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RPGに登場する神々

 FF10にはいろいろなモンスターが出てくる。イフリートとかシバとかバハムートとか懐かしい召喚獣も未だ健在みたいだ(といってもFF10は10年以上前の作品なのだが・・・)。そこらへんの設定はFFシリーズの初期とあまり変わっていないようだ。で、懐かしいなと思いながら、昔は気にならなかったことを考え始めた。それはRPGに出てくる神々や悪魔についてである。

 もう何年もRPGをしていないのだが、俺も昔はRPGにはまっていた。というか、日本のコンピューターRPGの黎明期に俺はブラックオニキスをプレイしていたのだ!そのあとファイヤークリスタルをプレイしたのだ!データの書き換えまでしたのだ!魔法のマントを着て地下に行ったら電気ナメクジにいつもやられて逃げ帰ったのだ! まあ、今回は俺のゲーム自慢をしたいわけではないので、ここら辺はどうでもいいのだが、俺がここで言いたいのは、ずっとRPGをプレイしていないので新しいゲームとかはほとんど知らないが、それでもRPGがどんなものであるかということぐらいは知っているつもりだ。

 で、こういうRPGの世界ではいろいろとお決まりのキャラがいる。例えば、ゴブリンとかドワーフとかエルフとかマミーとかスケルトンとかである。初期のドラクエとかは全部ひらがなで、「あやしいはな」とか「ふじみのどくろ」みたいな感じの日本名だったような気もするが、普通の中世ヨーロッパが舞台のファンタジー系RPGは大体同じようなキャラが登場していた。

 RPG黎明期は、それくらいで十分だった。味方も騎士とか僧侶とかの職業を人間とかエルフとかにやらせて、モンスターがゴブリンとかコボルトみたいな感じで、中世ヨーロッパ+魔法の世界でよかったのだが、そういう世界観はやっぱり飽きてきたのだろう。90年代の初めには早くもゲーム製作者がいろいろなものを探し始めた。というかウィザードリーで、すでに忍者とかサムライという職業がでているから、そういう他の文化を取り込もうとするニューエイジ的流れは80年代のはじめからアメリカとかにはすでにあったのかもしれない。

 まあ、とにかく日本でも90年代はじめには、すでにいろいろなモンスターが登場するようになっていた気がする。そして、女神転生というゲームでその絶頂期を迎えたような気がするのだ。このゲームでは様々な悪魔や神が出てくる。そして交渉によりしばしば彼らは仲間になってくれる。仲魔と呼ばれる彼らと一緒に闘いながらゲームを進めていくわけだが、何匹かの仲魔を組み合わせてより強力な仲魔を作りだすのがこのゲームの醍醐味になっているわけだ。このように仲魔を組み合わせて新しいキャラクターを作り出すことが目的であるため、神や悪魔の種類が多くなくてはいけない。このため、このゲームでは北欧神話からエジプト、ヒンドゥー教からアステカの神に至るまで、様々な神や悪鬼が用意されている。つまり、世界中の神様が一堂に会しているわけだ。

 女神転生のゲームをしていた頃は、ただ漠然と新しい神や悪魔に興味を持った程度だったのだが、今思うと、この状況はすごいことだと思う。なぜなら、俺はアステカやヒンドゥー教など、どれひとつとしてその宗教の教えや神話を理解できていたわけではない。それにもかかわらず、ケツァルコアトルとかテスカトリポカなどの存在は知ってしまった。しかも、アステカ神話だけではない。様々な宗教や神話がごっちゃになって頭に入ってきたのだ。その状況を、もちろん俺は不思議とも思わないし、罰当たりとも思わなかった。今でも、俺はそのような状況に目くじらを立てるつもりもないし、文化の摂取だというつもりもない。多分、そこまでの害はないと思う。ただ、冷静に考えると、一箇所(この場合は俺の頭の中とか、もっと言えば多くの日本人が共有している知識体系)に相互にまったく関係のない神々が並んでいるという図は非常に不思議な感じだ。このような現象の背後には、神々というキャラクターが神話などの文脈から切り離されて消費されているということ図になっているのだろうと思う。これはゲームに限ったことではない。同じような傾向は漫画やアニメ、超伝奇小説などにも言える。例えば、日本や東洋の宗教がベースであった『孔雀王』という漫画では、キリスト教の悪魔であるベルゼブブが出てくる。当時、その漫画を読んでいた俺としては、軽い驚きに似た違和感を感じたわけだが、今考えると、それもベルゼブブというキャラクターが抽出され消費されただけだったようだ。

 このように神話や宗教の教義からキャラクターとしての神だけが消費されるようになって久しい。30代の俺の世代がRPGを楽しみ始めた最初の世代だと思うので、今の40代以上の人たちは、RPGにはまっていた人は多くないと思う。そうすると今の10代や20代の人たちにとっては当たり前のキャラクターたちが、おそらく今の40代や50代の人はほとんど知らないのではないかと思うわけだ。つまり今の若い人たちはバーサーカーとかオーディンとかの名前に違和感はないかもしれないが、40代以上の人たちはライディーンとかデビルマン程度しか知らないのではないかと思う。それも40代以上の人にとっては、ライディーンとかデビルマンといったキャラクターは、子供アニメと切り離せないと思う。

 さてキャラクターを知っている知らないは大したことではないが、そのようにいろいろな神の名前や彼らがどんな神なのかということを知っている今の若い人たちは、どのような宗教観をもっているのだろうか?そもそもキャラクター化された神々を受容する(消費する)という行為は肯定されるべきなのだろうか。それとも否定されるべきなのだろうか。相変わらず前置きがものすごく長くなってしまったのだが、そのあたりを今回は簡単に考えてみた。

 まず最初の疑問だが、これらの神々を知ることで神話や宗教の教えを学ぶことが出来ているのだろうか?結論から言ったら、NOということになるだろう。もともとのオリジナルの神話から切り離された神々を見て楽しんでいるだけであるから、いくらこのような神々を見たところで、背後のオリジナルの神話がわかるはずもない。これは綾波レイというキャラクターを知ったところで、エヴァンゲリオンの物語を辿れないのと同じことだ。もちろん、綾波レイに興味を持ってエヴァンゲリオンのファンになるように、ゲームで興味を覚えた神々を調べるうちに、オリジナルの神話に親しんでいくという可能性も考えられる。神話を読むということは実はその神話的世界観を理解するということに他ならず、その宗教体系を少なからず理解することに繋がるだろう。ただし世界宗教の中でゲームに登場できる魅力的な神々というのは限られていて、多くは民族宗教とかと関係した神話とかからきているから、体系だった教義とか教えを学べる機会は少ない。それに、それより以前に、このような研究熱心な人たちが多いとも思えない。まあ、ゲームをしている大多数の人にとっては、神々の名前は、それらの宗教体系とは関係がなく、ただキャラクターとして消費しているだけなのだろう。むしろ宗教的な教えというのは、ゲームなどの中で語られる物語になるのだろうとは思う。反戦、平和、友情、努力といったメッセージや「教え」は、日曜日に教会に行かなくても、現代の日本人はゲームやアニメや漫画を通して勉強できるわけだし。今、俺の横で毎日流れているFF10も、いろいろなメッセージがかなり長い物語の中に散りばめられているようだ。

 さて、神々の情報を断片的に消費しているという図式は、アニメのキャラクターをオリジナルの物語から切り離して、別の物語上に登場させるというデータベース消費を想起させる。もしそうならば、この神々をキャラクターとして消費する行動はゲームというメディアが発達し、またポストモダンに突入した今だからこそ始まった現象なのだろうか?そこで思い起こさせられるのは、奈良時代から始まったとされる神仏習合という現象である。

 よく知られているように、1500年ほど前、仏教が日本に伝わってきたとき、新しいテクノロジーと共に導入された仏教は、それまでの土着宗教であった神道と激しく対立した。その時の解決策が、いわゆる本地垂迹説という解釈であった。つまり日本の神様は仏教の仏と同一であったけれども、日本では神様として呼ばれていたという、ある意味、都合のいい解釈だ。ただ、このような曖昧な解釈のおかげで、宗教的対立や社会的混乱が最小限に抑えられたのだと思う。

 この神仏習合というのを、日本的だとか言う人がたまにいるが、実は日本だけの話ではない。ウィキペディアによれば、「二つあるいはそれ以上の宗教のあいだで、どちらの宗教とも付かない両方・複数の宗教の要素を併せ持った宗教が成立するような事態」を、シンクレティズムと呼ぶ。習合はその一種である。特に民族宗教と世界宗教の場合などによく見られるのは、世界宗教の神々がキャラクター化することである。例えば旧植民地のマリア崇拝などに見られると思う。もしもマリア崇拝の起源を土着の女神信仰に求めることができるとするなら、それはマリアのキャラクターが土着の宗教体系に取り込まれたということになる。つまり、極端な話、キリスト教を受け入れた初期には、現地の人にとっては、キリスト教の教えやマリアが聖書の中でどのような位置づけになっていたかなどということはどうでもよくて、ただ女神としてのマリアのキャラクターを受け入れたに過ぎなかったのかもしれない。

 今、ちゃんとした資料が手元にないので、はっきりとはかけないが、他にも現世利益の神々をキャラクターとして受け入れることは、様々な民族宗教などに見られるような気がする。そして、そのような神々は最低限どのような効用があるかといったことはわかっても、それ以上の文脈を必要としない。このような神々はアニミズムが色濃く残る日本に住む我々にはなじみが深い。神々のバックグラウンドなどあまり重要ではないのだ。重要なのは、今の問題を解決するためには、どこの神社に行って、どの神様に拝んだらいいのかということだけだ。実際、俺も昔、日本書紀や古事記を読みたくなって、神々の系譜とかも少し齧ったことがあったが(ほとんど忘れてしまったが)、正直、そのようなものはあまり重要ではなかったような気がする。

 このように考えてくると、様々な宗教から持ち込まれた神々をキャラクターとして消費する行動というのは、今に始まったことではなくて、アニミズム的宗教観が基本の日本人にとっては、そのようなキャラクター消費が昔からなじみのある消費行動だったのかもしれない。そして、このような現世利益的宗教観に基づく神々のキャラクター消費は世界的に見ても特異な行動ではないのかもしれない。他の社会でもアニミズム的な宗教ではよく起こってきたことのような気がする。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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