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宗教の役割

 前回は幸せについて書いてみた。その中で、幸せを感じるためには、世界をどのように認識し、どのように感じ、どのように考えるかということが大事だということを述べた。実はこれはすごく大事なことだ。映画『羅生門』で描かれているように世界に真実はない。同じ場所、同じ時間を共有していたとしても、必ずしも同じ感じ方をしているとは限らないのだ。同じ現象を体験していたはずなのに、その現象を違った解釈で理解していく。世の中に絶対的な真理なるものは存在しない。だから、もしも幸せな人生を願うとき、現実を変えるのではなく、その現実をどのように感じているかという自分の中の内面を変えてしまうことも一つの手になる。

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 もちろん、幸せな人生を送るために、まずしなくてはいけないことは、一生懸命生きることだろう。まじめに働いて、無駄使いをせずにお金をためて、周りの人と仲良くし、幸せな家庭を築いていく。こういうことが大事なのは言うまでもない。しかし、現実はとても厳しいときがある。きちんと生きていても、自分にまったく非がなくても、苦難が降りかかってくることがある。ちっぽけな個人では対処できないような不幸が起こるときがある。

 例えば、アメリカの黒人奴隷(なお独立前の黒人奴隷の生活は従来考えられていたよりも自由で人間らしく扱われていたとする歴史考古学の研究もあるようだ。ここではそこまで考えないことにする)などがいい例だ。彼らは別に何も悪いことはしていない。黒人として生まれたから奴隷として働かされていたというだけだ。そのような状況を変えることは容易ではないし、もちろん、そのようなときに、その苦しい境遇は自分の責任だと自分を責めても意味がない。黒人がその苦しい生活から逃れることができる方法は限られていた。一つは脱走することだ。南北戦争前後のころでは北部に逃げ出す黒人が多かったという。これは自分で環境を変えていく方法である。もう一つは、宗教に助けを求めることだった。つまり、自分の境遇を変えるのではなく、その苦しい境遇に意味を持たせることで、苦しさを和らげるのだ。このように、自分ではどうしようもない不幸が降りかかってきたときに、人が取れる方法に、自分の内面を変えるということがある。それは決して不幸から目を背けているわけでも、現実から逃げているわけでもない。自分で何かを変えていけるような状況では、もちろん現実と向き合ってそれを変えるように努力していくべきだろう。お金が必要ならば働けばいいし、資格が必要なら勉強すればいい。しかし自分ではコントロールできないような不幸が降りかかってきたときに、その苦しい現実を直視し、それに立ち向かっていくためには、現実を変えられない以上、自分の内面を変えることでしか対処できない。そのようなときに必要なものが宗教と哲学だ。

 宗教の存在は苦難に満ちた現実に意味を持たせることだ。苦しみは意味を持たせることによって、苦しみではなくなる。ちくま新書の『親鸞』の冒頭にまったく同じことが書かれていたので、興味のある方はぜひ読んで頂きたいのだが、そこで指摘されていたことを簡単にまとめると、宗教の役割とは苦難に満ちた現実に意味を持たせる「物語」を提供することにある(←おととい本屋さんでぱらぱらっと読んだ程度なのできちんとした文章は思い出せない)。この指摘は重要だ。アメリカ南部の教会で黒人が陽気な歌を歌っているのを見たことがある人もいるだろう。黒人がキリスト教に救いを求めたのは偶然ではない。奴隷としての境遇に意味を持たせ、その苦難に満ちた人生を強く生き抜いていくためには、そのような意味が必要だったのだ。しかし、その行為はアヘンのように宗教によって思考能力を麻痺させ現実逃避を試みていたということでは決して無い。そうではなくて、自分達の不遇な境遇を物語によって意味を持たせる。無意味な人生に意味を持たせることによって、人は生きる希望を得られるのだ。奴隷という境遇は悲惨である。それをそのまま受け入れるのは容易ではない。しかし、もしもそれが神が与えてくださった試練であると考えることが出来たらどうだろうか?自分は神に「選ばれた」が故に今は試練を与えられていると考えたらどうだろうか?その試練を乗り越えた先には本当の幸せを神から与えられると信じたらどうだろうか?その希望はもしかしたら死後の世界や来世に訪れるかもしれない。もしもそうならば、それを証明する手立てはない。しかし、重要な事は、それを信じられるかどうかである。もしも、信じられるのならば、今の苦難を耐える力になるだろう。そこにこそ宗教の本来の役目があるのだ。

 逆に意味を持たせれば人間はどんな苦難な道も歩むことができるのかもしれない。例えば、先日、私は靖国神社に参拝させていただいたのだが、靖国神社の就遊館には、先の大戦で戦死された方がたの記録が残されていた。大東亜戦争では様々な物語が語られていた。国家神道もその一つだし、靖国神社もそのようなイデオロギーの中心的役割を担っていた。そのような物語、例えば国のために死ぬことを美化する物語によって、日本人は勇敢に戦うことが出来たのだ。人は死を恐れる。これは動物の本能として当たり前の事だ。死とは、ある意味究極の不幸であろう。しかし、勇敢に戦うことを評価し、国家のために命をかけることを当然とする物語さえあれば、究極の不幸であるはずの死を選択することが出来るのだ。このような物語を作り出す力が、宗教にはある。もちろんだからこそ宗教を悪用されたときはおそろしい。カルト宗教やテロ行為などを引き起こすこともありえる。(なお私は国家のために命を落として日本を守ってくださった日本軍の方達を犯罪者扱いしたり、特攻隊をテロリスト扱いするような安っぽい反戦運動家の人たちの意見には反対だ)。 そのような危険な集団を擁護するつもりもないし、宗教は時として狂気に変わる危険性を秘めているのは確かだろう。しかし宗教を人間社会から排除することはできないと思う。

 19世紀後半、西洋の社会思想家の最大の敵はキリスト教であった。理性を持った人間達はよりよい社会を作り出していくという近代思想全盛のころ、キリスト教が西洋社会の中で唯一非理性的、非不合理な教えだったのだ。近代社会では科学の発展が目覚しかった。社会はすべて科学によって説明・理解可能な現象だと信じられていた。そこには人間が理解できない現象はありえなかった。社会は科学の力によってより住みやすい社会に常に進歩していった。だから、スペンサー、フレイザー、マルクスからフロイトに至るまで、科学というものに絶対の信頼を置き、それによってキリスト教を排除しようと試みていた。非西洋社会を野蛮と見なした単純な進歩史観を提唱したとして彼らを非難する意見があるが、彼らの真の目的はむしろ西洋社会の野蛮な慣習であるキリスト教排除にあったのだ。

 しかし、キリスト教と科学、もっと言えば宗教と科学のどちらが人間に幸せを与えてくれるのかということに関しては難しい問題もある。説明不可能な現象はひとまず置いておいたとすれば、なるほど、科学は確かに説明してくれるだろう。しかしある現象を説明するという科学的な理解の仕方で、はたして人間は救われるだろうか?あなたの一番大切な人が急に亡くなったとする。科学によって、死因は解明され、昨日まであんなに元気だった人がなぜ死んだかという理由は説明されたとする。心臓が急に止まった理由はこうでこうでこういうことが起きたからです。と、頭のいいお医者さんが教えてくれたとする。しかし、そのような説明をされただけで、あなたは悲しみを乗り越えられるだろうか?あなたが知りたいのは、病気の名前とか死んだ直接的な原因を知りたいわけではないだろう。それよりもむしろ、なぜその人が、他の人ではない、その人がその時に死ななければならなかったのかという理由を知りたかったのではないだろうか。そのような理由や意味を知ってこそ、その人の死を受け入れられるのではないだろうか。科学では、無味乾燥な説明しか与えてくれない。科学は「意味」を教えてくれない。人間はこのような意味のない世界、ニヒリズムが蔓延した世界で果たして生きていけるだけの強さがあるのだろうか。人間はそこまで強くないだろう。だからこそ、いつの時代にも宗教が必要なのだ。

 数年前に「エミリー・ローズ」という映画があった。悪魔に憑かれた少女エミリーローズを救うために悪魔祓いの儀式を執り行った神父の話だ。少女が死ぬところから物語が始まる。現代医学の治療よりも悪魔払いを優先させた神父さんが殺人罪の罪で裁判にかけられる。医学的処置を断念させたことが少女の死を早めたとする検察側と、少女を本当の意味で救おうとした神父を擁護する無神論者の弁護士の攻防を描いた映画である。少女は医学的処置によって救われたかもしれない。しかし、それは結果論である。しかも少女に精神的な異変が起こったとき、彼女はまず大学の医者に見てもらっていた。しかし現代医学の治療では回復する気配がまったくない。むしろ悪化していく。そこで少女は子供の頃から世話になっている神父さんに相談することにしたのだ。少女の家族も敬虔なキリスト教徒であり、彼らが最後にすがれたのは、信頼する神父さんでしかなかった。残念ながら悪魔払いは失敗に終わったのだが、少女も少女の家族も心の平安を感じることができたのは確かだろう。現代医学ではこのような心の安らぎを与えることはできなかったはずだ。この映画は、科学と宗教のどちらが人間の生活に必要なのかということを描き出した傑作である。レビューにも同じことを書いているので、もし時間があれば、ぜひアマゾンにいって、私のコメントに清き一票を入れていただきたいのだが、この映画で述べられていることは、科学では救えない人が世の中にいて、彼らを救済できるのは宗教しかないということだ。


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 ということで、人生に意味を与えてくれる物語は宗教で語られることが多い。もちろん、宗教以外にも、国家のために死ぬことは尊い行為だという考えや、一人の女を愛することは素晴らしいことだといった様々な事柄が物語として語られる。だから宗教以外でも生きる意味を与える物語は今まで数多く語られてきた。世界に、そのような意味を与えることによって、人は苦しいものを乗り越える力を得ることができるからだ。

 例えば、硬派な生きかたがかっこいいという考えが共有されていれば、女などに構わぬ硬派な生きかたをすることに誇りが持て自己満足できる。逆に、そういう考えが共有されていなければ、自分の欲望を押さえ込むことは馬鹿な行為に映ってしまうだけだろう。(ほとんどの)男は誰しも女とセックスをしたいと願う。そのような性欲を抑えられるのは「セックスを我慢できる男は責任感がある」とか「愛するものとだけセックスするべきだ」といった言説だ。それが無ければ犬猫の交尾と同じように愛のないセックスしか求めない男だけになってしまうだろう。アメリカでも日本でもモラルが崩れてきている原因のひとつは、このような欲望を抑える物語が消失してきているからだと言える。共有された価値観が具現化された物語、つまり大きな物語が消失してきた現代に硬派な男が減ってきているのは偶然ではないのだ。

 我々に必要なのは生きる意味を与える物語だ。それは宗教に限らない。価値観を共有し、自分の利益にならないような行動を礼賛するような物語があって初めて人は自ら進んで苦難に立ち向かい、誰かのために自分に不利益になるような事柄もすすんで行うことができるようになる。すべては世界に意味を与える物語なのだ。そのような人生に意味を与えてくれる物語とともに生きていくことで人は人としての幸せを感じて生きていくことができるのではないだろうか。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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