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人間は他の生物と分かり合えるのか?

 我々は、人間に愛情を抱くのと同じようにイルカにも愛情を注げるのかということが、興味深い論点なのではないかということを前回述べた。本当はその話を最後まで書いていくつもりだったのだが、前回はどんどん話がずれていってしまい、最後の方では、いつのまにかイルカ映画批判になって、何を言いたいのかわからなくなってしまった。なので、今回はイルカ映画には触れずに、異種の生物に愛情を注げるかという点について、もう少し考えてみたい。なんでそんなことにこだわるのかというと、なんとなく、面白いねたなんじゃないかという気がするからだ。というか、それ以上の深い理由はまったくない。

 そもそも、他の種の生物に人間に対してと同じような愛情を注げるのかというのは、実はよくわかっていないと思う。人類史上、他の種に対して愛情を注いだなんてことは、おそらく無かったのではないだろうか。もちろん、犬や猫などのペットや、コアラやパンダ、アシカなどの可愛い動物に対して愛情を感じることはあった。しかし、これらの愛情はペットなどにむけられた愛情であって、今、問題にしている愛情とは本質的な部分でまったく異なっていると思う。ちなみに今話題のイルカ映画が世界中の視聴者に訴えている多くの部分は、このペットに対する愛情によっている。愛くるしいイルカに対して、こんなひどいことをしているというような感情だ。誰だって目の前でかわいい犬が痛めつけられていたら、助けてあげようとする。しかし、目の前でゴキブリが追い回されていてもかわいそうには思わない。それと同程度の感覚だ。

 一方で、捕鯨反対を唱える人たちが、他の動物保護と違う点は、イルカやクジラに高い知性があるということで特別視しているのも事実だ。高い知性があるから、人間と同等に扱うべきだというのが彼らの主張であり、そこには異種の生物に対して人間に対するのと同じように愛情を注ぐべきだということになる。

 今までだったら、犬や猫と人間のどちらかが死ななくてはいけないという非常事態になったら、人間が優先的に生きる権利を与えられてきた。もちろん、南極物語のように、それを理不尽だと思ったり、悲しんだりする気持ちもあるが、犬を救うために人間を見殺しにしたとなれば、世間はもっと大騒ぎになるだろう。つまり人間は特別視されてきたのだ。

 異種の生物を人間と同等に扱うということは、このような場合に人間を見殺しにしても、イルカを救うべきだという論理になる。もちろん、イルカが人間以上というわけではない。ただ例えば雪山で遭難して、ふたりの人間のどちらかしか助からない状況でどちらを選ぶかというジレンマと同様に、人間とイルカのどちらかしか助からない状況で人間を見捨ててイルカを選ぶ選択肢があるということだ。なぜなら、人間だから助けたとか、イルカだから見捨てたという論理が、そこでは成立しえないからだ。どちらか一方だけしか助けられないのならば、助かる可能性の高いほうだけを助ける。そのような判断になるはずだ。

 今まで、このような愛情は生じてこなかったといったが、実はいくつか例外が思い出される。例えば、映画「愛は霧のかなたに」のモデルになった、アフリカでゴリラの研究に従事した女性人類学者が、おそらくこのタイプだったのではないかと思う。また、数年前にブックストアで安売りされていた小説なのだが、女性霊長類学者が研究対象のチンパンジーかなにか、とりあえず霊長類に恋をしてしまうという小説だ。もちろん今注目している感情は、愛情といっても恋愛感情に限定しているわけではなくて、人間に対するのと同じような感覚をむけることが出来るかということだ。西洋人にとっては、自分たち人間と同等に扱うためには、自分たちと同じ程度の高い知能があって意思の疎通が出来なくてはいけない。だから、霊長類かイルカ・クジラなどがこのような愛情の対象になるのは理解できる。ただ、このような愛情は本当に成立するのだろうか?

 SF映画には異星人と友情や恋愛関係を結ぶようなシーンがよく出てくる。ファンタジーでも、エルフと人間の間に恋が芽生えるなどというような話は枚挙にいとまがない。このような関係は、どこか人種を超えて交流している、コスモポリタン的幻想と思想的に同じように見えるのだが、果たして、このような関係になれるのだろうか?人種間の違いを乗り越えることは、これに比べたら、遥かに容易だろう。単純に外部を設定すればいいからだ。外部がつくりだされると同時に内部というものが自動的に創出される。そして内部の人間達は人種の垣根を超えて同じ仲間として人間関係を結ぶことが出来るようになる。しかし、このような人種を超えた人間関係が成立する条件は、外部が作り出されたというだけではないような気がする。それ以前に、人間という同じ種であることが最低限必要だったのではないだろうか。人間社会は様々な文化を作り出してきたが、それでも身体的な特徴はほとんど同じであり、多様な文化も実は限られた文化要素の組み合わせに過ぎなかった。

しかし、異種生物間では、こうはいかない。これは未開社会に調査に行ってハムレット(マクベスだったかな?)を朗読したが、政治組織のまったく異なる社会に住む村人たちにはシェイクスピアの意図が伝わらなかったとかそういう次元の話ではない。もっと根本的な違いを見せ付けられるのだと思う。例えば人間は視覚に頼って生きている。言い換えると、視覚情報で構成された世界観をもとに世界を理解している。しかし、嗅覚や聴覚を使って世界を認識している生物にとっては、それらの情報をもとに世界を再構築しているのだ。つまり、世界というものは唯一のものだとしても、我々は感じ方が異なる。そして、その感じ方には正しいというものはない。我々の構築した世界観と、彼等の世界観では、どちらも真実であって、真実ではない。そのような全く異なる認識方法を持った生物間で、果して理解しあえるのだろうか?The Coveでは、イルカショーのイルカは楽しそうに見えて、イルカは実はストレスで胃潰瘍になっていると延べていた。楽しそうにしているのは人間の思い違いだというのだ。同じように、イルカと分かり合えるというのも幻想ではないだろうか?

もし仮にイルカが人間のように知能が高く、意思の疎通ができたとする。世界観や思考法まですべてが異なる生物と意志の疎通ができるのかということすらも疑問なのだが、もし意志の疎通が出来たとしても、おそらく理解はし合えないのではないだろうか。少なくとも、人種間の違いですら克服できていない今の人類に、考え方も概念もすべてがまったく異なる生命体と理解しあえるとは思えない。ただ、もちろん、もしも意思の疎通が出来るようになって、それぞれの思考法や世界観を披瀝しあえるようになるならば、それは非常に興味深いことだし、新たな歴史の幕開けになることは間違いないだろう。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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