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主観と客観

主観と客観は科学論を語るときに避けて通ることはできない。客観性というものの存在によって、人類は文化や言語を超えて議論できる科学というものを手に入れた。だから、科学者は多かれ少なかれ客観というものを一回は考えたことがあると思う。しかし、客観をいうものは真剣に議論されてきたのであろうか?

このような議論が科学的知見や法則よりも重要な理由は、現在の多くの人たちが科学を信望してしまっているからである。そして、それは科学に限らず、社会一般を研究対象にした社会科学に至って、科学的思考法は文系分野までを席巻している。経済学や心理学にとどまらず、人類学や社会学、地理学などにおいても1970年前後で科学革命が起こった理由は、この科学的研究法への崇拝があったと思われる。

確かに人類の行動や社会を研究対象にすることは興味深い。事実、私もそのような大きな法則を打ち立てるために、アメリカに行った。私は考えが変わってしまったが、今でも、そのような研究は無意味だとは思っていない。むしろ、そのような研究はこれからもするべきであろう。しかし、問題なのは、そのような社会科学的方法しか、人類を研究する術がないと、考えてしまうことである。

そう思っていたところ、最近読んだ本で、科学の客観性に関して、異論を唱えている生物学者がいたので、その文章を引用しておきたい。彼は池田清彦という構造主義生物学の研究者だ。構造主義生物学というのはおろらくマイナーな学問だと思う。私が大学で生物学を勉強していたときには、このような学問は聞いたことがなかった。まあ、構造主義生物学に興味がある人は『分類という思想』が面白かったので(というか、それしか知らない)、そっちを読んでください。で、話を戻すと、ようするに、この『科学とオカルト』で述べられていることは、生物学に限らず科学全般において、客観性の問題がまだ解決されていないのではないかというのである。

 本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きにしても存在することは間違いあるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。
 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮ってみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するものは事実そのものではない。
 客観というのは、ゆえに、事実から記述をなす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられて成立しているのであり、この約束事は後にパラダイムという名で呼ばれるようになるのだが、そういうこととは無関係に、今でも、ほとんどの科学者は、記述は約束事ではなく、事実であるゆえに客観的だと信じているらしいのだ。
(『科学とオカルト』 56-57ページ)



つまり、どういうことかというと、自分の外部にあるすべてのモノ(他人とか木とか動物とか水とか岩とか)はすべて自分が存在しなくても存在する。だからそれ自体は自分の意識とは無関係に形のあるものだし、性質もある。

しかし、他の人にそれを伝えようとしたとき、言葉を使わざるを得ない。この言語化の過程によって、またその言語を解釈して理解する過程によって、その言葉に表された「何か」はすでに我々の意識とは無関係ではあり得ない。つまり主観の範疇に入ってしまっている。この場合は間主観だと思われるが。それでも、完全に人間の主観が排除された事実でないのは明らかだ。

さらに、研究対象を記述するときには、研究者は結論をサポートするデータを加工して提示する。このデータの加工や提示は、それが効率的になればなるほど、優れた研究発表になるわけだが、反対に客観的データの提示という観点からはどんどんかけ離れて行ってしまう。つまり加工されていない生データの提示が、むしろ客観的事実により近いものとなっているのである。もちろん、ランダムサンプリングを実施したとしても、データ取得という時点から、すでに主観が入り込む危険を完全に排除できるわけではない。なぜなら、研究に必要なデータというものを設定した時点で、主観が入り込んでしまっているからだ。唯一の客観的データは世界中のありとあらゆる現象のすべてのデータを収集することでしか達成できないということになってしまうだろう。

このように考えてくると、客観性というものは、科学においても難しいトピックなのかもしれない。ならば、社会科学の分野になったらなおさらではないだろうか?もちろん、だから科学や社会科学の研究は意味がないといっているのではない。ただ、このような事に関して自覚的であるべきだと思うのだ。それだけでも、科学がすべてを解き明かすという呪縛から我々は解放されるのではないだろうか?

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

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