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国民全員が外国語を流暢にしゃべれるようになるべきか パート2

前回の続きです。前回のエントリーは↓

国民全員が外国語を流暢に喋れるようになるべきか?


前回のエントリーでは、もう少し書きたい事があったと思ったので、続きは明日とか書いてしまったのだが、あれから何度か下書きを書いては消してを繰り返したが、どうにも話がまとまらない。というか、勢いで書いていると、どんどん意味不明な話になっていき収拾不可能にになってしまう。で、書き直し。それを繰り返していたら、疲れた。そもそも俺は一体何を言いたかったのだろう?という気持ちになったので、何を言いたくて前回のエントリーを書き始めたのかもう一度考えてみた。そしたら言いたい事はほとんど前回言ってしまっているんじゃないかという気がしてきた。なので、前回、続きを書くとか言ってしまったけど、前回のぐだぐだの文章を簡単にまとめて、ちょっとだけ付け足す程度に急遽変更しました。すいません。。。

前回述べた事を、まずまとめたい。というか前回のエントリーの文章がぐだぐだだったので、多分ほとんどの人は、何を言いたいのか理解できなかったと思う。そういうことで、もう一度簡単にまとめると、だいたい次のような感じのことを言うつもりで書いていた。

ようするに外国語を習得するのには莫大なエネルギーを必要とする。すべての国民が莫大なエネルギーを費やしてまで外国語をしゃべれるようになる必要があるのか?私はないと思う。ここで注意してほしいのは私は外国語を学ぶ事に反対しているわけではない。多様な価値観を学ぶ上で、外国語を学ぶことは有益だと思っている。また通訳や翻訳家あるいは研究やビジネスで必要だから外国語マスターしようと考える人たちの事を取り上げているわけではない。実際、後で述べるように通訳や翻訳家といった外国語の専門家の存在は重要だと考えている。私が述べたいのは、こういう人たちではなく、日常生活においては外国語を必要としていない人たちまで喋れるようにならないといけないのかということだ。もっと言えば、外国語をしゃべれるようにならないといけないというような風潮に反対したいのだ。例えば英語公用語論や小学生からの英語教育、国民全員が英語で日常会話が出来るようにならないといけないというような国民的強迫観念。そういうものに反対をしたいのだ。外国語を習得するのは苦手でも、他の才能に恵まれている人もいるだろう。外国語習得に費やすエネルギーを、他の才能を伸ばすために費やす方がいい場合もあるはずだ。国際化の時代だから国民全員が外国語をしゃべれるようにならないといけないというのは、語学習得の才能が無い人に無駄な努力を強いるだけだ。結果としてその人の才能を国のために活かす事ができなくなってしまうだろう。長い目でみたら、全体として国の力を弱めることにつながる可能性がある。

面白い事に、明治期の日本は逆の戦略をとった。つまり外国語を学ばなくても外国の知識を日本語で吸収できた方がいいと考えた。しかし西洋の先進的な知識を日本語に翻訳することは容易ではない。なぜなら、多くの場合、対応する日本語の単語がなかったからだ。西洋の知識を日本語で理解するためには、その知識を理解するために必要な概念や知識などに対応する日本語の単語が必要になる。だから膨大な新しい単語が作り出された。漢字の熟語で作り出された「新語」は、最近のカタカナで表記された外来語とは違い、漢字を見れば意味が分かる。このような「新語」を使う事によって、外国語に堪能でなくても、高等教育を受ける事ができるし、専門でない分野の知識にも容易にアクセスできる。もちろんアカデミックな世界とは無縁な人たちも新しい知見を容易に取り込む事ができる。

このようにして語学の才能が無くても、日本語で様々な分野の勉強をすることができるようになった。もちろん語学の才能がある人は、その才能を伸ばして行ける。語学の才能がある人と無い人、相互に依存し合う事によって、無駄な努力を最小限にすることができるようになった。デュルケームの社会分業論ではないが、相互に依存し合う事によってよりwin-winの関係になったということができる。

このように自国の言語で高等教育ができるようになれば効率が上がり、国家の教育レベルも上がるだろう。だから他の非西洋諸国でもこのような発展の仕方をするのが得策だったと思う。しかし、旧植民地の世界ではしばしばエリート層が宗主国側と結託して自国の民衆を支配するという構図になることが多かったのではないだろうか。その理由はいろいろあると思うが、一つには教育に使われる言語がエリート層と大衆の対立を助長する要因になってしまったのではないかと思う。なぜなら旧植民地では、宗主国の言語が公用語になっている事が多い。旧植民地の人間が高等教育を受けるためには、外国語を使わないといけない。高等教育にかぎらず初等教育から外国語で学ぶ国も多いだろう。その結果、教育を受けるためには、まず外国語に堪能でなくてはいけないということになってしまう。語学が堪能でない人間は、もし仮に他の分野で才能があったとしても外国語のハンディがあるので、自分の隠された才能を活かせるチャンスを得る事無く一生を終える事になる。また、そのような成功するかしないかというような事でなくても、ごく普通の人が持つような知識でさえ外国語を介してしか伝える事ができないと国民全員が同じ考えを持つ事を阻害するだろう。つまり国民の間で対話が成り立たなくなってしまう。例えば、老人など教育を受けていなかった人たちと、若者たち教育を受けている人たちの間には、知識量の格差が生じてしまうかもしれない。若者の間でも、教育レベルの差が歴然になってくるだろう。結果的にエリート層と大衆の二極化が進んでしまう。このように、何かの才能があっても語学の才能がないというだけで、その才能を伸ばす事ができず、また国民の間に知識レベルで格差が生じて、結果的に社会の二極化が進み、相互に依存し助け合うシステムが構築できない。このような状況は、国全体として見たら大きな損失になる。

韓国や台湾がこのような道を進まずに、急激に近代化を成し遂げる事ができた要因は日本人が作り出した「新語」が大きく貢献していたのではないかと思う。もちろん、だから日本に感謝すべきだと言いたいわけではない。日本人は日本のために「新語」を作っただけだ。しかし漢字で作られた「新語」は容易に漢字文化圏の国に流用できた。台湾の状況は詳しく知らないが、韓国語を学んでいたときに聞いた話では、韓国語には日本で作られた熟語が多く入り込んでいるという。その結果、韓国でも台湾でも高等教育を自国の言語で受ける事が可能になったはずだ。もちろん日本の統治時代、韓国や台湾の教育レベルがあがった事も無視してはいけない。例えば朝鮮が清朝やロシアに併合されていたら、おそらく清朝やロシア政府に迎合するエリート層の両班と、農民などの一般大衆との格差は是正されなかったと思われる。ここでも大衆が受けられる教育の存在が大きな意味を持っていたと思われる。もう一つ例を挙げると、中米でマヤ運動というのがあって膨大な量の新語が生み出されているらしいのだが、興味深い事には初等教育や中等教育だけでなくマヤ大学構想も考えられているらしい。この例からも言語や教育が社会にとってどれくらい重要かがわかる。

まとめると次のような事が言えるのではないだろうか?明治日本では大衆や国民の教育レベルをあげることによって、西洋の技術文化の恩恵を一部のエリート層が独占するのではなく、国民全体で享受する道を選んだ。その結果、一部の選ばれた者だけが富むのではなく、国が全体として発展し、結果的に国全体の力が高まった。これに対して、旧植民地では、一般国民は西洋の技術や知識にアクセスするのが不可能とは言わないまでも、困難になってしまっている。なぜなら外国語でしか高等教育を受けられないからだ。その結果、語学の才能があるものや、小さい頃から特別な教育を受けてきたものに有利な社会になってしまった。これは国内での格差を助長する要因になってしまった。さらには、そのような選ばれたものたちは奨学金などを利用して海外に行き、国に戻ってこないということも起こりえる。私が調査に入っていたツヴァルなどでは、国費でフィジーやニュージーランドに留学したのに卒業後、国に帰って来ようとしないとこぼす人が何人かいた。もちろんツヴァルは国が小さいため国内に留学生を受け入れるポストが十分ではないということもあるのだが、問題の核心は、若い留学生には、誰のおかげで今の自分がいるのか、何のために、そして誰のために自分たちはがんばるべきかという観点が抜け落ちてしまっているからではないかと思う。実際、留学先から休暇で帰ってきている若者達の中には、西洋人になったつもりなのか、おしゃれな服をきて、自分たちの伝統文化やツヴァルの年長者を非科学的だと卑下する若者もいた。彼らにとっては外国で暮らす事は、すばらしいことなのだ。同じ事が日本でも言えるのではないだろうか?最近のTPPの議論は経済や農業の話として語っているが、その核心は実は国家観を持っているかどうかではないかと思う。

つまり国家や国民の方を見るのか、それとも企業や個人を見るのかの違いに感じるのだ。TPPで外国を見るのではなく、まずは国の内部に目を向け、国民の生活レベルやGDPをあげるために内需を拡大しようとするのは、まさしく教育レベルをあげて全体的な国力をあげた明治二本の戦略に通じるものがある。

SF映画「ブレードランナー」では、エリートは新天地を目指して宇宙に出て行ってしまい、地球に残された人たちは下層民だという設定になっている。映画「They Live」では密かに地球に侵略し地球を経済的に支配しているどん欲なビジネスマンのエイリアンと、彼らとともに一般大衆を支配している地球人の成金財界人たちが現れる。国家観を持たずに個人主義を突き詰めて行けば、国を容易に捨てたり、自分の利益のために仲間を支配するようになるのではないか。それがTPPで危惧されることのような気がする。そのような動きを牽制するためには、国家や国民という枠組みの中に自分をきちんと位置づける作業が大事になってくるのではないかと思う。

って、ここまで、書いてしまってから、またTPPネタの部分を消すべきかどうかを悩んじゃってるんだけど、まあ、とりあえず消さずにアップします。ただ、実際、TPPがいい事なのかどうかは、私もわかりかねてます。一つだけTPPの問題で注目しておきたい事は、新しい対立軸を鮮明にしてくれたという点です。つまり左翼vs右翼とか、共産主義vs反共産主義とか、保守vsリベラルではなくて、リバタリアンvs反リバタリアンという対立軸を明らかにしてくれたという点がこれからの国家や社会の将来を語る上でとても重要になってくるのではないかと思うのです。ということで、TPPネタを書くのは少し気が引けるんだけど、近いうちにTPPによって明らかになった思想的対立みたいなエントリーを書きたいと思ってます。



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国民全員が外国語を流暢に喋れるようになるべきか?

数日前、フジテレビのニュースでエリート中国人学生の就職活動の話が取り上げられていた。途中から見たので、全体として何を報じたかったのかはわからないが、コメンテーターがCMに入る前に、次のようなコメントをしていた。
最近、韓国や中国の学生は勉強に熱心で外国語も英語以外にもう一ヶ国語を学んでいるのが普通だ。彼らは外国に出ようと必死になっている。日本の学生も外に向かって行くべきだ。みたいなことを言っていたと思う。
まあ、最近よく言われる日本の学生は内向きで元気が無さ過ぎる。もっと外に向かって行くべきだという意見と同じ流れだろう。よく考えるとTPP交渉参加賛成はの意見にも同じようなメンタリティが見え隠れしているような気がする。貿易立国の日本は外国に目を向けて外需を積極的に取り込むべきだ。そのためにもTPPを推進して行かなくてはいけない。みたいな感じだ。最近とくに開国とか黒船という単語もよく耳にするようになった。とりあえず外国に出て行けばいいとか、外国からいろいろ安いものや有益なものが入ってくるとか、外圧で日本の悪しき慣習を壊して貰おうとか、まあすべては外国頼み。外国に素晴らしいものが存在するというマレビト信仰にも似たメンタリティだ。植民地根性丸出しだから、カーゴカルトの方がお似合いか?

もちろん外国の方が優れている面もたくさんあるから、ある程度外国のモノや文化を受容するのを問題視するつもりはない。ただすべての人が外国語を学ぶべきだとか、すべての人が外国に出て行くべきだという話を聞くと、ちょっと違うだろという気持ちになってしまう。そこで日本人全員が外国語喋れるようになるべきだということに反論してみたい。
結論から先に言ってしまえば、外国語を学ぶことは必要だが、日本人全員が外国語を喋れるようにならないといけないとか、英語を公用語にしようとかいう意見はナンセンスだと思っている。あと、日本の会社で日本人しかいないのに、英語で会議をするなんて馬鹿だろうと思う。

なんでこういうことを言うのかというと、外国語を習得するのに莫大なエネルギーを費やすからだ。もちろん、日本語を廃止して英語などの外国語を導入するなら話は別だ。母国語として習得するなら、エネルギーを必要としないし、語学習得の才能も必要ない。ほとんど誰でも母国語としてなら問題なく習得できるだろう。ただ、言語は文化の根幹であり、思考法から世界観、行動様式まですべてのものが言語と関係しているということを理解していれば、安易に日本語を捨て去ることなどできはしないはずだ。世界中の少数民族が絶滅寸前の自分達の言語を復活させようと運動を起こしているこの時代に、グローバル経済活動で有利だからとかくだらない理由で自分達の言語を捨て去る決断をしたら笑いものになるのは明らかだ。まあ、日本語を捨て去ろうなどという極論はさすがに聞かないから、その心配はないと思うが。

ただ日本語を捨て去らないとすれば、やはり英語などの外国語は第二外国語として習得しなければならないということになる。そして、それは母国語を習得するのとは桁違いのエネルギーを必要とすることは、多くの日本人が痛感していることだろう。そこまでして外国語を習得する必要があるのか?私は無いと思う。外国語を学ぶことはいい。外国語を学ぶことによって、他の文化の見方や考え方に触れることができる。自分の文化を相対化することができる。日本語を学ぶ外国人の苦労を知ることができる。もちろん外国の人たちと交流することもできる。異文化を理解したり、多様な見方や考え方を習得するのに、外国語を学ぶことは有利だ。だから、外国語は少なくとも一つは学ぶべきだろう。

ただ、仕事や研究で本格的に使えるようにならないといけないというわけではないと思う。多くの日本人は日本語だけ話せれば別に問題はない。国家としては通訳や翻訳家が必要であろうが、それは語学の才能がある人が仕事に選べばいい話であって、日本人全員が外国語を話せるようにならないといけないという意見はどうかと思う。

私がアメリカに行って間もない頃、シンガポールから来た中国人とよく遊んでいた。彼は子供の頃から学校の授業は英語だったから、英語を普通に喋れた。私のルームメイトはフィリピン人だったが、彼も英語が公用語だったから、最初からビジネススクールの大学院に通っていた。他にもアメリカンサモアやポーンペイ島の友人も英語が公用語だから英語で苦労することはなかった。少なくとも会話で困ることはないと言っていた。外国語習得の才能がない私は、彼らがうらやましかった。ただ、それでも私は日本に生まれてよかったと思っている。日本人は日本語を大事にしたから、ここまで凄くなったと思うからだ。

私は、昔、大学で国文学の授業を受けたことがあるのだが、そのなかで明治期の日本人が日本語についていろいろ議論をしていたことを学んだ。詳しいことは忘れてしまったので、前島密とかそのあたりの名前しか思い出せないが、凄く簡略化してしまうと、明治期、アヘン戦争に負け植民地にされた中国と西洋列強の強大な力を見せ付けられた日本人は、その国力の違いが言語にあると考えた。漢字表記がローマ字に劣っていたから中国は西洋に屈したと考えた。そこで、漢字廃止論が唱えられ、ひらがなだけを使おうとする人や、カタカナだけを使おうとする人、そしてローマ字で表記しようとする人たちが現れた。授業では彼らの主張などが書かれた本を読んでいたのだが、結局、日本人は漢字かな混じりの今の表記法に落ち着いた。その授業を終えてから、私はずっと漢字と仮名を併用している日本文化をすごいと思っていた。韓国では一時期漢字の使用を極力減らしハングル表記を推進したらしいが、もともと日本と同じで同音異義語が多い韓国では漢字を併用しないと大変らしい。それと比較すると、日本はひらがなだけとかにしなくてよかったとつくづく思う。

もう一つ、明治期の日本人に感謝したいことは、膨大な量の翻訳語を作り出してくれたことだ。西洋文化は、明治初期までほとんど日本に入っていなかったから、明治の開国でたくさんの西洋文化が流入し、西洋の学問や知識が入ってきても、専門用語や専門的な概念などに対応する日本語の単語がなかった。つまり翻訳しようにも翻訳できなかった。普通なら、そのまま英語やドイツ語を使ってしまうのだろうが、当時の日本人は(たしか福沢諭吉とかだったと思うが)、漢字の熟語で単語を作った。よく知られているように、哲学や経済など多くの単語が作られたという。明治の人たちはいろいろな点で優れていたのだが、私は日本語の新しい単語を作ったという点が一番評価されるべき点ではないかと思っている。

日本がなぜ急激に発展できたのか、日本が占領していた韓国や台湾が戦後急速に発展できたのはなぜか?英語が公用語の旧植民地はなぜ発展が遅れているのかという理由の一つに、この日本人が作った単語があるのではないかと思うのだ。もちろん日本と外国の植民地経営の仕方が違うということも挙げられるだおる。例えば、地理学の有名な話で、イギリスなどの西洋の植民地では列車の線路が海から山に向かって何本も伸びていた。なぜなら、山から切り出された資源を港に運ぶためだけに線路が敷かれていたからだ。だから、海岸線に沿って横に広がって行くような発達はしなかった。そのあたりが日本の場合と大きく異なるという。そういう違いもあるので一概には言えないが、それでも私は日本人が作った多くの単語がその後の発展に大きく貢献したのではないかと思っている。なぜなら、日本も韓国台湾も、日本人が作り出した多くの単語によって、自分達の言語で専門分野の勉強をできるようになったからだ。他の旧植民地では英語など宗主国の外国語で専門知識を学ばないといけない。だから、まずは英語などの外国語をマスターしていることが必要条件になる。つまり外国語を習得する能力がない人間は最初から専門知識を学ぶことができないのだ。実際には外国語を学ぶことが苦手でも、数学が得意な人間がいるかもしれない。しかし、そういう人間は外国語が出来ないためだけに、専門分野にアクセスできないのだ。

と、ここまで書いていたら、相当疲れてきたので、続きは明日。


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国民全員が外国語を流暢にしゃべれるようになるべきか パート2



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逆パノプティコン



 近所のサティに小さな本屋さんが入っているのだが、その中をぶらぶらしていたら、『逆パノプティコン社会の到来 ウィキリークスからフェイスブック革命まで』という本を見つけた。パノプティコンという単語が気になったので一時間ぐらいでざっと立ち読みしてみた。まあ内容自体は可も無く不可もなくという感じで、とりあえずウィキリークスとかを知りたければ読んでみたらいいんじゃないかなというような本なのだが、この逆パノプティコンという単語がひっかかったので、今回はこの本に関してちょっと書いてみる。というか、逆パノプティコンという用語はちょっと違うだろうということを論じてみたい。ただ、先に言っておきたいのは、この本の内容を否定しているわけではないので、そこは間違えないでください。逆パノプティコンという用語が間違っているだろうということを言いたいだけなので、この本を読んで気にいっている人は気を悪くしないでください。さて、話を戻すが、まずは、この本の内容をざっと見てみたい。アマゾンには次のように紹介されている。

「パノプティコン」という言葉をご存じだろうか?日本語では「全展望監視システム」と訳されている。18世紀、ベンサムによって考案された監獄の設計案だ。ウィキリークスやフェイスブック革命による一連の騒動を見て、このパノプティコンを思い出す。ただ、構図は逆だ。看守塔にいるのは政府ではなく市民なのである。あのジョージ・オーウェルが小説『1984』において危惧していたのは、「ビッグブラザー」としての政府によって、市民の一挙手一投足が監視される未来社会だったが、ウィキリークスやフェイスブックの登場は、政府活動の陰の部分を含めたあらゆる情報を明らかにし、勇気ある市民が声を結集し、命をかけた政治行動を起こすための強力な武器を市民に与えた。看守塔にいるのは市民であり、監視されるのは政府であるという「逆パノプティコン社会」の到来だ。本書では、ウィキリークスやフェイスブック革命の分析を通じて、この「逆パノプティコン社会」の到来について論じることにする。


 この文章を読めば大体の内容は推測できると思う。まあ、ぶっちゃけ、よくあるネット社会論という感じの本だ。ただ、この本の感想とかをグーグルとかで検索するとなぜか非常に評判がいい。その理由はわからない。そこまで斬新なアイデアが書かれているとは思えないし、深い考察がなされているわけでもない。確かにウィキリークスの事に関しては結構詳しく書かれている。しかも読みやすい。なのでウィキリークスに興味のある人やネットのメディア論などを勉強したい人にはいいかもしれない。ただ、メディア論やネット社会論としては真新しいことは書かれていないし、著者の意見も社会思想の研究者とかの観点から見たら面白みに欠けていると思う。少なくとも著者の考えの基礎にあたる部分はそこまで深くないような気がする。例えば、「民主主義は素晴らしい政治体制である」、「国家と市民は常に対立している」、「国家は情報を統制し常に市民を抑圧する存在である」、「国家の枠を超えたネットのつながりには希望が持てる」、「国家レベルを超えた公共利益や普遍的な正義や価値観というものが存在している」などなど。まあようするに近代思想に反権力とか地球市民というような軽めの思想がミックスされただけではないかというような印象をもってしまう。だから、社会思想系を勉強している人などが読んだら、結構不満が残ると思う。そこらへんが気にならない人ならば、普通には楽しめる本だろう。

 さて、一時間程度でざっと立ち読みしただけなので、細かい点などは見落としている部分もあるわけだが、やはり、この本の一番の売りは「逆パノプティコン」という用語だろう。というかこの本の著者は比喩表現というかネーミングが好きらしい。例えばウィキリークスの変化をウィキペディア型からマスメディア型に変化したと表現したり、行政サービスが自動販売機型からiPhone型になったと表現したりしている。彼のネーミングは結構面白いし、その努力は評価に値するんだけど、ただ残念な点は、ネーミングがちょっとずれている時があるような気がするところだ。

 たとえばウィキペディア型という単語だが、これはウィキリークスの説明のところで使われていた。初期型のウィキリークスのサービスでは、さまざまな情報をアップするだけのサービスだったらしいのだが、そのような玉石混交の情報を単に提示するだけのサービスから、ウィキリークス自身が情報を選別・価値付けし文脈化するというジャーナリスティックな情報の加工までを手がけるようになった。この変化をウィキペディア型からマスメディア型になったと表現している。つまり、ここで言うウィキペディア型というのは個人が情報を自由にアップして編集することができるということを指しているようだ。しかし、実はそのような玉石混交の情報がフラットに提示されている状態というのはネット空間の性質であってウィキペディアの本質ではない。ウィキペディアの理念というか本質は、情報が自由にアップされるという部分ではなく、お互いに利害の一致しない不特定多数の専門知識を持った人たちがウィキペディアに書かれている情報をチェック・編集することによって、その情報を洗練させていき、最終的にはブリタニカなどの百科事典と同等かそれ以上に正確な情報に限りなく近づけようとするのがウィキペディアの試みであり本質だった。だから玉石混交の情報がフラットにそして乱雑に並べられていたウィキリークスの初期の状態を表現したいのであればウィキペディア型というネーミングはちょっとずれちゃっているような気がする。

 同じように、この本を読み始める前からすごく違和感を持っていた用語がタイトルにある「逆パノプティコン」である。フェイスブックやウィキリークスなどネット上には様々な情報が飛び交っており、それらの情報によって我々国民は政府を監視する術を手に入れた。従来は政府が国民を監視するパノプティコン的社会であったのが、今では市民が政府を監視する逆パノプティコン社会になった。と、こんな感じの議論がなされている。そういうことで、この本が指す逆パノプティコンというのは、市民が政府を監視する状態を指しているのだろう。単純化すればパノプティコン=権力側からの監視という意味でパノプティコンという用語を使っており、政府や権力が市民を監視するのがパノプティコン、逆に市民が政府や権力を監視するのが逆パノプティコンということになろうか。

 ここで確認しておきたいのは、そもそもパノプティコンというのが権力側からの監視という単純な意味で使われているのかという点になってくる。つまり監視社会の象徴としてパノプティコンという単語が使われてきたのかということだ。この点が、私が逆パノプティコンという単語を聞いて違和感を覚えた理由に繋がっていくことになる。そういうことで、まずはパノプティコンについて考えてみたい。

 社会思想などをちょっとでもかじったことのある人は、パノプティコンといわれたらミシェル・フーコーの名前が出てくると思う。フーコーがベンサムの考案したパノプティコンに注目したのには理由があった。それは監視するシステムだという点でパノプティコンに注目したのではなく、パノプティコンの中の囚人の心の持ちようが他の監獄とは違うという点が興味深かったからだ。監視されている状況だけだったら別にパノプティコンでなくてもいい。他の監獄でも捕虜収容所でも留置場でも、とりあえず監視されているシステムだったら何でもよかっただろう。フーコーが興味を持ったのは、だから監視システムそのものではなくて、パノプティコンでしか起こりえない事象であった。それはパノプティコンのみが、囚人が自らを律するシステムだったという点にある。

 パノプティコンのなかの囚人は看守が自分を監視しているかどうかがわからない。なぜなら監視塔に看守がいるかどうかが囚人からは見えないからだ。看守は監視塔にいて自分を凝視しているかもしれないし、昼寝しているかもしれないし、マンガを読んでいるかもしれない。極端な話、誰もいないかもしれない。しかし囚人には見えないから判断できない。他の監獄だったら、看守がいるかどうかを囚人は把握できている。だから看守が見回りに来たときだけ自分の行動に注意を払えばいいのだが、パノプティコンでは看守がいるのかどうかが定かではないため、常に看守がそこにいるかもしれないという看守の影に怯えながら行動しなくてはいけなくなる。その結果、看守に監視されているという気持ちを常に持ち行動するようになる。つまり監視されているかもしれないから、常に自分の行動を律しようという気持ちを持つようになり、その結果、そのような自己を律する精神が内面化されていくのだ。この点がパノプティコンのすごいところだった。なぜなら、これによって看守はいなくてもよくなるからだ。要は看守がいるはずだと思わせる構造、つまりはパノプティコンの構造さえあれば、看守はいなくても、監獄として機能する。だから看守の人件費などをカットでき、監獄側はコストを削減できる。もともと、コスト削減のためにいかに効率的な監獄を作るかということからベンサムが考え出したのがパノプティコンという構造だったので、これは当たり前と言えば当たり前の事柄だ。しかしこの囚人が自己を律する精神を内面化してしまうというところに興味を持ったのが、フーコーのすごいところだった。

 フーコーが、この仕組みに注目したのは、現代社会の支配の仕組みがこれと似ていたからだ。どういうことかというと、社会を支配する仕組みとして、昔は王様とかがいて、力で支配していた。法を犯したら見せしめに公開処刑したり鞭打ちにしたりと、まあ公衆の面前で罰を与えていた。王様がいい人なのか悪い人なのかということはここでは関係がない。長い歴史のなかで王制が常に圧制で民衆は虐げられてきたと考えるのはフランス革命以降の進歩主義者や近代思想家、マルクス主義者などの悪い癖だ。実際には、ほとんどの時代で、民衆は生き生きとした人生を謳歌していたのではないかと思われる。そして、その長い歴史のなかには素晴らしい王様もいただろう。ただそのような王様の良し悪しと、力による支配とは関係の無い話だ。遠山の金さんはいい人だけど、悪い奴は、はりつけ獄門とか平気でしていたし、そうしないと示しがつかなかった。つまり支配する権力側は常に支配される側から見えるところにいて、悪い気を起こさないように見張っていた。我々はここにいるぞということを見せることによって支配していた。支配するということは、民衆から見えるところにいるということだ。こういう支配の仕方はコストがかかる。法を犯したり権力に反抗したらこんなになるぞというようなことを絶えず見せないといけない。そのためには磔にされた人を槍でつつく人も必要だし、拷問係も必要だ。そのほかにもいろいろといろんな役職が必要だろうから、力の支配はコストがかかる。それよりも効率的なのはパノプティコンの囚人のように監視されているという感覚を支配される側が内面化するように仕向ければいい。それが生政治というやつだ。ウィキペディアの一部を抜粋してみよう。

 現代社会の支配体系の特徴として、例えば政府等の国家が市民を支配する際に、単に法制度等を個人に課すだけではなく、市民一人ひとりが心から服従するよう になってきたとして、個人への支配の方法がこれまでの「政治」からひとりひとりの「生政治」にまで及ぶようになったと説明する。これを「生政治学 (Bio-politics)」という。これはフーコーの著書『監獄の誕生』の中で言及される主要な概念のひとつで、この例を示すために、「パノプティコン」の例がよく使われる。

(ウィキペディア)


 そういうことで、フーコーがパノプティコンの議論を出したのは、権力が監視しているという社会を批判したいのではなくて、支配の仕組みが変わってきたということを示したかったからだ。昔は見える支配だったが、今は見えない支配になっている。ようするに権力側が実行力を伴って支配する仕組みではなくて、支配される側が内面から服従するようになったというところにパノプティコンの仕組みとの類似性が見て取れるわけだ。そしてそのメカニズムのキモにあたる部分は、1.支配している主体が見えないということ。2.支配される側が服従するという精神を内面化しているということ。この2点がパノプティコンの議論では不可欠な要素だと思う。

 つまり支配されているけど誰が密告者だかわからないというような昔の五人組や、監視カメラがいたるところにあってコンピューターで管理するビックブラザーの社会の話とはまったく違うのだ。五人組とかビックブラザーとかの監視社会では支配されていることが見えている。誰が監視しているのか、何処から監視されているのかはわからないが、少なくとも支配されているという事実は自覚している。一方、パノプティコン的な社会では自分で自分を律しているため、支配されていることに、もはや気がついていない。むしろ自発的に服従しているのだと思う。

 そのように考えてくると、逆パノプティコンって何?ということになってしまう。パノプティコンの議論では内面化と支配している人が見えていないという事実が重要になってきたわけで、これの逆の状況を逆パノプティコンと表現したいのであれば、少なくとも同じような状況が見られなければならないだろう。監視しているのが市民で、監視されているのが政府や権力ということになるんだろうけど、そもそも政府が監視されているということを内面化するとはどういうことなのかというようなことを考えなくてはいけなくなる。私はむしろウィキリークスとかフェイスブックなどのSNSの状況というのは、パノプティコン的な状況というよりも、むしろ五人組的な状況に見える。つまり誰が密告者だかわからない状況。お互いが疑心暗鬼になって、いつ裏切られるかわからない状況に近いのではないだろうか。もちろん、それによって、自分を律する精神も生まれるかもしれない。しかし、それはパノプティコン的な内面化ではないような気がする。まあ、そういうことなので、逆パノプティコンという用語はやっぱり違うような気がしてならない。



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『シェア』とソーシャルネットワーク

堀江さんの朝生発言への反論を今度こそ書こうと思っていたんだけど、ちょっと時間かかりそうなので、眠いし、でも何か書かないといけないという気持ちはいちおあって、なので違うネタを軽くかきます。今日、本屋に行ったので、前からチェックしようと思っていたユリイカを見たら面白そうだったので買った。で、家に帰ってきて、すこし読んでみた。




ソーシャルネットワークの現在という題名で濱野智史さんと小林弘人さんの対談を読んだんだけど、最近話題の『シェア』という本とフェイスブックを絡めて話していたので、だいぶ面白かった。『シェア』は前から気になっているのに、まだ読んでいないのだが、この対談の中での説明からいくつか抜き出すと次のようになると思う。

・・・『シェア』のように、ネット技術をプラクティカルに活用して新しいある種の「共産主義2・0」みたいなこと・・・


物を所有しないで、物の価値だけを使う新しいサービス型経済に移行しないと資本主義は行き詰るよ、という考えです。


ヨーロッパらしい話ですね。アメリカでもそうですけど、政府にしてもなんにしてもまず自分達=市民が結束して作り上げる。草の根的なものを大事にするというのがシェア思想の基にありますね。


シェア経済あるいはコラボ消費をうまくまわしていくためには、評判資本が軸になるというわけです。つまりお金を儲けるとかモノが欲しくなるというタイプの旧来型の欲望ではなくて、名誉を得たいという評判資本が重要になってくると。これはかつてのオープンソースに関わっていたハッカーと同じことですね。お金のためにコードを書くんじゃなく、ハッカーとして尊敬されたいからやるんだと。これおと同じことが、いま、さまざまな方面で出てきているということだと思うんです。


贈与というのは義務感を発生させるための現実的な社会的制度というか、信頼関係なり社会資本を生み出すための、人類社会が生み出してきた一つのテクなんだと思いますね。その現代的なあり方が『シェア』で書かれているような話なんだろうという気がします。



と、まあ、こんな感じでいくつか興味深い指摘がなされていた。この対談でもフェイスブックについていろいろ話しているので、例えば匿名性と実名主義とかゾーニングとフィルタリングの問題とかいろいろ話が出てきていてそこらへんも面白いんだけど、今回はシェアに関する部分だけ見てみたい。

上で引用した彼らの指摘を簡単にまとめると、シェアという新しい動きの特徴は
1.所有という概念を捨てて、何かのものを共有で使っていこうという姿勢
2.金儲けや物欲ではなく、名誉を重んじる態度
3.贈与交換に見られる返済の負い目がシェアの背後のメカニズムとして働いている
ということらしい。
所有というのはマルクスが論じていたことからもわかるように共産主義と大きく関係している。そっから私的所有権をすべて否定してフリーセックスに興じたヒッピーとかっていう話になったんだろう。まあ、私的所有権を完全に放棄している伝統文化には実際には無かったはずなんだけどね。でも、私的所有権が極限にまで肥大化してしまったのはある意味資本主義社会の暗部だろうし、(例えば里山みたいな共有地の存在などを認めないとかね)、だから、私的所有権をある程度小さくして、多くのものを共有するという共産主義的感覚はこれから重要になってくるんだろうと思うよ。

もう一つ、現代社会の問題点はやっぱりすべての価値を貨幣ではかってしまっていることだと思う。金さえあれば偉いみたいな時代になってしまっている。そういう拝金主義が跋扈する時代はどっか狂っているってのは多くの人はわかっているんだろうけどね。大体、そういうのは昔からわかっていたはずなんだけど、特に日本では金、金、金、という嫌な時代になってしまっている。今こそ、名声や名誉を重んじる態度が必要になって来るんだろう。

最後は経済人類学が述べているように、贈与交換の返済の負い目という感情がシェアの背後に働いているということなんだけど、そこらへんはちょっとわかりづらいので、『シェア』の本を読まないと詳しいことはわからない。

とりあえず、この対談を読んでいたら、ソーシャルネットワークの現在は『シェア』という概念と切っても切れない関係にあるということがわかる。そのような『シェア』という感覚は、ポスト資本主義と関係しているのだ。つまり、資本主義が行き詰っている現在、『シェア』に見られるような経済活動が今後活発になってくると思われる。そして、その『シェア』という感覚はソーシャルネットワークの中で顕著に見られてきたわけだけど、今後はそのような『シェア』の感覚が、ネットだけでなく、リアルな世界にももっと波及していくだろう。
というようなことを、この対談では述べているんだろうと思う。まあ、そういうことで、今月号のユリイカ面白いです。また違う記事を読んだら報告するかもです。

ついでに『シェア』もマジで読みたくなってきたなー。ブックオフで100円になるまで我慢しようと思っていたんだけど、我慢の限界かも(笑)



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人の幸せ(前編)

 私は大学の頃パチンコにはまっていた。で、一時期本気でパチプロ目指していた時期もあった。ゴト師と呼ばれるような不正行為はしたことがないが、パチンコやパチスロの必勝法をいろいろ考えていた。

 その頃の私は動物行動学や数理生物学を勉強していたので、パチンコに応用できないかといろいろ考えていた。例えばパチンコの台を一つのパッチ(餌が集まっている場所。例えば木にいる虫を食べる鳥を考えた場合、一本一本の木をパッチをみなすことができる。また虫が多い木もあれば、少ない木もある。このように、パッチにある餌の量は同じではない)とみなし、出球を餌と考えると、動物が効率的に餌をとる方法の最適採餌理論が使える(と信じていた)。最適採餌理論では、動物は餌のパッチで、どの程度粘ればいいかをモデルにしている。自然の中ではパッチに含まれる餌は不均等に分布している。だから餌が沢山あるパッチでは、長い時間そこに滞在して餌を探すほうがいいだろう。しかし、いくら沢山餌がある場所でも、無尽蔵にあるわけではない。餌をとっていけば、それだけ餌は見つけにくくなる。どこかの時点で他のパッチに移ったほうが、餌を見つけやすくなるはずだ。しかしここに問題が一つある。それは餌をとっている動物は、そこに餌がどの程度残っているかをはっきり知ることが出来ないということだ。例えば、今、餌が見つからなかったとする。しかし、それはパッチに餌がまったく無いということを意味しているわけではない。餌はまだ沢山あるのに、偶然、餌を見つけられずにいるだけかもしれない。逆に、長時間、粘ってみて、やっと餌がほとんど無いということに気がつくかもしれない。餌があるか無いかということを、短時間で、局所的な条件から判断するのは容易ではない。それでは動物達はどのようにしてこのような問題を対処しているのだろうか?

 何を基準に新しいパッチに移るタイミングを決定しているのか。動物行動学ではその基準を理解するために、3つの仮説モデルを立てて検証した。一つはパッチに餌がどの程度あるかは考えずに、一定量の餌をとったら機械的に次のパッチに移ってしまうというモデル。もう一つは一定時間滞在したら、餌が取れても取れなくても次のパッチに移るというモデル。二つのモデルは極めて単純であり、実用的ではない。今、もし仮に、餌がまったく無いパッチに来たとする。餌を一定量とるまで滞在しなくてはいけない2番目のモデルを採用している動物は、そのパッチに餌がまったく無いわけだから、他のパッチに動くためのノルマを達成できず、結果いつまでもその餌のないパッチに滞在しなくてはいけなくなってしまう。逆に、餌が極めて豊富にある場合はどうだろうか。餌が十分にあるため、余分なエネルギーを使って他のパッチに餌を探しにいくよりも、そのパッチに残って餌を採るほうが有利であることは明らかだ。しかし、滞在時間を機械的に決めていたり、一定量の餌をとったら動いてしまうモデルでは、ある量の餌をとったら、残りの豊富な餌を無視して他のパッチにいくことになってしまう。餌が取れているので餓死する危険性は無いのだが、どう見ても賢い選択とはいえない。そこで三番目のモデルが考えられた。三番目は一定時間内に一定量の餌がとれなくなったら次のパッチに移るというモデルだったと思う(←ここはちゃんと思い出せていないので間違っているかもしれない。詳しくは数理生物学の本とかを見てください)。ここではパッチの餌の取れ方によって、そのパッチがいい餌場か悪い餌場かを判断し、それによって他の餌場に移るかどうかを決定している。

 話をパチンコに戻そう。パチンコでは勝つか負けるかというのは台の良し悪しによって決まる。しかしその台で玉が出るかどうかということを知ることはできない。台をある程度打ってみて、球が出そうかどうかということを判断しなくてはいけない。また玉が出ても、それがいつまで続くかわからない。問題はどの時点で他の台に移るかということだ。つまりパチンコに勝つためのモデルは最適採餌理論とまったく同じ問題なのだ。そして、動物達が取っている戦略、つまり3つ目のモデルを使って台を移れば理論的には勝てるはずなのだ。。。と信じていた。今でも私の考えは正しいと思っている。ちなみに、パチンコに勝てないのは、このモデルがいけないのではなくて、欲を出しすぎて、このモデルみたいに機械的にスパッと他の台に移れないのが理由だ。まあ、しかしパチンコは打たないにこしたことはない。

 さて私がパチンコの話を始めたのは、パチンコの宣伝をしたいわけではない。(ちなみに私の願いはパチンコの完全廃止だ。)ここでパチンコの話を引き合いに出したのは、人の幸せを考える上でパチンコをしていたときのことが役に立つと思ったからだ。パチンコというのは実は楽しくない。もちろん遊びでやっている人たちはいいだろう。ただ、本気で勝ちに行くなら、これほどつらいものはない。例えば、私は、1ヶ月ぐらい勝ち続け、部屋のたんすには常に40万か50万円入っているというときがあった。他の人が聞いたら大金持ちだと思うだろう。しかし、実際にはそのお金は使えない。なぜなら、これらのお金は次の日のパチンコの軍資金になるからだ。今日の一万円が明日には三万円になるかもしれないと思ったら使えないだろう。だから実際にはパチンコとは勝っても勝ってもお金を使えないのだ。有名な社会学者マックス・ウェーバーは神に与えられた仕事を黙々とこなし、倹約に努めたプロテスタントが結果的に富を築いていったと考えた。つまり資本主義が西洋で発達した理由はプロテスタントの倫理によると考えた。同じことがパチンコにも言えるだろう。パチンコを本気でしているものたちは、倹約家で買うものといったらジョージアとコンビニ弁当とタバコぐらいのものだ。その他のものは買わない。いや、買えない。無駄な出費でリーチ目が出たのにお金がなくて大当たりを逃したなどという失態を演じては死ぬに死ねない。だからお金はすべて持っている。もう一つ、閉店までにいかに台をまわすかということも重要だ。だから、ひたすらパチンコを打つ。休憩を取ってご飯を食べに行くなどというのは言語道断。連荘の途中で閉店の曲が流れたなんてことがないように、黙々と打つべきなのだ。

 こうして、パチンコに勝ったとしても、そこにはあまり喜びはない。もちろん勝ったら嬉しい。大当たりが来るかどうかという緊張感を味わうこともできる。しかし、そのようなつかの間の喜び以外には何もない。お金を持ったとしても使えない倹約の精神。台を打ち続けないといけないという強迫観念。そのような精神を感じながら、唯一の楽しみは家に帰ってきて札束を数えることぐらいか。。。もちろん、これは勝っているときの話だ。多くの場合は、勝てずにいる。負けたときはひどいものだ。しかし、勝っているときも、幸せではないということをいいたかったのだ。

 なぜ幸せではないのだろう。それは、勝っているときも、明日勝てるという保障がどこにもないからだ。コンスタントにお金が入るという保障がない。毎日勝ち続けるためには、お金をほとんどすべてパチンコのために取っておかなければいけない。勝っても使えないお金。そんなお金に何の価値があるのだろうか?そんな生活に何の意味があるのだろうか?明日が保障されていない生活ほど疲れるものはない。勝っていても、幸せなど、そこには存在しない。大当たりを引いたときに興奮はあるが、そんな興奮は半日もしたら思い出せなくなっている。残るのは倹約と台を打ち続けないといけないという強迫観念だけだ。

 もちろん負けるときの方が多い。そしてそれは勝っているときより悲惨だ。いかに勝つかではなく、負けをいかに減らすか。それがパチンコを楽しむためにコツなのかもしれない。パチンコを打っている人たちはいろいろな試みをする。おまじないから統計理論(もどき)まで、勝つための智恵が蓄積されていく。もちろん、もっと実践的な対処法もある。一つは不正に玉を出してしまうゴト師と呼ばれる人たちの方法だ。もう一つは、負けのリスクを拡散するために、互助集団を作るというやり方だ。互助集団では、仲間全員の勝ちと負けをトータルして利益を出す方法だ。複数人で打つことにより、いい台にあたる確率を高めることができる。もちろん悪い台にあたる確率も高くなるが、一つの台に使えるお金の量を決めておけば、負けは最低限の損失で抑えることが出来るだろう。つまり互助集団は極めて有効な手段だと思われる。一つだけ問題があるとすれば、大勝ちした人が大負けした人に自分の勝ち分を持っていかれるということだろう。交互に勝ったり負けたりしているときはいいが、ある人が負け続けて集団に貢献できなかったとき、不満が噴出してくる可能性が考えられる。

 パチンコの必勝法はなんですかと、今聞かれたら、私には一つの簡単な答えがある。それは数理モデルの必勝法でも、互助集団をつくることでも、不正なゴト行為をすることでもない。パチンコをしないこと。これが私の答えだ。パチンコをしていたときは気がつかなかった。パチンコをしていたときは、パチンコをすることが当たり前だと思っていたから、パチンコをするという前提でもって、その中で最良の方法は何をすべきかと考えていた。しかし、パチンコの無い社会に住んでみてわかったのは、パチンコをしないのが一番幸せなことなのだ。

 同じことは資本主義でも言えるのではないだろうか。何を唐突にと思われるかも知れないが、昔、映画で株の売買をしている金持ちが出てくるシーンを見ていたときに、それってパチンコと一緒じゃんと思ったことがあった。その株を売買している人も、一分一秒無駄に出来ずにコンピューターの画面にしがみついて株の上がり下がりをチェックしている。ほとんど病気だ。株だけではない。前にも言ったように資本主義で成功する精神とは勤勉さと倹約である。パチンコと同じような状況がいたるところに見られてもおかしくはない。

 パチンコではつかの間の喜びを大当たりの興奮で味わっていた。現代社会では、何かを買ったり消費したりすることで、つかの間の喜びを得ている。しかし、それは人の幸せに直結する喜びではない。もっと動物的で刹那的な喜びでしかない。幸福度調査などでは、今の日本人は幸せを感じることが出来ずにいるらしい。当然なのかもしれない。日本や先進国では幸せの本質を見誤っているのだから。

 それでは、本当の幸せとはなんだろうか?と、ここまで書いてきたら、ちょっと疲れてきたので、続きは次回に書きます。書くことはだいたい決まっているので、すぐに続きを書いてアップしたいのですが、明日からちょっと忙しいので、次回のアップはおそらく数日後になると思います。すいません。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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