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「日本的ソーシャルメディアの未来」を読んだ

 本の感想ばかりで恐縮なのだが、実はここ3日間ぐらい読んでいた『日本的ソーシャルメディアの未来』という本が結構面白かったので紹介したい。



この本はソーシャルメディア・セミナーの記録らしくて分量は多くない。俺みたいに読むのが遅い人間でも数時間もあれば読めちゃうんじゃないかと思う。ちなみにソーシャルメディア・セミナーってのは、

「ニコニコ動画やツイッター、ユーストリームといった「ソーシャルメディア」の普及を社会インフラの大きな変化としてとらえ、毎回ひとつのテーマを取り上げて対話形式で解説する連続講義



なのだそうだ。詳しくはソーシャルメディアのHPを覗いてみてください。

http://socialmediaseminar.jp/ 

 と、ここまで書いて、このHPに行ってみて気がついたんだけど、この本のもとになったセミナーの動画アップされてるし。。。。。。音声だけみたいだけどね。でも、この回のセミナーでは図表とかを多用しているわけではないから、音声だけで十分だろうなー。ここで動画見れるんだったら本なんて買う必要なんてなかったなー。1500円は高かったなーと、少し後悔。まあ、買ってしまったものは仕方ないか。今度から気をつけよう。ということで、もし興味があったら、まずはソーシャルメディアのHPに行って動画を見たらいいのではないかと思います。第二回「集合知をアーキテクチャって、何?」の動画です。

 さて、そういうことでこの本の紹介にうつりたい。著者の濱野智史という人は「アーキテクチャの生態系」という本を出していて、結構興味深い話をしているんだけど、この「日本的ソーシャルメディアの未来」では「アーキテクチャの生態系」の内容の一部に焦点を当てている。だから「アーキテクチャの生態系」の本を読んだ人にとっては、この「日本的ソーシャルメディアの未来」という本はあまり新鮮味はないかもしれない。しかし論点が絞られていて分量も多くない上にわかりやすく解説してくれているので、とても読みやすいとは思う。

 論点を絞ったといっても、質問コーナーとかでは、日本社会論とかいろいろ面白い方向に話を持っていっているので簡単にまとめることはできないんだけど、そこらへんは動画を見たり本を読んだりしてください。ここでは、この本の一番のポイントだけを紹介したい。それは、ソーシャルメディアの登場によって社会がどう変わってきたかという話だ。それを理解するためにコミュニティとソサエティの違いに着目しているわけだが、その分類を使って明らかになったことは、ソサエティが中心だった近代社会から、コミュニティ志向が強いソーシャルメディアの社会に変化してきたというのが、この本のメインポイントだ。

 この議論を理解するためには、まずコミュニティとソサエティの違いを確認しておく必要がある。コミュニティとソサエティの違いというのはいろいろあるわけだが、大雑把にいうと大体次のような違いが指摘できるという。

 コミュニティは共同体と呼ばれるもので、規模は比較的小さく、共同体内部のメンバーはお互いを把握していることが多い。また共同体のメンバーは同じような価値観を共有し、生活リズムや習慣など、多くのものを共有していることが多く、仲間意識も強い。

 一方、ソサエティというのは、生きかたも価値観も異なる人たちの集まりであり、グループの規模も大きく、メンバー同士はお互いを把握できていない。生活習慣もばらばらで、違ったリズムで生活をしていたりする。このような違いがコミュニティとソサエティの違いだ。もちろん厳格な区別はできないのだが、田舎のムラ社会みたいのがコミュニティで、都市がソサエティという感じらしい。

 さて、このコミュニティとソサエティの違いで濱野氏が注目している点は「時間感覚」である。なぜならコミュニティとソサエティでは時間の捉え方が違うからだ。コミュニティでは生活リズムが一緒だと書いた。どういうことかというと、コミュニティのメンバーは大体同じ職業である。つまり農民のコミュニティとか漁師のコミュニティとか。。。同じような生活を営んでいるから、同じような時間感覚を持っている。生活パターンが大体同じだから、朝起きてから夜寝るまで同じようなリズムで生活しているということだ。だから昼飯食べたら会おうと言えば、いつごろかきちんと時間を決めなくても分かり合える。言い方をかえると、「同じ時間を共有している」といえるだろう。つまり時計というものが必要ないのだ。なあなあで相手の考えていることがわかるし、いつ会いましょうとかいう約束も、時計がなくてもなんとかなるということだ。

 それに対して、ソサエティの方では多様な職業の人たちがいる。普通の会社員と水商売の女の人と新聞配達員では生活パターンがまるっきり違う。だから、夕飯を一緒に食べましょうといっても何時に会うのかわからない。起きる時間も寝る時間も仕事をしている時間も全部違うから当たり前だ。そこでは時間の流れ方が人によって違うのだ。そのような異なった生活リズムを持っている人たちの間で会う約束をするにはどうしたらいいだろうか?誰が見ても同じ、客観的な時間尺度を採用するしかない。つまり時計が刻む時間である。

 ここまでをまとめると、次のようになるだろう。客観的な時間を必要とせず、時間を共有している人たちの集まりがコミュニティであり、時間を共有していないので客観的な時間尺度を必要とする人たちの集まりがソサエティということだ。

 歴史的にはコミュニティからソサエティに変化してきた。前近代ではコミュニティがほとんどだった。血縁集団と地縁集団が社会の基本だったからだ。もちろん都市の発達は前近代に起こっているわけだが、都市部以外のほとんどの地域ではコミュニティが社会組織の基本的単位であっただろう。それが、近代になって、社会はソサエティの方向に大きく動いていった。都市部が発達し、様々な職業が作り出され、生活は多様化していった。それを可能にしたのが時計であった。

 さてここまでは社会学ではよく知られていることらしいのだが、濱野氏の理論で興味深いのは、ソーシャルメディア以降の時間の共有の仕方に着目した点だ。ソーシャルメディアを使っている人たちはソサエティに属する人たちなのだが、実はソーシャルメディアによってコミュニティのメンバーのように時間を共有しているという感覚を得ているのだという。つまり時間を共有することによってソーシャルメディアでコミュニティのような場が作り出されるようになったというのだ。ここがこの本のキモにあたる部分だ。

 ところで時間を共有している感覚でなぜコミュニティのような場が生じるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。しかしこれが誰でも経験したことがあると思う。例えば祭りやスポーツ観戦から勉強会やグループプロジェクトまで苦難をともにしたり同じ時間を共有すると強い一体感を感じる。これはコミュニティのような仲間意識を感じる場が形成されているからだ。前近代のコミュニティでは同質なるが故に同じ時間を共有していたわけだが、それとは逆のメカニズムが働いて、同じ時間を共有することによってコミュニティのような一体感を得ることも可能なのだ。

 さて、そういうことで時間を共有しているという感覚によってコミュニティメンバーの仲間意識を感じることができるわけだが、濱野氏によると、実はソーシャルメディアが発達する前にすでにそのような感覚を得ることができるツールが発達していたという。それがテレビなどのマスメディアだ。濱野氏は次のような指摘をしている。

 マスメディアというのは、まさに一億人レベルの巨大な動機的コミュニケーションを可能にする装置といえます。紅白歌合戦やワールドカップの試合を観るというのは、日本人全体がそれを共有しているという状態であって、まさに国民単位の同期的コミュニケーションなんですね。

 だから社会学では、近代以降の国民国家というのはこうしたマスメディアの機能によって、<ソサエティ>でありながら<コミュニティ>でもあるというような ーベネディクト・アンダーソンはこれを「想像の共同体」と呼んでいますー 状態を実現したと言われます。

 これが近代社会のややこしいところで、実際には<ソサエティ>として、複雑で多様な人々が集まっているのが国民国家成立移行の近代社会なのですが、なぜか日本人同士というだけで共同体のような意識を持つこともできるわけですね。

 一億人もいたら、普通は会ったこともないわけだし、まったく共有できる点なんてないはずなのに、それを支えているのが、これもやはり近代以降に成立したマスメディアという装置なのです。

(56-57ページ)


 さて、このようにマスメディアは同じ時間を共有するという感覚を大多数の人間達に与えることに成功したわけだが、マスメディアとソーシャルメディアの間には大きな違いがあり、それがソーシャルメディアが注目される理由になっている。それは何かというと、マスメディアでは同じ時間にテレビを見ないといけないという時間的制約があった。ビデオなどもあるが、生中継を見ることによって盛り上がるというのは、例えばワールドカップの状況をお思い起こせば明らかだろう。つまり自分の家で一人でテレビを見ていようと、どっかのレストランで大型のテレビを大人数の人たちと一緒に見ていようと、テレビ番組の時間を共有しているという感覚を得るためには、最低限、同じ時間にテレビの前にいないといけないということになる。そのような時間的制約からは逃れられないのだ。

 これに対して、ソーシャルメディアでは、この時間的制約もなくなった。濱野氏はツイッターとニコニコ動画を例に出しているが、ツイッターでは選択同期、ニコニコ動画では擬似同期によって、共有していないはずの時間を共有しているように感じることができてしまうところにソーシャルメディアのすごいところがあるのだという。

ということで、次回に続く。。。はず。



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『キュレーションの時代』を読んだ




 『キュレーションの時代』を読んだらすごく面白かった。著者の佐々木さんの本は結構好きなのだが、今回はいつも以上に面白かった。そういうことで、今日はこの本の要約というか内容をざっと紹介してみたい。「つながり」の情報革命が始まるという副題がついているように、この本はインターネットによって消費社会が変貌しつつあるということを述べた本である。しかしキュレーションという言葉は、なじみのある単語ではないと思う。少なくとも私は知らなかった。だから、SNSとかインターネットに関する本だろうということはわかっても、どういう話の本なのかということが他のSNS関連の本と比べると、いまいちピンとこないのではないだろうか。この本はフェイスブックやツイッターの活用といった個別のサービスの話をしているわけではないし、SNSに限った話でもない。もっと大きな視点でネットにおけるキュレーターの役割に着目し、これからはキュレーターが活躍するキュレーションの時代になるということを述べた本なのだ。それではキュレーターとかキュレーションとは一体何なのか?まずそこから説明したい。キュレーションやキュレーターの定義が書かれている部分をいくつか抜き出してみる。

キュレーターというのは、日本では博物館や美術館の「学芸員」の意味で使われています。世界中にあるさまざまな芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展として成り立たせる仕事。

「美術館やギャラリー、あるいは街中の倉庫など、場所を問わず、展覧会などの企画を立てて実現させる人の総称がキュレーターです。形式も展覧会に限らず、パフォーマンスなどのイベントや出版物という形を取ることもあります。『作品を選び、それらを何らかの方法で他者に見せる場を生み出す行為』を通じて、アートをめぐる新たな意味や解釈、『物語』を作り出す語り手であるといえるでしょう」(210-211ページ)


情報のノイズの海の中から、特定のコンテキストを付与することによって新たな情報を生み出すという存在。それがキュレーター。 (241ページ)


キュレーターの定義とは、収集し、選別し、そこに新たな意味づけを与えて、共有すること。収集される以前は膨大なノイズの海の中に漂う情報の断片でしかなかった存在が、キュレーターに拾い上げられることによって新たな意味を与えられ、別の価値をもって光り輝き始めます。(252ページ)


 これらのキュレーターの定義を見れば大体わかると思うが、つまり作品や情報に新たな価値を見出し、それを提示してくれる人たちのことをキュレーターと呼ぶ。さてこのようなキュレーターの存在を再確認したうえで、ネット上を眺めなおしてみると、ネット上には情報を発信する人と情報を消費する人以外に、実は作品や情報に新たな価値を見出し紹介する人(キュレーター)がいたことに気がつく。我々は、キュレーターが見つけ意味づけし提示してくれる情報に接することによって、新しい見方や、考え方、そして新しい分野の情報を得ることができるようになる。これが最近のネットでの情報の消費の仕方になっている。もちろん我々はどこかのキュレーターが見つけ出してきた情報を消費しているだけではない。我々もまたキュレーターとしてネット上の情報を再編成し意味を与え提示しているのだ。それはブログで長文をアップしている人だけに限らない。例えばツイッターで何かについて発言するという行為でも、情報を見つけ自分の考えを一緒に表明しているという点でキュレーションを行っていると考えていいだろう。つまり我々はキュレーターの影響を受けると同時に、我々もまたキュレーターとして自分の価値観や考え方を発信し他者に影響を及ぼしているのだ。

 このように一人ひとりが情報の消費者であると同時に、キュレーターとして情報を自分流に集めそこに意味を持たせて発信していく社会、それがこれからの時代であるキュレーションの時代だという。このような情報の新しい消費(消費と書いたが取得・活用といった意味)の時代になったというのが本書の結論だと思う。他にもインターネットのグローバル化における文化のあり方や、ネットでは情報の消費の仕方はタコツボ化してしまう危険はないのかなど、いくつか興味深い議論がなされているわけだが、大筋としては、80年代の記号消費から機能消費・つながり消費に変化してきた結果、今言ったようなキュレーションの時代になりつつあるという部分が本書で様々な例を挙げながら説明された部分だ。

 そういうことで、その80年代からの流れを少し詳しく紹介したい。80年代まではよく言われるように大量消費社会であり記号消費社会だった。誰もがテレビや車など同じものを欲し、同じ夢を抱き同じ人生設計をし同じような生活を営み同じような家族をもって同じような一日を過ごし同じようなものを食べ同じようなテレビを見て同じような・・・。すべてが同じようなものに囲まれていた。それは多くの人が同じ価値観を共有できていたからだ。そして同じようなものに憧れていた。例えばベンツやロレックスなどは金持ちの象徴だっただろう。車なら走ればいいし、時計なら時を刻んでくれればいいのだが、そのような機能だけの道具では物足りなかった。現在ではブランド物にこだわらずに機能を重視して安くても使えればいいのだというようなことをいう若者も増えたらしいが、当時はブランドにこだわる人が多かった。ブランド物であれば何でもいいというような感じだった。商品の良し悪しではなく、ブランドというかネーミングに価値を見出していたのだ。ベンツに乗るのは車が必要だからではない。そうではなくて、「ベンツ」に乗るということが大事だった。つまりステータスシンボルとしてベンツに乗っていた。ロレックスをはめるのは金持ちに見えるからだ。このように、商品そのモノが持っている本来の機能ではなく、ブランドなど商品とは直接関係のない意味を記号と呼んでいる。ベンツやロレックスが買われるのは、だから商品の機能が必要で買うのではなくて、そのような記号を得るために(つまり金持ちであるということを見せたいために)高い商品を買われていたということになる。このような理由で買われる行為を記号消費という。ちなみに記号消費は商品などの実際のモノに限らない。例えば、洋楽を聴くということが、昔は「かっこいい」と思われていた。その時代、曲やメロディーが好きだから聞くのではなくて、洋楽を聴いているとかっこよく見えるから洋楽を無理して聞くという若者が結構いた。こういうも記号消費である。

 さて、このような記号を消費するためには、一つ大前提が必要になってくる。それは誰もが記号を理解できていないといけないということだ。高いお金を出してベンツに乗っていても、誰もそれが金持ちの乗る車だと解釈してくれなければ意味がないのだ。だから記号消費が成立するためには、すべての人が記号を同じように解釈できる価値観の共有が必要だった。そのような価値観の共有に大きな役割を果たしていたのがテレビやラジオ・雑誌などのマスメディアだった。これらの媒体によって共通の価値観が与えられ、すべての人が同じような夢を見、同じような人生設計をし、同じようなものを欲し、同じようなものを消費してきたのだ。このような同じ価値観をもつ人たちは大衆とひとくくりにされていたが、企業から見るとこのような大衆の存在は商売しやすい存在だった。同じ考えを持っているから、彼らの欲しているものも行動様式も予想がつきやすかったし、有名な雑誌や人気テレビ番組を多くの人が見るから、そこに宣伝すればよかった。一つのメッセージを目立つところで大々的に宣伝したらそれだけで多くの人が飛びついてきたのだ。

 しかし、90年代に入ると大衆が消失した。人間がいなくなったのではない。同じ価値観を持った集団が消失したのだ。それに代わって、多様な価値観をもった個人の集まりになった。その結果、大衆向けの広告は意味をなさなくなってきた。大々的に宣伝しても効果が期待できない。このような状況を加速させたのがインターネットの出現である。2000年代に入るとグーグルなどの検索連動型広告になり、さらにSNSなどを利用した口コミ広告に変化してきた。この口コミ広告がキュレーターの一つである。

 80年代と90年代以降ではもう一つ大きな変化が起こっている。それは他者とつながりを求める人たちが増えたということだ。以前は同じ価値観を共有したムラ社会的な世界だった。価値観が同じで同じような人生を歩んでいたため、レールから外れることは許されなかった。その息苦しさから逃げだしたいという願望が若者には強かった。それに対して、90年代以降になると若者の悩みは一転する。そこでは自分が他者から見られていないことに悩むようになる。社会から見られていない透明な存在であることに耐え切れずに犯罪を犯す若者が現れたりした。つまり以前のような社会の規範からの逃避ではなく、むしろ社会から見られていないことに不安を感じてしまうのだ。このような考え方の変化は消費形態の変化にも影響した。90年代以降、商品を購入する動機はその商品の記号の消費が目的ではなくなった。それに代わって二つの動機が生まれた。一つはその商品の機能が必要だから買うという消費の仕方。仕事場に行くのに車はどうしても必要だが、別に高い車でなくてもよくて、安全に走ればそれでいいという考え方だ。つまり機能消費である。そして、もう一つがつながり消費と呼ばれているものだ。社会学者の鈴木謙介氏が「わたしたち消費」と名付けているのだが、簡単に言ったら人とつながっていたいために消費する新しい消費形態である。詳しくは、昔だらだらと書いたブログのエントリーを読んでください。

『わたしたち消費』を読んだ

 わたしたち消費の特徴は、商品が欲しいのではなくて、買ったという行為が目的になっているということだ。買うことによって、仲間と盛り上がったり、仲間意識を感じたりできるような消費の仕方である。そこでの消費の目的は二つだ。他者に承認してもらうことと他者と接続することである。接続とはようするに他者と繋がっているということだ。佐々木さんは次のように述べている。

そういう承認と接続のツールとしての、消費。

そしてその承認と接続は、お互いが共鳴できるという土台があってこそ成り立っていく。この「共鳴できる」「共感できる」という土台こそが、実はコンテキストにほかならない。(115ページ)


コンテキストについては後でもう一度簡単に説明するつもりだが、とりあえず定義だけ見ておこう。

コンテキストは「文脈」というように訳されますが、そのようにして消費を通じて人と人とがつながるための空間、その圏域をつくるある種の物語のような文脈がコンテキストということなのです。

そのコンテキストという物語を通じて、私たちはおたがいに承認し、接続していくことができる。(116ページ)


 このように80年代までと90年代以降では大きく変化してきた。さてこれで大体説明が終わったが、実はこの本には4つの重要な概念が出てきている。それらの概念は結構興味深いので紹介しておきたい。その4つとは、コンテンツとコンテキスト。そして視点と視座である。

 コンテンツとは内容であり、モノが持っている中身である。それに対して、コンテキストとは物語のような文脈と説明されていたが、もっと詳しくいうとキュレーターが、モノを解釈し意味を持たせ提示したときの、その意味である。つまりその人の主観の混じった見方や感じ方がコンテキストである。例えば、ここに有名な画家によって描かれた絵画があるとしよう。有名な画家によって描かれた名画と呼ばれる絵は、それだけで何か人をひきつけるパワーのようなものを持っているだろう。多分、絵画に関してほとんど何も知識がない私のような素人でも何かを感じることができるかもしれない。そのような絵画が本来持っているパワーのようなものがコンテンツである。つまり何も説明なくても理解できる内容というところだ。これに対して誰か絵画に詳しい人が、その絵の素晴らしさを教えてくれたとする。例えば他の絵と比べてこの点がすごいとか、その絵がどんな思いで描かれたのかというようなバックグラウンドを知ることで、その絵の新しい見方が提示されるかもしれない。そのようないろいろな見方がコンテキストだ。つまりコンテンツはその作品が本来持っているものであり、誰が見てもわかる価値。コンテキストはキュレーターが意味や解釈を与えることによって見えてくるキュレーターの主観の入った新しい発見や見方、考え方になる。ちなみに、その絵画の価値などまったくわからずに、その絵画は皆がいいと言っているとか、お金持ちの人たちがよく話題にする絵だとかいう理由だけで、その絵を見に行為では、その絵を記号としてしか見ていないことになる。

 さて、コンテンツとコンテキストがわかったところで、視点と視座の説明をしておこう。佐々木さんはこの二つの説明をするために、グーグル・ラチチュードという自分のいる場所の緯度経度を教えてくれるサービスとフォースクエアのチェックインとを比べている。どちらも今いる場所に関する情報を提供してくれるわけだが、グーグルのサービスでは緯度経度という客観的な情報のみを与えてくれるのに対し、フォースクエアではその場所のさまざまな情報、例えば見どころは何があるかとか、美味しい店は何かとか、そういう主観的な情報を提供してくれる。これが視点と視座の違いに対応するのだと佐々木さんは考える。つまり視点とはその位置の客観的・機械的な情報であるが、視座とはその場所の主観的で人間的な情報ということになるだろうか。

 この視点と視座という考えを、ネットで何かの情報を知りたいと思っている状況に当てはめてみる。ある情報を知りたいとき、多くの人は検索エンジンを使うだろう。関係ありそうなキーワードを検索エンジンに入力してリターンを押すと、そのキーワードに関連したページのリストが表示される。それは検索エンジンのアルゴリズムによって得られた結果であり機械的な結果だ。だから誰がやっても同じキーワードを同じ時間に同じ検索エンジンで行えば同じ結果が出てくるだろう。ネット上に散らばっている情報の位置を機械的に示してくれる。つまり緯度経度を教えてくれるグーグル・ラチチュードを利用した感じだ。これが視点である。機械的で客観的な結果を見ることができる。

 これに対して、視座に対応する作業は、例えばツイッターでお気に入りの人を見つけてその人の発言を追いかけるというような行為である。ある情報を知りたくて、その情報に詳しい人を見つけてフォローしていたら、その情報に関連したいろいろな情報を得ることができる。その人が発信する情報はその人の主観に満ちた情報だ。その人の見方や考え方が色濃く反映されている。そのような情報を消費することが視座の見方である。ここで注意するべきことは視点は一つだが視座は一つとは限らないということだ。聞く人を変えれば違った情報や見方、考え方が帰ってくる。だからこそ人間味溢れているのだ。視座の向こう側には、その情報を発信している人間が見えている。

 これで大体道具は揃ったし、おそらくこの本のいいたいことも全部わかってもらえたと思う。まとめると、こういうことになる。インターネットは豊富な情報で溢れている。ただ問題は情報が無秩序に散乱していて、何がどこにあるかといったことがわからないということだ。つまり情報のカオスの大海のような状態だ。そのカオスから有益な情報を得るためにどうしたらいいのか。一つは検索することだ。それによって、欲しい情報を得ることができる。しかし、それは視点を得ることにしかならない。90年代以降、つながり消費が流行ったように、人は情報だけでなく、情報の発信者とのつながりを求めるようになってきた。コンテンツという情報の本来の価値だけでなく、その情報の独自の見方や考え方といったコンテキストを重視するようになってきた。そのようなコンテキストを通して共感し共鳴していく関係を築ける場所としての役割がネットで重要な位置を占めるようになってきた。検索エンジンを使って、誰が書いたのかわからないブログのページに行って、文章の一部を消費するのではない。そうではなくて、お気に入りのブロガーのページに行き、情報だけでなく、その情報を提供してくれるブロガーの見方や考え方をも消費する。逆に自分のブログで自分の考えを発信していく。そのようなキュレーションの時代になったのだ。そこには情報を消費するという行為ではなく、「消費するという行為の向こう側に他者の存在を認知し、その他者とつながり、承認してもらうというあり方 (115ページ)」、これが、これからの消費の仕方になっていくということだ。

 ということで、これからはますますキュレーターが重要な役割を果たすキュレーションの時代になっていくようだ。なお、今回書いたのは私の要約である。上手く文章に組み込めなくて書けなかった部分や、私が勘違いしているところもあると思う。。。そういえば、人間のつながりの部分を強調するのを忘れていた。キュレーターが新しい解釈を提示してくれるという事実も大事だが、それ以上に大切な点はキュレーターとの人間的なつながりが大事であるというような部分も重要な箇所であろう。他にも、たぶん、いろいろ書き足りなかったことがあると思う。それに、最初に言ったように、この本では他にもいろいろな議論がなされている。特に私が面白いとおもったのは、グローバル化を促進するはずのネットが、途上国などの伝統文化を発信するツールとして役にたっているという記述である。他にもいろいろ面白い話がてんこ盛りだ。300ページと新書版では厚めの本であることからもわかるように、結構いろいろと興味深いエピソードが豊富に書かれているのだ。まあ、そういうことなので、少しでも興味の持たれた方は、ぜひ本書を手にとっていただきたい。

 さて、私はこの本の内容には大満足なのだが、最後に、一つだけ残念だった点を指摘しておきたい。それは、この本では、ほとんどオタクなどのサブカルの話は出てこなかったことだ。たしかオタクという単語の記述が一箇所だけあったような気がするが、他にはオタク的消費ということに関しては言及されていなかったような気がする。おそらく佐々木さんがあまりオタク文化などに興味がないからなのだろう。ただサブカル好きの人はオタク文化の話もききたかったのではないだろうか。オタク的消費とは記号消費とは対極に位置している。つまり自分の好きなものだけを消費し、周りの人(自分とは異なる趣味の人)の影響を受けることはないのがオタク的消費だ。これからの消費行動では、このオタク的消費というのが重要になってくるし、これがつながり消費とどう関係しているのか、ネットの情報の消費の仕方にも影響しているのかといったことも気になるところだ。特にキュレーターは情報を見つけ新しい解釈や意味を情報に付与して紹介していく人たちだが、マンガやアニメなどの作品を作り直して新しい作品にしてしまう2次創作の人たちと、どのように違うのかといったことを論じて欲しかった。まあ、そこらへんは我々がこれから考えていくべきことかもしれない。



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最近ニーチェが流行ってるねー

今日、コンビニですごい本を発見!

それがこれ↓



最近哲学とか現代思想が静かなブームだって言うし、「超訳ニーチェの言葉」が「もしドラ」の次ぐらいに売れていたみたいだから、あの別冊宝島がニーチェを放っておくはずないとは思っていたけど、まさかマンガと図解でニーチェを読み解いちゃうとは。しかもコンビニにニーチェとかって、日本以外じゃありえない気がする。。。まあ、ニコ生で国会中継までネタにしちゃうお国柄だから、哲学がネタになっても不思議じゃないって言えば不思議じゃないんだけどね。日本のサブカル恐るべしってとこかなー。

まあ、そういうことで、パラパラっと中をみたら、結構真面目に書かれているので驚いた。女子大生が主人公のマンガが数ページあって、そのあとに、数ページにわたってニーチェの考えを説明して、またマンガがあってみたいな感じの本だった。しょっぱなから遠近法的思考とか解釈とか価値観とか説明してるし。内容はいい感じ。

この本のテーマは生の哲学ということで、小さなこと(本人にしてみれば人生が終わってしまうぐらい大問題なんだけど)に悩んでいる現代人たちのためにニーチェの教えがどういう風に役に立つかというようなことが書かれている。例えば、一部抜粋してみると、

 ・・・自分の人生を苦しくしている人は珍しくない。「本当の自分」なるものがあるはずだと考えて、自分探しや自己啓発に励む人のことだ。
 そういう人たちの思考は、いまの自分を否定することから始まっている。今の自分の感じ方や考え方、能力を受け入れず、「本当の自分はもっとできるはずだ」と考える。だから窮屈で苦しくなってしまうのだ。
 「理想的な自分」という考え方も遠近法的な見方の一つにすぎない。満たされた人生のためには、世界のとらえ方を変えることが必要だ。そのためにニーチェの哲学は一つの大きな参考になるはずだ。
(49ページ)



と、こんな感じだ。ちょっと前にこのブログでも書いたが、要は心の持ちようだということだ。この本がそのような悩みをかかえている現代人を対象に書かれていることは評価すべきだろう。もし私が同じような悩みを相談されたら、この本と同じようなことを話すつもりだし、そのような説得の仕方が一番的を射ていると思っている。現代人の悩みの多くは、家族や自分の期待が大きすぎることから、無理をしすぎていることに起因している。無理をする必要はない。もっと自然に生きればいい。そもそも、この世の中には意味なんてものはない。もちろんほとんどの人は意味のない世界に生きられるほど強くはないだろう。しかし、世界に意味を与えているのが人間だということは、そのような意味づけを我々がどうにでも変えられるということだ。つまり、そんなものに縛られる必要はないのだ。窮屈なら、それを変えてしまえばいい。それだけのことだ。この本を読むと、そういうことがわかってくる。そのような思考法は心の負担を取り除き、もっと人生を楽しく生きる術を教えてくれるだろう。多様な価値観を尊重し、人間らしい生活を取り戻すことができるようになる。すばらしいことだ。

ただし、一つだけ心配なこともある。ニーチェは右派にも左派にも好かれるほど、さまざまな解釈の仕方があるという話しを聞いたことがあるので、ニーチェの問題というよりも、ニーチェの思想を解釈する我々に問題があるのかもしれないが、ニーチェの思想を突き詰めていくと、自己中心的な人間達が量産されていくことに繋がらないかという危惧である。もちろんニーチェを本格的に勉強している人たちは問題ないだろう。しかしコンビニに置かれるような軽めの本でマンガをまじえて「自分の欲望を認めよう」とか「自分が一番。そこから生まれた価値観を大切にしよう」とか書かれていると、それを読んだ一部の人たちがニーチェの言葉を曲解して、刹那的な快楽に溺れる人生を選んでしまわないだろうか?またモンスターペアレンツやクレーマーなど最近日本で話題になる非常識で自己中心的な人たちがニーチェの教えの影響で増えちゃうのも困る。そういうことを考えると、この手の本が出回るのは少し不安かな。

でも、やっぱり多くの人に読んで欲しい一冊だけどね。特に自分の頑張りが足りないからだと自分を責め続けて悩んでいる人は、これを読んでもっと楽しい生きかたを見つけてほしい。。。つーか、人の心配してる暇があったら自分の心配しろよ>俺。



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『テレビは見てはいけない』を読んだ

テレビは見てはいけない (PHP新書)テレビは見てはいけない (PHP新書)
(2009/09/16)
苫米地 英人

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 というわけで、今日は『テレビを見てはいけない 脱・奴隷の生き方』という本の紹介をしたい。なかなか興味深い題名の本で、昨日、本屋で見つけて衝動買いしてしまい、今日読み終わった。というか、本当は再発見したという方が正しいかもしれない。実は去年の冬に、この本をぱらぱらっと見たことがあったのだ。題名からして読んでくれと言わんばかりの本だった。ただ、その時は、この手の本を読んでいる時間はなかったし、それに内容もちょっとスカスカっぽい感じだったので、ブックオフで100円になったら買おうかな程度の本だった。それが、昨日、本屋を回っていてすごいことに気がついた。この本は、あの苫米地英人が書いていたのだ。

 「あの苫米地英人」と書いたけど、別に彼の事をそこまで知っているわけではない。ただこの前の冬に、ユーチューブの動画で知ったのだが、この人は宮崎・宮台のM2と一緒にテレビに出ていたみたいだ。その番組によると、苫米地さんはM2とあわせて日本が誇る天才三人組なのだそうだ。その番組を見ていてもちょっと胡散臭さがにじみ出ていたのだが、その胡散臭さというか馬鹿っぽさが普通の馬鹿とは違ってきらりと光る部分があった。もしかしたら大うつけのふりをして天下を狙っている織田信長じゃないのか?というか、そういうキャラを俺が好きだから、馬鹿っぽい人を見るとすぐに評価してしまうのだが。要するに、その動画を見てから、苫米地さんの事がちょっと気になっていた。だから苫米地さんの本を見つけたら一冊ぐらいは読んでみたいなと思っていた。そういうこともあって、今回はちょっとがんばって本屋で立ち読みしていたのであるが、立ち読みしてたら文章がおもしろい。内容もなかなか興味深いということで、衝動買いしてしまった。

 で、家に帰ってきて第一章を読み終えて、ちょっとだけ胡散臭い記述もあったけど、そこはご愛嬌ってことで、一人で満足しながら、アマゾンの書評をちょっと覗いてみたら、賛否両論だった。まあ胡散臭いよね。やっぱり。ちょっと読む気が失せた(笑)。気に入っている本は読み終わるまではアマゾンのコメントをみないほうがいいということを再確認。昨日はちょっとへこんでいた。今日、気を取り直して第二章から読み始めたら、やっぱりおもしろかった。胡散臭さも倍増されたけど。ということで、今日はこのちょっと(もしかしたら相当?)胡散臭い本を紹介したい。

 さて題名は『テレビを見てはいけない』なのだが、テレビ批判の話は第一章と最終章だけだ。だからテレビ批判目当てでこの本を買おうとしているんだったら、買う前に本屋さんで中身を確認した方がいいと思う。テレビ批判じゃなきゃ、この本は何をテーマにしているのかというと、実は「生き方」について書いている。我々は自分の生きかたというものを親や社会に教えられて育つ。で、ある価値観というか生きかたみたいなのを、当たり前と思って、生きている。でも、その生きかたが絶対なのかというとそうではないだろう。いろいろな生きかたがあるのに、一つの生きかたが絶対だと信じてしまっているのは、洗脳された人が、それをあたかも真理であるかのように信じて生きることに似ている。そして、それは不幸なことだと著者は言う。自分で考えずに、教えられたことだけを鵜呑みにして生きる生きかたでは幸せになれない。そうではなくて、我々は自分の頭で考えて、自分の考えに正直に生きるべきなのだ。という感じで、要するに人生哲学みたいなのを、著者の専門である「脳機能学(脳科学?)」とか「心理学」とかを紹介しながら、「自分の道は自分で決めろ」とか「社会の空気なんて気にせずに、自由に生きろ」とかそういうことを言っている。まあ、無理して、ひいき目に見たらポストモダン的人生哲学になるのかな(いや、無理か)。まあ、いいや。ポストモダンを出さなくても、90年代以降、個性を大事にして自分の人生は自分で決めて幸せに生きましょう的な言説が垂れ流されていたと思うんだけど、そういう路線です。で、こういう個性の発達や自分で考えることを阻むものが、社会から押し付けてくる価値観などなのだが、そのような価値観を効率的に垂れ流してくる一番影響力のあるメディアがテレビなのだ。だからテレビなんて見てはいけない。見たら奴隷の人生になるぞと言っているわけだ。

 まあ、そういうことなので、テレビ批判と言ってもたいしたことは書かれていない。ただテレビの裏事情の部分とかは面白い。例えば、

 日本のテレビ番組の企画をつくっているのは、「構成作家」と呼ばれる人々です。彼らが書いた企画書が、ドラマ、ニュース、バラエティ番組のもととなり、日本じゅうに流されるのです。日本のキー局の番組を政策している構成作家の人数は、見習いも含めて、おそらく数百人といったところでしょう。そのうち、日本のテレビ界の中心で活躍しているのは、二、三〇人くらいの人数だと思います。
 たったそれだけの、国会議員より少ない人たちが考える番組によって、日本じゅうの流行や、お茶の間の話題、政治的な世論までもがつくられているかとおもうと、驚きの感情が湧いてきませんか。
 行為ってはなんですが、構成作家のなかには、ビックリするくらいものを知らない人が実際にたくさんいます。政治や経済について専門的に勉強したわけでもない人たちが、付け焼刃の知識で番組を量産しなければならないのですから、致し方ない面もあります。それでも、テレビ番組が劣化してきた原因の一つに、構成作家の質の低下があることは間違いないと私は感じています。
 彼らがどこから番組のネタを拾ってくるのかといえば、多くの場合は雑誌とインターネット。自分で取材先を見つけ出して交渉し、一次情報を取ってくる気概のある構成作家は、残念ながらほとんどいないのが現状なのです。
 また構成作家の多くが、英語圏の情報を集める作業をしていません。それは単純に、彼らが英語を苦手をしていることが理由だと思われますが、日本のテレビ報道に海外初の情報が少なく、きわめてローカルな報道に終始している原因はここにあると思われます。

『テレビは見てはいけない』 (87~88ページ)


 この記述がどこまで信憑性があるのかはわからない。ただテレビの薄っぺらいメッセージ性を見ていると、否定はできないんじゃないかなって思う。ハリウッドで流行ったテーマを、すぐにテレビに流したりとかもよく見かけるし、流行だけで中身のない議論を延々としていたりね。こういうものの延長線上に思想としてのサヨクとかも現れるんだろう。「平和」とか「平等」とか「差別」とか、考えなければ、なんとなく正しいと思ってしまうようなものを垂れ流す。そのようなテレビの安っぽさってのは、要するに製作者の程度の低さを表しているのかもしれない。本物の左翼思想家のように充分に考えた結果、信念を持って語てくれたら、意見が合わなくても、その人の思想は尊重出来るんだけどね。

もう一つ、面白い記述があった。

 いまでも新聞記者や民法キー局の報道記者たちは、大臣の首を獲るのが勲章だと思っているフシがあります。国民に不利益をもたらしているシステムの欠陥や問題点を知らしめるのがジャーナリストの役割だと私は思うのですが、なぜか記者たちは、問題の下人をシステムのせいではなく、個人の問題に還元しようとしがちです。
 日本のジャーナリズムには昔から、そのように個人を追及するカルチャーがあるように思えてなりません。問題にすべきなのは、個人の前にシステムのはずです。もちろんシステムの上で不正に甘い汁を吸っている役人がいたならば、個人の責任が追及されるのは当然ですが、それは本来、警察や検察の仕事です。メディアのやるべきことは、それを許したシステムそのものを徹底的に正していくことです。

(前掲書 56ページ)


 ここは俺も大賛成だ。俺がマスコミ不信になった一番の理由は、あの考古学捏造事件だった。もう10年以上前の話になるが、石器を埋めて「発見し」ていた自作自演の考古学者を毎日新聞者がすっぱ抜いた事件だ。その記者会見の様子が生中継だったと思うがテレビに放映された。俺もチラッと見たが、記者たちの罵声が飛び交うその場所は、まるでリンチ会場か魔女狩り裁判のようで、気分がすごく悪くなったのを覚えている。俺はこの考古学者を擁護するつもりはない。ただ、記者たちの怒りの意味がまったく理解できなかった。この事件の責任の一端はマスコミ自体にあるわけだし、とくに毎日新聞をはじめとした多くのメディアがこの考古学者にプレッシャーを与えたのが原因だ。まあ、それにのってしまった考古学者の方にも非はあるのだが、すくなくともメディアが罵声を浴びせる権利がどこにあるのか俺にはわからなかった。

 マスメディアごときに人を裁く権利はないと思っているし、彼らにはそもそも正義などない。自分たちの正義が絶対の正義だと誰が決めたのか。自分たちの主張をあたかも絶対の正義のように振りかざすのは、うぬぼれもいいとこだろう。誰もマスコミに悪人を裁いてくれなどと頼んだつもりはないのだ。考古学事件のようなマスコミ全体のヒステリー状態は、この前のイギリス人殺害事件の犯人が捕まったときにも見られた。まるでお祭り騒ぎだった。何がそんなに大騒ぎしなくてはいけないのか今いちわからなかった。ただ一つわかったことは、要するに日本のジャーナリズムは程度が低いってことだ。そして、そのような程度の低さが政治関連の話に行くと、指摘しなければいけないシステムの不備ではなく、スケープゴートとしての犯人探しにやっきになってしまう。いい思いをした人間をつるし上げて、自己満足する。悪者を一人とりあげて、それを断罪することで、ストレス発散する。このような傾向が日本だけのものなんか、それともジャーナリズムの本質なのかはわからない、ただ我々はこういう問題に自覚的になっておくべきだろう。そして、マスコミが馬鹿騒ぎしても、馬鹿騒ぎしているのは彼らだけで、我々国民は冷めた目で彼らを観察できるぐらい冷静でいたいものである。

 そういえば、この本によると、マスコミのとりあげるブームも、必ず仕掛け人がいるらしい。そこらへんも、マスコミに踊らされないようにするために、知っておくべきことだろう。

 という感じで、他にもいろいろ書かれているのだが、ようするにテレビなどを見ていると自分の意見がいつのまにかテレビの主張するメッセージに置き換わってしまって、頭が悪くなるから、テレビばかり見るのはやめましょうというのが第一章の論点だ。興味があったら是非読んでみてください。ただ、どこまで信じていいのかはわかりません。心理学方面の話は嘘はなさそうだけど、心理学の専門家が見たら、もしかしたら竹内久美子並みのトンデモ本に分類されるのかもしれない。

 そういえば、フーコーの記述が怪しいとアマゾン・レビューで指摘されている。その箇所は俺も違和感を感じた。次の文章だ。

キーホールTVのような「だれでもテレビ局となりうる」システムによって、まさに哲学者ミシェル・フーコーがかつて主張した相互監視装置(パノプティコン)ができあがり、世界が少しずつでも平和になる可能性が高まるのです。

(前掲書 41ページ)


 正直、この先生、本当にフーコーわかってるのかなって不安になる。というかわかってないんじゃないかな。まあ、無理を承知でがんばって擁護するならば、フーコーがかつて主張したのは「相互監視装置(パノプティコン)」であって、決して「パノプティコンによって平和になる」と主張したわけではないよ、と読もうとすれば、出来ないこともないだろう(笑)。まあ、そこまで擁護する義理も無いのだが。しかもパノプティコンを設計したのはベンサムだし。まあ、いいや。

 もう一つ、少し疑問の箇所は動物の種を保存するために自分と同じ種の動物を仲間と認識して共同で敵と戦っていた(おそらく群れ行動をする動物のことを話しているのだろう)。このような感情が差別という感情の源であるといった感じのことも言っているが、このあたりも疑問がわく。まず動物の仲間意識というか群れ行動をする動物はゲーム理論などで研究されていると思うが、結構難しい問題である。ただ種を保存する方向に進化するという考えは退けられている。なぜなら利他行動は血縁関係など特別な条件が無い限り発達しないはずだからだ。またこの動物の仲間意識と差別問題というのも直接関係のある事柄なのかどうかもはっきりしないだろう。

 まあ、そういうことで、ところどころ怪しい部分があるので、どこまで信じていいかわからないのだが、それでも読んでいて面白いのは確かだ。あと着眼点が面白い。特にこの本のテーマである「洗脳」が面白かった。「洗脳」といっても、別にカルト教団の「洗脳」だけではなく、もっと広義のマスメディアなどによって刷り込まれた常識全般を「洗脳」と見ているのだ。そのあたり、マルクス主義にも通じるところがある。ということで、本当はそこらへんを書きたくて、この文章を書いたのに、まったく関係のない話を書いていたら、長文になってしまったし、俺も疲れたので、本論というか、この続きは明日書きたい。

『ニューヨーク美術案内』

ニューヨーク美術案内 (光文社新書)ニューヨーク美術案内 (光文社新書)
(2005/10/14)
千住 博野地 秩嘉

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 やっと読み終わった。普通に読んだら数時間で読めてしまう本なので、先週読み終わるはずだったのだが、本を読む時間をつくれずに、今週はトイレで数ページずつ読むということを繰り返していたので、読み終わるのが遅れてしまった。

 全体的にはよく出来た本だと思う。文章は、とても読みやすい。それに絵画のことに関してまったくの素人の俺でも楽しんで読めた(現代美術の解説の一部は、理解できなかったので少し退屈だったが)。第一章の説明はよく書けていて、すごく面白かったと思う。例えばジャン=フランソワ・ミレーとヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品を比較しているのだが(ゴッホはミレーの絵を模写したり、同じような絵を描いたりしていたらしい)、この本の著者(で画家)の千住さんに次のように違いを説明してくれる。

しかし、同じモチーフでありながら、二人の作品は決定的に違う。よく見てください。ミレーの収穫の絵は静かで心にしみこんでくるような気配がある。ミレーは絵のなかに収穫の喜びを表現しているのです。言ってみれば多焦点というのでしょうか。色々な所に神々しい小さなドラマを作り上げている画面です。全部に感謝感謝、といった感じ。それに対してゴッホが描いたのは純粋に農夫が仕事をする様子です。そこには八百万の神、すなわち太陽の神、地の神、水の神、羊も神なら藁の山も神といったような祝福されているイメージはまったくない。ただひたすら一神教の神と人間との関係において、画面が形作られている感じがあります。イエス・キリストとの対話の手段としての絵画といえると、私は思っています。他は何も目に入っていない。不器用なまで献身的な姿勢を感じます。いわばこれも宗教画です。

(『ニューヨーク美術案内』 49ページ)


ここで比較されているミレーとゴッホの絵が本の中には載せられているのだが、今ネット上にあるか見たところミレーの「干草の山」の絵しか見つからなかった。興味のある人のために、いちお名前だけのせておくとミレー「干草の山:秋」とゴッホ「農家のそばの麦塚」、ミレー「鋤き起こす2人の男」とゴッホ「鋤き起こす男たち」、ミレー「正午:昼寝」とゴッホ「正午:昼寝」である。上の文章を読むだけだと、ちょっとわかりづらいと思うが、絵を見ながら上の文章を読むと確かに一理あるなという気になってしまう。

他にも「天使」の翼の色に関する面白い記述があった。天使は西洋画によく登場していたのだが、天使の翼の色は何色と聞かれたら、おそらくほとんどの人が白と答えるだろうと思う。しかし、千住さんによると天使の翼の色が白くなったのはルネサンスよりも後で、本来は鳥の翼のようにカラフルに描かれていたのだという。そのようなカラフルな翼を持っている天使から、カラフルな翼をもった鳥が飛び回る楽園のイメージが連想され、それらの翼は果樹園を連想させる。つまり、当時の人がイメージしていた天国とは、アダムとイブが暮らしていた果樹園だっただろうということが連想できる。つまり天使の翼を見ていくことで、当時の画家がどのような世界観を持った人なのかということを想像できるようになるというのだ。興味深いというか非常に面白い見解だし、言われて見れば当たり前のことなのだが、美術作品を鑑賞することによって、そこから当時の人々の世界観までを連想してしまえるという発想がとても興味深い。

第二章はモダンアートを集めたMoMA呼ばれる近代美術館とその中の作品について述べられている。はっきり言ってよくわからないことばかりだったのだが、本を読んでいるとMoMAに行ってみたいという気にはさせられる。あと俺がなんとか理解できる部分でおもしろかったのは、MoMAの入り口付近にあるバーネット・ニューマンという人の「ブロークン・オベリスク」という作品についてだ。

ちなみに「ブロークン・オベリスク」はこれ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
ブロークンオベリスク

 オベリスクとは、もともと古代エジプトのファラオが作った記念碑で、尖塔の矢の先端は天を指しているのだが、「ブロークン・オベリスク」は真ん中で折れ、しかも逆に立っている。千住さんによると、”これはオベリスクが象徴する「権威」にたいしてあからさまに反抗し、挑戦した作品”だという。さらに、千住さんは次のように続ける。

 では、ニューマンにとってオベリスクは何を象徴したものだったのでしょうか。私はモダニズムを象徴したものだととらえています。モダニズムとは人間の知恵を限界まで信じる考え方です。人間が信ずる科学、政治、経済があれば世界をよりよくすることができるというのがモダニズムであり、ニューマンはそれに疑問を抱いたのでしょう。彼はモダニズムが果たして世の中をよくしたのかと問いかけています。そしてそんなものは人間の傲慢に過ぎないと一刀両断しているのではないでしょうか。彼はモダニズムの象徴であるオベリスクを地面に突き刺し、モダニズムの終焉を表しました。
 しかし考えてみてください。MoMAとはモダン・アートつまりモダニズムの芸術作品を収集することから始まっている美術館です。ですから「ブロークン・オベリスク」はモダン・アートを展示する場にはもっともふさわしくない作品のはずなのですが、MoMAはその意味を理解しながらも、いちばん目立つ場所にこの作品を置いている。これがMoMAという美術館のバランス感覚と言うか、MoMA一流の見識なのです。美術館の存在に疑問を呈した作品を優遇することが美術作品に対する館の許容量の大きさを示しているのです。
(中略)
 MoMAはモダニズムの終焉を表す作品を館の入り口に置くことで、自分たちにとって重要なのは今日から先の自由な未来だという意志を示したいのではないでしょうか。芸術とは画家の名前でもないし、今までの評価でもない。これから自由に創造される作品をMoMAは大切にするんだというメッセージのようにも思えるのです。

(前掲書 74-75ページ)


 このような説明を聞くと、ニューヨークに数ヶ月とか滞在して、MoMAに毎日通ってみたいとか思ってしまう。そんなお金も時間もないのだが。まあ、それでも、この本を読んでよかったと思うのは、いつかニューヨークに行ったら美術館をちゃんとまわってみようと思えたからだ。ただ現代美術は評価するのは専門家でも大変なのだそうだ。もちろん楽しめばいいのだが、この本では現代美術を違った意味で購入する人たちの事を取り上げている。例えば生と死をテーマにした作品を発表しているデミアン・ハーストという人がいるらしい。彼の作品はホルマリン漬けのサメや切断された牛の標本、病院の手術台を描いた油絵、麻薬で浸された肉体などらしい。で、6メートルの水槽にはいったホルマリン漬けのサメは、30代のアメリカ人金融マンが800万ドルで買ったのだという。ただ彼が購入した理由はおそらく「生と死のテーマに共感したから」というわけではないようだ。このような現代美術を買う客はたいてい、「とにかく時代の最先端をいくもの」で「一流アーティストの作品」を探すのだそうだ。なぜなら彼らは次のようなことが目的で現代美術を購入しているからだ。

「現代美術を買う人は時代の最先端が欲しいのです。ヘッジファンドを売るのは次代の最先端を行く仕事です。そこで名を上げるためには自宅の内装も、持っている自動車も、付き合う仲間も、それぞれ時代の最先端を表現しているものでなくてはならない。なかでもアートはもっとも時代の先端を突っ走っているものです。彼らにとって、新しいアートを収集していることが自分の価値を高めることになる。俺は人の後を追いかける人間ではないという証明のひとつなのです」

(前掲書 172ページ)


 俺の人生とはまったく関係のない世界の話なのだが、なかなか興味深い。あと、まったく関係ない話だが、現代美術を現代思想に置き換えたら、結構日本人の中にもこういう輩は多いのではないかと思ってしまう。思想の内容を理解せずに、とにかく時代の最先端をいく思想で一流の思想家の思想を欧米から日本に持ち込んでくる人たちっていうのがいるような気がする。まあ、そこらへんが面白いなって、意味もなく思ってしまった。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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