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歴史認識の共有って・・・

この前の新聞に日中歴史共同研究のことが書いてあった。
ちなみに、中国側の要請により戦後は対象外だそうだ(笑)。
日中歴史共同研究:「戦後」は対象外に…1月にも報告書
それにしても、こんな歴史認識の共有などということを、いまだやっていたとは。ちょっと気になったから、ネットで調べたら、日韓歴史共同研究も未だにやってるいるらしい。
日韓歴史共同研究、双方の溝いっそう鮮明に

歴史認識の共有ねー。。。あいかわらず、くだらないことをしている。そんなこと無理だと思うのだが。この歴史認識の共有に関して歴史学者の間でどのような評価がなされているのかは知らないが、歴史って物語でしょ。いくらがんばってもそれ以上にはなりえないじゃん。もちろん、歴史を今よりも正確に記述することはできるかもしれない。一次資料の精査などから得られた結論によって裏打ちされた歴史は、神話や伝説とは異なり、もっと科学的・客観的な事実の集積に近づいていくのかもしれない。しかし文献資料には限界があることは、歴史考古学の発展を見れば明らかであろう。そして、その歴史考古学にも、もちろん限界がある。つまり過去の出来事をすべて復元するなどということは不可能である。もちろん先史考古学よりも情報が豊富な歴史考古学はより真実に近い位置にはあるのだが。

しかし、どんなに情報を集めようとも、それでも絶対の真理にはたどり着けないのも明らかだ。なぜなら歴史に真実などというものは存在しないからだ。もちろん出来事はすべて唯一の出来事が起こったに過ぎない。だから、歴史上のどこかには真実というものがあったのだろう。ただ、我々には、その真実を知ることは、もはやできない。これは映画『羅生門』の世界みたいなものだと思う。ある出来事が起きたのは確かだが、実際に起こった、ある出来事を目の前で見ていたとしても、人によって見え方は異なってしまう。それが記憶の世界に入ったら、話はさらに違う様相を呈してしまう。実際に体験したことですら、様々な解釈が生じてしまうのに、真実の歴史像などというものを見つけ出すことなどできはしないと思う。それが出来るぐらいなら、現在起こっている出来事をすべて客観的に描写することは朝飯まえになるだろうが、ニュースを見ていればわかるように、現在の出来事ですら客観的にすべてを表現することなど出来ず、出来るとしたら、我々の主観で切り取った現実の断面しか表象することはできないのだから。

つまり歴史に真実などというものは存在しえないと思う。すくなくともそれを客観的に表象することも、客観的に解釈することもできない。だから客観的な歴史などというものは存在しえない。もちろん、なるべく真実に近づけることは出来るし、そのために歴史学者の研究は必要である。彼らのおかげで歴史は神話よりもより真実に近いものになった。しかし、それでも客観的な歴史が存在しえない以上、様々な歴史にならざるをえないと思う。つまりいろいろな解釈が生まれてしまうのだ。

しかし、それでいいのだろうと思う。そもそも歴史は神話と同じ役割を持っていた。権力者は自分たちの正統性を証明するために歴史を利用していたのには理由がある。歴史にはそれだけの力があったからだ。ただ、権力者が歴史を改竄して自分たちの正統性を示したなどというと、反権力が好きな左翼系知識人などはすぐに反応してしまうが、実は歴史は権力者のためだけにあるのではない。むしろ我々社会の成員が自分たちの起源を知ること、自分たちや社会の存在に意味を与えること、そして自分たちの行動原理や指針を得るために歴史が必要であった。これは神話や民話などと同じ役割を持っている。歴史も神話や民話などと同じ「物語」であり、例えば歴史上の英雄の生き様を聞いて、道徳や価値観を学んでいく。もちろんそれらの道徳や価値観は絶対の基準ではない。むしろ、読み手や語り手の生きている時代を反映して、その時代の価値観や道徳がその物語に反映されるのである。つまり歴史は時代によって解釈が異なってくるし、その意味付けも異なってくる。歴史は社会の成員に共有され、文化が形成されていくのだ。

つまり歴史とは客観的で価値中立的な事実の集積ではないし、歴史の授業や受験のためでもなければ、教養のためでもない。我々の価値観や文化を保存するためのものであり、社会の成員で共有されるべき「大きな物語」なのだ。この20年余り、ネイティブ・アメリカンが考古学者の示す歴史観と同じくらい神話や民話などの自分たちの歴史観を重要視してきたのには、このような文化や価値観を提示できるのは物語として共有された歴史が必要だからである。そしてこれはもっと大きな国という単位の日本でも同じことなのだ。

このように考えてくると、歴史認識の共有などというものは馬鹿げているとしか思えない。日本は日本の歴史観を持つべきだ。もちろん、それを他国に押し付けるのは良くない。中国も韓国も、それぞれの自分たちの歴史観を持っているわけだし、それは尊重するべきだろう。しかし彼らと歴史観を共有する必要はないのである。今、出来るのは、歴史の事実に明らかに反すること考えを排除する程度でいいのだろうと思う。例えば、日本は朝鮮半島に行かなかったというのは嘘だ。日本が南京に入城しなかったといったら嘘になる。そのような限りなく真実に近い歴史的事実と思われる出来事を無視した歴史観はもちろん好ましくない。同様に、証拠不十分のうちから南京大虐殺や従軍慰安婦をことさら強調するのも良くないだろう。だから、そのような事実を共有することは出来るだろう。歴史共同研究ができることは、そのラインまででいいと思うし、それ以上であってはいけないと思う。つまり歴史的事実を共有したとしても、歴史認識を共有する必要はないし、そもそも共有は無理である。まあ、日本と中国・韓国が一つの国になるというのなら、出来ないこともないと思うが。。。つーか、朝日新聞の大好きな東アジア共同体みたいなものになるためには、共有された歴史認識を持つべきなのだろう。そして、それは日本や中国という国の概念を放棄することと同義なのである。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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