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タイムトラベルSF映画を簡単にまとめてみた4 シミュレーションとしてのパラレルワールド

 タイムトラベルとパラレルワールドは親和性が高いことは、今まで挙げてきたSF映画やアニメなどを見ていると、よくわかる。ただもともとはパラレルワールドとタイムトラベルは関係のないものだったような気がする。例えば80年代半ばに、『超時空要塞マクロス』というアニメの次にテレビ放映された『超時空世紀オーガス』というアニメがある。このアニメでは時空振動弾という兵器を誤作動させてしまったが故に、多数の平行世界が一つの空間にパッチ上に並存してしまうという現象が起こってしまったという物語設定になっている。『フィラデルフィア・エクスペリメント』のように、その時空を歪める装置の中心にいた主人公が、この時空のゆがみを解消できる鍵になってくるのだが、おもしろいのは、この『オーガス』というアニメでは、平行世界は出てくるが、過去に戻って修正するというようなことは考えられていない。今、久しぶりにこのアニメを見始めたばかりなので、話の内容はまだちゃんと思い出せていないのだが、今見た範囲内でいうと、物語の目的は時空が不安定な状態になってしまっているので、それを安定させるのが最終目標であるということだ。つまり時間という概念はほとんど関係のない事柄である。

 『オーガス』でも時間的な面白さは若干ながら加えられている。主人公と主人公の相棒が時空を飛ばされるわけだが、時空震動弾の誤作動が起こって平行世界が重なってしまってから15年後に主人公の相棒が現れ、それからさらに5年経ってから主人公がその世界に現れたことになっている。主人公には恋人がいたのだが、その恋人は主人公の子を身ごもっていた。で、20年後の世界に飛ばされた主人公は一人前に成長した自分の娘と会うことになる。そういう感じで、主人公とその相棒そして成長した彼の娘という設定に、時間が複雑に絡み合ったタイムトラベルSF的な要素が見て取れると思う。ただ、そういう部分があっても、『ひぐらしのなく頃に』や『涼宮ハルヒの憂鬱』などに見られるパラレルワールドものと大きく違う部分は、『オーガス』ではやり直すことをしない点だ。過去のある時点に戻って(戻らされて)ゲームを再開するというような展開はない。そこが過去を次々と書き直していく『バタフライ・エフェクト』とも違う点だろう。

 『ひぐらしのなく頃に』や『バタフライ・エフェクト』ではパラレルワールドが過去のある時点に戻ってやり直すという物語になっていた。これは『ゲーム的リアリズムの誕生』で東浩紀が述べているように、ゲーム的リアリズムというものだ。従来の小説では物語は一つだった。唯一の物語上を登場人物が動き回るわけで、それ以外の物語では存在することができないはずだった。しかし、漫画やライトノベルなどでは、キャラクターが物語から抜け出して、他の物語に登場することができるようになった。同人誌などの二次創作などである。そのような他の物語においても存在できるためには、キャラクターが物語から独立して存在できていなくてはならない。つまりキャラクターという要素だけがデータベースのようなものに保存され、それが物語とは関係なく消費されていくというデータベース消費という消費行動があって初めてキャラクターたちは、異なる物語に存在できるようになるのだ。そのような異なる物語がパラレルワールドである。

 アドベンチャーゲームのマルチエンディングはパラレルワールドの一つだ。分岐点で選択肢の一つを選ぶと、その後の物語の展開が異なるという感じである。『かまいたちの夜』では、マルチエンディングのシナリオのいくつかはパロディやスパイアクションになっており、本編とはまったく異なる世界が語られている。それでも登場人物が、そのような世界でも存在できる理由は、登場人物のキャラクターがデータベース消費されているからに他ならない。これがゲーム的といわれるゆえんだ。つまり、ゲーム的なキャラクターは、どのような世界でも違和感なく活躍できてしまうのだ。もう一つ例を挙げれば、『ひぐらしのなく頃に礼』というコメディーがある。『ひぐらしのなく頃に』の本編では殺し合いをするほどに敵対関係にあったキャラクターたちが『ひぐらしのなく頃に礼』では、プールで遊んだり、マージャンをしたりする。そのような世界を見ても違和感がない。同人誌ではもっと自由に動き回るのだろう。このようなパラレルワールドの概念は今では違和感なく受け入れることが出来るわけだが、実はマルチエンディング・ゲームが普及したために可能になった世界観なのかもしれない。なぜなら冒頭に挙げた80年代のアニメ『超時空世紀オーガス』におけるパラレルワールドとは、まったく異なる平行世界であって、そこに住む生物は根本的に異なる。同じキャラクターが違った世界を生きているというパラレルワールドではないのだ。

 もちろん同じキャラクターが、平行世界を同時に生きているという設定は昔からあったのも確かだ。例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などは80年代に作られているし、『世にも奇妙な物語』でも、ばりばりのキャリアウーマンが、もし仕事ではなく結婚を選んでいたらどうなっていたかというようなテーマのパラレルワールド的な物語が何度となく作られてきた。人生の分岐点で、あの時ああしていれば、今はどうなっていたのだろうというのは、誰もが考えることだから、このような個人的なパラレルワールドがテーマの物語には昔から共感する人が多かったと思う。ただそのようなパラレルワールドは2つの世界を見るだけであって、『ひぐらしのなく頃に』や『バタフライ・エフェクト』などのように何度も何度も過去を繰り返しているわけではない。そのあたりのループには、やはりゲーム的な思考法が入り込んでいるような気がする。そして、そのような繰り返しはシミュレーション的であるとも言える。

 昨日も言ったように『ひぐらしのなく頃に』では異なる展開になろうとも、同じような結末を迎えてばかりいた。同じようなループの物語として『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメの『エンドレスエイト』という話がある。まず涼宮ハルヒの憂鬱の説明を簡単にしたい。この物語の主人公である涼宮ハルヒは特殊な能力を持っているという設定だ。というか彼女は自覚していないのだが神に近い存在なのである。なぜなら彼女がこの世界を作り出したからだ。まあ簡単に言ったら、この世界が彼女の夢の中の世界だったみたいなものだ。しかし単なる夢の世界と異なる点は、その世界の住人は全員が意志をもって動いているということだ。つまり独立して動くエージェントを組み込んだシミュレーション実験をコンピューターでしているような感じだろう。ある意味『Thirteenth Floor』という映画の世界みたいなものだ。そういうことなので、ハルヒが、こうしたいと無意識に思うと、世界はそうなってしまう。で、宇宙人と未来人と超能力者と遊びたいと彼女が考えたから、宇宙人と未来人と超能力者などが来てしまった。

 『エンドレスエイト』では夏休みが終わって欲しくないとハルヒが考えてしまったので、8月下旬の2週間が繰り返されることになってしまう。そのループを繰り返す中で登場人物たちはデジャブを感じたりして違和感を覚えていき、未来人が未来とコンタクトできなくなったことなどから、自分たちがループにはまり込んでしまっているという状況を知ることになる。そのとき、すべての真相を知っていたのが、情報統合思念体が送り込んだ宇宙人(?)の長門有希という少女であった。彼女はループを最初から認識していた。ただ彼女は観察者として送り込まれており、彼女の役目はハルヒ周辺を観察することだったので、そのループを観察だけしていたのだという。彼女によると15000回近く、つまり2週間の15000回なので200年近くを、ただ一人観察していたのだという。それを聞いた主人公の「きょん」は、長門の孤独の境遇に同情しまくっていた。長門によると15000回近いループの中で、細かい点はいろいろと変化しており、いくつかの変異が見られたらしい。例えばプールに行ったときの水着の種類とか、昆虫採集のとき取れた虫の種類なのである。長門は、それらのデータを淡々と蓄積していたのだ。

 さて、同じ出来事を延々とループしていくということは確かに孤独な世界であろう。その繰り返しを誰かに言っても誰も信じてくれないし、信じてくれたところで、また元に戻ったら、一から説得していかなければならないからだ。しかし、長門が孤独だったのかどうかはよくわからない。シミュレーションという概念で考えてみるならば、むしろ、ループすることは当たり前で、その中の変異を観察し解析するのがシミュレーションを用いた研究者の仕事である。つまり変異が出ている時点で長門は面白いはずだし、そのようなデータ集めは何度もループしてくれないと始まらない。だから、もしループの2回目や3回目で他のメンバーがループしていることを見つけ問題を解決してしまったとしたら、観察者としては、それこそ退屈だったのではないだろうか?と、なんとなく考えてしまった。まあ長門の気持ちを推測してもしょうがないのだが、ここで指摘しておきたい点は『エンドレスエイト』のループがシミュレーションとして見られていたということだ。

 シミュレーションというと、直接は関係ないのだが、なんとなくカオス理論とかを思い起こしてしまう。『バタフライ・エフェクト』では、もちろんその名前からもわかるように、未来がカオス的振る舞いになってしまうということだった。過去のある時点の些細な変化が増幅され大きな変化をもたらしてしまうのだ。一方『エンドレスエイト』では、些細な変化はあっても、物語はほとんど同じ展開を示し、結末もほとんど変わらない世界が延々とループしている。変異は増幅されず、小さな変異のままという線形モデルに近いような展開だ。他方、『ひぐらしのなく頃に』では物語展開は極端に異なるが、大きな流れは変えられない。「強い意志」に導かれるように、一人の少女が必ず殺されるという結末に収束していくのだ。つまり、これらの三つの物語をシミュレーションとして見たならば、大きな変異のないループ(『エンドレスエイト』)、変異は大きいが最終的には一点に収束していくループ(『ひぐらしのなく頃に』)そしてカオスに入ってしまう展開(『バタフライ・エフェクト』)の三つに分けられるのだ!よかった。よかった。だから、なに?みたいなコメントは勘弁してください。実はこれ以上のことは何も考えていないので、これ以上は何も書けません。

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タイムトラベルSF映画を簡単にまとめてみた3 過去を変えたらどうなるか?

 前回、前々回と繰り返し述べているようにタイムパラドックスの本質はパラレルワールドを作り出さないようにすることであった。なぜなら、パラレルワールドが出来てしまうと、必然的に矛盾が生じてしまうからだ。

 例えば、前回話した『ロストメモリーズ』で、Aという歴史とBという歴史があって、Aの歴史が2009年まできたときに過去にタイムトラベルをし、Bという歴史に変更し、その歴史を修正するために他の人間がまた過去に戻ってAという歴史に戻す(厳密にはAに似た歴史)といったことが行われたのであるが、Aという歴史の2009年に日本人エージェントが過去に送り込まれて、Aという歴史の過去が修正されたとき、Aの歴史を送っていた残りの人たちの2009年以降はどうなったのか、同様にBという歴史を生きていた人たちは、2009年以降はどうなってしまったのか、まったく語られていない。過去に戻った主人公たちの後を追っていると、あたかも歴史がA→B→A´という流れで、元の歴史に戻って終わりという話に見えてしまうが、実際はBという歴史を生きていた人たちはその後もBという歴史を生きていたのではないだろうか。同様にAという歴史を生きていた人たちも、Aという歴史を生きていた。最初にエージェントを送った日本政府の陰謀によってBというパラレルワールドが生み出された。そして過去に送られたエージェントは確かにそのBというパラレルワールドを生きることが出来たのだ。しかし、他の大多数の日本人はAという世界を行き続けているのであり、パラレルワールドに入れるわけではないであろう。もしそうならば、Aという世界の日本政府は何が目的で過去にエージェントを送り込んだのかわからなくなる。なぜなら過去を変えたわけではなく、ただ単にパラレルワールドを一つ作り出したに過ぎないからだ。同様にBからA´に歴史を修正しようと命をかけた朝鮮独立派テロ組織も過去に送られた刑事一人を除いてはA´という歴史に触れることは出来ていないことになるのだ。

 もちろん、パラレルワールドが生じたと同時にAの世界の住人がすべてBの世界に入り込むということもと考えられるが、そうならば過去に送り込まれたエージェントの生死は新しい世界と矛盾してはいけなくなる。しかしタイムパラドックスの基本として、過去を変更してしまったが故に自分の両親が結婚しないという状況になってしまえば、自分が存在できなかったということになってしまい、だから過去を変えることは出来ない(または過去を変えてはいけない)というタイムパラドックスの原点に戻ってしまう。バック・トゥー・ザ・フューチャーとかは能天気だから、その矛盾を解決したくて、写真の人物が消えかかるというようなシーンを入れていたと思うのだが、そもそもパラレルワールドが生成されるとした時点で、パラレルワールド同士の関係はまったく異なる世界で、お互いは直接的には繋がっていないと考えるほうが無難だろう。

 パラレルワールドを生成するタイムスリップSFとしては、『バタフライ・エフェクト』という映画が数年前に話題になった。この映画はタイムスリップをする能力がある男の話である。彼は日記を読んだりして、過去の記憶を蘇らせると、その時間にタイムスリップすることができる。その能力に目覚めた主人公が現在の状況を改善しようと過去に戻って過去を少し変更するのだが、そのたびに現在の世界がガラッと変わってしまう。しかもすべてが悪いほうに変わってしまう。彼は何とか一番いい結末を探して、何度も過去にタイムスリップするのだが、そのたびに現在の状況は悪化していくので、最終的に一番最初の場面に戻ってすべてが「起きなかった」という状況を選ぶ。ここで彼が経験するパラレルワールドは様々なのだが、その世界を経験するたびに彼は脳に異変が生じる。つまり彼は過去に行って現在に戻ってきた時点で毎回過去から現在までの出来事が異なっているのだが、過去を変えるたびに、その記憶が前の記憶の上に上書きされていく。つまり彼だけは彼が経験したすべての世界の記憶を持っているのだ。これらの世界はお互いに独立しているので、彼を除けば、それぞれの世界を飛び回ることは出来ない。なお彼の父親は同じ能力を持っていたが、彼が作り出したパラレルワールドは彼にしか体験できないようだ。だから、彼以外にこれらのパラレルワールドを証明できるものはいない。すべてが彼の妄想だったということもあり得るのだ。

 さて、これらのパラレルワールドはまったく独立しているので、お互いに矛盾していても問題ないのだが、一つだけ疑問なのは、彼がタイムスリップできるのは彼が記憶を失っている時間だけなのである。実は彼は子どもの頃に何度も記憶がない時間に苦しんでいたのだが、それは成長した大人の彼がタイムスリップしたために、その時間の記憶が子どもの彼にはなかったのだ。ということは、記憶を失っていた時間のときにそれぞれのパラレルワールドは交差していたということになるし、最後のシーンで「すべてがなかったことにした」ときに、ほかのパラレルワールドはどうなったのか、そもそも彼の人生を時間軸をとって描いて見せたらどうなるのかなど、いろいろと疑問がわいてくる。

 個人的な感想としては、『バタフライ・エフェクト』のパラレルワールドはパラレルワールドに似ているのだが、それぞれの世界が平行に進んでいるわけではなく、むしろ主人公が過去に行くたびに、彼の脳が書き換えられるのと同じように、世界のすべてが書き換えられているような気がする。だから厳密なパラレルワールドというよりも、むしろ書き換え可能な一つの世界が舞台なのではないだろうか?ちなみに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズも、映画の中ではパラレルワールドが生成されてどうたらこうたらという説明があったような気がするが、おそらく書き換え可能な世界だろうと思う。なぜなら、もしパラレルワールドだったとしたら、過去と未来を行き来しているマイケル・J・フォックスはいいが、彼の家族はまったく救われていないということになる。彼の選んだ世界の家族が幸せになっているだけで、他のパラレルワールドの世界を生きている無数の彼の家族は幸せではないし、マイケル・J・フォックスは彼らを救っていないことになってしまうのだ。だから、普通に考えれば、書き換え可能な世界ということにするべきなだと思う。そのあたりが、パラレルワールドの方に重心をおく『ひぐらしのなく頃に』というアニメとは大きく異なっているように思う。

 『バタフライ・エフェクト』のもう一つ興味深い点は、過去を少し変えただけなのに、現在の状況が大きく変わってしまうということだ。些細な要因が予測不能な現象を将来引き起こしてしまうというのがバタフライ・エフェクトというものなので、そのあたりはいいのだが、ただ本当に歴史はそう簡単に変わってしまうのだろうか?もちろん、この世界の出来事なんて、すべての状況は偶然の積み重ねのようにみえるときもある。例えば、車にたまたま乗ったから事故ったとか、逆に寝坊したから事故にあわずに済んだとかいう話はよくあることだ。もちろん両方の世界を行き来できないのだから、われわれは仮定の話しかできないし、だから、本当に車に乗ったから事故ったのか、それとも車に乗らなかったらもっと悲惨な目にあっていたのかわからない。寝坊したから事故にあわなかったのか、それとも寝坊しなくても事故にあわなかったのかもわからない。もしかしたら映画『ファイナル・デスティネーション』のように死ぬべき運命の人が偶然に助かってしまったとしても、死神から完全に逃れる術はないのかもしれない。逆に寝坊したから助かったとしても、寝坊したことが必然だったのかもしれないし、寝坊しなくても助かったのかもしれない。まあ、そういうことで、すべては仮定の話なのだが、『バタフライ・エフェクト』では過去を変えてしまったら現在が大きく変化していたという部分が話の中心だった。しかし、そもそもそれは本当なのだろうか?

 この『バタフライ・エフェクト』の設定はタイムパラドックスの前提と同じである。歴史に干渉したら何が起こるかわからない。そのような前提のもとで、『バタフライ・エフェクト』では過去を変えてしまったから、現在が大きく変わってしまったのだ。しかし、世界の人たちは周りの状況に単純に反応して生きているだけなのだろうか?例えば、今日の夜ラーメンを食べようと考えていたが、家に帰る途中で駅前で焼いていた焼き鳥の匂いがおいしそうなので、思わず焼き鳥を食べてしまったというようなことはあるだろう。しかし、医者になろうとがんばっていた人が、弁護士の活躍する映画を見て急に弁護士になろうとするとは思えない。ちょっと例が上手くないが、つまり、世界には、簡単に変化する部分と、変化しづらい部分というものが存在すると考えたほうがいいのではないだろうか?なんでもかんでも環境の応答としてひとびとの行動が規定されていると考えることは無理がある。だから、環境の変化に敏感に反応して未来が大きく変化してしまうというのも考えづらい。そこらへんが、『バタフライ・エフェクト』と『ひぐらしのなく頃に』で大きく違う部分である。

 『ひぐらしのなく頃に』では、一人の少女がパラレルワールドを渡り歩き、猟奇殺人事件を食い止めようとする。なぜならその猟奇殺人事件で、その少女は必ず殺される運命だからだ。何度も何度も殺され、そのたびに他のパラレルワールドに転生してやり直すのだが、物語の後半ではある程度犯人の目星もつき、対抗手段も取れるようになってくる。それでも現状を変えられず、その少女は殺されてしまうのだ。この物語では、その理由が、「意志の強さ」というもので説明されている。つまり、殺人事件の背後には壮大な計画が横たわっていたのだが、その計画を立案した犯人は、とてつもなく「強い意志」を持っていた。その計画をなんとしても遂行しようとする「強い意思」が存在していたのだ。だから、表面上は大きく展開の異なるいくつかのパラレルワールドにおいて、この少女だけは必ず殺されてしまった。なぜなら計画を遂行するためには、この少女は殺されなければいけなかったからだ。歴史には、おそらくこのような事はたくさんあると思う。若干状況が変化したところで、計画を少し修正すれば同じ結末に行き着くだろう。ゆらぎはあっても、「強い意志」さえあれば最終的には同じところに行き着くのだ。『ひぐらしのなく頃に』では、この「強い意志」に導かれた結末をどのように回避するのかということが物語の後半のテーマになっている。

 このように『バタフライ・エフェクト』と『ひぐらしのなく頃に』では、現在の状況を変えようと過去に戻っていろいろ試みるのだが、その後の展開が大きく異なる。『バタフライ・エフェクト』では現在がどんどん悪いほうに変化していってしまう。他方、『ひぐらしのなく頃に』は状況が変わろうとも結末を変えることは困難で、必ず似たような悲劇が起こってしまう。そのあたりの違いが興味深い。

映画『Legion』



 『Legion』という映画を見た。この前のお正月ぐらいから見たい見たいと思っていた映画だ。あらすじを簡単に説明すると、(キリスト教の)神様が人間に見切りをつけて、人類を殲滅しようと天使を送り込むのだが、それに叛旗を翻した天使の一人が人間側につき、他の天使軍団と戦うという物語だ。この話の設定だけでも人気がでるのは容易に想像がつく。だって天使対天使だもん。天使が出てくるだけでもオカルトファンなどは大喜びなのに、天使がたくさん出てきて、天使同士が戦うとなったら、その設定だけで、もうだめ。つまらない映画を作れというほうが無理だろう。誰が作っても面白い映画に仕上がるだろうと思う。そう思って映画館に行った。そして見た。

面白くねーぞ!

 これね。ほんと、ひどかったのよ。こんなひどい映画を見たのは久しぶりだよ。まあ、俺はホラー映画ファンだから『死霊の盆踊り』はもちろん見ているし、Z級レベルの『Invasion of the Blood Farmers』というホラー映画も見ているわけよ。だから大概の映画には寛大でいられる自信があるんだけどねー。今回は期待が大きかった分、ちょっとばかりつらかった。まあ『死霊の盆踊り』と比べたら、面白くないわけではない(というか『死霊の盆踊り』以下の映画ってのは、この銀河系にはおそらくないと思うのだが・・・)。でも、『Legion」も、違った意味で、なんか駄目なんだよね。というか他の映画をパクリまくっているし。

 人間が憑依されたときに首が高速で揺れるのは、たしかちょっと前のホラー映画のパクリだと思う(なんのホラーだったか忘れたけど)。で、この映画の一番の「売り」である、おばあさんが天井を飛び回るシーンは、はっきり言ってエクソシスト3のパクリだし、アイスクリームマンのあごが長くなるシーンもどっかで見たことある。建物を守るために、店のネオンの前に陣取っているシーンはバイオハザード2を思い起こさせるし、憑依された人間の歯がとがっているのも、なんかのホラーに出てくる顔だったし(ハンニバルだったかな?)。そもそも多くの人が指摘しているように、映画の全体的な流れはターミネーターを真似ているし、店が憑依された人間たちに囲まれているシーンはゾンビ映画とかスティーブンキングの映画とかを彷彿させる。

 まあようするに映画のほとんどすべてが、今までのホラー映画のおいしいところをとってきて繋ぎ合わせただけなのだ。まるでキティちゃんとディズニーとドラえもんなど人気キャラクター勢ぞろいの中国の遊園地みたいなもんだ。もちろん、パクリ自体は問題ではない。話がしっかりしていれば、それはそれで面白かったのだと思う。おばあさんが豹変して襲い掛かってくるシーンなどは、予告編に入っていたし、それを見た時点ですでにエクソシスト3のパクリだということはなんとなくわかっていた。それでも見たいと思って映画館まで行ったのだから、そういう昔の映画の名場面ってのはパクってもいいと思っている。前から言っているように、ホラー映画ってのも、一種のデータベース消費の萌え要素で構成されている部分があると思う。『遊星からの物体X』の人間の頭から足が生えてクモのお化けになるシーンなんて、そういうホラー映画萌え要素の典型として、90年代の漫画とかによく使われていたんだし。だからパクリってのはよくあることなんだけど、この映画が失敗した理由は、そういうパクリ要素が多すぎたというのではなくて、それよりも根本的に物語性がまったくないというのが致命的な欠陥だったのではないかと思うのだ。とにかく意味不明な話の展開がよくなかった。ホラーだからって何でもありなわけじゃなくて、ちゃんと筋を通して貰わないとねー。

 ただこの映画を見ながら、ふと面白いなっって思ったことが一つあった。それは、赤ちゃんの存在だ。この映画では、実は妊婦さんが狙われていたんだけど、人間側に立った天使によると、生まれてくる赤ちゃんが人類を救う救世主になるのだという。ということで、その赤ちゃんを守るために戦うんだけど、この赤ちゃんが世界を救う(または破壊する)キーパーソンであるって感じのモチーフがアメリカのホラーではよくあるんだよね。例えば『エンド・オブ・デイズ』では生まれたばかりの赤ちゃんが悪魔の洗礼を受けるのだし、『オーメン』も666の赤ちゃんが災厄をもたらす。『ローズマリーノ赤ちゃん』も同じような感じだ。ターミネーターでは未来に生まれてくる赤ちゃんが救世主になるというモチーフだし、他にも結構ホラーとかでは赤ちゃんが重要な要素になることが多いと思う。これがキリスト教と関係しているのかどうかはわからない。もともと赤ちゃんとか子どもは神の使いっていう信仰は、いろんな地域で見られるわけだし。。。ただ、アメリカのホラーを見ていると、これから生まれてくる赤ちゃんに世界の運命が委ねられているというモチーフが意外と多いような気がする。漫画とかアニメではそういうモチーフはあまり見られないんじゃないだろうか?そのあたりのことについて、もう少しいろいろな映画を見たり、漫画やアニメなどと比較しながら、考えていきたい。

タイムトラベルSF映画を簡単にまとめてみた2

 タイムトラベルSF映画には大きく2つのタイプに分けられると思う。硬派一徹の歴史を変えられないもの。これは『ファイナルカウントダウン』や『フィラデルフィア・エクスペリメント』に見られる。つまり過去に起こった事象は決して変えられないし、変えてはいけない。もし過去に干渉すると自分たちの世界が大きく変わってしまい、下手をすれば自分たちが生まれてこなかったことになってしまうからだ。このようなタイムパラドックスを真剣に考えていたのが硬派タイムトラベルSFなのである。『ファイナルカウントダウン』はトンデモ映画の部類に入るが、タイムトラベル映画としては評価できると思う。歴史を変えられない、または歴史に干渉しないというのがタイムトラベル映画の本道だとすると、もう一つ歴史を変えたつもりがそれも歴史に組み込まれていたという話もあり得る。『戦国自衛隊』がそのような感じだ。

 これらの映画はタイムパラドックスを真摯に考えて作られた物語だったと思うのだが、歴史を変えてしまおうと考える輩が出てきた。もちろん、今、挙げた『ファイナルカウントダウン』にしても、『戦国自衛隊』にしても、視聴者は現代の武器がどこまで通用するのかということを見てみたいという欲求があって、映画を見に行った面もある。しかし、ぎりぎりのところまでで止めているのは、SFとしてのプライドがあったからだろう。それを無くしてしまうことはタイムトラベルSFとしては欠陥品ということになってしまうからなのかもしれない。その一線を越えてしまっているのが、90年代に流行った架空戦記小説である。ウィキペディアによると、架空戦記の流れは古くからあったらしい。ウィキを読んでいて面白いと思ったのは、シミュレーションという単語が何度となく使われていたことだ。俺のイメージだと、架空戦記ものは戦争とかに勝てなかった歴史を取り上げて、もしあの時こうしていたら勝てたのにというような妄想に近い物語を作るという面が強いと思っていたのだが、実はそういう妬み恨みなどを晴らすためよりも、もっとシミュレーション的な面が強いといえるのかもしれない。これは、次回話したいエンドレスエイトなどとも共通する考えになっていく。

 さて、このような架空戦記もので俺がよく本屋で見かけていたのは、大東亜戦争ものだった。帝国海軍が真珠湾攻撃のあと、(たしか)ハワイをそのまま占領し、アメリカ西海岸に上陸とか、パナマに侵攻とか、まあ、いろいろ興味深い戦略をしていたような気がするし、俺は時間がなくて数冊しか読めなかったが、できればもっと読みたいと思っていた。漫画の世界では織田信長が殺されずに世界征服に乗り出すとかいう話もあったような気がする。こういうのりで、気になっていた映画が、何度も名前を出している『ロストメモリーズ』である。『ロストメモリーズ』は2002年作られた韓国映画だ。日韓合作だったかもしれないけど、まあ韓国サイドの視点で語られた物語だ。なので日本での評判はすこぶる悪いと思う。まあ俺も最初はあきれたしね。ネタばれありなので、見たい人は映画見てから読んで欲しいんだけど、あらすじは、次のような感じだ。

 日本がアメリカと共に連合軍として第二次世界大戦に参加し、原爆はドイツに落とされ、日本は戦勝国として戦後を迎えたという架空の世界がこの映画の舞台だ。その世界で、朝鮮は日本の一部として発展してきた。2009年の京城(ソウルの昔の名称)もまた日本の都市であり、日本人と朝鮮人(韓国人と書くべきか悩んだけど、まあ南北朝鮮ということで。ちなみに朝鮮という単語は悪い意味ではないというのが、俺に韓国語とか朝鮮文化を教えてくれた先生の言葉)で朝鮮独立派テロ組織がテロを敢行。それに対して朝鮮系日本人の刑事(主人公)と日本人刑事(主人公の相棒)がテロ組織を追う。で、追っていくうちに、その主人公の朝鮮系日本人の刑事が、テロ組織の秘密を知っていくことになる。それによると、実は日本政府はもともとアメリカと戦争をして負けていたというのだ。それが、たまたま韓国で見つかった石碑みたいなものにタイムトラベルをする力があることを発見し、日本政府はエージェントを過去に送り込んで安重恨の伊藤博文暗殺を食い止める。その後も、そのエージェントは日本政府に100年間の情報を与えつづけ、アメリカとの戦争を回避し、他にも、いろいろなことをして、日本は大国にのりあがる。ただ日本人エージェントが過去に送り込まれたとき、日本政府の陰謀を察した韓国人研究者もとっさに過去にタイムトラベルしていた。彼女がパラレルワールドの方の朝鮮系日本人に真相を伝えたため、朝鮮独立派テロ組織が結成されたのである。彼ら朝鮮独立派テロ組織の目的は、タイムトラベルを可能にする石碑の一部を取り戻し、過去に戻って歴史を元に戻すということだったのだ。

 ということで、映画の後半ではテロ組織に入った朝鮮系日本人刑事(主人公)と日本政府から命令を受けた日本人刑事(主人公の相棒)の対決となり、晴れて朝鮮系日本人刑事が勝って、その後ハルビン駅まで行って、日本人エージェントの安重根暗殺を阻止し、安重根が伊藤博文を暗殺できて、歴史は元に戻って、よかったよかったになった。で、過去に飛んだ朝鮮系日本人刑事はその後、韓国独立のために戦ったか何かして、博物館に飾られた写真で笑顔を見せているという感じだったかな?はっきり言わせてもらって、くだらない話なんだけど、映画の最後に、パラレルワールドではテログループの中心的存在で最後は殺されてしまう子供が、修正された歴史では普通の子供として博物館で韓国独立の歴史の写真を見るというシーンがあって、そこは結構いい感じだったかもしれない。まあ、それでも、根本的にくだらないというか、当時のアメリカは戦争回避などさせてくれなかったし、この映画は日本だけが悪くて、アメリカは正義の国みたいな考えをしているけど、そんなことないというとこが日本人としては相当不満。しかも安重根ごときを殺したからって、歴史は変わらないって。。。それに現在の日韓関係を知っている日本人からすれば、もし過去に戻れたら韓国併合こそ全力で阻止します(笑)。ということで、歴史認識に関してはもちろん日本と韓国は違うから、まったく理解したくないような映画だし、他の日本人にもこの映画を楽しんでくれなんて口が裂けてもいえない。ただ、まあ、エンターテイメントとしてみたらがんばりは見える。アイデアはよかったと思うよ。

 まあ、そういうことで、歴史に関してはここでは考えないようにして、この映画の本質的な部分に目を向けてみたい。Aという歴史があって、それがBという歴史になってしまい、それをAという歴史に修正するために戦うというのがこの映画の本質的な部分だと思う。で、他の架空戦記物もそうなんだけど、Aというのが現実世界と同じ歴史で、Bというのは架空の世界だ。あの時こうしてたらとかいう架空の世界である。日本の架空戦記ものなんかは、現代の人が過去に言って架空世界の方にすすめてしまうという感じだと思うのだが、『ロストメモリーズ』で興味深いのはBから始まって、Aに戻そうとする。しかもBからAに戻すのは、Aが正しいからだ。現実の歴史が正しくて、他の歴史は間違いだという考えが根底にある。もちろん、我々から見たら、現実に流れているこの世界の歴史が正しく見えるだろう。しかし、架空世界の住人にとっては、こちらの歴史は果たして正しく見えるのだろうか?もちろん、『ロストメモリーズ』では一回起こってしまったAという歴史を日本政府が過去に戻ってBという歴史に書き換えてしまったのでAに戻したということだし、それは神の目で見たならば、その流れがわかる。つまり神の目を持っている映画の視聴者は理解できる。しかし、実際にBという歴史の中で生きている普通の人間はBが正しいだろう。今、急に俺の前に見知らぬ男が現れて、今の歴史は間違っている!とか叫んでも、俺はどうすることも出来ない。それと同じだ。では、神の目を持ったら本当にAという歴史が正しいのだろうか?おそらく、それもない。神の目を持ったということは、パラレルワールドを俯瞰できる能力を手に入れたということだ。そうであるならば、すでに歴史を相対化してしまっていると思われる。AとBの歴史だけではなく、C、D、E・・・と無数のパラレルワールドが存在する中で、そのどれが正しいのか、どれがもっとも優れたものなのかということを知ることはもはや出来ないのではないだろうか。そのように考えていくと、『ロストメモリーズ』の中で日本が戦争に負けなかったという歴史を否定することはもはや出来ないのである。それも含めて歴史なのだから。まあ、もともと物語が破綻しているので、深く考えても何も出てこないのだが。この映画のことを書いていたら、架空戦記ものとしてもっと緻密に作られている『ジバング』を取り上げたくなった。だが、実はさっき同じような文章をもうすこしいろいろ書いていたのだが、セーブする前に全部消えてしまって、力が抜けてしまったので、今回はここでセーブしてブログにアップしようと思う。そのうち、続きを書きたい。何が言いたいのか自分でもわからなくなってきたしね(笑)

タイムトラベルSF映画を簡単にまとめてみた

今日、東浩紀(著)『クォンタム・ファミリーズ』の書評が朝日新聞に載っていた。
http://book.asahi.com/review/TKY201002230201.html

この本は確か12月か1月ぐらいに出た本だと思う。もっと早くチェックしたかったのだが、いろいろあって内容はチェックできなかった。アマゾンのレビューだけチェックしたけど、家族がテーマということで、あまり興味がわかなくなっていて。。。どっちにしても古本屋に出てくるまでは、買えないだろうし。と思っていたのだが、この書評を読んだら、今すぐ、この小説を読みたいという気にさせられた。それだけ、上手い書評だった。

さて、俺は量子力学の勉強は挫折したので、ほとんど理解できていないし、だから多世界社会などと言われてもぴんとこないのだが、まあパラレルワールド自体は好きだ。だから、そこらへんで興味がわいてくる。もともと東さんは『ゲーム的リアリズムの誕生』とかでマルチエンディングのパラレルワールドの文学的意味などを考察していた。その延長線上にこのような小説を書いたとしても不思議ではない。さてパラレルワールドといえば、『ゲーム的リアリズムの誕生』では『All you need is kill』や『ひぐらしのなく頃に』、『九十九十九」などが取り上げられている。そういうこともあって、俺は数週間前に、今更ながら、アニメ『ひぐらしのなく頃に』を見て、『ひぐらし』の世界にのめりこんでいた。

『ひぐらしのなく頃に』は山村の田舎町を舞台に、そこで起こった連続怪死事件に巻き込まれた若者たちの話である。この物語が面白いのは、全50話ほどあるのだが、第4話で主人公(らしき人物)が殺されてしまうのだ。で、第5話では主人公が殺される数週間まえに戻って、似たような展開の物語が始まる。で、4話ぐらいでまた皆殺される。まあ、そういう感じで、事件が起きる昭和58年の6月が何度も繰り返され、そのたびに、異なった展開の話だが、悲劇の結末はほとんど同じという物語が続いていく。ただ4つほど似たような悲劇の物語が語られた後、なぜ同じ時間をいったりきたりするのかということが明らかになり、そしてこの連続怪死事件の本当の犯人は誰なのかということも明らかになる。

 まあ、ようするに『ひぐらしのなく頃に』は、あるキャラクターが昭和58年6月のこの町を舞台にしたパラレルワールドの間を飛び超えて色々な世界をいくつも体験する話なのだ。簡単にいったら、マルチエンディングのゲームであるサウンドノベルというアドベンチャーゲームの様々なシナリオをプレイしているようなものである。この『ひぐらし』とか、さっきいった『All You』など、マルチエンディングのゲームの基本は分岐点で選択肢の一つを選ぶことによって異なったシナリオに進むことができるという点だ(『ひぐらし』のゲームは分岐点が、ほとんどないらしいが)。そのような分岐によってパラレルワールドが生じるというのは、タイムトラベルのパラレルワールドと同じではないのかという疑問がわいてくる。そこに違いはあるのだろうか?ということで、これから数日は、このネタでがんばってみたい。まずは、タイムトラベルについて考えてみたい。

 タイムトラベルといえば、やはりSF映画が真っ先に思い浮かぶ。昔から結構いろいろなタイムトラベルものの映画があって、俺も小さい頃はタイムパラドックスを考えながら、硬派なSFタイムトラベル(またはタイムスリップ)ものの映画を捜し求めていた。例えば、『ファイナルカウントダウン』はアメリカの空母ニミッツが日本の帝国海軍が真珠湾攻撃をする直前の太平洋海域にタイムスリップしてしまい、真珠湾を奇襲するゼロ戦編隊にF14がスクランブル~みたいな。まあ、でも、歴史を変えずに現代の真珠湾に戻ってくるという話だ。『ファイナルカウントダウン』は子供のころに見て感激したのだが、数年前に見たら、日本軍の描き方などがひどくてがっかりした。映画の話じたいも大したことないし。タイムパラドックスには注意しているがそれだけの映画だったかな。一つだけ見どころがあるとすれば、過去に取り残されてしまったニミッツ乗組員が主人公をニミッツに乗せた大富豪だったとわかり、一見落着(というような話だったような気がする)。とりあえず、過去に取り残された男が過去と現在を繋ぐ鍵になっていて、そういう話だけだと大して感動はないのだが、タイムトラベルもののSFはそういう過去と現在を矛盾なく繋ぐ鍵が、話に深みを与える重要な要素になっているのだ。といっても、勇ましい音楽とともにゼロ戦を追い掛け回して撃墜するF-14の姿を見ていると、こっちが恥ずかしくなってしまうのだが、80年代ではこういう子供だましもありだったのかな。。。

 タイムトラベルもののSFで俺のお気に入りは『フィラデルフィア・エクスペリメント』だ。こっちはよく出来ていると思う(これも大学の頃に見たっきりなので、今、見たら俺の感想は変わるかもしれないけど)。ただタイムパラドックスなどはしっかりしていたような気がする。この映画のあらすじは、第二次世界大戦のときに米海軍はステルス実験をフィラデルフィアで行った。で、駆逐艦を使用した実験だったんだけど、実験は失敗し、駆逐艦は乗組員を乗せてどこかに消えてしまった。で駆逐艦が再度現れたときには、乗組員はすごいことになってしまっていたという実験らしいんだけど、それをモチーフにした映画で、主人公とその友達が時空を超えて現代(80年代?のアメリカ)に来てしまう。そのころ、アメリカでは時空が歪んである町がまるまるひとつ時空のゆがみに飲み込まれてしまいそうになっていて、その原因がフィラデルフィアエクスペリメントにあるとふんだ責任者の科学者が、主人公に過去に戻って船の動力を停止させるかなにかしてくれと頼む。で、世界を救うために主人公は過去に戻った。というわけで、まあ、あらすじは単純なのだが、この映画を面白いと思ったのは、タイムパラドックスの辻褄を合わせ、なんとタイムトラベルのすべてを知り尽くした俺様(←誇張です)を納得させた映画だったからだ。というか、何が納得できたかというと、主人公と共に現代にタイムスリップしてしまった主人公の相棒はちょっとだけ現代の世界をさまようわけだが、何かが起こって過去に戻ってしまう。で、主人公はその後、その過去に戻った相棒の家を訪ね、年老いた相棒と再会する(もしかしたら相棒の家族に会うのかもしれない)。そして、その相棒が過去に戻って現代の話をしたが誰にも相手にされなかったことなどを聞かされる。そのあたり、結構、泣ける。さらに、その相棒が言うには、主人公がもう一度船(時空をさまよっている)に戻ってきたという。その時点では、主人公はまだ時空をさまよっている船には戻っていないわけだが、その話を聞かされていたので、映画の最後に主人公がその船に戻ってスイッチを切ってくれと頼まれたときに、自分は行くことが決まっているはずだから、行くと答えて、時空の狭間に飛び込んでいく。そういうことで、この映画の面白さの鍵になる部分は、この過去に戻ってしまった主人公の相棒ということになる。彼を通して、過去と現在と時空の裂け目がすべて繋がるのだ。

 もう一つ、昔はあまり気にならなかったのだが、最近になって気になりだした映画が『戦国自衛隊』だ(ちなみに1979年に作られた千葉真一主演の『戦国自衛隊』です)。子供の頃に見たときは、さっきの『ファイナルカウントダウン』のパクリか何かかと思っていた(実はパクリではないし、戦国自衛隊のほうがよっぽどしっかりしたつくりです)。当時はアメリカ軍の方がかっこよく見えてしまうし、戦国時代にタイムスリップするなんて、真珠湾攻撃前夜にタイムスリップする『ファイナルカウントダウン』と比べると見劣りしてしまっていたのかもしれない。俺が『戦国自衛隊』で、一番納得できなかったというか、一番理解できなかった部分は、千葉真一演じる自衛隊の伊庭三等陸尉が映画の最後で織田信長になるという部分だった。中学生か高校生の頃に初めてこの映画を見たのだが、当時でも確かにこの映画の設定というか言いたいことはわかった。自衛隊が飛んだ先には、歴史の上ではいるとされていた織田信長たちがいなかったりと、われわれが知っている歴史と大きく異なっている世界だった。それがいつの間にか、自衛隊が歴史に関与して、歴史が修正され、最後は我々の知っている歴史になったという話の流れは理解できた。ただ、納得できなかったのは、彼らが飛んだ先になぜ織田信長がいなかったかということだ。我々の知っている歴史以外のパラレルワールドに飛んでいってしまう理由がわからなかった。なぜ、そのように考えたかというと、俺は当時歴史には真実があると信じていたからだ。だから歴史の真実である「織田信長」の存在を無視した時代設定というだけで、俺の中ではNGだった。最後に辻褄さえあえばなんでもいいのか!と言いたかった。それが俺の無知から来ていたとは知らなかった。ここ何年も人文系の学問などを勉強してきて学んだことは、歴史に真実はないということだ。我々が知ることができるのは、ありそうな事実であり、様々な資料と矛盾しない合理的な解釈から導き出された仮説に過ぎない。だから、もしも織田信長がいない世界があったとしても驚いてはいけないのだ。だって誰も織田信長本人にあったことなどないのだから。俺たちが知っているのは、彼が存在したと仮定した場合、他の資料と矛盾しないというだけだ。織田信長に似た人物が織田信長のように振舞っていたとしても、それはそれでありなのだ。だから戦国時代に自衛隊がタイムスリップしたということを否定することは出来ないともいえる。いつか、どこかで自衛隊の部隊が消える事件が起きるかもしれない。そして、彼らは過去に飛んでいくかもしれない(まあ、実際は、戦車やヘリコプターなどが過去に使用されたら、その情報が民話などに残ってしまうはずだけどね)。ただ、そういうことで、『戦国自衛隊』はセンセーショナルな荒唐無稽の物語で、最後に辻褄だけ合わせた二流のタイムトラベルSF小説が原作だと思われるかもしれないが、実はもっと歴史哲学に関係するような設定だったと思うのだ。つまり歴史の真実とは何かとかがテーマって事。そう考えると、この映画はとっても考え込まれた映画なのでもう一度見たくなる。

 さて、タイムトラベルの映画というと、たいていの人は『バック・トゥー・ザ・フューチャー』3部作はどうしたという人がいると思うのだが、俺はあまり好きではなかったので一言だけ。タイムパラドックスを完全に無視した映画なので論外です。まあ、でも、今は俺も大人の寛大さが出てきたので、この映画もただの娯楽映画として見れば楽しめるという感想を抱けるようになったのは確かだ。大学生ぐらいまでは、パラレルワールドになっちゃったですべてを終わらせるその安直な設定が本気で許せなかったけどね(笑)。ただ、最近、もう一つ興味深いことを発見した。それが、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』はタイムトラベルとしてみるのではなく、むしろ『ひぐらし』などのゲーム的リアリズムの物語に近い感覚なのだということがわかったからだ。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』自体は、ただの娯楽映画として作れられただけなのだろうけど、結果的には、最近の日本で流行っているパラレルワールドと同じつくりになってるのは興味深い。

 本当はもう少しいろいろ映画を紹介したいのだが、長々と書いてもしょうがないので、明日と明後日続きを書きます。おそらく明日は『歴史にifはあるか』ということを中心に、『ロストメモリーズ』と『ジバング』について比較したいと思います。あとパラレルワールドとしてのタイムトラベルの物語として、ハルヒの『エンドレスエイト』、『ひぐらし』、『バタフライ・エフェクト』、『バック・トゥー・ザ・ヒューチャー』とかについて書きたいと思っています。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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