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大きな物語

ポストモダンを語るとき、よく「大きな物語」という単語がでてくる。これは、簡単に言ってしまえば、社会の成員が共有している物語である。たとえば、キリスト教圏でのキリスト教などが大きな物語ということになる。他の例としてはマルクス主義なども大きな物語ということになるだろう。『ゲーム的リアリズムの誕生』という本のなかで東はつぎのように説明している。

ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち『大きな物語』の衰退で特徴づけられる。十八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統社会の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。(『ゲーム的リアリズムの誕生』東浩紀(著) 17ページ)


 この文章の後半部分で触れられているように、ポストモダンにおいては「大きな物語」というものが忌避されるようになった。いや、そもそも「大きな物語」自体が存在できなくなったという。しかし、社会を見回すと、物語は語られている。それもそのはずで、物語が欠如した社会などというものが存在できない。なぜなら、人は「物語」から生きる意味を見出していくからである。
 生きる意味と言っても、別に宗教的もしくは哲学的なものではない。生きる指針みたいなものだし、社会で生きていくために知っておくべきことだ。例えば「金が大事だ」や「人助けはいいことだ」などの価値観である。これらは、すべて「物語」から導き出されたことである。なぜなら、そこには必然性はないからだ。もし「人助けはその人のためにならないから、人助けすることはよくない」という物語が語られる社会に生きていたら、人を助けないことが正しいと思われるだけである。助けることも助けないことも、どちらも正当化される。その正当化する過程で必要なものが「物語」なのである。そしてそれが社会の成員に共有されていた場合「大きな物語」となる。逆に言うと、「大きな物語」というのは、その成員達だけが当たり前(客観的)だと信じている間主観的な価値観でしかないとも言える。
 さて、物語が無くなったら人間は生きる意味を見出せないのだから、今までも、これからもずっと、人間が存在する限り、さまざまな物語が語られていくであろう。少なくとも、今の社会を見ても多くの物語が語られている。例えば、映画やドラマ、小説に漫画・アニメなどである。神話や民話が主に語られていた昔の社会と比べたら、現代社会は、明らかに「物語」が氾濫している社会と言えるだろう。このような状況で「大きな物語」が衰退したと本当に言えるのだろうか?ポストモダン論者は、衰退したのだと主張する。東浩紀はこのあたりを次のように説明する。ちょっと長いが引用する。

 ・・・ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。
 ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。
(中略)
言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論はこのような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。
 したがって、現代社会が物語に満たされていることは、「大きな物語の衰退」論への反証にはならない。オタクたちの物語が、たとえ内容的には気宇壮大な奇想に満たされていたとしても、多様な消費者の好みに合わせて調整され、「カスタマイズ」され、それゆえにほかの物語を想像させる寛容さをかかえて作られているかぎりにおいて、それは「データベース消費」のもとにある「小さな物語」として捉えるべきだと筆者は考える。この「ほかの物語を想像させる寛容さ」は、本論でのち論じていくように、現代の文学を考えるうえで鍵となる概念である。(前掲書 19~20ページ)


つまり現在は「小さな物語」だけが氾濫しているが、相対主義のもとでは「大きな物語」は存在することが出来ないのだというわけだ。ただ俺的にはハリウッド映画から送られてくるアメリカ的価値観やアメリカ精神などのアメリカニズムのメッセージは「大きな物語」であるような気がする。それはアメリカ人だけにとどまらず、アメリカの政治的・経済的影響力によってアメリカを神聖視してしまっている多くの国においても、それは「大きな物語」になっているのではないだろうか?それが、アメリカニズム=グローバリズムと言われる問題が生じてしまう原因なのだと思う。つまり我々はアメリカ文化を十分相対化できていないと思うのだ。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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