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アプリ制作がんばってます

やっとお絵描きアプリが完成に近づいてきた。といっても、まだ解決していない問題がいくつかあって、いつ完成するかはまったく未定なんだけど。。。とりあえず、自分的には結構いい感じに出来てきた。
このブログの前回のエントリーで紹介した時は、升目が荒かったんだけど、それだと単純な形しか描けないから、升目をもう少し細かくして升目の数を多くしてみた。

で、ネットで見つけた写真を取り込んでドットアートを作ってみた。なんで、この写真を選んだのかということに関してはノーコメント。別に深い理由はまったくない。↓

DotArtアプリ1




この写真を下絵にして升目に色を塗っていく。升目を細かくしたので画面を拡大できるようにした。↓

DotArtアプリ2




色を変更する画面は前とほとんど同じ。まだ改良の余地がありそうな気が。↓。

DotArtアプリ5




で、こんな感じに仕上がる。↓

DotArtアプリ3




これが設定画面。ファイル名と写真を変更できる。あと、升目の形は正方形か円が選べるようにした。ついでに升目の線の色もグレースケールで変更できるようにした。↓

DotArtアプリ6




これがファイルを保存したり開いたりする画面。前回の時はボタンだけで実際は保存とか出来なかったんだけど、今回はファイルを保存したり開いたりできるようにしてある。ただ、開けるファイルは一つだけで、開くファイルを選んだりすることはまだできない。


DotArtアプリ4



こっちは升目の形を円形にしたところ。

DotArtアプリ7



ということで、結構完成に近づいていて、自分的にはちょっとうれしい。本当は半年ぐらいかかると思っていたのに、1ヶ月程度でここまで出来ちゃったので感激している。もちろん俺が頭いいんじゃなくて、Objective-Cというこのプログラム言語が簡単に習得できる言語で、しかも使いやすいってことなんだけどね。それに、このプログラムを作るソフトも便利機能満載だし。

ただ、問題はこっからのような気が。。。ファイルを開く画面で、できればギャラリーのように描いた絵を並べておいて、絵をクリックしたら、その絵が開くというようなものを作りたかったんだけど、サムネイルにした絵を並べるのはちょっと難しそう。なのでテーブルビューにファイル名と絵を並べようかなって思っているんだけど、それすらも少し難しそう。ということで、この2、3日、テーブルビューとかを勉強しているんだけど、なんか、面白くないし、はかどらない。というか、そもそもロード画面というかロードの仕方というか、そこらへんの構造をどうしたらいいのかっていうことが自分でもはっきりイメージできていないのから何をどう勉強したらいいかもわからずにいる。うーん。困った。。。


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今、作っているアプリ

ブログを書かないといけないと思いつつ、またもや文章が書けない日々が続いていた。今回はツイッターをやりすぎて長文が書けなくなったという理由ではない。そうではなくて、頭が理系モードになってしまっていたから書けなかったのだと思う。先月、経済学の本とかを(入門書ばかりだが)片っ端から読んでいて、頭が経済脳になっていた。で、7月はプログラミングの方が調子でてきて、プログラムのことばかり考えていた。経済学もプログラミングも、ある意味答えのある学問だ。私はこういう答えのある学問を理系モードの学問だと考えている。よく理系と文系の違いは実証主義的かどうかだとか、反証可能かどうかなどというもっともらしいことをとうとうと述べている理系の先生がいるが、理系と文系の違いとはそういう違いではなくて、世の中の様々な現象や出来事を説明しようとするかどうかだと思うのだ。世界を説明しようとする姿勢があれば理系モードであり、解釈しようと試みるのが文系モードだということだ。例えば、経済学だったら、経済活動の裏に何らかの法則があると仮定して、その法則を探して経済活動がなぜそのような動きになるのかということを説明しようと試みる。そこに科学的姿勢が見て取れる。一方、芸術作品を鑑賞するとき、我々は絵画や音楽の裏側に何らかの法則を探し求めているわけではない。そうではなくて作品をいろいろな角度から吟味し堪能する。芸術作品に限らず、評論などでも、答えのない問いをああでもない、こうでもないと様々な視点で解釈し、そのような解釈を繰り返すことで、新しい見方で答えのない問いを理解しようと試みる。そこには唯一の答えがあるわけではないし、もちろん説明を求めているわけではない。むしろ答えのない問いを楽しんでいるのだ。それは芸術作品を楽しむ姿勢と同じであろう。このような姿勢が文系モードの姿勢だと思う。

だからオカルトであろうと科学であろうと、世の中を説明しようとする姿勢としてはどちらも科学的理系モードということになる。例えば、Xファイルというドラマのモルダー捜査官は科学で説明できない現象を認めているからオカルト的人間だと思っている人がいるかもしれない。しかし、実は、宇宙人の存在や霊魂の存在を認めることで、論理的に説明しようと試みる姿勢は十分、科学的であり理系人間の典型だといっていいだろう。

まあ、詳しいことは、また今度違うところで述べたいと思うのだが、ようするに頭が理系モードになってしまっていたため、なんとなく文章を書くのが億劫になってしまっていた。理系モードだと、唯一の答えばかりを追い求めてしまって、面白い文章が書けないからだ。と長々と言い訳じみたことを書いてしまったが、あまりも長いことエントリーをアップしていなかったら、ブログのトップページに広告が勝手に入ってしまい見苦しいので、がんばって文章を書くことにした。といっても、最近プログラミングのことで頭が一杯なので、面白いネタを書けそうにない。仕方がないので、私が作っているプログラムなどに興味を持つ人はあまりいないと思うが、とりあえず今作っているプログラムを紹介したい。まだプログラムを習い始めて半年だし、全部独学なので、あんまりすごいものは作れていないのだが、自分的にはよくがんばったなーってちょっと感動しているので、プログラミングとかに詳しい人は、さらっと流してください。

で、アプリなんだけど、実はついこの前まで、ひたすら本を読んで勉強していた。だからあんまり面白くなかった。まあそこそこ面白いんだけど、やっぱり決められたことを、書いていても面白くない。それが数週間前に、なんとなく自分で何かを作りたいと思い、勢いでボールゲームを作ってみた。


ボールゲーム



まだまだ欠陥だらけのゲームもどきなんだけど、それでもいろいろなテクニックを使ったので、自分的には楽しかった。で、気をよくして、半年前にアイデアは浮かんでいたドット絵のアプリを本格的に作ろうと思って、作ってみたら、結構いい感じに作れた。まだ開発途中なので、もう少し機能を付け加えるし、他のドット絵を書くアプリとの差別化も図らないといけないのだけど、とりあえずベースになる部分はこんな感じかなーって思っている。


アプリ画像1



この画面がドット絵を描く画面。下に並んでいる色を選んで、ドットを叩いていき色を塗っていく。


アプリ画像2



で、この画面が新しい色を作る画面。ここで作っては、最初の画面に戻って、ドット絵を仕上げていく。


アプリ画像4



ドット絵が描けたらこの画面で保存したり写真に撮ったりできる。まだ保存はできないが。。。


アプリ画像3



で、これが撮った写真を、iPhoneに標準装備されているアルバムで写真を見ているところ。

まあ、とりあえず、こんな感じのアプリを作っています。たいしたアプリに見えないと思うけど、画面を切り替えたときに変数のやり取りをするのとかは、簡単そうで実は結構大変だったのです。完成までにはまだまだ時間がかかりそうだけど、ここまで作るのに半年ぐらいかかるかと思ったら、2週間程度で作れてしまったので、あと数ヶ月もがんばったら、もう少しましなアプリになるかなーっと一人で期待しています。ただやっぱり独学だと、基本的な部分とかがスポーンと抜け落ちたりしていて、つらいんだけどね。とりあえず、今はドット絵を保存できるようにしたい。それが今の目標です。あと、今回は個人的な内容で、あんまり面白くない話ですいません。


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おわび

私のブログに来てくださってありがとうございます。
最近、ちょっといろいろあって、更新が滞ってしまっています。
なるべく早く、遅くとも今週末ぐらいまでには、再開したいと思っています。
次回からはもう少し短い文章でこつこつと書きたいと思っています。
予定は未定なので、また牛のよだれのような長文を書いてしまうかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。

岡本太郎がすごい

 前回のエントリーで、岡本太郎が「抽象画なら人種も国籍も超えることができる」と考えた点が面白かったと述べた。ただそれがなぜ面白いと思ったのかということを、上手く説明できていなかったような気がする。実は、岡本がこのようなことを言ったのには理由があって、当時、岡本が留学していたパリには、日本人留学生の絵描きが何人かいたらしい。ただ、彼らは西洋画を学んでそれを上手くまねて描いていたに過ぎず、岡本の目指していたものと違っていた。岡本は彼らのようにはなりたくなかった。ウィキペディアには次のように書かれている。

太郎は以前から感じていた「何のために絵を描くのか」といった美や芸術、自己に対する根本的な問いや、既成芸術への疑念を追求すべく、マルセル・モースのもとで、哲学・社会学・精神病理学・民俗学など、インスピレーションを得るべく絵とは直截関わりのない学問を学んだ。

(ウィキペディア)


 つまり岡本が「抽象画なら人種も国籍も超えることができる」と考えたことの裏には実はすごく深い理由があったと推察できる。そしてこのような留学時の様々な葛藤は他の留学生にも見ることができた。例えば遠藤周作の留学体験の話である。といっても、私は文学にも疎いので、遠藤の話を知ったのは佐伯啓思(著)「市民とは誰か」という本がネタ本なのだが。。。



 この本のあとがきに遠藤周作の「留学」という作品が取り上げられていた。佐伯さんによると、この「留学」という作品はパリでサド侯爵について研究する日本人留学生の話だという。この主人公は精神的に疲れきった一人の日本人留学生に出会う。彼はほかの日本人留学生のようにヨーロッパの学問の一部だけを猿真似し、そのような輸入学問を日本に持ち帰って成功する器用な輩にはなれなかった。ヨーロッパの歴史や文化は知れば知るほど奥が深くて、それを学ぶだけで一生を終えてしまうぐらい深遠なものだ。だから数年ヨーロッパにいただけでヨーロッパを知ったつもりになることなんてできない。結局この留学生は日本に帰ってしまうらしい。その後、主人公も同じようなことを考えるようになっていく。主人公の最初の仮説はサド侯爵の作品の中にキリスト教の処女性が関係しているというようなことだったらしいのだが、ヨーロッパ文化の途方もない長い歴史の中で異邦人としての日本人があえてヨーロッパ文化が生み出したサド侯爵を研究する理由がわからなくなってくる。「留学」という作品はだいたいこういう話らしい。で、佐伯さんによると、この話は遠藤のパリの留学体験がもとになっているのだという。このようなことが、佐伯さんの「市民とは誰か」という本のあとがきに書かれていた。その本が手元になくて記憶を頼りに書いているので、間違っている箇所もあるかもしれないが、大体このようなことが書かれていたと思う。
 
 私はこのあとがきをアメリカで勉強していたときに読んでとても感動した。当時、留学している理由がわからなくなりかけていたときで、まさしく同じような感覚に襲われていたからだ。科学系の学問のように客観的な学問なら西洋も東洋もないわけだが、人文系は文化や歴史を無視して猿真似などできない。人類学は社会科学の側面もあるのだが人文系の部分も残っているわけで、日本人である自分がアメリカ人類学や社会思想の理論を猿真似するだけでいいのかということを長いこと悩んでいた。そんなときに、この本のあとがきを読んで、同じようなことに悩んでいた日本人留学生が遠い昔にヨーロッパにいたということを知っただけで、自分が救われた気がした。

 こういう経験があったから、岡本太郎がパリに留学したとき、当時パリにいた他の日本人画家のように西洋絵画を猿真似して数年したら日本に帰って成功するという道をあえて選ばなかったことに共感を覚えたわけで、さらに文化や歴史が関係しない抽象画を岡本が選んだ理由というのがどこか理解できたような気がしたのだ。これが前回、岡本が抽象画を選んだことに私が興味をもった理由だ。

 さて、実は先々週、岡本太郎がマイブームになっていたので、PHP新書の『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』という本を読んでみた。先々週の土曜日の「美の巨人たち」も太陽の塔が紹介されていたので、万博と太陽の塔に関しては次回まとめて感想を書きたいのだが、このPHP新書『岡本太郎』にいろいろ面白い記述があったので少し紹介しておきたい。



 一つは岡本太郎の思想的スタンスだ。太陽の塔はモダニズムを標榜する万博に対するアンチテーゼとして建てられたというのはよく言われることだ。しかし、実は岡本は、モダニズムだけでなく、日本の伝統主義に対してもNOを突きつけていたのだという。つまり産業革命がもたらした近代主義でもなく、かといって弥生時代以来の農耕文化がもたらした日本の伝統文化といわれるものでもない、もっとたくましくて人間らしい精神、それを狩猟採集社会であった縄文文化に求めたのだという。この点に関しては、次回もう少し詳しく紹介したい。

 興味深かったもう一つの点は岡本太郎が晩年テレビのバラエティ番組に出るようになった理由である。「岡本太郎」の著者の平野さんは次のような解釈をしている。

 芸術で勝ち、縄文で勝ち、万博で勝った。そして敵がいなくなった。
 闘う相手がいなければ前衛は成り立たない。しかも自分で前衛の存在証明を吹っ飛ばしてしまった。啓蒙するテーマがなくなった。
(中略)
 しかもこの状況を放置すれば、今度は自分自身が権威になってしまう。下手をすれば教祖に祭り上げられてしまうかもしれない。想像を絶する絶望の中で、太郎さんはマイナスの道を選ぶ。
 それが「仮面」をかぶることだった。ぼくはそう確信する。
 あとは誤解されるしかない。バカを装う道しか残されていないのだ。そう考えたのではないか。テレビのバラエティ番組で道化を演じたのも、雑誌の人生相談でくだらない質問に答えたのも、すべては誤解されるためだった。その誤解によって自分自身を引き裂くために。

『岡本太郎』 (237-238ページ)


 平野さんの解釈が正しいのかどうかはわからない。ただ非常に興味深い解釈だ。たわけものを演じた織田信長や女遊びに興じた大石内蔵助など大きな目標のために自分の本心を隠すという話はよく聞くし、彼らも十分尊敬できる存在なのだが、岡本太郎はそれ以上に興味深い。なぜなら岡本の場合、目標のために周りを欺くのではなくて、目標を達成した後に、仮面をかぶったからだ。

 岡本の思想の一つは反権威だ。だから彼は常に権威と闘わなくてはいけなかった。しかし、闘う相手がいなくなったとき、自分自身が権威になるか、権威としての自分を否定するかの二つの道しか残されていなかった。アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の正義のために戦っていた魔法少女がいつの間にか魔女になってしまうように、権威や権力と戦っていたはずの多くの進歩的知識人たちはいつのまにか権威側・権力側に立ってしまっていた。もちろん、これは日本に限ったことではないだろう。反権威・反権力を掲げる世界中の左翼系知識人はその内部に常に矛盾をかかえた存在であるはずだ。なぜなら否定するはずの権威の側に立たなければ、権威を否定するだけの影響力を得ることができないのだから、彼らの目標は権威を否定すると同時に否定するべき権威を手に入れなくてはいけなかった。。。そのように考えると、岡本がもし権威に取り込まれることを回避するために意図的に道化の役を買って出たとしたならば、それは世界的に見ても、とてつもなくすごいことだったということになるだろう。


関連エントリー
「美の巨人たち」の岡本太郎特集が面白かった




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自然と文明

 先日サンデーモーニングで「考・震災」という特集をしていたのだが、その中で生命誌(?)を研究している女性(誰かが中村桂子さんと呼んでいた気がしたが勘違いかも。。。)が興味深い話をしていた。なお、この話は震災対策としてはまったく役に立たない話なので、復興や災害対策の議論とは切り離して読んでください。

 今回の震災では多くの人が「想定外」という単語を使っていた。確かに今回の大震災は未曾有の災害であり、誰も想定していなかった規模の大災害であった。だから想定外とか未曾有という単語が使われているのは決して責任逃れとか言い訳ではなく仕方のないことだったと思う。

 ただ、そのような責任論などの議論とは別に、この「考・震災」の女性は次のような問いを発していた。そもそも自然災害に想定できる範囲というものが果たしてあるのだろうか?もちろん災害対策のためには、なんらかの基準を想定するのは必要なことである。しかし、この「想定外」という単語には、人間が自然をコントロールできるという考えが根底にあったのではないか。自然に打ち勝つという考え自体が人間のうぬぼれだったのではないだろうか、と。このような話をされていた。この番組の視聴者が彼女の言葉をどのように受け止めたのかはわからない。しかし、私は不意にこのようなことを言われてはっとした。彼女の考えが斬新だったわけではない。このような考えは日本ではよく知られていたことだ。それにもかかわらず私は震災後このような考えをすることを忘れてしまっていた。そして同じように日本のメディアでそのようなことを言う人はこの一ヶ月いなかったように思うのだ。

 日本は高度に発達した科学技術とアニミズム的宗教観が渾然一体となっている社会だとよく言われる。例えば何かの本で指摘されていたが、日本では飛行機が飛び交う空港に神社があったりする。日本の都市部を見ていると機械文明にどっぷり浸かった社会に見えてしまうが、実は大都市の真ん中に木がうっそうと茂る神社があったり、道祖神やお地蔵さんが道路の片隅にひっそりと立っていたりと、実はアニミズム的風景はいたるところに見られる。神社にいると多くのビジネスマンが訪れるのを見ることができる。日本人は科学技術大国でありながら、たぶん精神的にはそのような物質文明一辺倒を否定する面も持ちあわせているのではないかと思う。

 実際、科学技術に対する懐疑の念はアニメやRPGなどではよく見かけるテーマだ。例えばジプリのアニメとかファイナルファンタジーシリーズなどには自然に対する畏敬の念や物質文明や機械文明に大きく依存することへの警鐘などが含まれている。銀河鉄道999には自然派と科学派の二つに分かれた文明が惑星を二つに分けてしまったという話がある。日本ほどではないが、ハリウッド映画でも同じようなメッセージを見ることがある。特にパニック映画などには自然の脅威などのメッセージが込められていることが多い。例えば「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」という映画で、主人公達が急速に広がる超大寒波から命からがら図書館に逃げ込むシーンがある。その図書館で本を片っ端から焼いて暖をとるわけだが、そのシーンにこの映画の重要なメッセージが込められている。本には有史以来の人間の英知がすべて詰まっている。だから、その本が保管されている図書館は人間が築き上げてきた文明そのものなのだ。その図書館に立てこもった主人公たちが、大寒波という自然の圧倒的な力の前では、人類の英知の結晶である本を焼くことしかできなかった。人類の浅知恵など自然の脅威の前には赤子同然だということを見せ付けてくれる。あ、ちなみに、「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」はマジで面白くないので注意してください。ということで、話を戻そう。



 さて今見てきたように自然と文明はしばしば対立した概念として語られることが多かった。特に科学技術を発達させてきた西洋文明は自然と対峙して発達してきたと考えられてきた。西洋文明そして科学の発展に大きな影響を与えてきたキリスト教は苛酷な自然環境の下で発達してきたのはよく知られている。一方でアニミズム的信仰を持っている日本などの非西洋社会は自然とともに生きてきたといわれる。そこでは自然は破壊をもたらすとともに、自然の恵みを与えてくれるなくてはならない存在だった。つまり自然から生きる術を奪い取らないといけない西洋と自然から恵みを与えられる非西洋ということになるだろうか。

 過酷な自然によって科学が発達してきたということに関連して、今朝の朝日新聞に次のような社説に興味深い記述があったので、すこし引用してみよう。

 自然災害は、人と文明に大きな変化を促すきっかけになることがある。阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター長の河田惠昭(よしあき)さんが著書「津波災害」で二つの例を紹介する。

 紀元前2000年ごろから同1400年ごろ、地中海クレタ島などで栄えたミノア文明は大噴火で発生した大津波が原因の一つとなって衰退したという。

 1755年、リスボンを大津波が襲った。死者6万2千人から9万人。列強の中でポルトガルの弱体化が進んだ。

 ただ、この経験が、神学的な世界観を転換させ、近代的、自然科学的な思考を育む契機になったという指摘もある。

「岐路に立つ電力文明―持続可能な暮らしを求めて」
2011年4月4日 朝日新聞社説



 つまり、大災害が自然科学的な志向を育む契機になったというのだ。確かに西洋文明は過酷な自然環境を克服するために自然科学的思考の基礎を発達させてきたと思う。しかし私は大災害が科学的な思考を育んだとは思えない。なぜなら科学が対処できるのは予測可能な自然の脅威であって、今回のような予測不可能な大災害ではないと思うからだ。

 自然科学的な思考の原点は因果律の探求にある。二つの事象が連続して起きたときに、その間に因果関係があると想定するのは人間だけではない。動物の段階でもそのような因果関係を学習し、次に同じような危機的状況が生じたらすぐに対処できるようにしている。因果関係を想定するのに科学的根拠などいらない。直接関係のない現象であっても、二つの現象が連続して起きたら、そこに因果関係があるとまずは考えるのが動物なのだ。そしてそのような連続した現象が何度も起これば、その因果関係の記憶はどんどん強化されていく。そして、このような感覚が人類に呪術や宗教などをもたらした。

 人類学の一年生のクラスで教えられることだが、大リーグの選手はお守りを持っていたりジンクスを非常に重視しているという。勝負ごとやギャンブルなどでは、お守りやジンクスが重要になってくるわけだが、その理由はこの因果律を求める人間の性向に関係している。何かの服を着たときにたまたま勝負に勝てば、その服が幸運の服になってしまう。たまたま何かの動作をしたとき、いいことが起きれば、その動作が重要になってくる。パチンコ屋に行けば、このような願掛けの動作をいろいろ見ることができるだろう。

 私がパチンコを打っていたときにも、同じようにいろいろな動作を試していた。例えば、リーチが来たら、ひざをさするとか、さりげなく手をあわせるとか、タバコの箱を3回まわすとか、さまざまなことをしていた。そのような事をしていて、たまたま当たりがくると、次のリーチのときも同じ動作をする。しかし、もちろん、そのときは当たりは来ない。だから他の動作も組み合わせて試してみる。そうして、当たりがくると、今度はその一連の動作がすべて必要な動作ということになって、次のリーチの時にはその動作をすべてする。

 まあ、そういう感じで、あたりを引くための動作は、いろいろな動作を組み合わせていくから、どんどん複雑な動作になっていく。もちろんリーチの間にできる動作というのは時間的制約もあるし、あまりにも奇妙な動作をしていたら店から追い出されるので、目立たない動作でなければならない。それに、あまりにも複雑な動作は実際疲れる。だから、ある程度複雑になったところで止まるわけだが、そのような複雑な動作が宗教的儀礼の原初的な形態だったのかもしれないと、当時パチンコを打ちながら漠然と考えていた。もともとは単純な動作だったものが、効果がないと他の動作も組み合わせていくというようなことの繰り返して、最終的にはとても複雑な工程を踏むようになってのではないかと思ったりしたものだ。

 儀礼の話はどこまで正しいかはわからないのだが、呪術が発達した原因は人間が因果律を予測しがちな生き物だということと密接に関係していたのは確かだろう。有名な人類学者のジェームズ・フレーザーは次のように考えた。人間は最初、間違った因果律を見出し、呪術を発達させてきた。それがいつしか宗教になり、最終的には、きちんとした因果律を研究する科学が発達した。フレーザーの単純な進化論的見方は問題があるが、科学も呪術も因果律を捜し求める人間の性向という同じ原理で発達してきたことを発見したのは卓見であった。

 さて、そうであるならば、自然科学的な思考が発達する土壌は因果律がはっきりしているところということになる。つまり予測可能な自然現象が見出される場所でなければならない。ナイル川の氾濫がエジプト文明を作ったとはよく言われることだが、これは毎年同じ時期に氾濫するから文明を作ったのであって、この氾濫(どの程度の規模の氾濫なのかは知らないが)が不規則に襲う大災害であったならば、おそらく文明の発達はなかったと思う。つまり自然が過酷か過酷でないかということが、自然を克服するための自然科学の発達を促した要因ではなく、予測可能か可能でないかが重要なのだ。だから、今回の大震災のように予測不可能な大災害に直面した人間は科学思考よりも自然への畏怖や自然の神に対する信仰を強くするのではないかと思う。すくなくとも現代科学が発達するまでは、そのような複雑な現象に対して何かをしようなどとは思わなかっただろう。

 もちろん、大災害においても、いろいろな智恵が語り継がれていたようだ。今回の大津波に関しては先人の智恵が生かされたというようなことがテレビで紹介されていた。例えば、地震のあとに井戸の様子を確認しろということが言われていたとか、船で漁をしているときに津波が来たらなるべく沖に逃げろという話などである。このような昔からの智恵はとても重要だし、長い年月をかけて文化や慣習などに取り込まれていく。しかし、そのような智恵は科学的理論として確立された体系化された知識ではなく、断片的な知識でしかない。なぜなら、科学では検証を必要とするが、不規則に襲ってくる大災害に対する智恵は、その智恵を検証することが困難だからだ。語りつがれていくのは断片化した智恵と、村を襲った大災害の記憶だけだろう。そのような大災害の記憶は自然への畏敬の念を強め、アニミズム的信仰を強化していくのではないだろうか。

 さて最初にお断りしたように、この大震災とは切り離して話をさせてもらった。しかし、それでも今こんな話をして何になるという人もいるだろう。今は復興や今後の災害対策をするべきであって、自然と文明などという2項対立の言葉遊びをしているときではないと思うかもしれない。それは正論だ。こんな話をしていても、復興にはまったく役に立たないし、たぶん今、避難所で苦労されていらっしゃる方達にとってはどうでもいい話だ。

 しかし、長期的にはやはり人間は自然との接し方を考えていくべきだとは思う。自然の脅威を知ったからといって地震や津波が防げるわけではもちろんない。いまさらアニミズム信仰を発達させようなんて考えているわけでもない。大災害に対処していくためには、これからもさらなる技術革新をしていかなければいけないのは確かだ。しかし、それと同時に自然と共生していくのはどういうことかということも考えていくべきだろう。少なくとも平静を取り戻した日本人は将来そう考えるだろうと思う。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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