朝生でツイッター
ここ数ヶ月ブログ更新を怠けていたから、5月こそ20個はエントリーをアップしたいなと思って、最後の週にスパートをかけたつもりだったのだが、いつの間にか5月が終わってしまっていた。しょうがないから、6月は毎日こつこつとブログをアップしていこうと決意した矢先に、カレンダーの日付は6月2日になっちゃってるし。。。ということなので、とりあえず軽いネタでもアップしておこうと思って、ツイッターの感想をちょこっと書きます。
この前、朝まで生テレビをやっていたので、コンピューターをさわりながら、ぼーっと見ていた。少し見ていたら、ツイッターのことを思い出して、#asanamaで検索かけてみた。案の定、朝生見ている人がつぶやいていた。おもしろそうだから、俺もつぶやいてみた。俺はテレビとかユーストリームを見ながらつぶやいたことはなかったので(というかツイッター自体あまりしていない)、結構新鮮だった。ただ、うーん。おもしろいって言えばおもしろいけど、感激するほどのものでもなかった。おそらく俺がニコニコ動画を知らない外国人だったら、テレビを見ながらつぶやけるというだけで大喜びしていたんだろうけど、ニコニコ動画の使い勝手のよさを知ってしまっている日本人としては、ちょっと微妙じゃないかな。それでも日本人も生放送見ながらツイッターというのが流行っているようなので、ツイッターの方がいいという人もいるのかもしれない。そういうことで、今回は俺の独断と偏見に満ちた感想です。
なんで、俺がニコニコ動画を優れていると思うかというと、まあ、ぶっちゃけツイッターの方をあまり理解できていないということもあるんだけど、もう一つの理由としては、つぶやきが見れるまでに若干のタイムラグがあるということだろう。俺の使っているツイッターのソフトは、つぶやきが30秒か1分おきに更新されるようなので、その間に書き込まれたメッセージが一気に表示される。つまり、なめらかではないのだ。普通のツイッターの時は別に問題はないが、生放送などを見ているときは、10秒20秒のタイムラグは致命的だろう。ニコ動の方が、コメントが流れるように表示されてくる。ついでに、どの場面でのコメントなのかもわかりやすい。興奮状態に入って、コメントが大量に流れていくのは圧巻だしね。総合的に見て、ニコ動の方がわかりやすいし、優れていると思う。ツイッターの方も、コメント数が増えたとかいうのは分かるんだけど、どの程度増えたのか、分かりづらいし、ニコ動のように、祭り状態を肌で感じられるわけではないと思う。
2番目としては、放送に集中できないということもあげられる。ニコニコ動画も議論に集中できるわけではないのだが、テレビを見ながらツイッターをするというのは、まだ慣れていない俺みたいな人間には大変だ。ツイッターに書き込もうとすれば、テレビに集中できない。しかも他の人の書き込みもスクロールして見ていかなければいけないのも骨がおれる。ニコ動では、動画の上に表示されるから、動画から目を話さずに、コメントにどんなことが書き込まれているのかということを把握する程度だったら容易にできると思う。
最後の点としては、テレビやユーストリームとツイッターのコンビネーションと、ニコ動の大きな違いはニコ動が同期ではなく、擬似同期であるということだ。これは濱野智史という人が『アーキテクチャの生態系』という本(←ちなみに、この本はとてつもなく、おもしろいです)で言っていることなのだが、ようするにニコニコ動画というのは、動画を再生する時間は異なっているはずなのに、前に視聴した人の書き残したコメントを見ながら動画を見ていると、あたかも視聴者全員で同じ時間を共有しているような感覚を覚えてしまうということだ。それが擬似同期という新しい形態の情報の消費の仕方なのだという。もちろんニコニコ動画もニコニコ生放送のほうは、同じ時間に生放送を見てコメントを残していくわけだが、ニコニコ生放送はその後、ニコ動の方に移されて、生中継で見れなかった視聴者もコメントを書き足せるのだ。つまり、その人にとっては、それが生中継のときと同じ雰囲気を味わえる。ツイッターでは、もちろんそのようなことは今のところできないし、ユーストリームと連動していたツイッターも無理なんじゃないだろうか。おそらく。簡単に言えば、ツイッターやユーストリームは生放送が終わってしまうと、どことなくしらけムードになってしまう。ユーストリームは動画自体は見れるけど、生放送を強調するあまり、なんとなく生中継で見損ねたら楽しみが終わっているというような雰囲気が漂っているような気がする。ニコ生はそのようなことはないと思うし、ニコ動で十分にいつでもライブの雰囲気を味わえるような気がするのだ。
ところで、ツイッターの話に戻るが(というかニコ動でも同じなのだが、特につぶやきを読むのが大変なツイッターに話を絞りたい)、最近はテレビ局がツイッターと連動させる番組とか新しい番組を模索しはじめているようだ。最近、よく耳にするのは、「視聴者参加型」とか「双方向性」といった単語だろう。主体的な視聴者が送ってくる情報をリアルタイムに番組に反映させようという試みだと思うのだが、果たして視聴者参加型というのは、そんなに番組に貢献できるもんなのだろうか?そもそも、視聴者が参加するとはどういうことを意味しているのだろうか?朝生の場合は、議論の内容を理解するのが大変なので、ツイッターのつぶやきを読みながら、議論をすべて理解していき、なおかつ気の利いたつぶやきをするというのは、おそらく困難だと思う。しかし、そのような内容を抜かしたとしても、バラエティ番組なども含めて、テレビ番組に参加するということには、いろいろな違いがあるのではないかと思うのだ。
番組に参加するという意味の一つ目は、実際に参加することを指していると思う。例えば有名人になって、朝生の議論に参加することが、この番組に参加するという一つのあり方だろう。他の番組だったら、例えば、クイズ番組の解答者として参加するとか、風雲たけし城で「がんばるぞー!」とガッツポーズをしながら、試練に立ち向かうとか、空耳アワーの曲をハガキに書いて送るとか、まあ、そういう感じの参加の仕方だ。その延長線上にツイッターの自分のつぶやきがテレビで読み上げられたとか、テレビ画面に映し出されたとか、質問や感想などが番組に反映されたとか、ようするに、番組に直接影響を及ぼすような参加の仕方である。
二つ目の参加の仕方は、朝生の議論をスタジオで見ている人たちのような感じだ。つまり、もうすこし消極的な参加の仕方である。「笑っていいとも」のスタジオを見にきている人とかも同じだろう。とりあえず議論を聞きたいとか、番組のスタジオの雰囲気を味わいたいとか、テレビに映りたいとかの理由で、番組のスタジオ内で、番組を横から見ているという参加の仕方だ。ただし、彼らが番組に直接影響を及ぼしているわけではない。
三つめは、テレビやネットの番組に参加しているというよりも、その番組を見ているグループに参加しているという参加の仕方だ。昔の街灯テレビで見知らぬ人たちと盛り上がるといったような感じに近い。最近では有名選手の母校に地元の人が集まって応援するといったこともこれに含まれると思う。スポーツの世界ではこのような参加の仕方が昔から一般的だったのではないかと思うが、最近になってニコニコ動画やユーストリームなどで、映画や普通の日常の映像、それに国会中継まで、ほとんどなんでも盛り上がるネタになってきたようだ。
まあ、番組の内容によって異なるだろうから、一概には言えないのかもしれないが、番組に参加するといった場合、この3つのケースがあると思う。問題は、この「参加」の仕方をごっちゃにしている人がいることだろう。そして参加の仕方を間違えて、とりあえず視聴者になんでもお伺いをたてればいいというような勘違いした番組もでてきたのではないかと思うのだ。もちろん視聴者の方を見ることはいい。ひとりよがりの番組を作られても困るときもある。ただ、どうも最近の風潮で大衆に迎合することがいいことだみたいな雰囲気がメディアや政治などで見られるような気がする。はたして、それでいいのだろうか?
メディアの世界も政治の世界も、担い手はもっと自分たちの信念を貫くべきだろう。視聴者が参加して楽しんでいるのは、むしろ三つ目の参加の仕方が圧倒的に多いのであって、自分たちで番組を作りだそうとしている人は少ない。もちろんネット上では、YouTubeなどでアマチュアの発信する映像も多くなってきた。だから総表現時代などと言われるのであるし、情報がフラット化したネット上では、アマチュアとプロフェッショナルな人の意見や作品が同列に扱われるということも指摘されている。しかし、だからこそ、プロの主張や作品というものを、われわれは求めているのではないかと思うのだ。テレビがすべてホームビデオになってしまったり、小説がケータイ小説のような投稿小説だけになってしまったりしてしまっては、物足りないだろう。そのようなアマチュアの作品や主張はネット上で見られるわけで、それとはちがうプロの世界ももちろん見ていたいのだ。
最近、ユーストリームを使って世界の映像を楽しむという「革命TV」という番組が始まったのだが、第一回目は大失敗に終わった。まあ、ソフトバンクが唯一のスポンサーでユーストリームとツイッターを紹介・普及することだけが目的の番組だから仕方のない部分もあるわけだが、まったくおもしろくなかった。その理由の一つはユーストリームとツイッターを使えば双方向の視聴者参加型番組になって、すべてがうまくいくだろうというような、安易な気持ちで番組が始まったからのような気がする。つまりプロ意識が欠けていたのではないかと思うのだ。
一方、さっきTBSラジオのDIGという番組がユーストリームで流れていたので、見ていたのだが、非常におもしろかった。こちらはラジオ番組なのだが、ラジオのスタジオ内の映像をユーストリームで流していて、視聴者はその様子を見ることができる。途中、CMや交通情報などが流れているときの、スタジオ内での私語などもユーストリームでは見ていることができるのが、とても新鮮で楽しい。それに、番組終了後の反省会なども延々と見ていられる。どことなく『ラジオの時間』という映画に似た雰囲気があって、プロ意識が垣間見れるのだ。もちろん、番組のスタッフもツイッターのコメントはチェックしているようだし、それによって番組作りをいろいろ変更させていくんだろうと思う。しかし、視聴者に迎合しているわけではなくて、番組自体は、自分たちの意見を表明し、それをツイッター上で、視聴者がああでもないこうでもないとやりとりしている感じだ。ちなみに今日のテーマは「抑止力とはなにか」みたいな話だったので、なおさらおもしろかったのだと思う。もちろんTBS系(左寄り)の番組なので全部が全部同意できるというわけでもなかったのだが、番組作りに関してはおもしろかったし、ラジオ局のスタジオの中をユーストリームで流すというアイデアもおもしろかったし、正直テレビ番組を見ているよりも数段おもしろかった。ラジオ番組の放送中の様子というのは、たまに街中のガラス張りのスタジオとかで見ることもできるが、それよりももっと身近に感じられた。こういう新しい試みが積み重なってラジオのイメージが上がれば、ラジオが見直されていくんじゃないだろうか。それに、このラジオ番組はアイポッドでも配信されているしね。
まあ、そういうことで、今回言いたかったのは、視聴者を単に参加させればいいというような安易な番組よりも、プロ意識を持って番組をつくって欲しいなと思ったのだ。そればメディアが生き残れる唯一の道なんじゃないかな。フラット化する情報化社会において、アマチュアに迎合するんじゃなくて、どのようにしたらアマチュアとの差異化をはかれるかが求められているような気がする。
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この前、朝まで生テレビをやっていたので、コンピューターをさわりながら、ぼーっと見ていた。少し見ていたら、ツイッターのことを思い出して、#asanamaで検索かけてみた。案の定、朝生見ている人がつぶやいていた。おもしろそうだから、俺もつぶやいてみた。俺はテレビとかユーストリームを見ながらつぶやいたことはなかったので(というかツイッター自体あまりしていない)、結構新鮮だった。ただ、うーん。おもしろいって言えばおもしろいけど、感激するほどのものでもなかった。おそらく俺がニコニコ動画を知らない外国人だったら、テレビを見ながらつぶやけるというだけで大喜びしていたんだろうけど、ニコニコ動画の使い勝手のよさを知ってしまっている日本人としては、ちょっと微妙じゃないかな。それでも日本人も生放送見ながらツイッターというのが流行っているようなので、ツイッターの方がいいという人もいるのかもしれない。そういうことで、今回は俺の独断と偏見に満ちた感想です。
なんで、俺がニコニコ動画を優れていると思うかというと、まあ、ぶっちゃけツイッターの方をあまり理解できていないということもあるんだけど、もう一つの理由としては、つぶやきが見れるまでに若干のタイムラグがあるということだろう。俺の使っているツイッターのソフトは、つぶやきが30秒か1分おきに更新されるようなので、その間に書き込まれたメッセージが一気に表示される。つまり、なめらかではないのだ。普通のツイッターの時は別に問題はないが、生放送などを見ているときは、10秒20秒のタイムラグは致命的だろう。ニコ動の方が、コメントが流れるように表示されてくる。ついでに、どの場面でのコメントなのかもわかりやすい。興奮状態に入って、コメントが大量に流れていくのは圧巻だしね。総合的に見て、ニコ動の方がわかりやすいし、優れていると思う。ツイッターの方も、コメント数が増えたとかいうのは分かるんだけど、どの程度増えたのか、分かりづらいし、ニコ動のように、祭り状態を肌で感じられるわけではないと思う。
2番目としては、放送に集中できないということもあげられる。ニコニコ動画も議論に集中できるわけではないのだが、テレビを見ながらツイッターをするというのは、まだ慣れていない俺みたいな人間には大変だ。ツイッターに書き込もうとすれば、テレビに集中できない。しかも他の人の書き込みもスクロールして見ていかなければいけないのも骨がおれる。ニコ動では、動画の上に表示されるから、動画から目を話さずに、コメントにどんなことが書き込まれているのかということを把握する程度だったら容易にできると思う。
最後の点としては、テレビやユーストリームとツイッターのコンビネーションと、ニコ動の大きな違いはニコ動が同期ではなく、擬似同期であるということだ。これは濱野智史という人が『アーキテクチャの生態系』という本(←ちなみに、この本はとてつもなく、おもしろいです)で言っていることなのだが、ようするにニコニコ動画というのは、動画を再生する時間は異なっているはずなのに、前に視聴した人の書き残したコメントを見ながら動画を見ていると、あたかも視聴者全員で同じ時間を共有しているような感覚を覚えてしまうということだ。それが擬似同期という新しい形態の情報の消費の仕方なのだという。もちろんニコニコ動画もニコニコ生放送のほうは、同じ時間に生放送を見てコメントを残していくわけだが、ニコニコ生放送はその後、ニコ動の方に移されて、生中継で見れなかった視聴者もコメントを書き足せるのだ。つまり、その人にとっては、それが生中継のときと同じ雰囲気を味わえる。ツイッターでは、もちろんそのようなことは今のところできないし、ユーストリームと連動していたツイッターも無理なんじゃないだろうか。おそらく。簡単に言えば、ツイッターやユーストリームは生放送が終わってしまうと、どことなくしらけムードになってしまう。ユーストリームは動画自体は見れるけど、生放送を強調するあまり、なんとなく生中継で見損ねたら楽しみが終わっているというような雰囲気が漂っているような気がする。ニコ生はそのようなことはないと思うし、ニコ動で十分にいつでもライブの雰囲気を味わえるような気がするのだ。
ところで、ツイッターの話に戻るが(というかニコ動でも同じなのだが、特につぶやきを読むのが大変なツイッターに話を絞りたい)、最近はテレビ局がツイッターと連動させる番組とか新しい番組を模索しはじめているようだ。最近、よく耳にするのは、「視聴者参加型」とか「双方向性」といった単語だろう。主体的な視聴者が送ってくる情報をリアルタイムに番組に反映させようという試みだと思うのだが、果たして視聴者参加型というのは、そんなに番組に貢献できるもんなのだろうか?そもそも、視聴者が参加するとはどういうことを意味しているのだろうか?朝生の場合は、議論の内容を理解するのが大変なので、ツイッターのつぶやきを読みながら、議論をすべて理解していき、なおかつ気の利いたつぶやきをするというのは、おそらく困難だと思う。しかし、そのような内容を抜かしたとしても、バラエティ番組なども含めて、テレビ番組に参加するということには、いろいろな違いがあるのではないかと思うのだ。
番組に参加するという意味の一つ目は、実際に参加することを指していると思う。例えば有名人になって、朝生の議論に参加することが、この番組に参加するという一つのあり方だろう。他の番組だったら、例えば、クイズ番組の解答者として参加するとか、風雲たけし城で「がんばるぞー!」とガッツポーズをしながら、試練に立ち向かうとか、空耳アワーの曲をハガキに書いて送るとか、まあ、そういう感じの参加の仕方だ。その延長線上にツイッターの自分のつぶやきがテレビで読み上げられたとか、テレビ画面に映し出されたとか、質問や感想などが番組に反映されたとか、ようするに、番組に直接影響を及ぼすような参加の仕方である。
二つ目の参加の仕方は、朝生の議論をスタジオで見ている人たちのような感じだ。つまり、もうすこし消極的な参加の仕方である。「笑っていいとも」のスタジオを見にきている人とかも同じだろう。とりあえず議論を聞きたいとか、番組のスタジオの雰囲気を味わいたいとか、テレビに映りたいとかの理由で、番組のスタジオ内で、番組を横から見ているという参加の仕方だ。ただし、彼らが番組に直接影響を及ぼしているわけではない。
三つめは、テレビやネットの番組に参加しているというよりも、その番組を見ているグループに参加しているという参加の仕方だ。昔の街灯テレビで見知らぬ人たちと盛り上がるといったような感じに近い。最近では有名選手の母校に地元の人が集まって応援するといったこともこれに含まれると思う。スポーツの世界ではこのような参加の仕方が昔から一般的だったのではないかと思うが、最近になってニコニコ動画やユーストリームなどで、映画や普通の日常の映像、それに国会中継まで、ほとんどなんでも盛り上がるネタになってきたようだ。
まあ、番組の内容によって異なるだろうから、一概には言えないのかもしれないが、番組に参加するといった場合、この3つのケースがあると思う。問題は、この「参加」の仕方をごっちゃにしている人がいることだろう。そして参加の仕方を間違えて、とりあえず視聴者になんでもお伺いをたてればいいというような勘違いした番組もでてきたのではないかと思うのだ。もちろん視聴者の方を見ることはいい。ひとりよがりの番組を作られても困るときもある。ただ、どうも最近の風潮で大衆に迎合することがいいことだみたいな雰囲気がメディアや政治などで見られるような気がする。はたして、それでいいのだろうか?
メディアの世界も政治の世界も、担い手はもっと自分たちの信念を貫くべきだろう。視聴者が参加して楽しんでいるのは、むしろ三つ目の参加の仕方が圧倒的に多いのであって、自分たちで番組を作りだそうとしている人は少ない。もちろんネット上では、YouTubeなどでアマチュアの発信する映像も多くなってきた。だから総表現時代などと言われるのであるし、情報がフラット化したネット上では、アマチュアとプロフェッショナルな人の意見や作品が同列に扱われるということも指摘されている。しかし、だからこそ、プロの主張や作品というものを、われわれは求めているのではないかと思うのだ。テレビがすべてホームビデオになってしまったり、小説がケータイ小説のような投稿小説だけになってしまったりしてしまっては、物足りないだろう。そのようなアマチュアの作品や主張はネット上で見られるわけで、それとはちがうプロの世界ももちろん見ていたいのだ。
最近、ユーストリームを使って世界の映像を楽しむという「革命TV」という番組が始まったのだが、第一回目は大失敗に終わった。まあ、ソフトバンクが唯一のスポンサーでユーストリームとツイッターを紹介・普及することだけが目的の番組だから仕方のない部分もあるわけだが、まったくおもしろくなかった。その理由の一つはユーストリームとツイッターを使えば双方向の視聴者参加型番組になって、すべてがうまくいくだろうというような、安易な気持ちで番組が始まったからのような気がする。つまりプロ意識が欠けていたのではないかと思うのだ。
一方、さっきTBSラジオのDIGという番組がユーストリームで流れていたので、見ていたのだが、非常におもしろかった。こちらはラジオ番組なのだが、ラジオのスタジオ内の映像をユーストリームで流していて、視聴者はその様子を見ることができる。途中、CMや交通情報などが流れているときの、スタジオ内での私語などもユーストリームでは見ていることができるのが、とても新鮮で楽しい。それに、番組終了後の反省会なども延々と見ていられる。どことなく『ラジオの時間』という映画に似た雰囲気があって、プロ意識が垣間見れるのだ。もちろん、番組のスタッフもツイッターのコメントはチェックしているようだし、それによって番組作りをいろいろ変更させていくんだろうと思う。しかし、視聴者に迎合しているわけではなくて、番組自体は、自分たちの意見を表明し、それをツイッター上で、視聴者がああでもないこうでもないとやりとりしている感じだ。ちなみに今日のテーマは「抑止力とはなにか」みたいな話だったので、なおさらおもしろかったのだと思う。もちろんTBS系(左寄り)の番組なので全部が全部同意できるというわけでもなかったのだが、番組作りに関してはおもしろかったし、ラジオ局のスタジオの中をユーストリームで流すというアイデアもおもしろかったし、正直テレビ番組を見ているよりも数段おもしろかった。ラジオ番組の放送中の様子というのは、たまに街中のガラス張りのスタジオとかで見ることもできるが、それよりももっと身近に感じられた。こういう新しい試みが積み重なってラジオのイメージが上がれば、ラジオが見直されていくんじゃないだろうか。それに、このラジオ番組はアイポッドでも配信されているしね。
まあ、そういうことで、今回言いたかったのは、視聴者を単に参加させればいいというような安易な番組よりも、プロ意識を持って番組をつくって欲しいなと思ったのだ。そればメディアが生き残れる唯一の道なんじゃないかな。フラット化する情報化社会において、アマチュアに迎合するんじゃなくて、どのようにしたらアマチュアとの差異化をはかれるかが求められているような気がする。
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