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Instagram、ツイッター、フェイスブック (後編)

前回の続きです。前回のエントリーはこちら

ということで、ツイッターでは3種類の情報がやり取りされているわけだが、フェイスブックでやり取りされている情報も基本的にはこの3種類だ。だからツイッターとフェイスブックの違いはやり取りされている情報の質的な違いではなくて、情報を発信するときに、その情報を受けとる相手を想定しているかどうかにあるのではないかと思う。

前回述べたようにツイッターでは自分がフォローしている相手と自分をフォローしてくれている人は基本的には一致していない。だからツイッターでつぶやくとき、そのつぶやきを見てくれているフォロワーの人たちを完全には把握出来ていないと思う。さらにフォローしていなくてもその人のつぶやきを見ることもできる。だから、自分のつぶやきを誰が見るかなんて誰もわからないのだ。つまり世界の中心で独り言を叫んでいるようなものだ。

一方、フェイスブックでは友達リクエストで承認した相手だけが自分の友達リストに入る。そして自分の発言は基本的に友達リストに登録されている相手しか見ることができないことになっている(プライバシー設定を変更したりすることはできるが、デフォルト設定ということで話を進める)。だから、何かをつぶやくとき、漠然とではあるが、ある程度誰が自分のつぶやきを見てくれるかということを想定してつぶやくことができる。つまりフェイスブックでは自分の友達につぶやくのに対し、ツイッターでは誰も想定せずにつぶやくのだ。もっと言えばツイッターでは不特定多数の人間がひしめく未知の世界に開かれているのに対し、フェイスブックでは友達リストに登録されている閉じた空間の中で情報交換をしているような感じだ。だからこそフェイスブックでは身内ネタや自分の身の回りねた、仲間しか写っていないスナップ写真などが掲載される。どれもこれも赤の他人がみたら、あまり面白くないものだが、仲間同士では面白い。そのような情報の共有によってさらに仲間意識は強化されていくだろう。ツイッターでもゆるい人間関係が構築されるとよく言われてきたがフェイスブックの仲間意識とは根本的に異なる。

さて、このような世界に開かれたツイッターと、仲間うちで楽しむフェイスブックの違いは、ツイッターのリツイート機能とフェイスブックのLikeボタンの違いにも反映しているような気がする。リツイートは、誰かのつぶやきを自分のフォロワーにも見せたい時にリツイートボタンを押すと自分のフォロワー全員がそのつぶやきを見ることができるという機能だ。ツイッターは情報を拡散するツールとして極めて有効に働くのだが、その拡散のスピードを高めているのが、このリツイート機能である。フェイスブックのLikeボタンも基本的には同じような機能を提供している。例えば私が友達AさんのつぶやきにLikeを押したら、Aさんとは面識のない私の友達BさんもAさんのつぶやきを見ることができる。もちろんBさんだけでなく、私の友達全員が見ることができる。ということで、ここまでだったら、リツイートとLikeボタンは似たような機能と言えるかもしれない。リツイートとLikeボタンの大きな違いは、その次の段階、つまり友達の友達のつぶやきを拡散するときに顕著になる。

ツイッターはもともと友達リストというようなものが存在しておらず世界に開かれているから、誰でも他人のつぶやきに反応できる。だから、誰かがリツイートしてきたつぶやきが面白いと感じたら、そのつぶやきを誰が発したなどということを考える必要はない。誰のつぶやきでも気軽にリツイートすることができるのだ。それはさらに私のフォロワー、私のフォロワーのフォロワー、そのフォロワーのフォロワー・・・とリツイートされていき、最終的には膨大な量の人がそのつぶやきを見ることになるのだ。

それに対して、フェイスブックは基本的に友達かそうでないかの境界線がはっきりしている。だから友達が見知らぬ人にLikeボタンを押したりコメントを書いたりしてそのポストを見ることができたとしても、それに反応することに躊躇するだろう。なぜなら、そのポストは友達の知り合いのものであって、自分の直接の知り合いのものではないからだ。その結果、そのポストされたものは、ツイッターのように何度もLikeボタンを押されて拡散していくということはあまり起こらない。友達リストの範囲内で終わってしまうのだ。これがツイッターとフェイスブックの大きな違いだと思う。

最初に述べたようにツイッターでもフェイスブックでも3種類の情報がやり取りされているわけだが、2番目と3番目の情報はツイッターでもフェイスブックでもどちらも有効に機能すると思う。クチコミ情報や近況報告をする場合はツイッターでもフェイスブックでも有効に機能するだろうが、リアルな知り合いの延長線上に位置づけられるフェイスブックの方がクチコミ情報の信頼度は上がるかもしれない。挨拶したり近況報告を友達に伝えたいのであればフェイスブックの方が有効だが、なんとなく独り言をつぶやくならツイッターでつぶやくのもいい。ツイッターだったら一時的に時間を共有し擬似的な人間関係を構築することもできる。ということで、ツイッターとフェイスブックはコンセプトは若干異なるが、上の二つの情報をやり取りする上では、どちらもうまく機能するはずだ。

しかし、問題は1つ目の情報である。つまり芸術作品や自分の意見などを発表する場としてどちらが役に立つかということを考えた場合、多分ツイッターの方がより有効なメディアになると思う。なぜなら、フェイスブックでは自分の作品や意見を見てくれる人が友達リストのメンバーに限られてしまうわけだが、ツイッターではブログと同じようにネット上の人たち全員に開かれているからだ。だから、より多くの人たちに見てもらいたいのならツイッターを選ぶべきだと思う。

さて、長々と書いてきてしまったが、Instagramの話に戻りたい。以前のエントリーで書いたようにInstagramでも、ツイッターでやり取りされている3種類の情報と同じような情報を写真を使ってやり取りすることができると思うし、そのような3種類の情報を交換するべきだと思う。つまり芸術的な写真(一番目の情報)、近所の店や新商品などのクチコミ情報を伝える写真(2番目の情報)、そして今何をしているかといった情報を伝えるための写真(三番目の情報)だ。これら三つの情報がやり取りされてこそ、Instagramが写真版ツイッターとして、他の写真サイトとは異なったサービスが提供できるようになると思うのだ。

しかし、そうはいっても、やはり芸術的なかっこいい写真を見せたいという人が多いだろうとは思う。そしてそのような1番目の情報に含まれる芸術的な写真をやり取りするのであれば、フェイスブックよりも世界に開かれたツイッターのような機能が必要になってくる。つまりLikeボタンよりもリツイート機能の方が有効に働くはずなのだ。

現在Instagramを楽しんでいるときに感じるのは、フェイスブックのようにどこか閉じた世界に写真を見せているような気持ちになってしまうことだ。Instagramは友達承認システムではなくツイッターのようにフォロー・フォロワーを採用している。だから友達リストに完全に閉じているということはない。ただリツイートがないから自分のフォロワー以外にに自分の作品を発見してくれるチャンスがない。人気写真に選ばれれば不特定多数の人たちに見てもらう機会も得ることができるが、それに選ばれる確率は結構きつい。だからフォロワー以外には写真を見てもらえないと思いながらアップしている人が多いのではないかと思う。リツイート機能さえあれば、爆発的に拡散されていくであろう写真がほんの一部の人にしか見てもらえないのは残念なことだ。

写真の著作権とかも関わってくるのからリツイート機能を付けられないという人がいる。ツイッターのつぶやき以上に写真は自分の作品・自分の所有物という概念が強く出てくるから、あながち的はずれな意見とは思えない。しかし、この問題とかは、Instagramにアップするときにユーザー名が自動的に写真に書き込まれるなどの機能を付ければ解決されるのではないかと思う。それに著作権とかにうるさい人はもっとしっかりしたサイトに作品をアップするだろうし、Instagramを利用している人は、自分の作品を独占するというよりも、むしろ自分の作品を拡散して欲しい人が多いのではないかと思う。だからリツイート機能はつけたほうがいいんじゃないかなーと思うのだ。ということで、人気写真のコーナーに選ばれない私の個人的な単なる願望でInstagramにはリツイート機能が必要なんだということを力説したいがためだけに、長々とした文章を書いてしまったわけです。付き合わせてしまって申し訳ありません。それと結論がしょぼくてすいません。

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Instagram、ツイッター、フェイスブック (前編)

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Instagram、ツイッター、フェイスブック (前編)

iPhoneを使っている人は知っていると思うのだが、iPhoneアプリはアップデートが結構頻繁に行われる。だから何も考えずにアプリをどんどんダウンロードした人は、毎日相当数の更新情報がくるはずだ。で、その更新情報の全てを把握出来ている暇人などあまりいないと思う。とりあえず更新マークが出たら一括更新ボタンを押してすべて更新しちゃうんじゃないだろうか。私とかはそもそもダウンロードしたことすら覚えていないアプリが結構ある。責任転嫁はあまり好きではないが、こればっかりは私だけの責任ではないと思う。まず責められるべきはフォルダ機能だと思う。

去年まではiPhoneにはフォルダ機能というものが存在していなかった。だから9ページかそこいらのなかにアプリをすべて並べておかないといけなかった。一ページに16個のアプリが入るから、全部で150くらいのアプリということになる。150個というと結構な量に聞こえるが、実際にはiPhoneを買ったばかりのやんちゃ坊主はアプリを毎日のようにダウンロードするもんだから1ヶ月か2ヶ月もするといっぱいいっぱいになってしまう。もう一つの問題点は、アプリの配置問題だ。アプリを使うときは通常アプリが並べてあるページにいかないといけない。後ろの方のページまでページを繰っていくのは結構しんどいから、よく使うアプリを最初の方のページに並べて、あまり使わないアプリは後ろの方に並べていた。何をダウンロードして、何をどこにおくかというのが、iPhoneユーザーの腕の見せ所だったのだ。雑誌とかにも、有名人のiPhoneにはこのようなアプリがこういう順番に並んでいるとか特集が組まれたりしていたほどだ。アプリの選択を通して世界でひとつだけの自分のiPhoneを作り出せていたのだ。だから結構気合が入っていた。

それが、iOS4になって、念願のフォルダが出来て、必要なアプリが最初の数頁にすべて置けちゃうようになって、結局、3ページ以降はあってもなくてもいい物置と化してしまった。だから最後のページにあるフォルダの中に放置している無料アプリなんて思い出せるはずもない。そういうことで、アプリの更新画面でこんなアプリ持っていたんだというような奇妙な再発見をすることもしばしばだった。と、また前置きがすごく長くなってしまったのだが、そういうことで、Instagramも何度か更新されていたのは、知っていたのだが、最近はほとんど触っていなかった。まあInstagramは前に少しはまっていた時期もあったので、アプリの存在を忘れたことはなかったのだが、開けるのも面倒になっていたのだ。それが、昨日半年ぶりぐらいにアプリを開いて使ってみたら、結構機能が充実していて驚いた。そういうことで、今日はInstagramの話をちょっとしてみたい。この前、2回にわたって書いていた分類の話はどうしたという人もいるかもしれないが、至極ごもっともなご意見です。すいません。別に忘れた訳ではないので、近いうちに分類の話も書きたいと思っているのですが、もう少し待ってください。。。というか、あんな話を楽しみにして下さっている人がいるかどうかも定かではないのだが。。。まあ、勝手にいると仮定して脳内妄想をたくましくしながら生きていこう。

さて、いつまでもだらだらと前置きを書いていても仕方ないので、Instagramの話に入りたい。このアプリについては前に何度かエントリーを書いたのだが(関連エントリーへのリンクは文章の最後に載せておきます)、簡単にいうとInstagramは写真共有のiPhoneアプリだ。写真共有といえばFlickrとかが有名だが、Instagramはスマートフォンに特化している点が特徴だ。スマホで写真が撮れて、それを簡単に加工して、そのままアップできるというお手軽さがInstagramの一番の特徴なのだ。で、今回更新された内容を見てみると、結構いろいろな部分が改善されていることに気がつく。例えば写真の一部分だけにピントを合わせ、他の部分はぼかす、tilt-shiftという機能や、Likeボタンを押した写真も見ることができるようになったこと。また、自分の写真をツイッターやフェイスブックなどいくつかのSNSにいつでもアップできるようになったことなのだ(以前はInstagramに写真をアップしたあとはSNSに写真をアップできなかった)。他にも改善された部分があるのかもしれないが、とりあえず目立った改善点はこのあたりだと思う。実際、だいぶ使いやすくなった印象をうける。ただ残念なことに、まだリツイート機能がない。だから、Instagramの世界はどことなくフェイスブックのような身内だけの閉じた世界で写真を楽しんでいるような気分になってしまう。ツイッターのように世界に開けているという実感がわかないような気がする。
ツイッターとフェイスブックはSNSとひとくくりにされることがある。ビジネスの世界では2009年から2010年の夏ぐらいまではツイッターがもてはやされていたが、2010年の冬ぐらいからフェイスブックが騒がれ出した気がする。だから、ツイッターとフェイスブックが同じようなものだと勘違いしている人もいるかもしれないが、実はまったく異なるコンセプトで発達してきたような気がする。どういうことかというと、ツイッターは自分の意見や作品を一方的に提示する傾向が強いのに対して、フェイスブックは相手との対話を重視しているような気がするのだ。もちろん厳密に分けられるわけではない。しかし、ツイッターはブログの流れを組んでいるのに対し、フェイスブックはミクシィに近い存在なのではないかと思う。

ツイッターはゆるい人間関係のSNSと言われるように、フォローのされ方が極めてゆるい。有名人や気になるつぶやきをしている人がいたら、誰でも簡単にフォローできる。フォローする相手の承認を得る必要がないのだ。だから気になったらどんどんフォローしていけばいい。ただフォローしたからといって相手にフォローしてもらえるとは限らない。フォローすることとフォローされることはまったく別の話なのだ。フォロー返しが礼儀だと勘違いしている人も多いが、基本的にはフォローしてくれたからといってフォローのお返しをする義理もなければ、むしろしない方が礼儀だと思う。ツイッターは友達ゴッコをする場所ではないからだ。むしろ情報の交換が前提になっていると思う。

以前のエントリーで、私はツイッターのつぶやきは3種類に分類できると述べた。一つ目は自分の意見や感想、また俳句・ツイッター小説などの芸術作品など、自分のオリジナルの作品。2つ目は有益情報。例えば新聞記事や近所のスーパーの安売り情報、気になる本や、便利なグッズ、生活術など多くの人に教えてあげたら喜ばれるような情報だ。3つ目は有益な情報ではなくて、ただのひとりごとのようなつぶやき。誰かが知りたい情報というわけではないが、そのような言葉のやりとりで人間関係がうまくいくような言葉だ。例えば「おはよう」や「おやすみ」の挨拶。今何をしているか、これから何をするかといったつぶやきなどだ。ツイッターで流れているつぶやきはこの3種類に大別できると思う。(すいません。文章が終わりませんでした。なので、誠に勝手ながら続く)
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Instagram、ツイッター、フェイスブック (後編)


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災害非常時にツイッターは本当に有効か? 前編

 今回の大震災で驚いたのは、公的機関やマスメディアなどが積極的にネットを活用し情報を発信したことだった。特にツイッターで緊急情報を発信しているところが多かったように思う。サーバーがダウンして自分のホームページから情報を発信できない公共機関などが、ツイッターで情報を発信した一方、テレビ局などもテレビやラジオにアクセスできない人のために、ツイッターやニコニコ動画、ユーストリームなどネット上でテレビのニュース番組を配信していた。被災した方達がどのような状況に置かれているのかわからない中で、あらゆる媒体を通して情報を発信していったのは的確な判断だったと思う。

 さて誤解がないように最初にお断りしておきたいことは、災害などの緊急事態でツイッターなどに過度に依存するべきではないということを今回私は述べたいと思っているが、マスコミや官公庁など国民に知らせるべき情報を発信する場としてのネットの役割を否定するつもりはないということである。緊急時においては、二次災害などの被害を最小限に抑え、国民の不安を取り除き、社会的混乱を避けるためにも、きちんとした情報が国民に伝えられるべきである。そのためには、なるべく多くの国民が一次情報にアクセスできる状態を作り出すのが情報発信者の責務であろう。現在ではテレビやラジオに加えてインターネットという強力な情報発信媒体を我々は持っている。これらの媒体をフルに活用することで一人でも多くの人に正確な情報が伝えることができ、それによって一人でも多くの人が救われるのならば、それに越したことはない。だから公的機関やマスコミが災害情報の発信にインターネットを積極的に使うようになったことは歓迎するべきことだ。

 ただし一般の人たちのツイッターの情報発信が、災害時に本当に有効であるのかということは議論の余地が残されていると思う。災害時におけるツイッターの利用に関しては、前からその危険性が指摘されてきた。例えば、昨年春のチリ大地震では、原口議員がツイッター上で津波情報などを発信し問題視された。ちなみに、原口議員の災害情報発信の問題に関しては、私もこのブログで3回ほど書いたことがある。当時はアカウントを持っているだけでツイッターはほとんど利用していなかったこともあってツイッター自体を否定的に見ていた気もするが、今読み返してみても全体的な考えは変わっていないので、興味のある方は読んでみてください。

  • ネット上の情報を考える(前編) 原口大臣がツイッターで津波情報を流した問題

  • ネット上の情報を考える(後編)

  • ネットとジャーナリズム


  •  さて昨年まではネットやツイッターの信頼性に関して極めて懐疑的であったテレビ局や新聞社などの日本のマスメディアが、今回はツイッターなどの危険性をほとんど問題視せずにむしろ積極的に利用しようとしている点は非常に興味深い。おそらくこの一年でマスメディア内部の意見が相当変わってきたのだろう。書店に行けばツイッターやフェイスブックといったSNSに関する本が溢れ返っており、新聞や雑誌、テレビなどでもSNSの特集が何度も組まれていた。また最近では中東の民主化運動で大きく貢献したのがフェイスブックやツイッターであったというような話も繰り返され、もはやマスメディアもSNSやネットがリアルな世界に及ぼす影響力の大きさを認めざるを得なくなってきたのだと思う。2ちゃんねるやウィニーなどネットの匿名文化をひたすら叩いていたころが懐かしい。今回のツイッターの積極的な利用は、このような意識変化の延長線上にあるような気がする。

     実際、今回の東北関東大震災においてもツイッターのデマ情報というものが3月12日に取り上げられるようになったが、11日未明のNHKの番組ではツイッターに書き込まれた助けを求めるつぶやきが紹介されていたし、12日の産経新聞朝刊でもツイッター上の情報が紹介されていた。マスコミはツイッターを情報発信のメディアとしてだけでなく、情報収集の場としてもツイッターを使っていたことが伺える。なお、今回のこのブログの記事は、震災後一週間ぐらい経った頃から書き始めているので、ところどころ古いネタと新しいネタが混在していて申し訳ないのだが、今週(3月30日現在)はいくつかのテレビ局がツイッターなどのSNSを取り上げていた。例えばNHKのクローズアップ現代では震災時のSNSを取り上げていたし、他の番組でもSNSを積極的に使っている支援団体の代表などがテレビに出演していた。

     これらのボランティア団体や支援団体の活躍を否定するつもりもない。しかし災害時に本当にネットやツイッターが役に立つのか。私はいまだにきちんとした答えを出せないでいる。災害時のツイッター利用はデマを拡散し混乱をもたらす危険性が高いというのは確かだが、だからといってツイッターが災害時にまったく役に立たないかというと、それも違うだろう。今回の震災では、貴重な情報がツイッター上を駆け巡っていたのは事実だ。例えば、どこそこにいるから助けに来てとか、寒さから身を守るためにはこうしたらいいとか、物資が足りていないから寄付を募るとか、節電しようといった呼びかけとかだ。人探しのツイートもいろいろ流れていた。このような情報の多くはおそらく本物であろう。そしてリツイートして拡散した人たちの善意も多くは本物だろう。日本人として助けたい、日本のために何かをしたいというナショナリズムに似た感情が今回はネットを中心に高くなった。そのような気持ちを日本人全体で共有できたことは特筆に値するし、保守主義者として歓迎したいことがらだ。その点に関してはまた違う機会に論じたい。さて、話を戻すが、日本のために何かをしたいという崇高な思いは素晴らしいものだと思っている。そしてそのような思いがネットを介して共有され、それが大きな力を生み出したことも注目に値する。事実、私も何度もリツイートしたいという衝動に駆られた。そのような現象自体を否定したいわけではない。しかし私はリツイートをなるべくしないようにしていた。私にはどの情報が信頼できる情報なのかということを判断することができなかったからだ。私は、その判断は今でも正しかったと思っている。しかし同時にもしかしたら、リツイートするべきだったのかもしれないという考えも持っている。どこかの建物に閉じ込められて救助を待っている人がツイッターでしか救助を求められずにツイートしていたのかもしれない。それをリツイートするだけでその人は救われたかもしれない。もちろんそれが偽情報であった場合、そのような偽情報に惑わされて、救助隊が時間を無駄にしてしまい、その結果、他の場所で救助を待っていた本来なら助けられる命が助からなかったという悲劇起こっていたかもしれない。どの情報が本物でどれが偽物かということは永久に判断できないだろう。だから、どちらが正しい判断だったかなどということはおそらく誰にもわからない。

     ただ、一つだけはっきりしている事は、ツイッターによってデマの拡散という危険性が格段に高くなったということだ。そして私の考えでは有益な情報がいくら大量に流れたとしても、デマ情報が一つでも流れる危険性があるならば、それは十分危険であるといわざるを得ない。それではデマが拡散するのを防ぐ手立てはあるのか?私はないと思う。先週か先々週のTBSラジオのDIGという番組で、ツイッターのデマ拡散を防ぐ方法として、ジャーナリストなど情報を扱う専門家以外は、安易にリツイートしないようにというようなことを言っていた。つまり情報の信頼性をきちんと見分けられる人以外はリツイートするべきではないという。言いたい事はわかるが、この考えはジャーナリストのうぬぼれでしかないと思う。もちろんジャーナリストは普通の人よりも情報の真偽を確かめる術に長けているかもしれない。人脈などを利用しなければ情報を確かめられない場合には、日頃から政治家や有名人と接触できるジャーナリストや報道関係の人たちのほうがより正確な情報を持っている可能性は高い。さらに公共機関や書籍、ネットなどを通して情報の真偽を確かめる手段も知っている。だから、調べられる情報に関しては情報を扱うプロは普通の人よりも情報の真偽を確かめることができ、結果的に信頼性の高い情報だけを流すことができる可能性は高い。

     しかし、ツイッター上でのリアルタイムに流れてくる情報、例えば助けを求める情報や災害の様子を伝える情報が信頼できるかどうかなどということは、その場に行ってみなければ検証できない。そこには情報を扱うプロもアマもない。遠くにいてその情報をこねくり回しても、根本的に検証は無理なのだ。ツイッター上でデマを見分けるなどということが常にできるわけではないことは確かだろう。科学的根拠がないとか論理が破綻しているなど明らかにデマと思われるものも確かに存在するが、拡散と書かれているのはデマの危険性があるとか得意になって言っている人の何人が本当にデマを見分けられているのか、相当疑問だ。ジャーナリストがデマを見分けられないと言ったからといって、普通の人が見分けられるとも思えない。

     ネットで情報の信頼性を担保しているのは数だ。すなわちお互い利害が一致しない不特定多数の第三者が認めてくれた情報は正しい可能性が高くなる。その数が多くなればなるほど、その情報が正しい可能性は高まっていく。そのようにしてネット上の情報は洗練され正確性が高められていく。これがネットにおける情報の信頼性の根拠である。ウィキペディアの試みがその好例であろう。このような数の論理はある意味正しいのだが、問題もある。それは、この数の論理は二つの前提を必要としている点だ。一つは利害が一致しない不特定多数の第三者が参加していること、そしてもう一つは、参加者全員が情報の真偽をきちんと評価していることである。一つ目の点を担保するものももちろんないわけだが、ツイッターで問題になってくるのは二つ目の条件だ。ツイッターではリツイートという極めて簡単に情報を拡散する機能が備わっている。それがツイッターの魅力でもあり、それによって効率的に重要な情報を拡散することができる。しかし、それは同時に危険な行為でもある。なぜなら情報の真偽を確かめずにリツイートしていくと、正しいかどうか定かではない情報がツイッター上に数多く存在することになるからだ。つまり何も検証などせずに脊椎反射でリツイートしてしまいがちなツイッターでは、リツイートの数だけでデマかどうかを見極めるということができないのだ。それにもかかわらず利用者は数が多いから確かだろうというネットでの常識をツイッターにも適用してしまう。その結果、皆がリツイートしているから正しい情報だと受けてってしまう人や他の人に伝えないといけないと思ってさらにリツイートしてしまう人も現れてしまう。そして玉石混交の情報が再生産されていく。

     さらに今回のことでもう一つ気になったのは、今回のツイッターなどの利用は「まつり」に似た状況を引き起こしていたのではないかということである。これは多分スマートフォンの利用が急速に広がったことも関係しているだろう。スマートフォンを使えばコンピュータとは比較にならないほど簡単にツイッターなどのSNSにアクセスできる。多くの人がテレビなどとともにSNSでより新しい情報を得ようとしたと思われる。そして、ツイッターなどのタイムラインを見て、意見交換する人が増えていく中で、一種の「まつり」現象を引き起こしていったのではないだろうか。

     「まつり」というのはネット用語なのだが簡単に説明しておく。「まつり」とは、以前から2ちゃんねるなどで見られた現象で、あるネタについて盛り上がったときに、その盛り上がりに参加することを目的とした大多数の人たちが参加して、更なる盛り上がりをみせる現象である。例えば掲示板などに多くの人が書き込むことで議論が盛り上がり、その議論というイベントに参加しているという集団陶酔に似た状況のこことを「まつり」と称している。なお「まつり」という単語を震災に用いるのは不適切と考える人もいるかもしれないので、先に説明しておきたいのだが、ここで言う「まつり」とはくだらないネタを扱う低俗なイベントだけを指しているわけではないし、参加者が野次馬根性で参加しているという意味でもない。「まつり」と表現された現象は参加することで一体感を得ようとする大多数の人間達が作り出す場であって、何をネタにしているかという内容は重要ではないし、その内容の貴賎は問わない。低俗なネタから崇高なネタまでどんなものでも「まつり」になる可能性がある。今回の震災での「まつり」に参加している人も、面白半分で参加しているわけではなく、ほとんどは、本当に震災の人を心配していたのは確かだろう。ここで「まつり」と表現したのは、そのような行為の目的を矮小化したいのではない。そうではなくて、ある行為を行うことによって一体感も味わっているとき、または一体感を味わうために参加する行為を「まつり」と表現しているつもりだ。なお「まつり」現象はネットに限らず現実の世界でも見られると思う。例えばボランティア活動も戦争も、ある意味「まつり」である。そのような公の行為を遂行するためには一体感を共有する必要がある。そして、そのためには「まつり」的な高揚感が重要な要素になってくる。

     さて、話を戻そう。今回の大災害は、iPhone4などのスマートフォンが普及して以降、初めての大災害となった。だから最近スマホを購入しツイッターにのめりこんだ人は、初めて経験した「まつり」状況だったのではないだろうか。もちろん以前から2ちゃんねるなどをしていた人は、おそらく、そのような「まつり」には参加しても、どこかで自分の行動を冷静に見ることもできたと思うのだが、スマートフォンを買って初めてツイッターの盛り上がりに参加した人はリツイートするだけで参加した気分に浸れる「まつり」に興奮したかもしれない。前述したように私もそのような極度の興奮状態でリツイートしたいという感覚を覚えた。リツイートすることで誰かの役に立ちたいという思いが極めて強く出たのは確かだ。そのような「まつり」によって結果的に多くの情報がリツイートされていったと思う。誰かの役にたちたい、誰かを救いたいという焦燥感からリツイートした人の善意は疑うべきではない。しかし、そのような特異な状況では情報の真偽を確かめる思考能力が低下していた可能性も十分考えられる。特に一分一秒を争うような救助を求める情報などはデマかどうかを確かめている余裕はないはずだ。一種の興奮状態のなかでスマホでそのような救助を求める情報を見たら多くの人がすぐにリツイートしていくのは当然だろう。それが今回の状況だったのではないだろうか。「まつり」に似た高揚感。それは日本が一体となって国難に立ち向かうという気分を高め、有益な情報が拡散されていくと評価される面もある。しかし、そのような状況では理性的な判断ができずにデマが拡散され混乱や悲劇を招くという危険もあるということは自覚しておくべきことだ。特にツイッターなどで不特定多数の見知らぬ人と繋がっている現代では、以前よりもずっと早く簡単に情報が共有されていく。デマもそれだけ早く拡散されていってしまうのだ。

     さて、このように災害時におけるツイッター利用で一番の問題はやはりデマの拡散という点になっていくだろうと思う。デマの危険はあるが、情報の共有としては有効なツールでもある。だから、私自身、災害時においてツイッターが有効かどうかということに関してはまだ考えがまとまっていないのであるが、ツイッターのいくつかの問題点は、以前書いた3本の記事でいくつかの問題点を指摘したつもりだ。今回はツイッターやネットがなぜ災害時において有効に活用できないのかということを、ツイッターやネットの特性と有事の際の特異な状況の対比として論じたい。簡単な図式としては、ネット社会では共同体よりも個人が優先される傾向が強いが、有事の状況下では個人よりも共同体が優先されるべきだというような違いで、有事の際にはツイッターやネットは有効に活用できないのではないかということを指摘してみたいのだ。と思ったら、またもや前置きをぐずぐず書いているうちにすごい長文になってしまったので、次回に書きたいと思うのだが、もしかしたら次回がないかもしれないので、とりあえず書きたいことのポイントだけでも簡単に書いておく。

     ツイッターやネットでは多様な意見がフラットに並列されるている。そこでは情報は階層化しておらず、権威や権力を排除する傾向が強い。だからこそ反権威、反権力としては非常に有効なツールとなる。ネットでは、個人が自分の意見や情報を自由に発信し、さまざまな情報にアクセスすることができる。一方災害時において重要な事は何かというと強いリーダーシップだ。災害時は情報は一元管理されノイズは限りなく排除されるべきだ。国家などの権力機構の強制力を伴った指揮のもと効率的に問題に対処し解決されていくべきなのだ。このような有事の際の状況はネットやツイッターが目指す状況、つまり個人が情報を自由に発信し、それらの情報がフラットに並列されている状況とは対極に位置する。災害緊急時にはネットやツイッターは一元化された情報を効率的に発信する有事の際の状況を阻害する危険性がある。その点を私は指摘したいのだ。そして、ネットやSNSを称揚しているマスコミの危機管理のなさも指摘しておきたい。彼らは非常時においても自発的な個人の役割を過大評価しており、国家の役割を理解しようとしていない。数ヶ月前、「朝まで生テレビ」というテレビの討論番組で堀江貴文氏が軍隊の存在を否定して、戦争が起こった際には市民が武器を手にとって家族を守ればいいというようなことを言っていた。つまり何か危険が迫ったら市民一人ひとりがが立ち上がればいいのであって、軍隊などに頼らなくてもゲリラ活動だけで他国の軍隊と戦えるというような夢物語を語っていた。ゲリラ活動を行うにしても、その部隊を指揮する人物が必要になるというようなことは堀江氏は考えていないようだ。災害時にネットやツイッターが有効に活用できると信じている人は、それに近い考えだと思う。個人がいかに崇高で利他的な考えを持っていたとしても、支援するという気持ちだけで、皆が好き勝手な行動をし始めたら現場は混乱し効率的な作業はできない。有事の際には誰かがまとめなくてはならないのだ。そして、そのための機関は個人の利害を調整する機関でなくてはならない。つまり現代社会では最終的には国家がその役割を担うべきなのだ。今回は天災だったが、もしこれが戦争だったらどうなるのか。有事の際に、敵がデマ情報を大量に流して社会を混乱させることも容易に想像がつく。それらにかく乱されることなく、一つの意思のもとに国民の力を結集し国難に対処していくためには、国家という存在が重要になってくるわけで、そこにフラット化した個人の情報(敵が社会を混乱させるために流したデマ情報も含む)が並列されてしまっていてはいけないのだ。そのようなことを考えたら災害非常時にツイッターが有効だったとか暢気なことを言っているべきではないだろう。もちろん有効に活用できる面もあるし、評価するべきところは評価しなくてはいけない。しかし、有事の際にネットがどの程度有効に活用されるのか、どのように活用すべきなのかということは、きちんと議論していくべきことだと思われる。そのようなことも議論せずにネット批判からネット称賛に180度変わってしまったマスコミの態度は非常に危険といわざるを得ない。

     とか、まあ、そういうことを書こうと思っている。震災から一週間経った頃からそんなことを考えながら、考えが上手くまとまらないうちに、いつの間にか2週間が経ってしまった。なので、いつ書けるかはわからない。もしかしたら書かないかもしれないけど。気が向いたらそのうち書きます。ついでに実は最近コードギアスという5年ぐらい前に流行ったアニメを見て感動したので、今更だけど、次回は多分そっちの感想とかを書くと思います。



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2ちゃんねる考

最近はあまり利用していないが、数年前まで2ちゃんねるを結構利用していた。朝日新聞の文句を書くために2ちゃんねるを覗いていたので、専らマスコミ板を利用していたのだが、他の板もたまに訪れたりしていた。

2ちゃんねると聞くと、おそらくネガティブなイメージを抱く人が多いと思う。マスコミがことあるごとに2ちゃんねるを叩くので、ウィニーと並んで、犯罪の温床のような印象を持っている人もいるかもしれない。犯行予告の書き込みをする場所か、差別的言動を交えた便所の落書き程度の低レベルな書き込みをする場所程度に思っている人も多いだろう。確かに誹謗中傷などくだらない書き込みも散見されるのだが、それでもニコニコ動画とともに日本のサブカルを牽引してきたし、これからもネット文化の中心的役割を担っていくと思う。

2ちゃんねるの一番の特徴はやはりその匿名性にあると思う。『アーキテクチャの生態系』のなかで濱野智史氏は2ちゃんねるの特徴として二つのことをあげているが、そのひとつは匿名性によって可能となるコピペ文化である。濱野氏は次のように言っている。



またこうした「総コピペ主義」の背景には、匿名掲示板という性質も大きく関係しているものと思われます。なぜなら、2ちゃんねるでは、そもそも「誰が」そのAAやテンプレを製作したのかを、認識することができないからです。ですからそこには「著作者」という概念そのものが機能しえない。逆にそのことが、自由な著作物のコピペによる伝播と流通を促しているとも言えるわけです。



濱野氏はこの匿名性に「都市空間」を見出しているわけだが、2ちゃんねるには、2ちゃん用語などをつかって仲間意識を喚起する「内輪空間」という感覚も同時に存在している。内輪空間で重要になってくるのが「祭り」的な集合的協同現象であり、ネタ的コミュニケーションというものだ。なおネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションの基本である情報の交換ではなく、他者との繋がりを維持するためにコミュニケーションをとっていくという現象だ。つまりコミュニケーションの内容が重要なのではなく、コミュニケーションをするという行為が重要にになっているようなものを指している。だから、このようなコミュニケーションでは、内容ではなく2ちゃんねる用語を使って仲間意識が喚起され「内輪空間」が生じていればいいのである。

すなわち、2ちゃんねる語をウェブ上で用いることで、互いが誰であるのかを問うことなく、「みんな同じ」であることを巧妙に先取りしてしまうコミュニケーション。2ちゃんねる語によって「”アイロニカル共同体”のメンバーだ」というシグナルが送られると、互いに平等な匿名メンバーとして「お約束の中」で振る舞えるようになるーこうした言葉遣いのもっとも表層的なレベルでの共通性を軸に、2ちゃんねらーたちは「内輪」の境界設定を行ってきたわけです。



濱野氏は、ここからさらに踏み込んで、この2ちゃんねるの状況と近代国家としての「想像の共同体」を重ね合わせる。

2ちゃんねるという空間は、ある種不思議な「二面性」をかかえているということができます。一方で2ちゃんねるは、互いの顔を見ることができない匿名的な「都市空間」である。しかしその一方で、それは「2ちゃんねらー」という名の一つのキャラたちが集まった、巨大な「内輪空間」でもあるということです。(中略)こうした二面的な特徴は、かなり議論が飛躍してしまいますが、政治学者・ベネディクト・アンダーソンが論じる「想像の共同体」としてのナショナリズムの働きに比較的近いのではないかと筆者は考えています。つまり、顔も見たことのない「国民」と呼ばれる市民同士が、新聞(出版資本主義)というマスメディアを通じて、互いにどこか仲間意識や家族のようだと感じてしまうことの不思議に、2ちゃんねるのメカニズムは近しいように思われるのです



なかなか興味深い見解である。ただ、2ちゃんねるという空間は常にネタ的コミュニケーションだけをしているのかというと、そうではないような気がする。もちろんテーマによってはネタ的コミュニケーションが目立つ板もある。例えば、マスコミ板などは、ネタ的コミュニケーションに似たスレッドが立つことがあるし、反応がわかっているようなスレッドを立てて、お約束の展開を楽しむということが確かに行われている。しかし、他の板では違ったことが行われているのも事実だ。2ちゃんねるは、2ちゃんねると一言で済ますのは無理なほど多様なパターンが存在するし、おそらく2ちゃんねるユーザーでもすべてを把握している人などいないのではないかといえるほど巨大だ。そしてそこでは膨大な情報が毎日消費されていっている。膨大な数のスレッドが同時並行的に参照され多数の書き込みがなされそれらの書き込みが消費されていくわけだから、その書き込みのすべてを把握しているものなどいないだろうし、そのようなことを試みる必要もない。ヘビーユーザーでさえ、自分の興味のあるいくつかの板を訪れるぐらいで十分なのだ。そしてそれらの多様な書き込みがなされているのであって、誹謗中傷や罵り合っている板がある一方で、親身に人生相談の相手をしてあげている板や、好きな趣味の話に花を咲かしている板もあるし、初心者の質問に職人のような少し厳しい口調で答えている板もある。2ちゃんねると一言でいっても、いろいろなテーマの議論がなされているわけで、一概に中身のないネタ的コミュニケーションだけを行っているわけではないのだけは確かだ。

そのようなさまざまな板のなかで、私が今日取り上げたいのは恋愛に関する書き込みがなされている板だ。そこでは匿名性ゆえにロランバルトのいうところの「作者の死」というものを引き起こしているように思うからだ。その板を説明する前に、まず「作者の死」という概念を簡単に確認しておきたい。ちなみにロラン・バルトの解説は内田樹(著)「寝ながら学べる構造主義」がわかりやすいです。



以前は文学でも映画でも作品と呼ばれるものを批評するときに、作者がなにを意図してその作品を作り上げたのか、作者の真意はどこにあるのかということを突き止めるのが作品を理解する行為だと考えられてきた。しかし、実際には作者にも何を表現したいのかはっきりとはわからないということがわかってきた。つまり一つの一貫した意味が作品の中にあるのではなく、むしろさまざまな要素が絡み合った織り物のような存在であると考えられるようになった。もちろん作者に製作意図はある。ある朝目覚めたら作品が目の前にできていた。誰がつくったのかはわからないが、おそらく自分が作ったのだろう。というような夢遊病者のような話をしているわけではない。ただ製作者が何かを表現したくて作品を作ったとしても、その表現したいことをすべて意識できているわけではないし、すべてを表現できるわけでもない。どう表現したらいいのかわからないこともあるだろう。製作者の意図しない表現が入り込んでいるということである。これは別に芸術作品に限ったことではない。日常の会話で我々は常に感じていることだ。言いたいことをうまく表現できなかったという経験は誰にでもあると思う。特に子どもの頃はそれが顕著である。子どもと話していると気がつくと思うが、自分の感情を上手く言葉で伝えたい、自分の考えをきちんと説明したい、というのがよくわかるが、上手く言葉にできなくて苦しそうにしている時がある。まだ言葉ですべてを表現できずにいるからだ。しかし、これは子どもだけの問題ではない。我々でも表現したいことを上手く伝えられずにもどかしい気持ちになるときがある。つまり言葉は完璧ではないのだ。内田さんは次のように言う。

言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりえません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。



そして、作品を作者が100パーセント把握できていないとするならば、我々はどのように作品を理解していけばいいのか。ここで重要になってくるのが読者の存在である。なぜなら受け手がどのように解釈するかということが重要になってくるからだ。さてここで、さらに興味深いことを内田さんは指摘している。それは匿名性の文化であるインターネットの世界における作者の死である。

私たちはインターネット・テクストを読むとき、それが「もともと誰が発信したものか」ということにほとんど興味を持ちません。だれが最初に発信したのであろうと、それはインターネット上でコピー&ペーストされ、リンクされているあいだに変容と増殖を遂げており、もはや「もともと誰が?」という問いはほとんど無意味になっています。問題は、それを私が読むか読まないか、読んだあと自分のサイトにペーストしたり、発信元のサイトにリンクを張ったりするか、という読み手の判断に委ねられています。これはバルトの言う「作者の死」とかなり近い考え方です。



ここで重要な点は「誰が最初に発信したのかということは重要ではなくなっている」という点だ。そして濱野さんが述べていたようにコピペが基本で著作者というものが機能しえない2ちゃんねるのような匿名の場において、この傾向は顕著に見られるであろう。

さて、何度も言うように2ちゃんねるにおいても、板によって雰囲気はガラッと変わる。だから一概にこれが2ちゃんねるだというような一般論を引き出すことは難しい。ただ、作者の死という概念と関係して私が2ちゃんねるで興味深いと思ったのは、恋愛板を訪れたときだった。

恋愛に関する板もいろいろあるのだが、その中で主に片思いの人たちが集まる板が二つある。恋愛サロンと純情恋愛だ。この二つの板を利用する人たちは片思いであり、自分の気持ちを伝えるスレッドが乱立している。相手に直接伝えられない想いをそこに書き、相手が偶然自分の書き込みを読んでくれるのではないかと淡い期待をするようだ。例えば次のようなスレッドがある。「好きな人と自分のイニシャルを書くスレ」、「想い人に言いたいことを書くスレ」、「切なくなったら書くスレ」、「好きな人にバレルことを書くスレ」などだ。ようするに、自分の存在や気持ちに気づいてほしいと思って書き込んでいる。しかし彼らはなぜ書き込むのか。2ちゃんに自分の気持ちを書き込んだよと好きな相手に言っているとは到底思えない。ほとんどの人はこっそりと書き込んで、相手が偶然に自分の気持ちに気づいてくれることを願っているだけだろう。しかも書いている人は、自分の文章を読んでくれることなんてほとんどないということは十分承知している。相手が自分の書き込みを読んで自分の気持ちに気がついてくれる可能性なんてほとんどないということを十分理解したうえで、一パーセントの可能性を夢見ているように思う。

さて、私が注目したいのは、その書き手の気持ちではなく、文章と読み手である。いろいろな書き込みがなされているが、例えば好きな人にばれる事を書くスレなどを読んでいると、自分の身の回りのこととダブって見えてくることがある。なぜなら、書いてあることが、誰にでも起こるような、日常のよくある出来事だからだ。今日電車に乗るところを偶然見かけましたとか、いつもあのコンビニでお弁当を買うんですねとか、今日帰りに偶然見かけて嬉しかったですとか、挨拶できました、とか今日久しぶりに話せて嬉しかったですとか、そういう文章が続く。片思いで悩んでいるわけではない状態のときにこのような文章を読んでも何も感じないとは思う。ただ、この板にくる人たちは、ほとんどが片思いの人たちだ。しかも相当悩んでいる人たちだ。だから彼らは、自分の気持ちを書き込むと同時に、自分の好きな人が書き込んでいないかという淡い期待をしながらいろいろな文章を読んでいく。そのような状況で、平凡でどこでも起こりえるようなよくある日常の出来事が書かれていると、自分の事ではないかと考えてしまう。これらの文章は誰とかどことかの情報が欠如していることが多い。そのような情報が不完全な文章(完全に状況を把握できる文章なんてあり得ないとは思うが)を読んだときに、多くの文章は自分と関連付けて読めてしまうのだ。

これはコミュニケーションの観点から言ったらまったくの失敗であろう。書き手は好きな人に気づいてもらいたくて書いた文章なのに、まったくの赤の他人の読み手が完全に誤解してメッセージを受け取ってしまっているのだから。しかも複数の読み手が勝手な解釈を加えているわけであって、そのどれもが間違っているということを、書き手も読み手も心のどこかで理解できている。このような誤読を最小限にする方法は、そして書き手が本当に伝えたい相手にメッセージを送りたいのであれば、具体的な情報を加えればいいだけの話だ。一番重要な情報は自分の名前を出すことだろう。それによって、関係者以外の人間達は、そのようなメッセージになんの関心も示さなくなる。

しかし、もしも恋愛板の住人が全員、自分の本名を名乗って告白ゴッコをしていったとするならば、まったく面白みのない場になってしまうだろうし、ほとんど誰も訪れることはなくなるだろう。単に自分のメッセージを書き残す場所としての機能しか残らないからだ。匿名であるがゆえに、文章は多様な読みを可能にし、そこから文章を自分にひきつけて楽しむことができる。情報は完全に開示されてしまっていてはいけない。しかし、同時に情報がすべて隠蔽されてしまっていてもいけない。その中間の不完全な情報のときにこそ、読者をひきつけていくのだとおもう。完全(秩序)と(無)ランダムの中間の不完全な状態、これは何か新しいものが常に生み出されるカオスの縁に似てはいるような気もする。いずれにせよ、このような不完全な情報が2ちゃんねるの恋愛板の魅力であり、そこでは書き手は淡い期待をすることができ、読み手は文章を自分にひきつけて一時的な心の平穏を得ることができている。

このような文章の断片と戯れることはまったく非生産的な行為でありおそらく社会には受け入れられないだろう。しかし精神的に追い詰められた人たちが避難できる場所、一時的にでも心の平穏を得ることができる場所というものが必要ではないかと思う。そして、そのような空間は匿名性故に自分の都合のいいように解釈できる場所、つまり多様な読みを可能にする匿名掲示板の2ちゃんねるという空間が重要になっているように思う。その賛否は置いておくとして、少なくとも、匿名の書き込みが作り出す特異な空間というものの存在は興味深いと思う。



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動画は倍速にかぎる

去年の五月にiPhoneを買って、ポッドキャストを聞くようになった。
ニュースとかトーク番組とかをよく聞いているんだけど、iPhoneで聞くと2倍速に出来るからすごく便利。
英語の番組は2倍速なんてマジ無理なんだけど、日本語の番組は2倍速じゃないと無理。
2倍速で聞いていると、普通のスピードで聞いているのが、時間の無駄に思えてくる。
だからラジオ番組とかを聞きたいときでも、ポッドキャストがあるなら、リアルタイムにラジオを聴くんじゃなくて、次の日にポッドキャストにダウンロードして聞いている。

ポッドキャストを倍速で聴くようになって数ヶ月が過ぎた去年の10月頃、ネット動画をボーっと見ながらふと思った。時間が足らん。
ユーチューブとかニコニコ動画には、いろいろ面白い動画が満載だ。
特に政治系とかって国会中継とかトーク番組とか、とても面白い。
まあ俺は右よりだから基本右系の番組をメインに見てるんだけどね。たぶん左翼系の番組も山のようにあると思う。
つまり右左にかかわらず、悩みどころはやっぱり時間になってくるだろう。
普通のスピードで聴いていると、一日数時間動画を見なくちゃいけなくなる。というか、一日数時間見ていても全部消化できないし。人生を無駄に過ごしているなーとか思いながら、でも動画をチェックしたい。
と、そのとき思った。ポッドキャストみたいに倍速できたらいいなって。
そうして、検索したら見つけた。倍速ソフト。
ネットで調べたら、2年ぐらい前にこのソフトを紹介している人もいるようなので、俺だけ知らなかったのかもしれないが、とりあえず、知らない人のためにデモ動画のせておく。
まだ試したことのない人は、ぜひ試してみてください。絶対、気に入ります。
(ちなみに、最近アフィリエイトとアドセンスを始めたんだけど、このソフトを紹介するのは、そういうのとはまったく関係なく、自分が使っていてすごく便利なので紹介したいという純粋な気持ちだけです。なので、安心してデモ動画を見てください。)



ソフトの会社のHPはここ↓
http://www.enounce.com/myspeed

動画に登場するソフトは5倍速まで出来るみたいだが、俺の持っているのは3倍速までだ。でも、俺は2倍速ぐらいが限界なので、3倍速あれば十分。一週間お試し期間で使用でき、気に入ったらシリアルコードを購入できる。30ドルとちょっと高めだが、動画をよく見る人たちは、それだけの値打ちは十分あると思う。一時間の番組を30分で消化できるなら安いもんでしょ。俺の大好きな3時間討論番組も1時間半で見れちゃうし。

それにしても、この倍速動画を見ていると、速読と関係しているなーってつくづく思う。俺は速読はまだできないんだけど、速読の極意は大意を掴んで必要な情報だけを掴み取ることだと思うんだよね。一言一句理解する必要はないって感じで。そういわれても、本を読んでいると全部ちゃんと読まないといけないって思っちゃうのが俺の欠点。俺はマンガとかも読むのが相当遅い。なぜなら完璧主義のA型水瓶座だからだ。例えば「がががががががが」と効果音が書いてあったら、「が」を8回きちんと読まないと気がすまない。妥協は許されない。不器用なもんで。

そういうこともあって、飛ばし読みの速読はすごく苦手だったし、その飛ばして読むという根性が気に入らなかったんだけど、よく考えたら本を読むのは情報を得るためであって(文学みたいに文章を味わう本は別)、情報を得られれば、後はどうでもいいわけだということを、この倍速動画の経験は教えてくれる。本もノーマルスピードで読んでいたら一冊しか読めないところを、倍速で2冊読めたら情報量は倍になるわけだしね。そう思って、今日も倍速動画を見ています。明日こそは倍速読書もするぞ!



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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