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ハロウィンパーティーのコスチュームとコスプレは何が違うのか?

ハロウィンパーティーが日本でも定着してきたのだろうか。今年はハロウィンの衣装を着た子ども達が町(それも住宅街)を歩いているのを2度ほど見かけて驚いた。子ども達の後ろをコスチュームを着せられたお父さん達が恥ずかしそうに歩いていくのをみて、少し同情してしまったのだが、それにしても、10年前には考えられなかった光景だ。

10年以上前、福岡の天神にあるデパートなどではハロウィンパーティーを盛り上げようとコスチュームパーティーを企画していた。デパートや店が盛り上げようと必死だったが、コスチューム着ている若者などはごく一部だったような気がする。ましてや小学生の子どもたちは、たぶんハロウィンの存在すら知らなかったのではないだろうか。クリスマスやバレンタインと同じようなノリで日本人とはまったく関係のないハロウィンも日本に定着させようと必死な企業に、そうとう違和感を感じたのを覚えている。そのときはハロウィンは日本人に向いていないだろうという感覚だった。特にコスチューム着て馬鹿騒ぎするパーティーは日本人に向いていないと思っていたのだ。しかし、私の知らない間に日本でもハロウィンが定着したようだ。

さて、何の抵抗もなくハロウィンを受け入れる日本人に、笑いを禁じ得ないわけで、なぜ日本人はハロウィンを容易に受け入れたのかということの裏側に西洋文化を崇拝するメンタリティーが残っているのではないかなどと勘ぐりたくなってしまうわけだが、まあそこらへんは置いておいて、今回はハロウィンのコスチュームについての私見を述べてみたい。といっても、私の好みは魔女の帽子だとかそういう個人的な嗜好の話ではない。まあ私の長年の人類学の研究によって、魔女のコスチュームが汎文化的に最も好まれるコスチュームであると結論づけているわけだが。。。ちなみにキャットウーマンのコスチュームもいい。逆に看護婦さんの白衣やスチュワーデスはイメクラにはいいかもしれないが、ハロウィンには向いていない。特にピンク系のミニスカの白衣を着て、でっかい赤十字のマークが入った帽子をかぶって、おもちゃの注射針を持ってくる勘違いした女の子がたまにいるが、ああいうのはやめたほうがいいだろう。場がしらける。というかハロウィンパーティーで色気を出すと男はしらけるような気がする。そういうのは俺の家に来てから、おやりなさい、お穣さんって感じだ。

まあ、そういうことで、俺の下らん嗜好などどうでもいいと思いながら、久しぶりに文章を書いていたら、止まらなくなってしまって申し訳ないのだが、ここらで本題に戻ろう。

私が今回述べたいことはハロウィンのコスチュームとコスプレはどこが違うのかということだ。なぜ、このような事を書くかというと、先日どこが違うのかと聞かれて少し考えてみたからだ。もちろん専門でない私の意見だから、勝手な思い込みかもしれないが、まあ、研究論文でもないし、私の勝手な意見ということで聞いてほしい。

さて、ハロウィンのコスチュームとコスプレは本当に違うのかというと、そこに何らかの違いがあることは、多くの人が感じることだと思う。ハロウィンパーティーでコスプレの格好をしていったら、少し浮くという点に異論はないと思う。もちろん反論する人もいるかもしれない。いや、そんなことはない。ハロウィンのコスチュームもコスプレのコスチュームも同じだ!という人がいるかもしれないが、それはそれで結構。私の負けです。というか、自分でも自分の考えが正しいかどうかなんてわからないんだから、反論する人を論破することもできません。まあ、違和感を覚える人だけ読んでください。

で、話を戻すが、違いがあるという前提で話を進めよう。それでは、何が違うのか。まず考えられるのはコスプレはアニメキャラの衣装だという点だ。コスプレ会場にきちんと行ったことないので偉そうなことは言えないが、たぶんコスプレでスチュワーデスや看護婦などの衣装を着ていたら、なにそれ?といわれるのではないかと思う。それはコスプレの基本はアニメとかマンガのキャラだからだ。一方、ハロウィンパーティーでは伝統的なキャラクターの衣装が主流だ。例えば魔女や悪魔、お化け、赤ずきんちゃんなどだと思われる。

ただ、それではハロウィンパーティーでは、まったく新しいキャラクターが登場しないのかというと、実はそんなことはない。例えば、スターウォーズのエピソード1に出てくるダースモールとか、映画スクリームに出てくるお面の男とか、13日の金曜日のジェイソンとか、カリブの海賊のジャックスパローとか、バットマンとかいろんなキャラがいる。そして、これらのキャラの衣装を着てハロウィンパーティーに出席しても違和感を感じることはない。それなのに、なぜアニメキャラだと違和感を覚えるのか?考えると、少し不思議な気がする。

私の勝手な結論は、たぶんキャラクターに原因があるわけではないということだ。そうではなくてキャラクターへの思い入れが強いかどうかということではないかと思う。コスプレでなぜ衣装を着るかというと、もちろん周りの人に見せたいという欲求もあるだろうが、それよりも変身願望が強いように思う。つまりキャラになりきりたいという感情が強いのではないだろうか。そのキャラクターは衣装を着ているだけの何かなのではなく、自分が同化したい人格を持った「キャラ」なのだ。世界中に一つしかいないキャラである。つまり固有名詞としてしかあわらせられないキャラクターだ。

他方、ハロウィンのコスチュームでは、キャラクターへの思い入れはほとんどない。というよりも、キャラクター自体にそもそも人格などはないのではないか。固有名詞で表されるどこそこの魔女や赤ずきんちゃんではなく、普通名詞の魔女や赤ずきんちゃんなのだ。だからそのキャラクターになりきりたくでも、そもそもなりきるような人格がない。単にキャラクターを指し示すシンボルとしての衣装があるだけだ。これは映画のキャラクターでも同じことのだと思う。映画のキャラクターといっても、彼らはあまり強い個性を示していない。ジャックスパローは例外だが、他のキャラクター例えばジェイソンやスクリームの仮面の男がどんな人物かなどということはほどんど意味がないし、ハロウィンパーティーで彼らの衣装を着ている人たちは、これらのキャラクターと同化しようなどとは思っていないはずだ。つまり、ハロウィンでコスチュームを着ている人たちは、そのキャラクターに何か強い思い入れがあるわけではなく、単に自分の奇抜な衣装を友達に見せたいと思っているに過ぎない。

まとめるとハロウィンパーティーではコスチュームは友達に見せるために着るものであって、そのキャラクターを演じるために着ているわけではない。コスチュームは場を盛り上げるためのもので、友達との関係を深める役目しかない。コスプレでは、人に見せるよりも、まずは自分の好きなキャラクターになりきるために着ている。友達に見せたいという欲求以前に、自分の好きなキャラになりきりたいという変身願望が根底にある。だから、ハロウィンのコスチュームとコスプレは似ているようで、まったく違う行為なのだ。その違いを多くの人たちはなんとなく感じているから、ハロウィンでコスプレのノリでコスチュームを着てくると、違和感を覚えてしまうのかもしれない。逆にコスプレ会場でキャラに思い入れができない普通名詞で表現されるスチュワーデスやナースなどのキャラクターの制服を着てくると違和感を覚えてしまうのだろうと思う。まあ、私の個人的な意見としてはアニメキャラのコスプレもハロウィンのコスチュームも好きなわけだが。ちなみにコスチュームとしては魔女以外に、婦警さん、スチュワーデスも好きなのだが、誰も俺の好きなコスチュームなどには興味はないと思うので、脳内妄想が臨界点を超えて暴走するまえに、ここらでとめておこう。



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分類するということ パート1

今回は前回のつづきです。

 さて、実は私は考古学者の端くれとして、分類という行為について長いこと考えてきた。考古学の第一歩は分類だ。発掘調査で出てきた遺物を分類することから研究が始まるからだ。しかし、実はこの分類というのは非常に厄介な問題をかかえている。昔は考古学者が勘と経験で分類していた。多くの場合、考古学者同士である程度のコンセンサスが得られていたわけだが、やはり客観的な研究とは言えない部分もあった。だから、もっと客観的、科学的な分類の仕方はないものかということで、例えばクラスター分析や因子分析などの多変量解析を用いて分類する方法などが模索されてきた。

 ここで興味深いのは、多変量解析を使った場合、確かに客観的な結果を得ることができる。もちろん、結果を解釈する時点で研究者の主観が入り込んでしまうわけだが、少なくとも、同じデータさえ入力すれば、同じ計算結果を得ることができる。だから、この結果は客観的・科学的な結果であるといえる。それでは、この計算結果によって得られた分類体系は、勘や経験によって分類されたものよりも、より本質的なのであろうか?つまりより真実に近いものを提供しているのだろうか?実は、ここに問題が生じてくる。真実とは何か?研究者はそもそも何のために分類しているのか?というようなことが問われてくるからだ。今回はこのような話と関連してくるのだが、昨日の最後で言ったとおり、サモア語を学んでいたときに聞いた、r音とl音についての興味深い話を紹介したいと思う。その前にサモアとかポリネシアを知らない人もいると思うので、基礎的な部分をちょっとだけ。

 サモアとは南太平洋に浮かぶ島でフィジーの東隣に位置している。住んでいるのはポリネシア人と呼ばれる人たちだ。ポリネシア人はポリネシアと呼ばれる地域に住んでいる人たちで(←当たり前か)、イースター島、ハワイ、ニュージーランドを三頂点とする三角形の内側に点在する無数の島がポリネシアと呼ばれる地域である。ようするに太平洋のほとんどの海域はポリネシアに含まれる。ちなみに、赤道付近でパプアニューギニアあたりからソロモン諸島やフィジーに至るまでの海域をメラネシアと呼び、メラネシアの北側にあるパラオ、ヤップ、グアムとかマリアナ諸島、カロリン諸島、そしてマーシャル諸島やキリバスまでをミクロネシアとよぶ。最近ではメラネシア人とかミクロネシア人などとカテゴライズしてしまうのは適切ではないと主張する人類学者もいるが、三つの地域を表現するには結構便利な用語なので、いまだに使われることが多い。なお念のために言っておくと「真っ黒ネシア」というものは存在しない。

 ポリネシア人はどっから来たかというと、一夜にして太平洋の下に沈んでしまったムー大陸の生き残りっていう説をとっても別に問題ではないのだが、一般的には南中国とか台湾あたりから移り住んできた人たちの子孫ってことになっているので、私が発掘調査でオリハルコンとかオーパーツを見つけるまでは、一般人向けの説を採用しておいたほうが賢明だろう。それによると数千年まえに南中国とか台湾あたりに住んでいた人たちが島伝いにどんどん移動していき、メラネシアを通って、さらに東に移住して行った。で、フィジーからサモア・トンガに達して一休み。数百年そこらへんの島に滞在していたわけだけど、「やっぱり東に行きたい病」が再発してしまった。幸い彼らは高度な航海術を持っていたので、サモア・トンガからさらに東の島を目指して船出していき、マルケサス諸島などの東ポリネシアの比較的大きくて高い島にたどり着いた。そっからさらに近隣の島に拡散していく。そして、ニュージーランド、ハワイ、イースター島にも拡散していき、少なくとも1000年前までにはほとんどの島への植民が完了したとされている。

 まあ、そういうことで、サモア・トンガあたりの西ポリネシアから東ポリネシアの辺境の島々まで1000年か1500年ぐらいのごく短期間で拡散したわけだ。だから彼らの話すポリネシア語は島ごとにサモア語とかハワイ語などと呼ばれてはいるが、ほとんど同じで、意思の疎通もできるらしい。例えば、ツヴァルでは「こんにちは」は「タロファ」だが、ハワイでは「アロハ」だとかそういう感じ。個人的にはハワイ語とかニュージーランドのマオリ語とかってサモア語とまったく違うような気がするのだが、言語学者が似ているというんだから似ているのだろう。俺とかはサモア語ですらほとんど理解できていないからなんとも言えない。

 さて、そういうことで、島ごとに微妙に違っていても、ほとんど同じ言語を話しているのがポリネシアの人たちなのだが、私がサモア語をちょっとだけ勉強していたときに、面白いことに気がついた。それは何の単語だったかは忘れたが、他の島ではr音で記載されていた語彙がサモア語のテキストではl音で記載されていたのだ。他の島の言語を勉強したことなんてない私が、なんで他の島の語彙を知っていたかというと、実は考古学の報告書とか民族誌を読んでいると嫌でも現地で使われているモノの名前などが文章に挿入されるので、まあ基本的な現地語の単語ぐらいは覚えてしまうことがあるのだ。それで、ある島ではrで表記されている単語が他の島ではlで表記されているので、ポリネシア人は英語圏の人間のようにr音とl音を区別しているもんだと思っていた。そうしたらサモア語を学んでいるときにポリネシア人はr音とl音を区別していないということを知った。

 二つの音を使い分けていないのに、島によって、r音が使われたり、l音が使われたりしているのは、どういうことだろうか。普通に考えれば、島を移動していったポリネシア人たちがr音からl音に、またはl音からr音に変化させたと考えるのが自然だろう。言語学によると音の変化には、ある一定の法則がある。そのような法則を使って、言語の変化や、昔の言葉を復元したりということを言語学者はしていると思うんだけど、まあ詳しいことは知らない。だから、私はそのような法則を理解できているわけではないのだが、ポリネシアでもそういう変化が起こって、r音からl音に、もしくはl音からr音に変化した結果、島によってr音で発音されたり、l音で発音されたりしているのかなと思ったわけだ。

 そんなことを考えて、教授に聞いたわけだが、そのとき教えて貰ったのは、まったく違う答えだった。彼によると、民族誌や報告書にr音やl音が混在しているのは、島によってr音とl音という違う音が使われているのではないという。どの島でも、ポリネシア人はr音とl音を区別することなく使っていたわけだが、それを区別したのはむしろ西洋人のほうだったのではないかというのだ。布教のためにポリネシア地域には多くの宣教師が入っていったわけだが、もともとポリネシア地域には文字はなかった。だから宣教師たちは島民が使う言葉を耳から聞いて現地の単語を記録して、布教のために辞書を作ったり聖書を現地語に訳したりしていったいった。宣教師はr音とl音を区別できる。だから、宣教師がl音だと思ったらlで表記し、r音だと思ったらrで表記していった。つまり宣教師によって、r音と見なされたり、l音と見なされたりしたわけなのだ。

 ここには非常に面白くて重要な事実が隠されていると思う。それはポリネシア語を使っている当事者であるはずのポリネシア人はr音とl音を区別していたわけではないのに、宣教師が勝手に区別したために、r音とl音の区別があったように見えてしまっているということだ。ということで、本当は結論まで書きたかったのだが、眠くなってしまったので、続く。


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「美の巨人たち」の岡本太郎特集が面白かった

 先日、テレビ東京で「美の巨人たち」という番組をやっていた。岡本太郎特集だったのでボーっと見ていたら結構白かった。芸術に疎い私は、もちろん絵画などはほとんど理解できていないのだが、岡本太郎には少しだけ興味を持っていた。といっても最近興味を持ち始めただけで、ちょっと前までは岡本太郎のイメージといったら子供の頃にテレビで何度か見た「芸術は爆発だー!」とか言って笑いをとっている岡本の姿だけだったのだが。そういうことで、数年前までは、岡本太郎については風変わりの芸術家というイメージしか持っていなかった。芸術家なんて普通の人とは違っていないといけないから、風変わりなのも当たり前だと勝手に納得していて、それ以上、岡本太郎に関して興味を抱くこともなく生きてきたわけだが、数年前、人類学の勉強をしていたときに、岡本太郎は実はパリであの有名なマルセル・モースに師事して人類学を学んでいたのだという話を聞いて、俄然、彼に興味が沸いてきた。デュルケームの甥であるマルセル・モースは「贈与論」を書いたことでも有名な人で、人類学だけでなく思想界にも大きな影響を及ぼした人だ。私の好きな経済人類学もモースの影響が強い。そういうことで、モースという人と話したというだけでも卒倒ものなのに、その人に教わったんだから並みの人類学者など太刀打ちできないだろうと思うのだが、そこまですごいのに人類学などに転向せずに芸術家としての人生を貫いたところがすごい。そういうことで、とにかくすごい人だと感心して、それから岡本太郎に興味を持つようになったのだ。

 まあ、そうは言っても、岡本太郎の言葉や絵画に接する時間はなかったので、唯一知っている彼の作品と言えば大阪万博の「太陽の塔」ぐらいだったのだが。しかも、この「太陽の塔」も「21世紀少年」という映画で初めてその存在を知ったわけで(笑)。。。ちなみに「太陽の塔」に関してはその後『踏みはずす美術史』という本を読んでいたら森村泰昌氏が絶賛していた。森村さんによると、「太陽の塔」のすごいところは、時代に流されず、悠久を相手にし、悠久の中にのっそりと立つ風情を醸し出している点なのだという。今度の土曜日の「美の巨人たち」で岡本太郎特集第二弾として「太陽の塔」が取り上げられるので、その感想とともに、森村さんの意見を今度もう少し詳しく紹介したい。

 さて、そういうことで、岡本太郎に関しては、わたしはほとんど何も知らなかった。なので、今回の番組で紹介されていることの内容を吟味することなどできないのだが、とりあえず番組で紹介されていた岡本太郎像というものが結構興味深かったので、そのあたりを簡単にまとめてみたい。私が面白いと思ったのは次の3点だ。一つは岡本が抽象画を選んだ理由。二点目は岡本が絵画によって自分の考えを表現しようとしたこと。そして最後の点は、岡本が芸術を大衆に解放しようとしていたこと。具体的には、絵画でお金を稼ぐようなことはせず、彼の作品は誰もが接することができるようにした点だ。この3点が面白かったので、もう少し詳しく見ていきたい。

 岡本太郎は第一次世界大戦後パリで勉強をし、第二次世界大戦でドイツ軍がパリに攻めてくるまでパリにいたらしい。その間、絵画以外の勉強もしていたらしいのだが、岡本が興味を持ったのは抽象画だったという。その理由は、抽象画なら人種も国籍も超えることができるからだったという。絵画に詳しくない私が何かを言える立場ではないのだが、絵画にも文化や歴史を反映するものと、反映しにくいものがあるというのを聞いて単純に面白いなと思った。抽象画やシュールレアリスム絵画をそういうことを考えながら鑑賞していくと新しい見方ができるのかもしれない。
 
 さて、ドイツ軍が来たので岡本は日本に帰ってきて、そのまま中国戦線に送られたらしい。戦争が終わり、中国の収容所で一年を過ごしたあと、中国から引き上げてきて、また芸術の道を歩み始めた。その頃の日本の美術界は問題(←どういう問題だったと言っていたのか思い出せないが、権威主義的とかそういうことではないかと思う)があったらしく、岡本は日本の絵画の世界を石器時代と痛烈に批判した。と同時に、岡本は、いろいろと先鋭的な作品を発表していったらしいのだが、彼の思想の根底にあったのは、異質なものをぶつけて火花を散らし既存の体制を変革する「対極主義」と呼ばれる考えだったという。これによってマンネリ化していた状況を打開していったらしい。

 岡本はマルセル・モースに師事していたわけで、普通の思想家よりも思想家だったはずだ。事実、いろいろ発表もしていたらしいし、彼は芸術家であると同時に思想家でもあったわけだけど、それでも自分の考えを表現する手段として絵画や彫刻も利用していたという点が、普通の思想家とは違うところだ。その点が私が面白いと思った二点目だ。というのも、自分の考えを絵画や彫刻で表現できると考える人はあまりいないと思ったからだ。もちろん絵画や芸術作品で自分の考えを伝えるというのは芸術家の表現方法だし、実際「反戦平和」とか「自然と共存」とか「文明批判」といった比較的単純なスローガン的メッセージは映画や漫画にも込められている。しかし、岡本のような思想家レベルの人の考えが果たして絵画で表現できるのかということに関しては疑問を持たざるを得ない。そう思ったのだが、よくよく考えてみると、思想家が自分の考えを厳密に言語化して哲学書のような難解な本を書いたとしても、そんなものはほとんどの人は読めないのだから無いに等しいのかもしれない。へたとすると誰のための思想なのかとなってしまう。しかもいくら厳密な定義の単語を使って曖昧な表現を避けようとしても、思想書や哲学書だって多様な読みを可能にしているわけだし、作者の意図とは別の解釈がなされる可能性も高いだろう。もちろん、そのような多様な解釈の仕方が問題なのではない。思想や哲学で重要なことは答えを得ることではなく、むしろ答えを捜し求める思索の過程にあるからだ。しかし、もし答えを得るためではなく、解釈する過程が大事だというのであれば、芸術作品で自分の思想を表現するということは難解な単語を羅列してほとんど読まれない難解書よりも、ある意味、適した媒体だといえるのかもしれない。

 さて、岡本は絵画や芸術作品が金持ちなど一部の人間達に独占されていることを嫌っていたらしい。つまり商業美術を嫌悪していた。だから彼は自分の絵や作品を売らなかったという。岡本は芸術を大衆に解放しようとしていた。自由な精神の表現を彼は大事にしていたのだ。このあたりにも自分の考えを難解な言葉だけで表現する思想家ではなく、むしろ芸術作品を通して自分の考えを大衆に伝えていく芸術家であり続けた岡本太郎の大衆に対する姿勢が見て取れる。そして、私が興味深いと思ったのは、この無償で自分の考えを表現していくという姿勢だ。なぜならこのような姿勢は最近のネットでは普通に見られるようになってきたからだ。ブログやネットでは自分の考えや知識を惜しげもなく発信・共有する人たちが増えてきている。このような新しい知の共有の仕方は、今後さらに発展していくだろう。岡本はそのような考えをすでに実践していたのだ。これが、このテレビ番組を見ていて、面白いと思った3点目だった。

 もちろん、このような態度は岡本だからできたことなのかもしれない。芸術家だって霞を食べて生きていけるわけでもなく、金持ちの道楽ができる一部の人を除いては、まずは生活費を稼がなくてはいけないだろう。実際、岡本も芸術作品は売らなかったが、原稿料などで収入を得ていたらしい。芸術作品を売ることの是非を巡っては村上隆が岡本の考えとは真逆の態度をとっているように思う。村上は資本主義経済下で芸術活動をどのようにうまくまわしていくかということを考え続けてきた芸術家だ。単純な拝金主義者なのではない。むしろ芸術を大事にするが故に資金面をどうするかという現実的な問題を解決する手段をきちんと考えているのが村上なのだ。つまり、彼は、まずはお金を稼げなくては芸術活動ができないと考える。芸術活動ができないというのは芸術の衰退を意味する。だからこそ、正当な収入を得ることができること、きちんと儲けることのできる芸術活動を目指している。

 私は岡本の考えに賛同したいという気持ちが強いのであるが、それでも村上の現実的な態度を否定できるはずもない。商業活動を切り離して考えがちな思想家や芸術家にとっては、むしろ村上の態度の方が大事なのかもしれない。まあどちらがいいという問題でもないとは思うが、ここで指摘しておきたい点は、これは美術界だけの話ではないということだ。批評活動や言論活動など何かを表現する人たちはすべて同じようなジレンマに陥っていると思う。文章で稼ぐためには本の印税や雑誌の原稿料などに頼らざるをえないが、多くの人たちに自分のメッセージを伝えるのが目的だったら、ネットで無償で発信してしまうほうが効率がいいだろう。しかし、それでは、生きていけない。なかなかに難しい問題だ。


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「アート界における”クール・ジャパン”の戦略的プロデュース法」『日本的想像力の未来』47-63ページ




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現代思想を学ぼう!

友人のブログを見ていたら内田樹さんの書籍が紹介されていた。結構、懐かしかった。最近は彼の左翼的言動がどうも好きになれなくて距離を置いていたのだが、今日久しぶりにぱらぱらっと読んでみたら、わかりやすい文章で、やっぱり面白い。それに俺は彼の書籍から現代思想の世界に入ったわけだしね。おかげで俺の人生はガラッと変わってしまったんだけど。

ということで、今日は俺がなぜ現代思想なるものに興味を持ったのかという隠された謎に迫ってみたい!と書きたいところだけど、謎でもなんでもないし、第一、誰も興味ないよね、そんなこと。本当は、内田さんの書籍を紹介したいだけです。まあ、でもせっかくなので、その前にちょっとだけ自分の事を書いときます。

俺は子供の頃から理数系が好きで、もともとは科学者になるつもりだった。大学で生物学を勉強していた頃は、哲学とか文学とか一銭の得にもならないような学問を勉強している文系人間がまったく理解できなかった。どうせ遊ぶために大学に来たんだろうぐらいにしか思っていなかった。オレ的には、科学のみが人間社会に必要な学問だと信じていたからだ。

考古学に転向したあとも、俺は科学一辺倒の思考だった。社会科学は面白いというのはわかったが、人文系の論文なんて小学生の感想文と同じレベルだと思っていた。科学的方法論を用いて人間社会の複雑な現象の背後に潜む隠された「法則」を解き明かすことが俺の夢だった。だから科学的方法論を用いた考古学理論が盛んなアメリカにわたったのだ。本当ならば今でもシュミレーションや空間統計分析などの科学的方法論を用いてバリバリと仮説モデルを作り出しているはずだった。ところが幸か不幸か俺はそこで文化人類学者と出会ってしまった。

彼らと話していると、どうも話がかみ合わない。いくら科学の素晴らしさを説いても、憐れみの目で見られるだけだった。特に文化人類学の社会理論のクラスをとったときが酷かった。スペンサー、タイラー、マルクス、デュルケーム、モース、フロイト、ウェーバーなど、社会理論の古典を勉強するディスカッションクラスだったのだが、科学の素晴らしさをわかってくれないクラスメートや先生をどうしたら説得できるのかということを毎日考えては、俺は一人悶々とした日々を過ごしていた。結局、彼らを説得できずにタームが終わった。クラスの成績は悪くはなかったのだが、それでも自分としては納得できなかった。なぜ科学を馬鹿にするのか。なぜ科学に信頼をおけないのか。長いこと悩んだ結果、科学を理解できない奴らが自己正当化するために科学はいらないといっているだけだという結論に達した。ただ、その頃から徐々に社会理論や現代思想にも少しずつ興味が沸いてきていた。で一人で現代思想の入門書などを読み始めた。その頃、この本と出会って、俺の人生は180度変わった。



現代思想の入門書というのは山のようにある。文系のほとんどの学問が現代思想に多かれ少なかれ関係しているのだから需要は沢山あるわけで、入門書が山のようにあっても別に驚くことではない。ただ沢山あると、どれがいいのかわからなくなってしまう。もちろんどの本もいろんな魅力があるわけで一概にどれが一番いいということはできない。ただ、俺は、まず「現代思想のパフォーマンス」をすすめたい。なぜなら、この本は他の本と違って、現代思想をどうやって利用するかということに焦点をあてているからだ。

現代思想というのは覚えるものではなくて、使うものだという考えから、ソシュール、レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、エドワード・サイードらを取り上げて、彼らの思想の中心的な概念を説明した後で、映画や本を彼らの理論で読み解いていくというような構成になっている。この実践的な部分がとても面白い。というか、現代思想は大学で単位をとるために勉強するためのものでも、飲み屋で偉そうに単語だけぽんぽん出して頭のいい振りをするための道具でもなくて、要は自分の視野を広げるものだということがわかる。つまり世界を見る目を養うものなのだ。

現代思想を使って映画やマンガなどを批評していくと、とても楽しい。その中で新しい疑問が生じてくるし、そこから新しい視点を身につけていく。批評の仕方に正解があるわけではない。多様な視点で理解することが必要なのだ。だから誰でも批評活動には参加できるのだ。それだけで素晴らしいことだと思う。

もちろん独り善がりな解釈に陥ってしまう危険はあるのだけれど、それでも、勉強するんじゃなくて、いかに使うかということに重点を置いたこの本を読んでいると、自分も何か批評したくなってくる。映画やアニメを見ていると一言何か言いたくなってくる。実は、俺がアマゾンレビューを書き始めたのは、この本の影響だった。映画を見た感想を書くことによって現代思想の考え方を身につけたかったのだ。いざ始めてみるとだいぶ楽しいということがわかった。最近はアマゾンレビューをあまり書いていないのだが、最初の頃は結構気合を入れて書いていた。(ちなみに俺のレビューはこれ→アマゾンレビュー)。特に一番最初に書いた映画「キューブ」のレビューは今でも自信がある。というかキューブのレビューを書きたいがためだけにアマゾンレビューを始めたってのが本当のところなんだけど。



どんなことを書いたかというと、

Cubeはフーコーがいうところの「権力」を表している(と思う)。我々は自由を求めてCube(権力)の外(権力がない世界)に出ようとするが果たしてそれは可能なのか?そして、それは幸せなことなのか?

フーコーの影響を受けた映画といえば「時計仕掛けのオレンジ」という映画が思い浮かぶが、この映画は更に奥が深いように感じられる(ただし私は時計仕掛けのオレンジも理解できてはいないが)。どこまで監督が意図しているのかわからないが、注意深く見てみると一切の無駄を省いて、映像のほとんどすべてに意味があるような気になってくる。

例えば登場人物のメンバーにしても次のようには考えられないだろうか?Cubeを国家権力の象徴と考えるリベラル(女医)、それを政府陰謀説と一笑に付すコンサバ(警官)、Cubeの意味なんて興味がない、ただ脱出することだけに集中する社会の逸脱者(脱獄のプロ)、Cubeの意味よりも、そこに隠された法則の解明に情熱を燃やす科学者(数学科の少女)、Cubeからの脱出などに興味のない無気力な会社員、そして傲慢な「正常者」達によって形成されている「社会」から排除されている精神障害の青年。

会社員は言う。Cubeは誰が何の目的で造ったのかなんて誰も知らない。ただ多くの人が部分的に造っていたら、いつの間にか出来てあがっていた。フーコーによれば「権力」とはそういうものであるらしい。そこには意味も目的もない。その権力を行使する者は存在しない。我々が知らぬ間に作り出し、そしてそれによって我々は規制される。我々がこの世に生まれた時にはすでにこのような「権力」に縛られた社会にいた。それだけのことである。自由を求めてCubeの外に出ることが本当に幸せなことなのか、それとも不幸なことなのかもわからない。しかしもしも出ることが出来るとすればそれはやはり。。。

私はフーコーについて詳しく知っているわけではないが、おそらくフーコーを読んでからこの映画を見ると更に楽しめるのではないかと思う。



キューブを見たことがない人は見てから読んでほしいのだが、この映画の中での科学者というものの存在はとても興味ぶかい。科学者(数学者の女の子)はキューブの秘密を解き明かそうとするのだが、彼女の問いは、「キューブという存在がなんなのか」ではなくて、キューブの仕組みやキューブのメカニズムを解明することだった。つまりキューブの存在自体を問うているわけではなく、キューブの中に潜んでいる謎に挑んでいるだけなのだ。これこそが科学と人文系学問の違いである。つまり自然でも人間社会でもいいのだが、その現象のメカニズムを解明することに関しては科学的方法が有利であるし、科学はそのような現象の解明をしようと試みる。しかし、人文系学問はメカニズムではなく、その存在に関しての問いを議論しているのだ。

もう少し詳しく見ていこう。キューブは無数の部屋に分かれているのだが、罠が仕掛けられている部屋が多数ある。そして、ドアの入り口に謎の何桁かの数字が刻まれている。その数と罠の有無に関連性があると考えた数学者の女の子は最初にある仮説を立てた。そしていくつかの事例で検証した結果、部屋に罠が仕掛けられているかどうかは入り口の数字を見ればわかることが判明した。しかし映画の中盤で、彼女の仮説はもろくも崩れる。安全だと思われた部屋に罠が仕掛けられていたのだ。そこで、彼女は、その「例外」に矛盾しない新しい仮説を立てることになる。

このような仮説と検証の繰り返しは、まさに科学の研究法である。この数学者の女の子はキューブの仕組みを解き明かすことには最終的に成功する。つまり部屋に罠が仕掛けられているのかどうか、安全なのかどうか、という謎を解き明かすことは出来たのだ。しかし、それはキューブの存在の謎を解き明かしたことにはなっていない。キューブのメカニズムの謎を解き明かしたというだけなのだ。主人公達がキューブになぜ閉じ込められたのか、どの部屋に動いたらいいのか、これから何をしたらいいのか、そもそもキューブとは誰が造ったのか、なぜキューブが存在するのか、といったことには、この科学者は興味をしめしていないし、興味を示したとしても何も答えられないだろう。なぜなら、それらは科学の研究対象ではないからだ。ここに理系と文系の存在意義を見ることができるような気がする。理系と文系はそもそも問題意識が違うのだ。どちらが優れているとかの問題ではない。どちらも必要なのだ。そのような違いがこの映画では上手く表現されていると思う。キューブという映画は他にもいろいろ興味深いことが沢山あるので、機会があったら、またなにか論じてみたいと思う。

さて、内田さんの話に戻ろう。俺は内田さんの本で、もう一冊影響を受けた本がある。それは「寝ながら学べる構造主義」だ。



この本は本当におすすめだ。とてもわかりやすい。それに、この本のアマゾンレビューは数年前に書いたのだが、いまだに俺のレビューがトップに出てきたりしているようなので、実は結構嬉しい。もしよかったらアマゾンレビューの「参考になった」を押して貰えると嬉しいです。

さて構造主義の話だが、オレ的には現代思想を学ぶ上で構造主義というのは避けて通れないと思う。現象学とか他にもいろいろ重要な考えはあると思うけど、とりあえず構造主義→ポスト構造主義という流れが現代思想の中心のひとつにあるのは確かだろう。だから構造主義という考えはとても重要だし、それに面白い。ちなみに構造主義のもう一冊の入門書もおすすめだ。



こっちの本もすごくわかりやすい。特に現代数学と構造主義のかかわりについて書かれている部分は必読だと思う。

俺は現代思想は専門ではないし、きちんと理解できているわけでもない。しかし現代思想をかじったことで、俺の前に広がる世界は大きく変わったような気がしているし、考え方もガラッと変わった気がする。それはまるで映画「マトリックス」の青い薬と赤い薬を出されて赤い薬を飲んだような感じだ。青い薬を飲んで科学が最高!とか今でも言っていれば、それはそれで幸せだったのかもしれない。マトリックスに"Ignorance is bliss."というフレーズが出てくる。知らぬが仏という意味だ。確かに知らないほうが幸せなことはあるし、その方がよかったのかもしれない。ただ我々はキューブのような不思議なところに放り込まれて放浪しているのだ。映画に出てくる無気力な会社員のように生きるのもいいが、一回きりの人生なのだから、キューブを歩き回ってもがくのも楽しいだろう。マトリックスの世界で幸せに生きるよりも、真実を見て生きてみたいと思うだろう。現代思想を少しでも学んだことがある人は、おそらくこういうだろう。赤い薬を飲んだ結果、つらい現実が見えたとしても、精神的に真の自由を得ることができたんだと。



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「常識と本質」 朝生の堀江貴文氏の発言を考える(中編)

 さて今日は堀江貴文氏の朝生における発言の問題点を考えてみたい。(ちなみに前回の話は→朝生の堀江貴文氏の発言を考える(前編)

 前回、長々と書いたように、堀江氏が常識というものに疑問を呈し、常識を超えた「地平」で議論しようとする態度は尊重するべきだというのが、私の基本的なスタンスだ。つまり、「国旗国歌は重要だ。国家は人間社会の基本だ」という、現代人が漠然と当然の事だとして、それ以上深く考えない事柄について、その根本的なところから議論していこうという姿勢は評価すべきだ。

(なお、今回、堀江氏への反論を書けると思っていたのだが、今日文章をアップする時になって計画を変更した。今回もあまり堀江氏への直接的な反論にはなっていない。きちんとした反論は次回に書きたいと思う。今回は多様な視点で議論するということに関して考えてみたい。多角的に議論するためには常識に縛られていてはいけないが、物事の本質を否定してもいけない。しかし実際には常識で議論していたり、常識も本質も両方とも否定してしまっている場合が見られる。そこで、前回の経済の話をもう少し詳しく説明することによって、常識を疑うことは必要でも、物事の本質を否定してはいけないということはどういうことなのかということを今回は述べてみたいと思う。)

 例えば昨日書いたように資本主義の問題点を議論する際、資本主義や市場経済における自由競争が当然であるという前提にたって議論しているうちは根本的な解決策を見つけ出すことはできない。もっと高い視点から、つまり資本主義をベースにした市場経済システムという枠を超えて、そのような常識の外側から、資本主義という経済システムが絶対ではないという前提に立つことで初めて市場経済システムそのものを議論の俎上にのせることができるのだし、そのような議論なくしては、問題の核心に迫ることはできないだろう。

 同様に政治を語る上でも、民主主義を前提としてしまっては議論は片手落ちになってしまう。イラク戦争が始まった頃アメリカやイギリスが唱えたのは中東での民主化という大義名分だった。イラク戦争に反対の立場をとる左翼系の人たちもブッシュ批判はしたが、アメリカが押し進める民主化という大義名分に意義を唱えた人は、ほとんどいなかったように思う。イラクに限らず、民主化という大義は今でもいたるところで聞かれる。ここ連日のエジプト情勢の報道でも民主化を素晴らしいことだとする論調ばかりだ。そこには右翼と左翼の対立は見られない。右も左も民主主義というものをほとんど無条件に絶対的なものとしてとらえ、それを前提に議論しているように思う。まるで民主化を行うことが人類社会の最終目標のような感じである。

 しかし、民主化が本当にいいことなのかどうかということは、実はよくわかっていない。例えば国家よりも部族や地域共同体に対する帰属意識の方が強い地域で、そしてそのような部族が乱立している場合、国家という帰属意識を強化することなく、民主化だけによって国家が平和的に統合されていくとは思えない。むしろ、そのような地域では部族同士の緩い関係を維持していくほうがいいように思う。もしも近代国家として統合したいのであれば、民主化よりも、強大な力で抑え込む体制の方が安定した政治体制になっているかもしれないし、仮想敵を作ったり外圧を強調して危機感をつのらせ団結力を高めるのもいいかもしれない。いずれにせよ、民主化を絶対視しないほうがいいような気がする。フランス革命後数十年の社会的混乱を見れば明らかなように、民主化とは、ある意味単なるエゴのぶつかり合いになってしまう危険性があるからだ。だからこそ、民主化とは同時に「個」ではなく「公」という観念を絶えず再確認していかなくてはいけないのだ。

 ちょっと話がずれてきたので、「常識」の話に戻ろう。つまり、このようなことを考えると、堀江氏の意見もあながち間違いとは言えない。実際のところ、常識を疑い、もっと高い視点に立って、自分の価値観を相対化したうえで議論するということが大事だからこそ、堀江氏はあのような発言を連発したのだというようなことを言っている。そのような姿勢はまったく問題はない。

 日本の国旗国歌は単なるシンボルとして機能すればいいのだから、別に日の丸と君が代である必要はない。他の旗でもいいし、ほかの歌でもいい。国旗国歌が本当に必要かどうかということを議論してもいいだろう。国家というもの自体が想像の産物なのだという議論がある。近代以降、人工的に造られた国民国家は想像の産物であり、本質的な存在ではないという。ここからサヨク系の人たちは想像の共同体など人間社会が本来持っている本質的な存在ではないのだから無くてもかまわないと言ったりする。世界同時革命を夢想する共産主義者たちは民衆を抑圧し搾取する国家というものを否定するのだから、国民国家は幻想だという理論を援用して国民国家など無くてもいいのだという暴論に行き着くわけだ。

 確かに、数百年先、国家が消滅している可能性は否定できない。それに代わる何か別の政治システムによって社会が統合されている可能性は十分ある。それが地球規模の帝国のような大規模共同体なのか、それとも昔のような小規模な地域共同体なのか、地域や空間からは解放され、人種や民族、社会階層、趣味などの共通点を持つ人間たちがコンピューターネットワークで精神的に繋がっている共同体なのか、どういう集団が政治システムの基本になっているのかはわからない。ただ、そのような現在とはまったく異なる政治組織をベースにした社会に住む未来人が今の社会を歴史の授業で学んだとしたら、なぜこの時代の人間達は人工的に造られた国家という不思議な共同体に生まれたときに属することを運命づけられ、恣意的に引いた境界線で領土を決め、パスポートなどという不都合なもので国家間の行き来を制限していたのか不思議に思うかもしれない。領土を侵犯したといった、ある意味「小さな」ことで戦争をしていることが馬鹿げた行為に映るかもしれない。そのような高い視点から見れば堀江氏の意見も理解できるかもしれない。

 そもそも領土をとられたからといってもどうということはないのは確かだ。少なくともそのことで損害を被るごく一部の人間たちを除けば、大多数の人たちにとってはどうでもいいことだ。しかもお金さえあれば、そのような土地は買いもどせる可能性もあるわけで、要はお金を持っていればいいだけの話である。自分とは関係のない土地を守るために殺しあう必要なんてまったくない。むしろ相手国と協力しあって開発していくほうが賢明な選択肢だろう。経済的に繋がっているのだから、戦争などせずに、自由にお金を稼ぐことだけを、どちらの国も考えていればいいのだ。お金を稼ぐことが社会を豊かにし、お金が社会に回れば、貧困はなくなる。その結果、社会全体が裕福になる。世界中が裕福になったら戦争などで死のうなどと思わなくなる。そうしたら戦争もなくなるだろう。つまり、われわれがすべきことは国家などという小さな枠で、いがみ合うことではなく、地球全体の経済を発展させていくことなのだ。それが社会に貢献するということだ。このようなリバタリアン的、もしくは新自由主義的な考えに賛同する人も多いだろうと思う。

 しかし本当にそうだろうか?私はそうは思わない。堀江氏の問題点は多様な価値観や非現実的な状況を議論に持ち込んだことではない(まあ実際には堀江氏の考えはリバタリアン的な「常識」であって多様な価値観を提示しているわけではないが)。そうではなくて、堀江氏は問題の本質を無視した議論をしたことに問題があるのだ。物事の本質は常識というもので覆い隠されてしまうことがある。だから、常識という価値観だけで議論をするのは危険だ。常識を疑うことが必要になってくる。しかし堀江氏のように、常識だけでなく、物事の本質まで否定してしまっては議論にならないのだ。

 例えば、前回の資本主義の例で言えば、私がなぜ資本主義の議論をするのに資本主義を否定するべきだと考えるかというと、人間活動の本質的な部分には資本主義や市場経済は関わっていないからだ。人間活動の本質とは、資本主義や市場経済ではなく、もっと純粋で素朴な交換行動にある。なぜなら資本主義や市場経済がない社会というものは存在するが、交換という行動をまったくせずに一人で黙々と生きている人間という存在はあり得ないからだ。人間は多かれ少なかれ他者と交流し生きていかざるをえない。そして他者との円滑な交流を維持するためには、交換というものをせざるを得ない。

 経済学では交換行動の原初的形態は物々交換であり、物々交換はお互いが必要なものを交換することでお互いにウィン=ウィンの関係になることだという素朴な「物々交換」観を唱えている。しかし経済人類学の研究によれば、物々交換は常にお互いが何かを欲するためにしているのではなく、むしろ相手との関係を強化するためにしているということがわかってきた。

 例えば日常会話を考えてみるとわかりやすい。一番単純な交換行動は会話だろう。会話によって、自分が欲しい情報と相手が欲しい情報を交換していると考えることができる。つまり言葉の物々交換である。ところで会話の中には重要な情報が含まれていないものがある。挨拶だ。「おはよう」と言えば、相手も「おはよう」とかえしてくれることを私たちは知っている。それを毎日しているわけだが、よく考えると、おはようという言葉の中には何も重要な情報は含まれていない。いくらひっくり返してみても、その言葉の中には価値のある情報なんてないのだ。しかし挨拶をまったくしないという社会は存在しないと思われる。重要な情報のやり取りはなくても、人間は挨拶をせずにはいられないのだ。それだけ挨拶は重要な行為なのだということがわかる。

 挨拶には確かに有益な情報は含まれていないのだが、実際には相手との関係を強化するという大事な役目が備わっている。挨拶をすることで、相手との関係が円滑になる。挨拶の役割はそれ以上でもそれ以下でもない。あなたは私の敵ではないですよ。あなたは赤の他人ではないですよ。ということを再確認するために挨拶はあるのだ。それは情報を交換することよりも大切なことだ。このような人間関係の強化こそが挨拶の役目なのだ。

 同じことが、他の交換行動にも見られる。例えば知り合いと酒を飲みに行ったとしよう。相手に酒をついであげれば、お返しに相手は同じビールの瓶をとって、今度は酒を注いでくれるだろう。酒を注ぎあうという行為は有益なものを交換するという観点では完全に無駄な行為としか映らない。自分のビールを相手に注いであげて、相手のビール(しばしば、まったく同じビールであることが多い)を注いでもらうのだから、何も交換していないことに等しい。飲みたい分だけを自分で注いでしまう方がよっぽど効率的だ。しかし自分にビールを注いでしまってはいけないのだ。なぜなら、ビールを注ぐという行為は相手のビールを飲みたいからではなくて、相手との関係を強化するためにビールを注いでいるからだ。そのビールが美味しいとかまずいとかは関係がない。ビールではなくてジュースだっていい。交換した「モノ」ではなく、交換したという「行為」が大事なのだ。ここにも交換行動の本質が見て取れる。それは他のモノを交換するときでも同じだ。年賀状やお歳暮お中元、誕生日プレゼントなど、世の中は贈り物であふれている。贈り物を贈り、その返礼を受け取る。そのようなことで人間同士、または集団同士の関係が強化されていく。

 この交換というメカニズムの背後には実はお返しをしなくてはいけないという負い目が隠されていると「贈与論」でマルセル・モースという人が言っている。この負い目というものは、ほとんど普遍的な価値観だ。おそらく負い目を感じない人間社会というものは存在していない。市場経済や資本主義がない社会は存在できるから、それがなくても人間社会は機能するが、交換行動をいっさいせずに他者から完全に孤立した人間というものは、存在しない。だから、経済の議論をするためには、市場経済や資本主義を否定して、資本主義や市場経済が当たり前だという常識から自由になることは可能でも、交換行動を否定することはできないのだ。むしろ、そのような視点に立つことによって、初めて市場経済や貨幣経済の弊害、つまり本来の交換行動では強化されるはずの人間関係が壊されているということを知ることができる。貨幣という特異な存在によってすべての価値観が一元化されることで、拝金主義を助長され、モラルの低下を招くといったことがわかってくるのだ。

 ここで重要なことは何か?それは常識を疑うと同時に、物事の本質を否定してはいけないということだ。経済の話では、資本主義や市場経済が当たり前の世界に生きている我々にとっては、資本主義や市場経済が常識であり、それを否定した議論など意味がないと思いがちだ。しかし、実際には、資本主義や市場経済システムなどなくても、人間は生きていけるのだから、それを否定することこそが、現代の常識を乗り越えた有益な議論ができるということになる。それでは、否定してはいけない経済の本質とは、一体何なのか?返礼をしなくてはいけないと感じる「負い目」という感情であり、人間関係を強化するための交換行動である。それらを否定することは、人間であることを否定することに他ならない。だから、経済の本質である交換行動を否定した議論は意味のないことなのだ。常識にとらわれず多様な視点で議論すべきだが、本質を無視した議論はするべきではないというのは、そういうことである。そのような観点から見ると堀江氏の意見には共同体が持っている本質を否定しているように見える。そこが問題なのだ。

 さて、そういうことで、こっから今度こそ本題に入ろうと思ったのだが、書いていたら疲れたので今回の文章はここで止めておきたい。実際にはある程度文章は書けているのだが、まだ最後まで書き終わっていないことと、話がぐじゃぐじゃで自分でも何がいいたいのかわかっていないこと、それにあまり長い文章をアップしても読んでもらえないだろうということを考えて、当初は「前編」「後編」にするつもりだったのだが、ここまで書いてきて旧に計画を変更しようと思いついた。なので「前編」「中編」「後編」にしたい。そういうことで、堀江氏への反論を期待して読んでくださった方が、もし仮にいたとしたら申し訳ありません。次回こそ本題に入るので、もう少し待ってください。はやく自分の考えをまとめて、続きはなるべく早く書きたいと思っていますのでよろしくお願いします。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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