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TBSの地図に対馬がない!

今、ハガレンを見ていたら、30分間ずっと津波警報の地図がでかでかと映っていた。こんなに長く映しておく必要があるのかどうかわからない。とりあえずハガレンの画面が見えねーぞ(怒)!個人的には数分間映し出しとけばいいのではないかと思うのだが、まあアニメよりも人命が大事だというのは理解できるから、それは我慢しよう。ただ一つだけ許せないのは、対馬が映っていないことだ。もともと、2チャンネルとか一部ブログで大騒ぎになっていたので、TBSの津波警報の地図に対馬が映っていないという情報は今朝から知っていたのだが、さすがのTBSもそこまで腐ってないだろうと半信半疑だった。で、ハガレン見たわけだが、TBSの地図を見て愕然とした。テレビ画面の三分の一ぐらいのでっかい地図が映し出されていたので、目の錯覚とかそういうレベルの話ではなく、本当に対馬がない。ついでに壱岐もないんじゃないかな。九州の上にあるはずの壱岐・対馬がないんだよ、おっかさん。

地理情報システム(GIS)を使ったことがある人はわかると思うけど、これはミスとかの問題じゃないです。ミスというのは絶対ありえないし、もし万が一ミスをしたのだとしても、壱岐・対馬が抜けているというような大きなミスは容易に発見できます。例えば日本地図に北海道がなかったら、日本の形をしていいないし、それだけでミスってるなってわかるはずです。対馬などは比較的大きな島なので、そこが抜けていたら容易に発見できます。それに気が付かずに、最終の地図をアウトプットしたというのは、あり得ない行為です。しかも、TBSはクレーム受けても、一部の地域しか訂正しなかったらしいし。

地図ごときで、なぜそこまで大騒ぎするのって思うかもしれないけど、よく考えると、これはトンデモないことなのです。これが他のもっと大騒ぎされそうな島がなくなっていたことを想像してみてください。例えば沖縄が地図上から消えていたら、朝日新聞とかが大騒ぎすると思います。北海道とか四国がなかったら日本の形を成さなくなってしまうし、九州が消されていたら俺は泣いちゃいます。対馬がないというのは、そういうことです。でも、毎日新聞の変態記事問題みたいに、他のマスコミは何も騒がないんだろうな。悲しいことです。
ちなみにこのネタは、俺のもう一つのブログの方で、もう少し詳しく書いてます。興味のある人はぜひ来てください。
http://blog.livedoor.jp/kemmaarch/archives/65308265.html


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朝日新聞乙

今日の朝日新聞に次のような記事があった。

石原都知事「銅メダルで狂喜する、こんな馬鹿な国ない」

「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」。東京都の石原慎太郎知事は25日、バンクーバー五輪の日本選手の活躍に対する国内の反応について、報道陣にこう述べた。

 同日あった東京マラソン(28日開催)の関連式典のあいさつでも同五輪に触れ、「国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない」と話した。

http://www.asahi.com/national/update/0226/TKY201002250536.html



さて、この記事を読んだのだが、まったく理解できない。俺はスポーツとか本当に興味がない。まあオリンピックだから、まったく興味がないわけではないが、ほとんど興味がないし、今回の冬季オリンピックで誰がメダルを取ったのかなんてことはほとんどしらない。唯一知っている選手の名前はフィギュアスケートの浅田真央と安藤美姫、あとキムヨナぐらいか。だから、この記事を読んでもピンとこなかったのは、俺の無知が原因なのかもしれない。ただ、それにしても、この記事は情報がなさ過ぎる。何を訴えたいのか、まったくわからない。一つだけメッセージを受け取れるとすれば、石原都知事が、誰か(または何か)を馬鹿にしたという印象操作ぐらいだ。

先に言っておくと、俺は石原都知事はあまり好きではない。彼の言っていることには反対することはあまりないのだが、あの傲慢な態度が好きではない。テレビなどで時折見せる反対意見を言われたときの怒ったような口調は本当に嫌いだ。だから、右よりな俺だが、石原都知事は好きになれない。ということで、彼の悪口を書いても別に腹が立つわけでもない。

それでも、この記事の露骨な印象操作はよくないと思う。ネットで調べると、このことを報じている新聞社は、今のところ(2010年2月26日午後2時33分現在)朝日新聞だけのようだ。他の新聞社にスルーされるぐらいくだらない内容の記事なのかもしれない。よく調べてみると、似たような発言を石原都知事はしているようだ。数日前の記事だが、それによると、高橋大輔選手が日本フィギュア男子初のメダルを取ったことに関して「いいじゃないか。金メダルじゃないんだろ。別に否定しませんよ。しかしそれはそんなに快挙かね。まあ結構でしょう」と言ったらしい。だから、今回の件も、それと同じような意味の発言を、またしたということなのだろう。ただそうであるならば、もう少しどういう経緯で発言したのかということを詳しくのせてくれないと、この記事の有用価値は便所の落書き程度になってしまう。石原都知事がどういう質問をされて、どういう意図があって、このような事を言ったのかわからなければ、判断のしようがないだろう。まさか、石原都知事が歩きながら、「銅メダルで狂喜する、こんな馬鹿な国ない」とか独り言をぶつぶつ言っていたとは思えないし(笑)

まったく、こういう印象操作まがいのことをしている暇はあるくせに、石井一議員が鳥取県と島根県はチベットだとか発言したという話は朝日新聞には伝わっていないようだ。こっちの石井議員のネタは毎日新聞ですら取り上げているのにね。朝日新聞は、自民党議員の失言はお祭り騒ぎしてたくせに、民主党には本当に優しい新聞社だ。自公政権の時は、権力を監視し、どのような政策でも、ひたすら反対することがジャーナリズムの使命だと意味不明な開き直りをしていたけど、民主党は監視するどころか、フォローにまわっている。さすが天下の朝日新聞。平凡で退屈な生活に刺激を与えてくれる新聞社。やっぱ朝日新聞抜きでは生きてかれない(笑)

NHKの番組にむかついた

外国人参政権と外国人住民基本法について、反対意見を、ちょっと書きたいと思いながら、ネットで調べていたら、すごい番組を見つけてしまった。NHKのジェネレーションYとかいう番組だ。




なんかね、相変わらずだよねー。というか、ある意味、非常に日本的な番組だなって思った。どこが日本的かというと、外国からの目を気にしすぎているところが日本的だと思う。というか外部の視線だけが、すべて正しいと思いこんでいる部分が痛い。他の国では、あまりこういうノリの番組は受けないと思う。すべて自分の方に非があると思い込んでしまう国民性でないと、こういう番組って成り立たないと思うから。。。。。

だいたい日本に住んでいる外国人だからって、みんな頭がいいわけじゃないじゃん。英語がしゃべれても頭がいいわけじゃないのと同じだ。外国に住んでいたら異文化理解が深まるという論法があるかもしれないけど、それが正しいとしたら、日本人留学生は、みんな異文化理解に精通しているということになるじゃん。でも、実際はそんな甘いもんじゃないんだよね。日本人留学生を見ていてもわかるように、異文化交流に関してのことって、留学生によって、意見はまちまちだと思う。もちろん、カルチャーショックを受けたりするから、留学生の方が異文化というものを考える機会が多いってのはある。だから、他の国に住んでいたら、異文化理解できる可能性がほんの少し高くなるってのはあるだろうけど、そのぐらいだと思う。他の国に数年間住んだら、異文化交流の本を一冊読んだくらいの経験は出来るってことであって、よっぽど意識的に文化とかを考えていないと、それ以上になることは稀じゃないかなって思う。逆に言えば、日本にいたって異文化理解の本でも読んでりゃ、留学生と同等の経験が出来るんだと思ってる。だから外国に住んでいた日本人留学生とか、日本に住んでいる外国人の人だけが、とりわけ特別な人たちじゃないってのを俺はまず言いたい。

でも、番組を盛り上げるために、やっぱりどうしても異文化経験者を出したいというのなら、在日外国人を出して片言の日本語で討論させるよりも、外国で暮らした経験のある日本人を集めて討論させたほうが、もう少しましな議論が出来ると思う。外国の人はやっぱり日本語で表現する時点でハンデがあるからねー。しかも彼らは異文化理解とか、今回の外国人参政権の議論だったら政治とかを研究しているとかじゃないでしょ。ほとんど知識の無い人たちが集まって井戸端会議してるだけじゃん。これじゃ、アメリカの英語学校(大学とか大学院じゃなくて)のディスカッション・クラスのレベルだと思う。そんな英語学校のディスカッション・クラスとかをありがたがって覗きにくるアメリカ人とかはもちろんいないわけだけど、その程度のディスカッションをテレビで流しているなんて、ちょっと不思議になってしまうわけだ。。。。。NHK的には、日本人留学生じゃ異国情緒を出せないから、日本在住の外国人を使いたいのかもしれないけど。こういう議論もどきには意味が無いってのに気がついて欲しい。

というか、NHKだけではなくて、こういう番組は昔からあった。俺が思い出すのは『ここが変だよ日本人』という番組なんだけど、その番組も結構人気が出ていたと思う。俺も当時はその番組を楽しんでいたんだけど、アメリカで人類学とかを勉強して、今、その頃を思いかえすと「そんな番組作っている、おまえが変だよ日本人」って思っちゃうかな。まあ、そういうことで外国人を特権的に扱ってアイドル化して、国際化していると思い込んでいる日本のテレビって相変わらず民度が低い気がする。ちなみに日本映画で『みんなの家』という映画があるんだけど、その映画の最後で、ばか騒ぎしているテレビ局の人たちが、ここら辺の頭の悪さを端的に表しているように思う。『みんなの家』って、家を作るという映画なんだけど、俺の解釈では「家」は「国家」のメタファーになっていて、実は「日本」を作ろうって映画だと思うんだよね。日本という「家」をつくるということに奔走する右派(大工)と左派(建築士)が最後に理解しあうんだけど、映画の一番最後のシーンで家が出来たときに、バラエティー番組のディレクターがサンバを踊っている南米系の女の人たちとどんちゃん騒ぎしているシーンがあって、それを見ていると、まあテレビ局の異文化交流などというのは、その程度の低俗なレベルでしかないんじゃないかなって思ってしまったわけよ。というか『みんなの家』では、主人公がテレビ局の放送作家という設定にも、重要な意味があって、テレビ局の役割とか現在の問題点を暗に示しているのではないかと思ってしまう。そういうことで、興味のある人は『みんなの家』を見てください。

で、話を戻すんだけど、異文化交流とか国際化ってのを表現するために日本在住の外国人をテレビに出すという安直な方法論にも問題があるし、それ以前に、このような素人外国人の感情論だけで、外国人参政権という日本の大問題を賛成に誘導しようとするNHKのスタンスにも怒りを覚えるんだけど、まあ外国人参政権に関しては今回は置いておく。それよりも、この番組で一番許せないのは、人間性を疑うような番組作りがなされていることだ。それは思想的に右とか左とか、外国人参政権に賛成とか反対などという次元の話ではない。それ以前に人間としてどうなのよってことだ。俺がなにを怒っているかというと、ユーチューブで番組を見てもらえればわかると思うのだが、ラオスのラーさんに対する非礼である。外国人参政権に一人で反対を唱えるラオスのラーさんが意見を述べるたびに、せせら笑いが起きるという部分だ。一生懸命日本語で話しているラーさんに失礼だということを感じないのだろうか?見ているこっちの方が気分が悪くなってきた。しかも俺からみたらラーさんが一番しっかりした意見を述べているのである。このような少数派の意見を握りつぶしてしまうような番組を垂れ流して恥ずかしくないのだろうか?これは文化の違いとかの問題ではもちろんない。アメリカの英語学校とかでも、このようなディベートをするのだが、どこの国の人もちゃんと真剣に相手の意見を聞こうとするし、そうしなければ聞かないほうの人の人間性が疑われる。俺は、この番組を見て、ここにいる日本人も外国人もラーさんを笑っているすべての人間たちの人間性を疑ってしまうし、そのようなリンチまがいのいじめをしている人たちが自分たちの権利をどうのこうの、日本がどうのこうのなどと言っても説得力はまったく無い。さらに、一番許せないのは、ラーさんを助けようとしない司会の女と日本人の男(お笑い芸人らしいが)だ。日本語が不自由な人が一生懸命話しているのに、その人を助けようとしない。本来は中立を保って議論を進めていくのが司会の役目なのだが、まあ、こんな馬鹿っぽい人に、そこまでは求めない。ただ、自分と意見が違っても日本語で言い換えてあげるということはするべきなのに、他の人と一緒にへらへら笑っているとは何事だろうか?日本人として、この司会者や番組制作スタッフには怒りすら覚える。国際化や異文化共生を深めたいのなら、参政権などを論じる前に、まず外国の人たちと、どのようにコミュニケートするべきかということを学んで欲しいし、そのような番組を作るべきであろう。まったく日本の恥だと思う。


タバコ税

先日、毎日新聞を読んでいたら、タバコ税に関することが余禄に書かれていた。原文はこちら→余録:たばこ税

昔ヘビースモーカーだったこともあり、タバコ税に関する言説には昔から気になることが多々あった。今はタバコをやめたので、タバコ税をいくらに引き上げようが痛くも痒くもない。ただ、タバコ税をめぐる言説にはいろいろ問題があると思う。
まず第一に、タバコ税を増税したところで、タバコをやめるとは到底思えない。少なくとも、俺は、アメリカに来て、タバコが数百円高くなったが、ずっと吸い続けていた。ニコチン中毒というのは、そのぐらい強いものである。もちろんタバコが一箱10万円するとかだったら、買えなくなっただろうが、そうでない限りタバコの値段を上げたら、すぐにタバコをやめられるだろうなどと考えるのは、タバコを吸ったことのないお子ちゃま理論である。

この「値段を上げればタバコをやめる」理論はくだらない理想論ということで相手にしなければいいのだが、タバコ税増税に対する政府のスタンスと、それを擁護するマスコミ、そして消費税引き上げのときは大騒ぎするくせにタバコ税増税は問題視しない世論に違和感を覚えてしまう。タバコ税に関するマスコミの奇妙な言説は、例えば、余禄の次の文章に見られる。

普天間移設問題を先送りした鳩山由紀夫首相に、こんどはたばこ税増税の決断が待っている。民主党のマニフェストのひとつだ。増税によって、たばこ離れを促すと同時に、税収を確保する。そんな理想的な上げ幅を見つけださなければならない▲健康と財政という2匹のウサギを追う。増税の結果、あまり売り上げが落ちると、税収が減ってしまう。そのさじ加減が難しい。



健康と財政って何?俺は増税に反対しているわけではない。国の財政が大変なら、タバコ税を上げたっていいだろう。問題は、それをあたかも国民の健康に配慮した結果としている点だ。もしも健康に配慮しているのなら、喫煙者が減ることはいいことだ。つまり増税の結果、売り上げが落ちて税収が減ってしまうことは望ましいことだろう。それを税収が減ってしまって困るなどというのは、喫煙者はタバコをやめずに買い続けてくださいということだ。つまりこの毎日新聞の余禄の主張は、麻薬をタダ同然でばら撒いて麻薬中毒を増やした上で、法外な値段をふっかけて売りつけるヤクザと同じ論理である。さすがヘンタイ記事を世界中にばら撒いて大問題になった新聞社だと言いたいところだが、今回は毎日新聞だけが問題ではなく、タバコ税増税のヤクザまがいの論理を問題視しないマスコミ全般の問題であろう。

本当に喫煙者の健康を配慮しているとするならば、タバコを違法にすればいい。3年とか5年以内にタバコを買えなくなりますよと発表して、それまでに喫煙者の人たちはニコチンガムとかでタバコをやめるように推奨する。そして、タバコ税を使ってニコチンガムなどを購入し、喫煙者の人たちに無償か格安で配布していけばいいのではないだろうか。

もちろん禁酒法時代にマフィアが急成長したように、タバコを違法にしたら、密輸タバコが裏社会で出回ると思う。しかし裏社会で出回るのは良くないから、麻薬も合法にしようという意見が出てこないように、タバコが裏社会に出回るからといって、合法にしておく理由にはならないと思う。違法にすれば、喫煙者数は極端に減ることは間違いない。唯一の問題はJTの存在だろうが、JTで働いている人たちのために、毒をばら撒いているとしたら、どちらをやめさせるべきかは明らかだろう。JTの人たちの生活のために、喫煙者の命が奪われているのだ。今すぐにでも、JTは違う商品を売り出せばいい。ウェブページを見る限り、人とときを想うというキャッチフレーズでJTの森運動などもしているようなので、今後は医薬品開発にがんばってくださいという感じか。

この会社の人たちが困るから、他の人の人生が壊れてもいいみたいな論理はパチンコ産業にもいえるような気がする。若気のいたりでパチプロ目指しちゃっていた俺としては、パチンコの怖さを良く知っているつもりだ。あれはタバコ以上に怖いと思う。というか、人生を台無しにしてしまう。それなのに、最近の日本のテレビはパチンコの宣伝ばかり。はっきりいってパチンコなどは余暇でも何でもないし、今すぐ廃止するべきものだと思う。というか、ギャンブルという時点で違法なわけだし。町の景観も壊しまくっているし。国民の生活を第一に考えるならば、そして健全な社会を目指すならば、今すぐパチンコを廃止したらいいと思うのは俺だけではないだろう。そのあたりを問題視して取り上げたりしないから、今の日本のテレビをはじめとしたマスコミは信頼できなくなっちゃうんだよなー。まあ、タバコもパチンコも社会から追放しようというのが、今日の俺の言いたかったことです。


ポストモダン時代のテレビの役割

今日、テレビを見ていたら、ニューハーフの人たちが何人か出ていた。女の人と見分けがつかないくらい、キレイな人たちだった。噂には聞いていたが、ここまでキレイな人が何人も並ぶと、ただただ、すごい時代になったんだなと思ってしまう。俺もいちお人類学者の端くれとして、多様な価値観を尊重したい。だから、ニューハーフとか同性愛者という人たちを否定するつもりもないし、そういう生き方が可能な社会というものは、それはそれでいいことだと思う。ただ、そういう人たちを頻繁にテレビに出すことには反対である。こういう人たちの生き方を理解して受け入れるということと、こういう人たちをテレビに出すということは違うことだと思うからだ。

前者の、多様な価値観を理解して受け入れるという行為は相対主義の基本だ。相対主義というのは、簡単にいうなら、自分の考えが絶対に正しいと主張するのではなく、あなたの考えも正しいのではないかと考えることである。これは別に1+1=5だと言っている人に向かって、あなたの考えも正しいかもしれないと考えろと言っているのではない。そのような客観的な真理(と呼ばれているもの)ではなく、もっと主観的な考えの話をしているのである。例えば、「鯨を食べてはいけない」という考えや、「民主化することはいいことだ」、「男女の恋愛は自由だ」、「お見合い結婚は封建的だ」など、絶対に正しいという基準がないものである。つまり人によって意見の分かれることがらであり、もっとスケールを大きくしたら、文化の違いということになる。それらも、どの文化が正しいとか、どの文化が優れているといったことは誰にもいえない。なぜなら、それらを比較して優劣を決めるには、誰が見ても納得できるような絶対的な基準が必要になるのだが、そのような絶対的な基準というものは通常存在しないからだ。

普遍的で絶対的な基準がなく、価値観に優劣がつけられない以上、自分の価値観を押し付けるのではなく、他者(他の人)の価値観を尊重しなくてはいけないというのが相対主義と呼ばれるものである。これによって自分の価値観も他者に尊重されることになる。つまり自分の価値観を認めてもらうためには、相互に尊重して承認しあうという手続きが必要なのである。これはポストモダンの重要な側面でもある。なお「自分の価値観が絶対正しい」という考えを一旦カッコに入れること(つまり自分の価値観が絶対的に正しいというわけではないという謙虚な気持ちになって、自分の価値観と他の人の価値観を同列に扱うこと)を自分の価値観を「相対化する」という。

では、多様な価値観をもった人たちをテレビに出すことは必要なことなのだろうか?多様な価値観を紹介することには賛成である。ただ日本ではしばしばメジャーな価値観を否定して、マイナーな価値観をことさらに評価する傾向があるように思う。ここでメジャーな価値観とかマイナーな価値観と言ったが、メジャーな価値観とは大多数の人が当たり前だと考えているものである。つまり常識と呼ばれているものや、道徳とか社会規範である。さらに多数派の人たちの思い込みやステレオタイプなどもそれに含まれると思う。マイナーな価値観とは、社会の中心的な考えではないもの。誰も興味を示さないようなモノを追いかけるオタク的な趣味とか、あまのじゃく的な考えなどが入るのではないだろうか。もちろんここには社会の中心を占める多数派ではなく、周縁に追いやられている少数派の意見や少数民族の伝統文化なども含まれる。

通常はメジャーな価値観を持つ多数派が少数派の意見を押しつぶしてしまうため、マイナーな価値観にスポットライトを当てることが必要になってくるのであるが、日本では、それが極端なように思うのだ。つまり、日本では、多数派に属する人たちが、メジャーな価値観であるはずの自己の価値観を全否定して、他者の価値観を無批判に受け入れるべきだという風潮があるように思われる。それは日本文化を否定して、西洋文化や他のアジアの国々の文化・芸術を異様なまでに称揚することなどと通じる感覚なのではないだろうか?それが「ポストモダン的」もしくは「進歩的」だと勘違いしてしまっている人が多すぎるような気がする。多様な価値観があるということを受け入れることと、自分の価値観を信じないということは同じことではない。このような他者の価値観を受け入れ、自己の価値観と置き換えるという行為は、すなわち、その他者の価値観のみを認めているということであり、決して相対主義とはいえない。そうではなくて、自己の価値観が絶対的ではないということに十分意識的になり、自己の価値観を相対化することで、他者の価値観を自分とは異なる価値観として理解し認めようと試みることこそが相対主義なのである。繰り返すが、相対主義とは、決して無批判に他者の価値観を受け入れることではないし、ましてや自己の価値観を否定することではないのである。

さらに、ポストモダンの時代において重要なことは、その多様化した価値観に優劣をつけられないとしても、そのなかのどれかを選択し、集団内の成員同士で共有しなくてはいけないということである。日本では、個人の自由を履き違えて、「多様な価値観の容認すること=集団内に共有された価値観を否定すること」と信じている人がいるが、おそらくそれは間違いだと思う。というか、人間は集団行動をする生き物であり、他者と円滑にコミュニケーションをとっていくためには、同じ行動規範を共有しておく必要があるからだ。もちろん、それは伝統文化である必然性はない。たとえば、人工的に作られた法律などを丸暗記させ、それを徹底することでも可能であろう。ただし、数百年の歴史しかない法体系などよりも、先人の知恵が詰まった伝統文化の方が、はるかに優れているように俺には思われるのだが・・・。いずれにせよ、行動規範が同じでないと他者との交流ができないわけだし、つまり社会が成り立たないということになってしまう。このため、集団内の大多数の人が暗黙のうちにしたがうルールのようななものを、メジャーな価値観もしくは社会規範として、集団内のすべての成員に認知させておくことは重要なことなのである。

なぜ、このような社会規範やメジャーな価値観の共有の重要性を強調するのかというと、実は、このような共有されるべき価値観がテレビによって壊されてきたからである。テレビというものは意外性を売り物にしている部分がある。ニュースにしろバラエティーにしろ、だれも知らないような意外な「モノ」や「コト」は視聴者を魅了する。そのため、テレビも視聴者も常に意外な何かを探しているような気がする。もちろんそれは見世物小屋的なある意味卑しい感情であるし、また他人の不幸を見ることで自分の生活の優位性を再確認して安堵するような覗き見趣味に似た感情である。つまり低俗な欲求を満たすためにテレビは発達してきたように思う。しかしここでテレビは強力な思想的流れに乗ることになる。それがポストモダンという思想だ。もちろんポストモダンの皮相的な理解だけだと思われるが、テレビは見世物小屋的に見せていた歪なモノに多様性という価値を与えた。つまりポストモダンの時代、多様な価値観を見せることがテレビの役目であり、そのためにさまざまなモノを見せていくべきだといった風潮になった。また視聴者も自分たちの卑しい感情に目を瞑り、多様な価値観や異文化を理解しているかのような錯覚におぼれることが出来た。

多様性を知ることは確かに必要だ。だからテレビが多様な価値観を紹介することは、ある意味で正しい判断である。ただし、見世物小屋に通っていた人たちが、多様性を理解するよりも、自分たちの正常さを再確認するためのものであったように、多様なものを見せるだけでは相対主義のメッセージはまったく伝わらない。多様性を見ただけで自己を相対化できる人間はごく少数だからだ。テレビは多様性を見せるよりも、むしろ、どのように自己の価値観を相対化できるかということを啓蒙していくべきではないのだろうか?相対化できるようになれば、多様性自体を見なくても、多様な価値観を尊重できるようになるはずだ。

多様な価値観のみをテレビで垂れ流していると、なにが社会にとって共有されるべき価値観かというものが曖昧になってしまうという問題も生じてくる。ニューハーフの人たちが普通の人と同じようにテレビに登場し、非モテと呼ばれる人たちが、あたかも若い人を代表するように紹介される。もちろん彼らを排除してはいけない。彼らの生き方に一定の理解を示し、共存していく社会でなければならない。ただし、周縁に位置しているはずの彼らの価値観を、メジャーな価値観と同列に扱ってはいけないような気がする。社会の成員として共有されるべきメジャーな価値観とマイナーな価値観が同じように並べられてしまっては、社会の成員として必要な価値観(常識とよばれるもの)が一体どれなのかを認識できなくなってしまう。その結果、メジャーな価値観は否定され、社会内部のコミュニケーションが円滑に行われなくなってしまう。だから、テレビなどでは、大多数の人が共有する価値観というものは、あくまでマイナーな価値観とは異なるということ、つまりメジャーとマイナーの価値観の差異を強調し、常に中心から周縁へのグラデーションははっきりとさせておくべきだと思う。そのような差異化は決して差別的な行為ではない。なぜなら、それは多様な価値観を否定しているわけでも、それらの価値観を認めていないわけでもないからである。日本的な社会規範や日本の伝統文化というメジャーな価値観を否定してきた以前の左翼的言動のほうが、よっぽど差別的であったと思う。


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右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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