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銀魂見て感動した 「国家」や「個人」より「国民」が大事なんだよ

実は先週テレビをつけたら銀魂というアニメがやっていた。俺はコメディやバラエティは基本的に一人で見ない。別に嫌いなわけではないから、見始めたら笑ったりするのだが、自分から見ようとは思わない。ただ先週たまたま見たら、面白くて、それが先週と今週の続きものだったので見た。そしたら、なかなか感動する台詞が一つあったので、今回はその台詞を紹介したい。と、その前に、どういう話だったかということを説明したほうがいいと思うので、時代設定などとともに簡単に。といっても、俺は99パーセント理解できていないのだが。。。

舞台は江戸の町(っぽいところ)で、登場人物たちは侍や町人などの日本人と他もろもろ。よくはわからないが、江戸の町に宇宙人が攻めてきて、幕府が宇宙人に開国してしまったから、地球は宇宙人に支配されているという設定らしい。とウィキペディアに書いてあるが、ほとんど理解できていないので、興味のある人はアニメを見てください。まあ、とりあえず、江戸が舞台だけど、宇宙人も出てくるSFで、「うる星やつら」の江戸時代バージョンみたいな感じか。「うる星やつら」もほとんど知らんから、なんとも言えんが。

まあ、そういうことで、世界観ってのは、何でもありのSFコメディらしい。で、登場人物は幕府が開国ってとこからわかるように、幕末の志士がモデルの人物が結構でてくるようだ。ちなみに今回は坂本龍馬がモデルの坂本辰馬が出てきた。俺が感動した一言を発したのは彼である。

さて、その話の内容だが、今回は蓮蓬軍という宇宙人が地球に侵略してきた話だった。この悪い宇宙人を、間違って、手引きをしてしまったのが、快援隊の坂本辰馬だったのだが、蓮蓬軍の企みを知って、主人公の坂田銀時らと、蓮蓬軍の侵略を阻止しようとする。で、話の後半で、坂本辰馬と坂田銀時が敵の中に切り込んでいくのだが、坂田銀時が刀で戦っているとき、坂本辰馬(坂本は実は戦わせたら強いらしいが、争いよりも商売が好きで、商売によって平和を成し遂げようと尽力しているらしい)は敵の大将に商談を持ちかける。地球を明け渡すとかなんとか言う。で、敵の大将が地球を裏切るのかと聞くと、坂本辰馬の次のような感じのことをいう。

「地球なんていらない。住んでいる人たちさえ元気ならいい。だから地球人が他の星に行けるなら、地球なんて惜しくない。必要なのは中身であって、器である地球なんてどうでもいいんだ」

みたいなことを言った。他の事をしながら、ボーっと見ていたわけだけど、この部分を聞いていたら、なんか一人で感動してしまった。やっぱ日本のアニメって凄いねーって。

当たり前の事を言っているようだし、見方によれば、国家よりも個人が大事だという安っぽい左翼的言動にも取れるかもしれない。ただ、俺は、最近、中野剛志(著)『国力とは何か』という本を読んでいたので、違う解釈をしてみたかったのだ。まあ、そこらへんは、人それぞれ受け取り方が違うと思うが、俺は、中野氏の国家と国民の違いを記述した次の文章と関連付けてみたくなったわけ。


「国家(ステイト)」とは、政治的・法的な制度あるいは組織である。「ステイト」は、支配力、法の支配または権威といった様々な手段によって人民を統合する。
(中略)
これに対して、「国民(ネイション)」とは、一種の共同体として理解される。それは、構成員の社会的想念により統合され、共通の歴史的記憶、公的文化、言語、領土、伝統といったものを基礎にする。
(『国力とは何か』 78ページ)



これをベースに考えてみると、坂本辰馬が重要だと考えていたものは国家でも個人でもない。地球もしくは江戸の町人という「国民」だったのではないかと解釈できる。

もちろん、国民さえいればいいという坂本の極端な考えは理想論でしかない。実際には、国を持てなかったユダヤ人は大変な苦労をしたというし、アメリカ先住民のように辺鄙な土地に追いやられてしまったがために、厳しい生活を余儀なくされている人たちもいる。だから、国民や共同体の成員さえ元気ならば、国が無くなっても、土地を手放しても大丈夫だなんて軽々しくは言えない。ただ、国家と国民のどちらが重要なのかということになると、やはり国民でなければならない。と同時に国家よりも個人が大事だという議論も反対しなくてはならない。国家という器が大事なのではないことは明らかだが、だからといって完全にお互い無関係な個人の集合である群集が国家よりも重要だと見なすのは無理がある。

今回の大震災では地域共同体の重要性が再確認されたとよく言われる。それは地域共同体の行政システムという器よりも、むしろ共同体に住む人たちの絆であり、日本国民が日本という一つの共同体の成員として感じた絆であったと思う。被災地の共同体が津波で押し流され、行政などの制度が一時的に麻痺してしまったとき、被災地の人たちが助け合ったのは、やはり共同体としての仲間意識があったからだと思う。同様に、国民という概念がなければ、被災地の人たちを助けようと考える日本人は現れなかったはずだ。すべては同じ共同体の成員であるという感覚があったからこそなのである。また仮設住宅や避難区域の方達も、ばらばらに避難するのではなく、同じ地域の人たちがなるべくかたまっていられるように配慮されていたようだ。人は個人では生きていかれない生き物だということを再確認させてくれた。衣食住が足りていても、孤独で生きていけるほど人は強くない。他者との交流なくして、人は生きていけないのだ。こんな感じで考えてみると、器としての共同体や国家よりも、中身である共同体のメンバーや国民の方が重要であると訴えた坂本辰馬の思想に共感することができるような気がする。



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今更だけど、コードギアス見たら感動したので、ちょっとだけ感想を

 先日コードギアスというアニメを見た。数年前に流行った結構有名なアニメなので知っている人も多いだろう。このアニメを知らない人のためにざっくりと紹介しておくと、植民地にされてしまった違う世界の日本が舞台の学園コメディー+独立革命戦争+SFロボット大戦みたいな感じだろうか。。。。。。。。はい、こんな説明ではまったく理解できないですね。ウィキペディアを引用してみましょう。

本作は、現実とは異なる歴史を辿った架空の世界において、世界の3分の1を支配する超大国「神聖ブリタニア帝国」に対し、二人の少年が異なる方法で対抗していく物語である。舞台は、神聖ブリタニア帝国の植民地とされ、呼称が「日本」から「エリア11」に、「日本人」から「イレヴン」と変わった近未来の日本となっている[2]。

メインの主人公であるルルーシュは、母の復讐と妹の未来のため、いかなる手段を使っても帝国への反逆を遂行する(アンチヒーロー)。もう一人の主人公スザクは、父を犠牲にした贖罪のため、公正な手段をもって、帝国を内部から変革しより良い未来を目指そうとする。これまでのアニメ作品と比べ、メインとなる主人公の立ち位置が逆になっており、本作以降のアニメ作品にも影響を与えた。



 読んでもらえればわかると思うが、なかなか興味深い設定になっていると思う。もちろん、このアニメの魅力はこのような世界観だけではない。実は、このアニメには美少女キャラ・美少年キャラとかが総出演しているのだ。アニメの第一話を見ただけでも、オタクの人とか腐女子の人とかが喜びそうだなってのがわかるキャラがてんこ盛り。萌え要素が大放出されている感じだから、データベース消費として、このアニメを語るのも楽しそうだ。もちろんロボットアニメとしても楽しめる。見たらすぐに気づくが、80年代のガンダムやボトムズとかのロボットアニメの雰囲気がぷんぷんしているのだ。というか、ナイトメアフレームのタイヤで走行するのなんてボトムズのATの動きそっくりだし。。。ロボットと言えば、もう一つ批評という観点から興味深いネタもある。それは美少女キャラのカレンとCCのコクピットだけがなぜか前かがみに座るようになっていることだ。前かがみに座るから、正面からのアングルでは彼女達の胸が強調されるし、斜め後ろからのアングルでは四つんばいに近い態勢をお尻の部分から眺めるという、男には嬉しいサービスカットになっている。フェミニズム研究者とかだったらこれだけで一本論文書けちゃうんじゃないかな。まあ、こんな感じで、一回さらっと流して見ただけだけど、いろいろ興味深いネタがゴロゴロしている。じっくり見たらもっといろいろネタが転がっているんじゃないかなってと思って、ちょっとネットで調べてみたら、案の定、このアニメが放映されていた数年前は、ネット上で結構盛り上がっていたようだ。検索をかけると、今でも感想とか批評のブログがいろいろヒットする。さらに、クリティカル・ゼロという本まで出ていて、有名な批評家や研究者まで真剣に語っているらしい。クリティカル・ゼロはいつか読んでみたいと思っているが、残念ながらまだ買っていないので何が書いてあるのかはしらない。値段がちょっと高いからブックオフで100円にならないかなって期待しているんだけど、いつになることやら。。。まあ、そういうことで、頭のいい有名な批評家がすでにいろいろ語っているアニメなので、いまさら私ごときが何か言っても仕方ないのだが、アニメ見てたら語りたくなっちゃったので、ちょっとだけ感想を書いてみます。

 さて、繰り返しになるが、このアニメはいろんな見方が出来る。純粋に萌え要素を楽しんでもいいし、そのような萌え要素のデータベース消費をオタク系消費として語ってもいい。ロボットアニメとしてみてもいいし、学園コメディーとして楽しんでもいい。いろんな楽しみ方があるわけだが、私が特に注目したのは次の4点だ。

  1. 国家と民族
  2. ポスト資本主義と世界革命
  3. 前近代、近代、ポストモダン
  4. 仮面


 いきなりこんな場違いなキーワードを並べられても何言ってんだって感じだろうと思うので、少し補足説明してみたい。このアニメでまず驚かされるのは、日本が植民地にされているという設定だろう。侵略されるとか、戦争するというような描写はほとんどない。第一話の冒頭のナレーションの数秒で日本は降伏し植民地にされてしまったのだ。植民地の独立戦争を描いたアニメってのは昔にもあった。例えば太陽の牙ダグラムとかは政治色が出た面白いアニメだった。しかしコードギアスでは植民地にされている国が、架空の国ではなく、日本なのである。この植民地日本という設定に少なからず嫌悪感を持った人もいたかもしれない。そうでなくても、否が応にも、日本とか日本人ということを考えさせられるわけだ。同じようなつくりの韓国映画にロストメモリーズというのがある(←ちなみにお金出してまで見る価値はない駄作映画だと思う)



 西暦2000年になっても日本の一部になっている朝鮮半島で、朝鮮民族の解放を目指す反政府組織が活躍するSFファンタジー映画だ。この映画では、現代日本の一部である朝鮮というパラレルワールドの世界を何も説明することなく映画の冒頭に唐突に映し出すことによって、視聴者である韓国人のナショナリズムを刺激し、それによって映画の最後で韓国の独立が達成され、朝鮮半島が統一されるシーンを見て、彼ら朝鮮民族としての意識が最高潮に達するようなつくりになっている。つまり最後のクライマックスとの対比を際立たせるために、わざと最初の部分では屈辱的ともいえる世界を映し出すわけだ。それでは、コードギアスでも同じようなことを狙って作られたのだろうか?私は違うと思う。ただ、このような誤解をした人が結構いたようだし、有名な批評家や研究者までもが。このアニメをネット右翼アニメというレッテルを貼っていたようだ。例えば日経新聞に掲載された京都大学の大澤真幸教授の「ナショナリズムに走る若者」と題されたコラム。ネットに記事があったのでリンクをはっておく。

ナショナリズムに走る若者










本文を読んでいただければいいのだが、リンクを辿るのが面倒な人のために、重要な箇所を抜粋しておく。このコラムの冒頭の部分で大澤教授は次のように指摘している。

右傾化する若者が近年、多くなったといわれる。
若い世代のナショナリズム現象について、社会学者の大澤真幸京都大学教授に聞いた。
 今、オタク的な若者たちの間で
「コードギアス 反逆のルルーシュ」というアニメが爆発的な人気を博している。
テレビの深夜枠の放送後などは、インターネットで大変な反響が寄せられ、
この世界では「新世紀エヴァンゲリオン」以来の大ヒットといわれている。
このアニメの主題は私が見てもナショナリズムだ。
 日本は神聖ブリタニア帝国という超大国に植民地化されている。
しかも日本という名前さえ奪われ、「エリア11(イレヴン)」と呼ばれている。
「あいつらイレヴンだから」とさげすまれる。
この超大国の支配に、「黒の騎士団」を率いるルルーシュという若者が反逆を試み、
独立を企てるという話で、「ブリタニア帝国」対「黒の騎士団」という構図は、
米国とアルカイダの対立を連想させる。



 ブリタニア帝国がアメリカだということに関しては異論はないとしても、テロ集団=アルカイダという解釈は短絡すぎる。というか、第一話冒頭のナレーションで「自由と権利とそして名前を奪われた」というナレーションを聞いてピンとくるのはやっぱり戦前の日韓併合と創氏改名だろう。実は、このアニメの世界というのは二つの解釈をさせるように出来ていたように思う。一つは日本とアメリカの関係。ブリタニア帝国は資本主義・市場原理主義を推し進め、弱肉強食の世界を是とするアメリカであり、その経済戦争に敗れ属国と化している日本という構図である。つまり精神的、経済的にはすでにアメリカの属国に成り下がっている現代日本が表されているのだ。
一方、もう一つの解釈も可能だ。それが日韓併合後の戦前の朝鮮半島と重ね合わせる解釈だ。この解釈に沿って言えば、ブリタニア帝国が戦前の日本であり、アニメの中の日本は朝鮮ということになろうか。さらに民族や地域に縛られない合衆国日本という理想がアニメの中で語られるが、これは満州を想起させるし、中華連邦は清国と捉えることも可能かもしれない。まあ、ただ、このアニメはサヨク的で満州とかの理想論を認めているとは思えないので、満州とか清国という部分までいくと、私の思い違いの可能性は高い。ただ、すくなくとも、植民地の部分が戦前の日本の朝鮮半島統治をモデルにしているというのは製作者が言っていることなので、間違いはないだろう。

 そういうことで、このアニメの世界というのは二つの解釈ができるし、どちらも間違いではないと思うが、私はやはり日本とアメリカの関係の方の解釈を重要視したい。その理由は、ブリタニア帝国を資本主義や市場原理主義として捉えると、ブリタニア帝国に戦いを挑んで新たな世界を創造しようとするルルーシュが、資本主義と戦い新たな世界を創造するポスト資本主義の世界であるという解釈が可能になるからだ。私はポスト資本主義への戦いというのは、このアニメで提示されている重要な側面であると思っている。
つまりこのアニメはポスト資本主義への道筋を表しているわけで、その世界革命といえるような大改革の物語と捉えることができる。これが、このアニメの二番目に注目する点である。さらに、このアニメでは、前近代、近代、ポスト近代という対比が行われているような気がする。ちょっとそこらへんは曖昧でまだ考えがまとまっていないが、今考えているのは、ブリタニア皇帝が作り出そうとした世界、シュナイゼルが目指す社会、そしてルルーシュが創造しようとした社会がそれらの三つの社会に対応しないかと考えているところだ。こんなことを考え始めたのはルルーシュがシュナイゼルに言った言葉がきっかけである。ブリタニア皇帝のシャルルが目指した「嘘のない社会」は過去に執着する社会であり、シュナイゼルは現在の既存の枠組みを存続させる社会を目指しているみたいなことをルルーシュは言っていた。そしてルルーシュは自らの目標は現在を破壊して新しい社会を創造するんだみたいなことも言ったような気が。まあ、そこらへんから嘘のない世界としての前近代、社会生活を営むために仮面をかぶって生活している嘘のある社会を近代、そしてポスト近代という対比で考えられないだろうかと単純に思ったわけだが、まだ自分でもよくわかっていないので、今度書きます。

 さて、このアニメで一番重要なキーワードを一つ挙げろと聞かれたら私は「仮面」と即答したい。このアニメでは「日本」とか「国家」とか「革命」という単語が重要になってくると思う人もいるかもしれないが、実は「仮面」というものが物語の最初から最後まで重要な役割を担っている。作中、何度も「仮面」の記号性が強調されていたが、このアニメでは「仮面」は二つの解釈をされるべきであると思う。
一つは「仮面」というものが現代社会で生活する上でなくてはならないものであるという社会理論でよく言われる事柄だ。我々現代人は状況に応じてさまざまな顔を持っている。会社では会社員として、部下の前では上司として、恋人の前では恋人として、妻の前では夫として、子どもの前では親として、近所の人の前では隣人として接する。状況に応じて自分の役割を演じているのだ。それらすべてが自分であり、自分ではない。そのようなことが暗示されているのが一つ目の「仮面」である。ルルーシュが仮面をかぶってゼロを演じているときと、学園の生徒会でルルーシュを演じているとき。どちらが本当のルルーシュなのかということは誰もわからない。どちらも仮面をかぶっているのだ。

 この「仮面」の解釈だけなら、大したことはないのだが、この作品にはたぶんもう一つの「仮面」の解釈が必要になっている。それはネット社会の匿名性としての「仮面」である。ルルーシュはブリタニア帝国と戦うためにエリア11の反政府ゲリラ「黒の騎士団」のリーダーになるわけだが、自分の素性を知られないように仮面をかぶってゼロと名乗る。この「仮面」にネット社会の匿名性が重なって見えるのだ。匿名性の強いネット言論では、発信者の肩書きや性格などはほとんど意味をなさない。重要なのは発信者のバックグラウンドや発言の意図ではなく、発信された内容なのだ。つまり結果がすべてだということだ。よい結果が生み出されるならば、その発信した内容は評価されるべきであって、他のことはどうでもいい。これこそが、素性がわからない仮面をかぶったゼロが、黒の騎士団のメンバーに承認された理由でもある。仮面をかぶることによって余計な部分が見えなくなった結果、ゼロの行動と結果のみでしか彼の評価はできなくなった。つまり余計な情報に惑わされることがなくなったわけだ。ネットでも匿名にすることによって、肩書きなどに惑わされることなく、その内容のみが公平に評価されるようになる。これこそが本当の平等社会なのかもしれない。

 さらに言えば、アニメの最後でルルーシュに変わってスザクがゼロになるのだが、そこに新たなリーダー像が提示されているのかもしれない。つまりリーダーが誰かということは実は大して重要なことではない。リーダーは人物ではなく、記号として存在すればいいわけで、誰がリーダーになってもいいのだ。要はリーダーは「誰なのか」ではなく、「何をしたか」なのである。そして匿名性が強いネット社会では、ネットを介して貴重な内容を流してくれれば、不特定多数の人たちが記号としてのリーダーを演じてもいいわけだ。我々に求められているのはリーダーとなる人物ではなく、リーダーとなる言説のみである。このアニメではポスト資本主義という新しい世界を創造する道筋が提示されている。そのなかで大きな役割を担っている仮面のリーダーゼロは、つまりネット社会の匿名で書き込まれた言論空間を指しているのかもしれない。
とか、まあ、こんな感じのことを考えながら、このアニメを見ていたら、相当楽しめた。いろいろ誤解している部分もあるだろうから、私の考えがどこまで的を射ているのかはわからない。というか、ちょっと飛躍しすぎているかな?まあ、いいや。とりあえず、コードギアス面白いです。まだ見てない人はぜひ見てみてください。もしかしたら、もう1回か2回ぐらい、このアニメについて書きたいと思っています。いつになるかはわかりませんが。。。



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アニメ「フラクタル」を見て思ったこと パート1

今、「フラクタル」というアニメが放送されている。このアニメ、不評らしいのだが、個人的には結構気になるアニメだ。表面的にはべたべたなアニメなのだが、世界観からして相当考えぬかれており、ところどころ考えさせられるようなネタも散りばめられている。あらすじを書こうと思ったのだが、上手くかけないので、代わりに、ウィキペディアのあらすじをのせときます。

22世紀に確立された世界を管理する「フラクタルシステム」。それはネットワーク化された数兆の計算機の総体で、人体に「フラクタルターミナル」を埋め込みライフログを定期的に高々度浮遊サーバに送信することで全ての人が基礎所得を受け取ることができるシステムである。これによって、働く必要も争う必要もなくなり、人類は楽園のような生活を手に入れた。

システムの恩恵が得られてから1000年が経った世界。ドッペルと呼ばれるアバターを使うことによって、どこでも好きな場所から自由にコミュニケーションを取れるようになって以来、多くの人は定住せずに悠々自適に暮らす個人主義の社会が形成されていた。

その世界で珍しく家を構え、ドッペルも持たない少年クレインは、ある日、怪しい3人組に追われている少女フリュネと出会う。クレインは怪我をした彼女を介抱するが、翌日彼女はブローチを置いて消えてしまった。

ブローチを解析すると、中からネッサと名乗るドッペルが現るが、その後二人はフリュネを追っていた「グラニッツ一家」に拉致されてしまう。スンダをリーダーとする彼らはフラクタルシステムを否定し、この世界を変えることを目的とし、ネッサがその鍵となると考えていたのだ。

拉致された翌日、スンダ達は僧院が行う「星祭り」への襲撃の準備を進めていた。一般にただの祭りと考えられていたが、その実態はフラクタルターミナルを埋め込んだ者達が今の惰性な世界に疑問を持たないように洗脳するための儀式だった。初めは半信半疑だったクレインも、システムの異常な側面を目撃してしまう。

(ウィキペディア)



まあ、こんな感じで設定からしてすごく興味深い話なんだけど、いろいろ面白いテーマが入っているので一回ですべて書ききれないし、中途半端に書いてももったいない。それにすべてを理解できているわけでもないし。そういうことで、今回は軽めのネタを一つ見つけたので紹介したい。

フラクタル第三話で主人公のクレインとネッサはスンダの村に行く。そこはフラクタルシステムを否定し人間的な生活を営む村だった。彼らはフラクタルシステムという体制に反抗するロストミレニアムと呼ばれる反体制派集団であり、体制側からはテロリスト集団と見なされていた。ここの住人達はフラクタルシステムを否定しているため、田畑を耕し自給自足の生活をしている。またフラクタルシステムの最先端医療ではなく医者が直接診察する「原始的」な医療を行っていた。

さて、私が面白いと思ったのは、パーティーを終えてクレインとネッサが部屋で取り交わした会話である。パーティーでクレインは生まれて初めて調理された料理を口にする。それまでフラクタルシステムが与えていたチューブ食(宇宙食みたいな感じだと思う)しか食べたことがなかったクレインは、人間が調理したスープの奥深い味に感激するわけだが、ドッペルのネッサは食事をとることができないため、その料理の味を知ることができない。そこで、ネッサはクレインにどんな味だったのかということを聞く。クレインはそれを何とか上手く表現しようとして、いろいろ単語を並べるが、上手く表現できない。それでも人間同士ならば、なんとなく伝わる程度の単語は並べているのだが、食事をしたことのないネッサは、そんな単語の羅列では、まったく意味が通じない。そこで、ネッサはクレインにどんな味だったかということを「踊り」で表現するように頼む。クレインはその要望に答えようと、意味不明な踊りで味を表現する。

この部分は本筋とはほとんど関係ない部分で、時間的にも数分のやり取りである。ただ、内容的にはすごく深い。まずクレインが言葉で表現しようと悪戦苦闘している姿に、味を表現するということの難しさ、つまり自分の感覚や気持ちを言葉で伝えることの難しさがうまく表現されている。まあここまでなら、そこまで深い内容ではないのだが、このアニメでは、さらに一歩すすんで、そもそも言葉で表現するとはどういうことなのかということが、踊りで表現するという、ネッサの一見ばかげた要望の中に、上手く表現されているように思うのだ。

味を表現する単語を並べられても理解できないから踊りで表現してくれというネッサの言葉を聞いてくだらないと思う人もいるだろう。少なくとも私はこのシーンを最初に見たときはそう思った。なぜ踊りなのだ。踊りで味を表現できるはずがないだろうと。なぜなら、その理由は味覚と踊りにはほとんど関連性がないからだ。しかし、少し考えてみると、それは言葉でも同じことだ。言葉で表現するという行為と味覚の間には何の関連性もない。味覚は言葉でしか表現できないという理由は見当たらない。例えば、もしも言葉を使えないのであれば、手話で表現してもいいだろう。手話の単語は少ないかもしれないが、それでも言葉と手話の間に質的な違いは存在しないと思う。おそらく大半の人はその意見に同意するだろう。言葉と手話の間に差がないのならば、手話の変わりに踊りでも同じことではないだろうか。つまり言葉の変わりに踊りで表現することも可能なのではないかということだ。これは芸術活動の話とも関係してくる。芸術家は絵画や音楽などの芸術作品を通して自分の感情を伝えようとしている。それは言葉や手話や踊りで表現していようとしていることを芸術作品で表現しようとしていることに他ならない。それがどのように伝わるのかということは問題ではないし、100パーセント伝えたいことが伝わるなんてことは、仮に言葉を使ったとしてもありえない。言葉の本質とはなんだろう。コミュニケーションとは何だろう。クレインが踊っているシーンを見ながら、このシーンは、そのような問いかけをしているのではないかと思った。



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賢者の石

 いやー、よかった。何がよかったかって?日曜だからね。もちろんアニメ『鋼の錬金術師』がよかったのよ。とくに今回はキング・ブラッドレイが強いのなんのって、漫画で読んでいるから全部知っているんだけどね。アニメで動いているのを見るとやっぱり感激してしまう。ただ今日はキング・ブラッドレイについてじゃなくて、もう一つおもしろい部分を見つけたので、そこを紹介してみたい。

 前にも書いたと思うけど、『鋼の錬金術師』というのは、ホムンクルスと呼ばれる魔物と人間の戦いの物語だ。で、ホムンクルスの親玉みたいのがいて、そいつが遠い昔、奴隷だった人間のホーエンハイムをうまく利用して、一国の国民全員を生贄にする儀式を執り行わせる。で、60万人だっけかな、なんかすごい数の国民の魂を使って賢者の石というものを作り出すことに成功する。ホムンクルスはその賢者の石を使って、自分の体や子分のホムンクルスを作りだし、今現在の国家を裏から支配するようになる。で、今日は、そのホーエンハイムとホムンクルスの親玉が対峙するとこから話が始まったわけ。

 俺が面白いなって思ったのは、この賢者の石に関してだ。ホーエンハイムが体内に持っていた賢者の石のエネルギーを吸い上げようとしたホムンクルスの親玉は、エネルギーを吸い上げた途端に苦しみだす。で、ホーエンハイムが説明するんだけど、それによると、賢者の石には国民全員の魂が入っているのだが、ホーエンハイムはその国民全員と「対話」を完了しているので、すべての魂がホーエンハイムのために働いてくれることになったのだという。なぜなら魂の望みはホムンクルスを倒すことだったからだ。この話を聞いたホムンクルスは少し驚く。ホムンクルスとしては賢者の石を作った時点で、国民の魂は混ぜ合わされ、ただのエネルギー体になったものと信じていたからなんだけど、それがいきなり個人の意志がまだ残っているというのだから、まあ驚くだろう。

 このあたりのやりとりを聞いていて、この賢者の石というものが、祖霊信仰に似ているなと思った。日本では人が死んでもすぐには祖先の霊として子孫を守ってくれるわけではない。結構不安定な状態が続く。33回忌を追えたときに初めて魂は祖霊という先祖の霊となって子孫のための神となる。つまり33回忌までは、故人の霊は人格をもった霊でありよい事も悪い事もする両義的な存在であるのだが、33回忌を越えた時点で、霊は人格を失い、祖霊という一つの霊体に組み込まれるのだ。

 賢者の石はすべての魂をエネルギー体としてまとめてしまった。つまり祖霊のような存在である。そこにはもはや個人の意志はないはずなのだ。もちろん妬みも復讐心もない。まあ、かれらがホムンクルスのための神になるとは思えないし、このアニメでは祖霊というよりも、マトリックスにでてくるようなエネルギー体とみなされているので、そこら辺は、祖霊信仰と結びつけるのは適切ではないかもしれない。ただ、エネルギー体でも神でも、どちらにおいても人格を失って個人を超越した「総体」になったというイメージはあるだろうと思う。

 そうすると、そのような総体に個人の意志がどうとかこうとかというのはナンセンスのような気がする。そのような話が出てきても、個人の意志を尊重するホーエンハイムはなんてすばらしいんだと思ってしまう俺を含めた大多数の人は、おそらく無意識のうちに「総体」よりも「個人」の方が重要だと感じているからだろう。そして、個人の意志を尊重することはすべてにおいて勝っているという考えは、普通に感じるけど、もしかしたら今の時代のイデオロギー(ポストモダンね)でしかないのかもしれない。そこらへんを考えていたら、結構おもしろいなと思ってしまった今週の『鋼の錬金術師』でした。



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アニメ『鋼の錬金術師』の思想的背景

 『鋼の錬金術師』という漫画・アニメがある。物語の舞台は、万物の理を研究する錬金術が科学のように体系化された知として確立されている架空の世界。そこに錬金術を使って母親を蘇らせようとして失敗し、その代償として弟の体と自分の足を失ってしまった錬金術の天才少年がいた。彼は自分の片腕と引き換えに、弟の魂だけは取り戻し、その魂を鎧に定着させる。そして弟の体を取り戻すため、半身機械の兄と、鎧の体の弟は、「賢者の石」を探して旅をする。というのが、物語の本筋だ。ただ、ここまでだと兄弟とか家族愛がテーマの冒険譚ぐらいに思うかもしれないが、実は話のスケールはもっと大きい。この天才少年の兄が国家錬金術師という軍隊のエリートになったため、物語は軍隊やその国の影の支配者などの話にうつっていく。

 アニメ版の『鋼の錬金術師』は2つのバージョンがあり、後半部分はまったく異なる物語になっている。一つ目のアニメは原作とは異なるオリジナルストーリーで、次に作られたアニメは原作の漫画の物語を忠実に再現している。今日見たのは、原作に忠実なほうのバージョンで、今日の話は第52話にあたる。まあ『鋼の錬金術師』はどこを見ても面白いから、今日の回だけ面白いというわけではない。ただ、3週間ぐらい前から話はどんどん盛り上がってきている。その興奮が冷めないうちに、面白いということだけでも言いたくてブログに書いただけなのだが、まあそれだけだと小学生の感想文になってしまうので、いちお何が面白いかを少し紹介してみたい。

 もともと『鋼の錬金術師』に関しては、いつか思想的な背景なども交えてアニメの感想とか評論っぽいのを書きたいと思っていた。それが出来なかったのは、このアニメのスタンスがいまいち見えていなかったからだ。ところが、数日前「my日本」という日本を好きな人や保守系の人が集まっているできたSNSで、『鋼の錬金術師』が今の日本の状況を表しているんじゃないかといった書き込みがなされているのを見て、無性に何か書きたくなってしまったのだ。俺も『鋼の錬金術師』に現代日本を重ね合わせることがあった。

 ただ、それと同時に、『鋼の錬金術師』に見え隠れする左翼的な面もあるような気がしていた。だから、俺は自分の中でも、このアニメが思想的にどのような位置にあるのか定めきれずにいたのだ。もちろん原作が終わっていない今の状況で判断を下すことはできないのかもしれない。ただ全体的な印象として『鋼の錬金術師』が、一体どのような位置にあるのか、現在までの話の内容から推測してみたいと思う。なお俺の知識は1期のアニメと映画、昨日放映された分までの2期のアニメが主である。漫画の方は、23巻までは読んでいるのだが、はっきりとは思い出せず、ちょっと曖昧な部分もある。それ以降の漫画はまったく読んでいない。

 さて、話が前後するが『鋼の錬金術師』を知らない人のために、どのような話になっているか、もう少し詳しく解説してみたい。主人公たちの国は錬金術師と通常の兵器を使う兵隊からなる強大な軍隊を有していた。この国は議会もあったような気がするが、実際は軍の最高指揮官であるブラッドレイ総統が全権を握っている。ただし、君主国のように国内のマジョリティに対しては善政を敷いているのか、普通の一般市民は抑圧されているようには見えない。一方、対外的には強硬的な態度をとっているようだ。この国は敵対する国家に囲まれているので、国境付近では絶えず紛争などが起こっている。国内でも少数民族の暴動やテロなどに対しては、大規模な鎮圧部隊を送り込んで鎮圧してしまう面も持ち合わせている。ただし鎮圧部隊を送り込むのにも法的手続きなどが必要なようで、独裁国家のように、すぐに武力に訴えるようなことはしていないようだ。鎮圧された少数民族の一部は過激派のようなテロを行うものもいた(というか、錬金術を使う男が一人で軍隊や国家錬金術師と戦っていただけだが)。なお国の多数派は金髪の白人であり、この国家はドイツをモデルにしているような印象を受ける。また少数民族を抑圧している部分は中国を模している可能性もある。ただし全体的には中国共産党ほど国民が抑圧されていないため、むしろ軍事大国で一人の人物に全権が与えられているというあたり、アメリカの状況に似ていなくもない。さて、このような軍事国家なのだが、主人公は普通の優しい人たちに囲まれている。登場する軍人たちも、人間味あふれるキャラクターが多い。このあたり軍隊アレルギーとは異なっているようだ。

 さて、この国家には重大な秘密があった。それは、軍上層部の数人しか知らないことなのだが、この国家を裏から操っていたのは、実はホムンクルスと呼ばれる魔物たちであった。そして、その魔物たちが「父親」と呼ぶ「人物?」が黒幕だった。彼らは、「賢者の石」を作り出すために、人間の魂を必要としていた。そこで、国家を裏から操って、近隣諸国に絶えず戦争を仕掛けたり、暴動を起こさせたりして、多くの血を流させてきた。それを知った主人公や彼の仲間の軍人たちが、国家のためにクーデターを起こすというのが今までの放送分である。

 このクーデターを引き起こしたあたりが、とても面白い。そして、このあたりの話の展開を見ていると、確かに今の日本の状況を思い浮かべてしまいたくなる。ただ、この漫画は日本の現状を表現しているわけではないと思う。盛り上げるためにこのような話の展開になっていったのだろう。ただ、偶然にも、今の民主党に愛想をつかした日本人がクーデターに憧れ、この人気アニメからそのようなメッセージを取り出したのだと思う。

 この漫画はむしろ左翼的思想が垣間見れる。例えば、この漫画の原作の大きなテーマの一つは「差別」だ。もちろん差別はよくないというような説教くさい話ではない。そうではなくて、映画『X-MEN』のように「差別」や「憎しみ」が複雑に絡み合い、どちらが正しいといいがたいような感情が渦巻いている。そして、それをどのように乗り越えていくかというのが大きなテーマの一つだと思うのだ。

 この漫画では「差別」の象徴はスカーと呼ばれる男の存在で表されている。彼はイシュヴァール人と呼ばれる人種で、肌の色が濃い。イシュヴァール人は少数民族としてこの国に組み込まれているのだが、イメージとしてはアメリカ先住民に近い感じだろうか。不当な差別や抑圧に対して、イシュヴァール人は軍隊と小競り合いを起こすことも多かったのだが、ある日、イシュヴァール人の少女が公衆の面前で軍人に射殺されるという事件が起きてしまう。それをきっかけに各地のイシュヴァール人が蜂起し暴動は全国に広がっていった。それに対して、軍部は戒厳令を敷き、最終的に鎮圧部隊を送ってイシュヴァール人を殲滅した。残ったイシュヴァール人は町外れなどに逃げ込み、難民キャンプのようなものを形成するのだが、その中で「スカー」と呼ばれる男は家族や一族の仇を討つため、イシュヴァール殲滅戦に加担した国家錬金術師たちを次々と暗殺していく。ただ「スカー」も、実は問題をかかえていた。実は主人公の天才錬金術の少年には幼馴染の少女がいるのだが、彼女の両親は医者であった。そしてイシュヴァール殲滅戦のときに、イシュヴァール人を救おうとがんばっていた医者が彼女の両親だったのだ。この両親はイシュヴァール人たちからも感謝されていたのだが、「スカー」が間違ってこの両親を殺してしまう。つまり主人公の幼馴染から見たら、「スカー」は民族解放や社会正義のために戦っている英雄でもなく、ただの両親の仇でしかないのだ。そのあたり、一概に何が正しくて何が間違っているのかなどとは軽々しく言えないという社会の不条理を教えてくれている。もちろん歴史の流れから見たら私怨などは取るに足らないことがらなのかもしれない。ただ、それも、見る人の視点や境遇によって、様々な解釈がありうるということを子どもも楽しめるアニメや漫画で表現できていることは興味深い。まあ、このようなポストモダン的視点は、この漫画に限ったことではなくて、漫画やアニメ全般に言えることなのだが。。。
 
 イシュヴァール人の差別問題に関係した物語は他の場所でもいろいろと出てくる。例えば北方軍の女性指揮官は強さと美しさを兼ね備えた白人女性なのだが、彼女の直属の部下はイシュバール人の男とアジア系の男である。どちらも副指揮官のような存在として活躍しているのだが、アニメではこの女性指揮官に次のようなことを言わせている。それは、色々な人種の部下を持つことで、様々な考えや視点を得ることが出来る。それが白人として生まれてしまった自分の硬直した視点を解消してくれるのだ、と。このあたりに、人類学者のような発想であるし、またコスモポリタン的なものに価値を置いているように見える。もちろん彼女は指揮官として国家に忠誠を尽くしているし、軍隊というものを否定しているわけではない。さらに彼女の価値観を否定しているわけでも、もちろんない。そうではなく、自分の価値観をしっかりと持ちながら、他の価値観を持っている人間と絶えず交流することで、自分の価値観を相対化しうる強さを持っているのだ。このあたり左翼思想であるポストモダン的リベラリズムに近い考えだが、保守主義とも通じるものがある。ただ間違ってもサヨク思想ではないのは明らかだ。

 なおサヨク思想といえば、『鋼の錬金術師』の劇場版の映画について触れておかないといけない。これは一つ目のアニメの続編という位置づけなのだが、その映画のなかでは「差別」というテーマが大きくクローズアップされていた。錬金術の世界はパラレルワールドであったという物語設定のもと、主人公たちは「真実の門」を通って、20世紀初頭のドイツに飛ばされてしまう。そこではナチス党員たちの力が強まっていて、ドイツ人同士では普通の優しい人たちが、ジプシーたちに対しては差別的な行動をとっていくというような時代が映し出されていく。この反ナチスというハリウッドの左翼とよく似たステレオタイプが物語の本編とはほとんど関係なく映し出され、弱者の視点に立つだけの「差別することはよくない」という一方的で安直なメッセージだけが語られる。このアニメ自体、原作とはまったく異なる物語になっているので、アニメの製作者が原作者の考えをどこまで表せているのかはわからない。俺としては、パラレルワールドを出したりしたのですごく面白いと思ったし、劇場版の物語自体は大好きだ。だから全体的には劇場版はとてもよく出来ていると思う。ただ差別反対という安直なメッセージを出しすぎていたような印象を受ける。むしろ『鋼の錬金術師』の原作の方が「差別」問題をもっと深く表現できていると思うのだ。

 原作では少数民族の存在を諸手を挙げて賞賛しているわけではない。さっきも言ったように「スカー」を単なる英雄に祭り上げているわけではない。イシュヴァール殲滅戦に参加した軍人たちが殲滅戦を回顧するシーンでは、軍隊の不条理な命令に背けなかった彼らの苦悩が映し出される。しかしそれも単純な軍隊批判にはなっていない。もっと根源的な問題を示している。それは人間はいい面も悪い面も持ち合わせているし、民族も同じことだということだ。何かが絶対に正しくて、他のものが絶対に間違っているといった単純化はなされていない。だから「スカー」は英雄であり、同時に「殺人者」でもある。登場人物のほとんどは金髪の白人であるが、彼らは普段は心優しい人たちである。しかしイシュバール殲滅戦では、軍の命令どおり殲滅戦に加担した。それが軍人の務めだからだ。まあ、こんな風に、原作の漫画の方はリアルな現実を突きつけてくれているように思うのだ。だからこそ、「平和」や「差別反対」「反軍隊」などのサヨク的な安っぽいスローガンのハリウッド映画よりも、もっともっと深いテーマを表した物語になれたのだと思う。

 さて、『鋼の錬金術師』の思想的背景を書くとかタイトルでは言ってたくせに、物語の紹介だけを長々と書いてしまって、大して面白いことは言えなかったのだが、最後に一つだけ付け加えておきたいことがある。それはイシュヴァール殲滅戦を引き起こした、イシュヴァールの暴動の原因についてである。物語の最初のほうでは軍人がイシュヴァールの少女を街中で射殺してしまったことに端を発していたとなっていたのだが、物語の中盤で真実が明かされる。実はその射殺した軍人というのがホムンクルスという魔物が軍人に変装していたのだ。つまり軍隊もイシュヴァール人もどちらも騙されていたわけで、そのような真実を知らずに泥沼の戦いに入っていったわけだ。ここら辺の話を日本人が見ると、やはり盧溝橋事件などを思い起こさずにはいられない。つまり軍部を旧日本軍、ホムンクルスをコミンテルン、イシュヴァール人を中国とすると、イシュヴァール殲滅戦は日中戦争を暗に表しているように見えてくくる。まあ、コミンテルン陰謀論を信じていない人には、この陰謀論めいた解釈はちょっと理解に苦しむかもしれないが、それでも、何か影の組織があって、それによって軍部も少数民族も騙されているというものは、コミンテルン陰謀論者にとっては、魅力的な解釈になるのではないだろうか。俺は個人的にコミンテルン陰謀論も信じているほうなので、『鋼の錬金術師』は、現代の日本を表しているというよりも、日中戦争あたりを表しているというほうがしっくりくる。まあ、そんな感じなので『鋼の錬金術師』は思想的に右にも左にも喜ばれる結構面白いアニメだと思う。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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