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「ミシュラン」と「食べログ」

 俺がアマゾンレビューを書き始めたのは5年ぐらい前だ。ネットに書き込んだりするようになったのは、それよりもう少し前の2002年ごろだった。当時、ホームページ作成に少しハマっていたことがあって、日記や映画のレビューなどを、ちょこちょこと書いていたのだが、悲しいことに、10人ぐらいしか見にきてくれなかった。ほとんどリンクが張られていなかったのだから当然だったのだが、まあ人生の虚しさみたいのを感じてしまっていたわけだ。そういう悲しい経験があったので、アマゾンレビューを書いて、すぐに反応があったときは驚いたし感激した。といっても、単に俺のレビューが参考になったというボタンを押されただけなのだが、誰かが俺のコメントを読んでくれたというのがわかっただけで十分だった。ついでに、そのころ『現代思想のパフォーマンス』という本を読んだばかりのころで、映画批評をしてみたいという欲求が高まっていたころでもあった。そういうことも重なって、それから1年ほどアマゾンレビューを楽しんでいた。

 ほとんどの人はアマゾンレビューの仕組みは、すでに知っているだろうとは思うが、いちお簡単に説明しておくと、アマゾンレビューでは「参考になった」と「参考にならなかった」という二つのボタンがあって、レビューを読んだ他の人が、そのレビューを評価できる。つまりアマゾンの商品を買おうとしている人は、複数のレビューを読むことによって多様な視点を得ることができ、しかもそれぞれのレビューの信頼度は「参考になった」が押された回数によって評価できるのである。

 多くのレビュアーたちは、おそらく人に認められたいという欲求から、無償でレビューをこつこつと書き込んでいるのだと思う。つまり「参考になった」と言ってもらえるだけで充分なのだ。ただ、その数を競いたいと考えるのは当然だろう。そこで「参考になった」や「参考にならなかった」が押された回数などをもとに、アマゾンはレビュアーをランキングしている。そしてベスト100レビュアーやベスト500レビュアーなどを選んでいる。ベストレビュアーに選ばれた人たちは名前の下にタイトルが書き込まれる。それは栄誉なことであり、それによってレビュアーは、コツコツと書き込んできた労力が報われるのである。さらに他の人たちもレビュアーがベスト100やベスト500に選ばれているかどうかで、その人のレビューの批評家としての資質や信頼度などを知ることができる。すなわち、多くのレビュアーはベストレビュアーを目指していると思う。目指してなくても、少なくとも、なれたらうれしいとは感じるだろう。俺も昔はベストレビュアーになりたいと思っていたし、今でも昔ほどではないが、やはりそういう感情はある。

 さて、俺がこのアマゾンレビューに関して延々と説明してきたのは、別に俺のアマゾンレビューの宣伝をしたいわけではないし、数年前の日々を思い返してノスタルジーに浸りたいわけでもない。そうではなくて、今日、本を読んでいたら、なんとなくアマゾンレビューのベストレビュアーって何だろうって感じてしまったのだ。ちょっとこれだけだと話がややこしいので、はじめから話をはじめたい。

 俺が読んでいたのは『電子書籍の衝撃』という本だ。この本はすごく面白いので、ぜひ読んで欲しいのだが、本の紹介は今度書くつもりなので、内容は省略する。今日は内容ではなくて、そのなかに書かれているエピソードを紹介したい。それはミシュランと食べログのエピソードだ。ミシュランとはご存知フランスの権威あるレストランランキングだ。ミシュランの調査員がレストランに行って店を評価するのだ。この調査員はプロであり、ようするに『美味しん本』の世界なのだろう。一方、「食べログ」というウェブサイトは口コミランキングで、ようするに一般の人たちが店に行って各々評価をくだし、それらの評価を総合してランキングしたものである。つまり素人の集合知みたいなものなのだという。

 で、この本では何を言っているかというと、ミシュランの評価と食べログの評価が違うことがよくあるというのだ。例えば、ミシュランで評価の低い店が、食べログで評価が高かったり、逆にミシュランで評価が高いのに食べログで低かったりするらしい。ミシュランでは、ある程度評価基準がしっかりしている。調査員はプロであるわけだし、なるべく客観的な評価を下すように訓練されているのだろう。だからぶれはない。食べログは逆に素人の独断と偏見に基づいている。しかも評価する人も同じではない。だから、学生の街ではご飯の量が多くて味が濃い店は高評価であるが、オフィス街では違う基準で評価されるといった違いが出てくる。

 10年とか20年前までだったら、ミシュランの評価が正しくて、食べログはミシュランの評価と違うから間違いだ。以上!で話が終わっていたかもしれないが、今は話はそんなに簡単ではない。なぜなら、そこには評価というものに対する考え自体が変わってきたからだ。ミシュランと食べログの違いというのは、実は90年代までの大衆向けの宣伝と2000年以降の個人向けの宣伝の違いに対応しているらしい。

 つまりミシュランのランキングというのは、多くの人たちに向けられたランキングであるのだが、それは一般大衆に対して一つの基準を押し付けていることにつながっている。「食べログ」は反対に素人の評価者が勝手に評価する。その基準は評価者にとってまちまちである。しかし、我々はみんながみんなミシュランの基準と同じではない。むしろ食べログの評価者の誰かと感性が近いかもしれない。そうであるならば、その人にとっては、ミシュランの評価よりも、食べログの自分と感性が似ている評価者の評価の方が意味があるし、重要であろう。実のところ、「美味しい料理」や「いいレストラン」という評価に、絶対的な基準などというものはないのだ。だから最終的には自分と感性のあう人の意見を聞くことが、極めて有効になってくるのである。

 さて、このように考えるとミシュランと「食べログ」の間にはいくつかの対立軸が見出される。例えば、客観的な基準であるミシュランと主観的な基準である食べログという対立軸で語ることもできるし、「共通の基準」という「大きな物語」を持ったミシュランのモダン的ランキングと多様な基準である食べログのポストモダン的ランキングという対立軸も設定できるだろう。

 同じようなことは、TSUTAYAオンラインにも見られるという。ここでは売上ランキングというものがある。同時にTSUTAYA DISCASというものがある。TSUTAYA DISCASではアマゾンレビューのようにレビューを書き込んだり、そのレビューを評価したりできるらしいのだが、アマゾンと違う点は、お気に入りのレビュアーをフォローできるという点だ。つまり自分の感性に近いレビュアーをフォローして、自分たちだけの基準で映画を評価していくわけだ。ミシュランと食べログの対立軸を使うならば、ミシュラン=売上ランキングと食べログ=レビューということになるかもしれない。

 さて、それでは、アマゾンレビューの話にもどりたい。俺はアマゾンレビューでベストレビュアーに選ばれたいと思っていた。しかし、今日、この本を読んでいたら、ベストレビュアーになることは、果たして栄誉なことなのであろうかと疑問がわいてきたのだ。なぜなら、すべての人たちに認められるということは、ミシュランの評価に似たものになってくるのではないだろうか?つまり多くの人たち向けに書かれ可もなく不可もなく、ただ一般大衆に受けるレビューになってしまっているのかもしれない。それがいいのか悪いのかはわからない。ただ、批評するとは、別にすべての人にわかってもらえなくてもいいものなのかもしれない。むしろ一部の人たちに熱烈に支持されるようなレビュアーを目指すことのほうが、広く浅く支持されているよりもいいのかもしれないと思ったのだ。

 そのようなことを考えていて、もう一つ疑問に思うことが出てきた。最近ではポストモダン的な考え方が普通になってきているので、ミシュランと食べログの話を聞けば、おそらく食べログの方を好意的にとらえるだろうと思う。ミシュランはその強大な権力で世界中のレストランを次々と断罪する悪の秘密結社のように感じるかもしれない。しかし、彼らの基準は果たして幻なのだろうか?まったくの理不尽な基準を、ただミシュランという権威だけを頼りに絶対的な基準と押し付けているだけなのだろうか?そのあたり、少し不思議な気分になってくる。

 そもそも「美味しい」とはどのようなものなのだろうか?ミシュランは「美味しい」という絶対的な基準を提示している。一方、我々は一人一人微妙に違う感性を持っているから、ミシュランの評価基準とは若干異なってくるだろう。それはいいのだが、しかし、ミシュランのような存在がいなければ、我々は美味しいという評価を与えられないのではないだろうか?もちろんミシュランという存在はなくても構わない。しかし、様々な事柄に対して、その分野の権威というものは必要であるし、それら権威がある一定の基準を提示して、はじめて意味のある議論が起こってくるのではないかと思うのだ。

 「美味しい」という基準は曖昧だし、単純に美味しいと思ったものを美味しいと表現すればいいのだけれど、美味しいというものが「どのように美味しいか」ということを教えられることもあるだろう。例えばワイナリーに行ってワインを試飲すると、美味しいワインというものがあるのはわかる。しかし、どう美味しいのかは、いまいち言語化出来ないということがある。そのようなときに専門家の説明はとてもためになるし、その後のワインの味を知っていく道標になっていく。それは専門家と同じ感性を押し付けられたととらえることもできるわけだが、そこから自分の感性を発展させていくと考えることもできる。そもそもいろいろな評価を一から自分で考えないといけないのか、それともある程度学んでから自分の感性を発展させていったほうがいいのか、どちらがいいのかははっきりしないような気がする。まあ、俺としては、ある程度道標を与えてもらえないと何も語れないと思うのだが。そして、おそらく確かなのは、先人の知恵の集積というものは、個人のちっぽけな人生から導き出された知恵よりも、はるかに洗練されているということだ。そうであるならば、ミシュランの提示する基準というものも、参考として、そして議論のとっかかりとして、必要になってくるのではないだろうか。

 俺が危惧するのは、ポストモダンをもてはやすあまり、個人の感性や主観的基準だけを称揚して、絶対的な基準や共有された評価というものが蔑ろにされていくような気がするのだ。俺も天邪鬼な性格で人と違うことをしたがる人間なので、集団主義とかは好きではない。それにテレビとかでランキングなどを見るのは嫌いだし、人のしていることはしたくない。しかし、どんなことでも、初心者はある程度の道標が必要であるだろうし、そのためには大衆向けのマニュアルやランキングといったものも必要ではないかと思う。ということで、アマゾンレビューの話はどこいったという感じになってしまったのだが、まあ、強引に話を戻すと、大衆向けの基準を提示することも初心者にとっては役に立つ情報であり、彼らを導く役目を果たすことになる。つまりアマゾンレビュアーでベストレビュアーになっても恥ずべきことではないということなので、ホラー映画初心者のために、ホラー映画の評論を、これからもがんばります(←なんじゃ、そりゃ)。

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右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

本や映画の感想はアマゾン・レビューにも書いています。ぜひ遊びに来てください。
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