理解できる。この「パンドラ」という星では、生物は死んだらエイワに吸収され生き続けることができる。つまり身体の死は精神の死を意味しない。重要なのは魂であって、身体ではない。というところに、つながっていくのだろう。このような考えは別に目新しいものではなく、多くの宗教で、すでに同じような教えが説かれていたと思う。魂の存在を認め、魂の救済を可能にしているのは、このように魂を身体よりも優位におかないといけないからだ。なぜなら死んだら身体が腐ってしまうというのは誰の目にも明らかで、だから魂が抜け出たという解釈をするしかなかった。身体が壊さないようにするという思想はミイラに行き着くし、洗骨や複葬などに見られる骨を重要視する考えも、不変的な骨に神聖性を求めたのかもしれない。まあ、そういう事例もあるのだが、「魂」を「身体」から切り離すという考えが基本になってくるだろう。

 さて、その「魂」であるが、SFの世界では魂が電気信号に変換され、他の体や仮想空間などに入り込めるようになるという設定になるという。例えば、SF映画の『マトリックス』や『The Thirteenth Floor』では仮想空間と現実世界を自由に行き来する人間たちが登場する。『マトリックス』は有名だからほとんどの人が知っていると思うが、『The Thirteenth Floor』のほうはちょっとマイナーだろう。『The Thirteenth Floor』は以前にも取り上げたので、興味があったら昔のエントリーも読んでください。

映画 『The Thirteenth Floor』
http://kemmaarch.blog11.fc2.com/blog-entry-144.html

 で、話を戻すが、『マトリックス』や『The Thirteenth Floor』で、人間が行き来できるのは当たり前だと考えていたが、その根底には「魂」もしくは「意識」というものが身体とは別であるという前提があって初めてそういう物語が成立するということを今回初めて知ったような気がする。もちろん意識は脳の中にあり、その活動は電気信号だけで成り立っているから、コンピュータと機能的に等価であるという発想は、脳科学やコンピュータ科学、そして人工知能の研究の発達などから発展してきた考えだと思う。もちろん脳科学やコンピューターサイエンスなど科学的な研究には「魂」という概念は欠如しているのかもしれないが、我々の多くは「意識」と「魂」が置き換え可能な概念であると感じることだろう。そういえば、俺の大好きだった夢枕獏の小説『魔獣狩り』シリーズでは、サイコダイバーと呼ばれる人たちが機械を介して他の人の心に潜るという設定だ。このパクリだと思われるハリウッドのSFホラー映画『The Cell』もある。これらの中にも、他の人の脳=考えの中に、自分の意識=魂をもぐりこませるという図式が成り立っているし、それを可能にするのが、脳の活動はすべて電気信号であるという科学的根拠に基づいている。

 さて、「魂」、もっと科学的で理解しやすい用語としては「意識」といったほうがいいかもしれないが、が電気信号に変換されてしまうということは、なんとなく受け入れやすいし、そのような考えは、もはや常識に近いものがあると思う。『マトリックス』を見て、人間の本質的な部分としての意識が電気信号なんかに変換されるはずがないと思う人はあまりいないだろう。多くの人はそれを容易に受け入れる。ただ、その意識が魂だと考えた場合、我々にはまだ受け入れることが容易ではない事柄も含まれているように思う。それが「死」についてだ。

 『マトリックス』の有名なシーンで、モーフィアスは赤い薬と青い薬をネオの前に差し出し、真実が知りたければ薬を飲めと言う。で、ネオは真実を知りたいと思い、赤い薬(青い薬かも)を飲んで、今までいた仮想空間から脱することに成功し、現実世界に蘇生する。同様に『The Thirteenth Floor』でも仮想空間に住むバーテンダーが、自分の世界は仮想空間だということを知ってしまい、現実の世界に行きたいと切望するシーンがある。
 
 我々映画を見ている人間としては、彼らの動機は充分理解可能である。なぜなら彼らの住んでいる世界は作り物の仮想空間であり、現実世界はもっと上の次元にあるということを知っているからだ。仮想空間から脱することは、真実の現実世界に来ることである。我々から見たら偽物の世界に安住してしまっている人間たちは無知であり哀れな人間たちに見えてしまう。もし真実を知っても現実世界にこようとしない人間がいたとしたら臆病者と感じるだろう。だから、『マトリックス』のネオの行動や、『The Thirteenth Floor』のバーテンの願いは充分理に適ったことなのだ。しかし、それは仮想空間と現実世界を知っている、つまり神の眼を持っている映画の視聴者だから言えることだろう。

 しかし、仮想空間にいる人間からしたら、ネオの行動と、仮想空間の中で普通に死ぬことと、どのような違いがあるのだろうか、という疑問がわく。そして、そこには違いなんて、おそらくないということになると思う。『The Thirteenth Floor』も同じで、仮想空間から脱して現実世界に来ることと、仮想空間で死んでしまうことは、仮想空間を現実だと信じている仮想空間の中の人間から見たら、両方とも「死」でしかないだろう。つまり、その世界から抜け出すことと、その世界で死ぬことは同じ意味しか持たない。ならば、この世界で死ぬことは何を意味しているのだろうか?今われわれが生きているこの世界は、もしかしたら仮想空間かもしれない。もしかしたら、この世界の外に、真実の現実世界があるのかもしれない。そこに行くためには、死ぬことが必要だといわれた場合、我々はそこに行くために死ぬことができるのだろうか?そもそも死を覚悟して、あるかどうか定かではない真実の現実世界に行くことが本当に必要なのだろうか?というか、この世が仮想空間であるというような科学的な解釈から導き出された真実の世界と宗教が示す死後の世界の違いはなんなのか?このようなことを考えてくると、死を覚悟して仮想空間から脱するネオなどの行動は理性的で勇気に満ちた行動というよりも、狂気に満ちた愚かな行動でしかないのではないか。彼の行動は、ただの自殺でしかなかったのではないか。

 という感じで「死」とはなんだろうと考えると、本当はよくわからなくなってくるような気がする。「身体の死」が本当の「死」なのか、それともこの世界からいなくなることが「死」なのか。もしもこの世界が仮想空間であったのならば、この世界から抜け出すことは死ではなく悟りなのかもしれない。『マトリックス』では、仮想空間から抜け出して真実の世界に行くことが悟りだと言っていたような気がする。もしも外に本当の世界があるのならば、それを感知することは一種の悟りであろう。そして、神の眼で真実を見ることができ、この世界の外側に真実の世界があるというのがわかっているのならば、この世に固執することは「無知」でしかないことなのかもしれない。ただ我々に、その外の真実の世界の存在を知る術はない。だから、そのような真実の世界は想定することは、「死」という現実から目を背けるためのものでしかないのかもしれない。

 死を回避できない我々人間にとって、このような死後の世界や不滅の魂というような考えは、とても重要になってくる。生きる意味とともに我々は魂は死なないという考えを持たなければ、死の恐怖から抜け出すことはできないし、生きていけない。また、死者の魂は死者の国や天国に行ったと思わなければ、残された家族や知人などもやりきれないだろう。だからこそ、宗教は魂の安らぎを強調する。

 しかし、このような魂の救済という考えは危険思想にもなりえる。この世はかりそめであり、死ぬことによって真実の世界に転生できるという考えを強調すれば、この世に未練を残すことなく、簡単に死ぬことができるようになってしまう。宗教団体の集団自殺や爆弾テロなどを起こしかねない。もちろん戦争などの戦いでは、死の恐怖を超克しないといけないわけだし、それには死後の世界を想定しなければ勇敢には戦えないのだろうと思う。

 さて、「死」について考えると、もう一つ疑問に思えてくることがある。それは「死」とは何かということだ。そして、それは「生きる」とは何かということに繋がっていく。最初に言ったように、アバターでは死んだ魂はエイワに取り込まれて生き続けるらしい。同じような死生観はファイナルファンタジーでも見られるようだ。そのような「死」は、本当の「死」なのだろうか?そのあたりについて、明日、続きを書いてみたいと思う。

歴史認識の共有って・・・

この前の新聞に日中歴史共同研究のことが書いてあった。
ちなみに、中国側の要請により戦後は対象外だそうだ(笑)。
日中歴史共同研究:「戦後」は対象外に…1月にも報告書
それにしても、こんな歴史認識の共有などということを、いまだやっていたとは。ちょっと気になったから、ネットで調べたら、日韓歴史共同研究も未だにやってるいるらしい。
日韓歴史共同研究、双方の溝いっそう鮮明に

歴史認識の共有ねー。。。あいかわらず、くだらないことをしている。そんなこと無理だと思うのだが。この歴史認識の共有に関して歴史学者の間でどのような評価がなされているのかは知らないが、歴史って物語でしょ。いくらがんばってもそれ以上にはなりえないじゃん。もちろん、歴史を今よりも正確に記述することはできるかもしれない。一次資料の精査などから得られた結論によって裏打ちされた歴史は、神話や伝説とは異なり、もっと科学的・客観的な事実の集積に近づいていくのかもしれない。しかし文献資料には限界があることは、歴史考古学の発展を見れば明らかであろう。そして、その歴史考古学にも、もちろん限界がある。つまり過去の出来事をすべて復元するなどということは不可能である。もちろん先史考古学よりも情報が豊富な歴史考古学はより真実に近い位置にはあるのだが。

しかし、どんなに情報を集めようとも、それでも絶対の真理にはたどり着けないのも明らかだ。なぜなら歴史に真実などというものは存在しないからだ。もちろん出来事はすべて唯一の出来事が起こったに過ぎない。だから、歴史上のどこかには真実というものがあったのだろう。ただ、我々には、その真実を知ることは、もはやできない。これは映画『羅生門』の世界みたいなものだと思う。ある出来事が起きたのは確かだが、実際に起こった、ある出来事を目の前で見ていたとしても、人によって見え方は異なってしまう。それが記憶の世界に入ったら、話はさらに違う様相を呈してしまう。実際に体験したことですら、様々な解釈が生じてしまうのに、真実の歴史像などというものを見つけ出すことなどできはしないと思う。それが出来るぐらいなら、現在起こっている出来事をすべて客観的に描写することは朝飯まえになるだろうが、ニュースを見ていればわかるように、現在の出来事ですら客観的にすべてを表現することなど出来ず、出来るとしたら、我々の主観で切り取った現実の断面しか表象することはできないのだから。

つまり歴史に真実などというものは存在しえないと思う。すくなくともそれを客観的に表象することも、客観的に解釈することもできない。だから客観的な歴史などというものは存在しえない。もちろん、なるべく真実に近づけることは出来るし、そのために歴史学者の研究は必要である。彼らのおかげで歴史は神話よりもより真実に近いものになった。しかし、それでも客観的な歴史が存在しえない以上、様々な歴史にならざるをえないと思う。つまりいろいろな解釈が生まれてしまうのだ。

しかし、それでいいのだろうと思う。そもそも歴史は神話と同じ役割を持っていた。権力者は自分たちの正統性を証明するために歴史を利用していたのには理由がある。歴史にはそれだけの力があったからだ。ただ、権力者が歴史を改竄して自分たちの正統性を示したなどというと、反権力が好きな左翼系知識人などはすぐに反応してしまうが、実は歴史は権力者のためだけにあるのではない。むしろ我々社会の成員が自分たちの起源を知ること、自分たちや社会の存在に意味を与えること、そして自分たちの行動原理や指針を得るために歴史が必要であった。これは神話や民話などと同じ役割を持っている。歴史も神話や民話などと同じ「物語」であり、例えば歴史上の英雄の生き様を聞いて、道徳や価値観を学んでいく。もちろんそれらの道徳や価値観は絶対の基準ではない。むしろ、読み手や語り手の生きている時代を反映して、その時代の価値観や道徳がその物語に反映されるのである。つまり歴史は時代によって解釈が異なってくるし、その意味付けも異なってくる。歴史は社会の成員に共有され、文化が形成されていくのだ。

つまり歴史とは客観的で価値中立的な事実の集積ではないし、歴史の授業や受験のためでもなければ、教養のためでもない。我々の価値観や文化を保存するためのものであり、社会の成員で共有されるべき「大きな物語」なのだ。この20年余り、ネイティブ・アメリカンが考古学者の示す歴史観と同じくらい神話や民話などの自分たちの歴史観を重要視してきたのには、このような文化や価値観を提示できるのは物語として共有された歴史が必要だからである。そしてこれはもっと大きな国という単位の日本でも同じことなのだ。

このように考えてくると、歴史認識の共有などというものは馬鹿げているとしか思えない。日本は日本の歴史観を持つべきだ。もちろん、それを他国に押し付けるのは良くない。中国も韓国も、それぞれの自分たちの歴史観を持っているわけだし、それは尊重するべきだろう。しかし彼らと歴史観を共有する必要はないのである。今、出来るのは、歴史の事実に明らかに反すること考えを排除する程度でいいのだろうと思う。例えば、日本は朝鮮半島に行かなかったというのは嘘だ。日本が南京に入城しなかったといったら嘘になる。そのような限りなく真実に近い歴史的事実と思われる出来事を無視した歴史観はもちろん好ましくない。同様に、証拠不十分のうちから南京大虐殺や従軍慰安婦をことさら強調するのも良くないだろう。だから、そのような事実を共有することは出来るだろう。歴史共同研究ができることは、そのラインまででいいと思うし、それ以上であってはいけないと思う。つまり歴史的事実を共有したとしても、歴史認識を共有する必要はないし、そもそも共有は無理である。まあ、日本と中国・韓国が一つの国になるというのなら、出来ないこともないと思うが。。。つーか、朝日新聞の大好きな東アジア共同体みたいなものになるためには、共有された歴史認識を持つべきなのだろう。そして、それは日本や中国という国の概念を放棄することと同義なのである。


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右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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