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「ガラパゴス化」(2)-漫画・アニメは無国籍か-

 数ヶ月前に村上春樹の『1Q84』が出版されたようだ。その作品の評価はいろいろあるようだが、はっきりしているのは、『1Q84』は、とても売れているということだ。そして、もう一つ誰もが認める点は、彼の作品が海外で高く評価されているということだろう。その理由としては彼の作品の無国籍性にあるという。

 東浩紀のラジオトークでも、その無国籍性とか匿名性に関して述べられているのだが、東さんはさらにつっこんだ議論を展開している。彼によると村上春樹の作品は漫画やアニメに大きく影響を与えてきたという。故に漫画やアニメも村上春樹の小説もキャラクター小説のようなつくりになっているのであるが、それゆえに両者とも匿名性や無国籍性を特徴としている。そして、これがアニメや漫画が世界に受け入れられていった理由であるのだという。他にもいろいろ興味深いことが語られているわけだが、短いトークショーなので、とりあえずは彼の話を聞いてください。

東浩紀村上春樹を語る

 この番組を聞いてもらえばわかるとおり、彼はとても面白い議論をしている。その根底に流れている思想は、データベースから抽出された「キャラクター」というものは、様々な物語がすでに消失してしまっているという点だ。つまり 

人間をキャラクターの絵にしてしまった瞬間に、生々しい肉体とか、時代性とか、歴史性とか、土地性とか消えしまうわけですよね。(ラジオトーク番組)


という部分だ。故に、キャラクターとして消費される時点で、無国籍性や匿名性にならざるを得ない。それは村上春樹の小説に限らず、漫画やアニメでもキャラクターの国籍が受け手によって様々に変わるという点に顕著に見られる。このラジオ番組の中で言われているように、日本人が見たら日本人のキャラクターなのにドイツ人から見たらドイツ人に見えるというようなことだ。

 確かに日本製アニメということを意識せず、つまりアニメのキャラクターの国籍を意識せずに、視聴者は自分たちの価値観や常識の範囲内でアニメや漫画を勝手に解釈している可能性は高い。俺はヨーロッパ人の子供たちがどのようにアニメを解釈しているのかしらないし、アメリカ人も大学生レベルでは日本の漫画やアニメということを意識して楽しんでいるとしても、アメリカ人の子供たちがポケモンなどの日本アニメをどのように解釈しているのかはよくわからない。ただ『トランスフォーマー』や『スピードレーサー』などは、アメリカのアニメと思われていても不思議ではないだろう。韓国人の友達も、むかし同じようなことを話してくれた。彼は日本の古いロボットアニメを子供の頃に見ていたが、大きくなるまでは、それが韓国製アニメだと思っていたそうだ。確かに言葉や名前だけを変えれば韓国やアジアなどでは、キャラクターがどこの国の人などということは重要ではないのだろう。このようなことを聞いたりしていると、日本という国を意識せずに、アニメや漫画を楽しむということは十分可能だし、東さんが言うように、それを可能にしたキャラクターの無国籍性や匿名性というものが、村上春樹の小説だけでなく、アニメや漫画が世界に広まった要因であるという仮説は、説得力がある。

 ここまでを簡単にまとめると、村上春樹の小説やアニメ・漫画などのオタク文化が世界に受け入れられた理由は、これらの作品が日本的だからというわけではなく、むしろ無国籍性や匿名性のキャラクターによって、このようなサブカルチャーが受け入れられているということである。もしも、これが、本当なのだとしたら、日本が独自に発展させ、世界に受け入れられたと信じていた、いわば日本人にとっては最後の砦になるであろう日本のオタク文化というものも、日本的なのではなく、逆に普遍的であるが故に受け入れられたのだということになってしまう。もしそうならば、「ガラパゴス化」というものが、ここでも重要な議論になってくるのだろう。つまり従来は「ガラパゴス化」として発達したと思われていたオタク文化があり、それが世界に受け入れられたのは、独自に発達した日本的何かが世界に受け入れられたと考えられていた。その意味で、「ガラパゴス化」という現象が評価されることもあるという信じられてきた。しかし、もしも、オタク系文化も普遍的であるが故に世界に受け入れられたのだとしたら、今まで信じられてきたような「ガラパゴス化」現象によって発達したオタク文化は、日本的であるが故に世界に受け入れたとする仮説すらも否定してしまう。はたして、アニメや漫画は無国籍な表現でしかないのであろうか?そこには、日本的な要素というものがないのだろうか?

 結論から先に言ってしまうと、俺の個人的な感想としては、漫画やアニメというものは十分日本的な作品であると考えている。そして、「ガラパゴス化」という現象も評価されるべきであると思っている。そのようなことを、この連続したエントリーの結論にしたいのであるが、アニメ・漫画のどこが日本的であるかという議論に入る前に、オタク文化が日本的ではないという東さんの主張を見ておきたい。東さんは一貫してアニメや漫画といったオタク文化は日本文化ではないと主張しているようである。たとえば『動物化するポストモダン』で次のように述べている。

ここで想起しなければならないのは、オタク系文化の起源はじつは、アニメにしろ、特撮にしろ、SFにしろ、コンピュータ・ゲームにしろ、そしてそれらすべてを支える雑誌文化にしろ、戦後、五〇年代から七〇年代にかけてアメリカから輸入されたサブカルチャーだったという事実である。オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史だったのであり、その歩みは高度経済成長期のイデオロギーをみごとに反映してもいる。(『動物化するポストモダン』 20ページ)


つまり八〇年代以降のアニメを「オタク的なもの」「日本的なもの」としている多くの特徴は、じつは、アメリカから輸入された技法を変形し、その結果を肯定的に捉え返すことで作り出されたものだ。オタク的な日本のイメージは、このように、戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられて登場している。(前掲書 22-23ページ)


 確かにアニメの技術・技法とかはアメリカから輸入したものだ。日本的なものは、そこには存在しなかった。しかし、だから日本的なものはないというのは、おそらく間違いだと思う。そもそも文化とは影響しあうものである。特に戦後の日本は植民地のようにアメリカ一辺倒の状況が続いていたはずだし、戦後間もない頃の日本人の子供たちには敗戦という日本の弱さとともに、進駐軍の圧倒的な強さを見せ付けられた。戦後の日本人のメンタリティーに与えたインパクトは強烈だったはずなのだ。だから、戦後の日本のサブカルチャーにアメリカの影響があったのは当然であり、むしろ影響を受けなかった分野を探すほうが至難の業であろう。ただし、アメリカ文化の影響を受けたからといって、日本のサブカルチャーがアメリカ文化と同じかというとそうではない。

 文化の受容と変容は実は極めて複雑なプロセスだ。だから単純化することは危険であるが、ただはっきりしていることは、異文化のオリジナルを100パーセント変化させずにそっくりそのまま導入するということはありえないということだ。強制的にせよ、自発的にせよ、異文化を受容する時に、受容する側は受身であるだけではない。まず、その異文化をどのように解釈するのか、受容するにしても、異文化のどの部分を受容するかなど、様々な局面で受容する側の主体性が重要になってくると思われる。もちろん異文化を強いられたりした場合は受容する側の主体性は制限されているだろうが、いくら強制的に受容させられても、理解できていない文化は受容できるはずもない。自文化と整合性を取りながら受け入れるのは受容する側の積極性に委ねられている。その時点で、自分の文化体系に矛盾することなく受容するために若干変化させたり、さらに受容した後に独自に変化していくことなど、様々な変容がなされることは容易に想像が付く。

 つまり異文化の受容と変容は、受容する側の主体的な、そして独自のプロセスであり、故に受容する側の文化に大きく依存しているわけだ。日本がアメリカ的な文化を受け入れたということは事実なのだが、その受容過程は日本の歴史的・文化的・社会的背景を抜きにしては論じられないし、十分日本に特有の現象なのである。その意味で、日本人に受け入れられたアメリカ文化とは、和製英語や外来語のように極めて日本的なアメリカ文化もしくはアメリカ風の日本文化と呼ぶべきであろう。すなわち、戦後の日本文化はアメリカ文化なのだと、東さんは主張するが、戦前の日本文化と断絶があるぐらいに、アメリカ文化とも異なる文化なのであると思う。

 そもそも日本文化とはなんだろうか。「純粋な日本文化」とは何か?とか「江戸時代の文化は純粋な日本文化ではない」というようなことを言う人がいる。純粋な日本文化などというものは存在しないという考えには俺も同意する。しかしだからといって日本文化が存在しないなどというつもりもない。日本文化は、われわれ日本人が、その時々において日本文化だと認識するものであればなんでもいいのであって、真実の日本文化などというものはどこにも存在しないのである。つまり日本人として共有したい文化を抽出し(もしくは作り出し)ていけばいいだけの話である。それは歴史などの大きな物語とも共通する考えだ。

 同じような議論は、伝統文化を壊されてしまったネイティブアメリカンなどの少数民族の文化復興運動などに見られる。彼らの文化も、彼らがそうであると認めることにおいてのみ存在でき、そしてそれ以上でもそれ以下でもない。外部の人間が、それは新しく作り出された虚偽の文化であるなどと言っても意味のないことである。そもそも文化とは、文化自体が大事なのではなく、それを共有しているという感覚が重要なのだ。もしそうならば、オタク系文化が日本的だとオタクたちが感じるのであれば、それだけで十分なのである。だから次のような指摘も無意味であると思う。

オタク系文化の「日本的」な特徴は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、むしろ、そのような連続性を壊滅させた戦後のアメリカニズム(消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい。七〇年代にコミケ(コミック・マーケット)をパロディマンガで満たした欲望は、江戸時代の粋というよりは、その一〇年前にアメリカでポップアートを生み出した欲望に近いものだろうし、『うる星やつら』の作品世界もまた決して、民話の延長線上にあるのではなく、SFとファンタジーの想像力が屈折したところに日本的な意匠が入り込んできた、と捉えるのが自然だろう。オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび擬似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ。(前掲書 23-24ページ)


 本当の日本的なものというものが存在しない以上、連続的もなにもない。戦後のアメリカニズムを含めて日本文化であるし、外部から影響をまったく受けない日本文化や、時代を超えた不変の日本文化などはそもそも存在しないのである。必要なのは、変化する文化という現実を受け入れることであり、そしてどのような文化を日本的であると認識するかということに尽きると思う。日本文化を規定することができるのは日本人だけであり、そしてそれによって我々は規定されるわけである。つまり文化は作り出すとともに、それによってわれわれの行動は文化によって作り出されるわけだ。

 このように考えてくると、アニメや漫画やオタク文化というものが日本文化と考えても問題ないと思う。それでは、次に問題になってくるのは、アニメや漫画が無国籍かどうかということであろう。漫画は多種多様なテーマを扱っており、一概にすべてが日本的とか無国籍とかはいえないと思うが、SFやファンタジーなどをはじめとして多くの漫画が無国籍であるのは確かだろう。登場人物の名前もしばしば無国籍であったりする。またヨーロッパが舞台のもの、三国志など中国が舞台のものなど、日本以外が舞台で日本人など一人も現れない話も珍しくない。つまりキャラクターの名前や舞台装置だけに注目すれば確かに無国籍性がアニメや漫画の特徴としてあげられる。しかし、アニメや漫画のコンテンツは本当にそれだけなのだろうか?キャラクターの名前や舞台装置が無国籍だからと言って、内容すべてが無国籍だと言えるのだろうか?俺はそうは思わない。もっと深い部分で日本的な何かが漫画に反映されているような気がするのだ。そこで、次回は日本的なアニメや漫画と日本的ではないアニメや漫画について簡単に考えてみたい。


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はじめまして。

今欧米で日本のサブカルブームが来てますが、向こうからするとかなり独特の変わったカルチャーに見えるらしいですよ。
それがウケてるんでしょうね、きっと。
今まで日本の文化を海外に紹介するって言うと、まず見飽きた様な「着物」だとかそんなんばっかりでしたが、大昔のジャポニズムじゃあるまいし、海外でもそんなに目新しくも無いと思うんです。
そこへもって今のオタク文化は興味のわく対象なんじゃないですかね。

あ、アキバじゃないけど、ヤマンバギャルに外人さんが面白がって指笛吹いてた事ありましたよ(笑)

大体日本の伝統文化だって中国等の大陸の影響を受けて来た訳だし、仏式のお墓や寺なんか元をただせば外国から来たものですよね…。結局「灯台下暗し」で、頭の固い古い体質のオヤジが鈍いだけでしょ。

そう言えば、日本的な感覚、感情の漫画って言うと「明日のジョー」を真っ先に思い出します。
特にラストの捨て身の侍魂は欧米人が理解するには難しいものがあるんじゃないかなとずっと思っていました。

松本零士さんの一連の作品もそうかな、例えが古くて恐縮です。

今の作品でも、友情・根性・義理人情、こういう昔っからの流れが実は脈々と続いている様に思います。

Re: タイトルなし

コメントありがとうございます。知らない人からのコメントは初めてなので、ちょっと感激です。

> 今の作品でも、友情・根性・義理人情、こういう昔っからの流れが実は脈々と続いている様に思います。

そうですよね。あしたのジョーでも禁欲的な美学や根性論など、あとカルロスとの友情など、細かいところで日本人の感性が出ていたと思います。日本人の共感を得られなければ、日本で放送してもヒットしないわけで、やっぱり日本的にならざるを得ないのだと思います。義理人情とかもすごく日本的らしいですね。「萌え」の起源でも義理人情とか根性などが重要な要素だと指摘されていたと思います。

> 松本零士さんの一連の作品もそうかな、例えが古くて恐縮です。

松本零士さんの作品はあまり知らないので、日本的な部分が思い出せるのは、宇宙戦艦ヤマトぐらいですが、デスラー総統が味方になったりするとこって、確かに、すごく日本的な展開ですよね。あと、映画版の「さらば宇宙戦艦ヤマト」で、宇宙海兵隊(?)の隊長とか真田さんとかが死んでいくシーンは子供心に滅びの美学みたいのを見せ付けられた気がしました。最後の古代進と森ユキの特攻もいい感じだったし。

『さらば宇宙戦艦ヤマト』といったら、それを、ぱくったとしか思えない『インディペンデンス・デイ』という映画がありますよね。あれで、アメリカ人も特攻の意味がやっとわかってくれたかと思っていたのですが、やっぱり無理みたいですね。まあ、日本に一番理解を示しているのではないかと思われる『ラスト・サムライ』ですら、トム・クルーズは死なすことができなかったところを見ると、滅びの美学を理解するにはもう少し時間がかかるのかもしれません。
長々とすいませんでした。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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