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俺が『かまいたちの夜』と『ラングリッサーⅢ』で感動した理由

 ここ10年ぐらいはテレビゲームをほとんどする暇がなかったのだが、90年代のゲームはそこそこ知っているつもりだ。その中で、ゲームをしていて泣いた経験が二回ある。漫画や映画とかでもあまり泣く経験はないし、ましてや、それよりも単純なシナリオが多いだろうゲームの物語で泣いたなんてことは、自分でも信じられないのだが、実は『かまいたちの夜』と『ラングリッサーⅢ』をプレイしていて泣いた。確かに感動的なゲームだったので、今でもこの2本は思い出のゲームなのだが、冷静に考えると、なぜそこまで感情移入出来たのだろうとちょっと不思議だった。

 今日『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んでいたら、なぜこれらのゲームで泣けるのかということがわかった気がしたので、それを紹介したい。その前に、古いゲームを知らない人のために、『かまいたちの夜』と『ラングリッサーⅢ』について簡単に紹介しておきたい。

 『かまいたちの夜』というのは、いわゆるサウンドノベルというジャンルのゲームである。サウンド述べるとは、シルエットの絵を背景として、小説の文章が臨場感あふれる音楽と共に表示される。で、ときどき分岐点があって、それを選ぶことによっていろいろと異なった展開になっていくという、昔あったゲームブックのような感じだ。ただしサイコロは振らないのだが。まあゲームのシステムはこんな感じなのだが、では『かまいたちの夜』の物語の内容はどんなものかというと、ミステリー小説みたいな感じだ。

 このゲームのプレイヤーは主人公の男の人を操作していく。まず主人公は彼女とスキー場のペンションに旅行に行くのだが、そのペンションで殺人事件が起きて、しかも大雪のためペンションを出ることも出来なくなり、そこで第二、第三の殺人が起こっていくという話だ。スパイもんや、かまいさんたちの夜っていうパロディーみたいな番外編もあるが、このゲームの基本は犯人探しだ。で、番外編以外はマルチエンディングでも、それぞれの物語は同一の事象を扱っているため、犯人は同じであり、何回か失敗すればある程度犯人が推測できるという具合になっている。

 いくつかのパターンを終わらせると、なんとなく自分の恋人が犯人ではないかと考え始めてしまう。で、まあ推理小説とかが苦手な俺としては、ゲーム製作者の思惑通り、恋人を疑ったわけだ。で、疑いながら、恋人に殺される前に殺さなくてはという感じで恋人を殺そうとしたら、実は犯人ではなくて、しかも恋人は死に際に「信じていたのに・・・」みたいなことを言ってきて、あー俺はなんて事をしてしまったんだー!ごめんよー、ほんとごめんよー、みたいな感じで泣いた(笑)。もう10年以上前にプレイしたゲームなのではっきりとは覚えていないのだが、確かこんな感じだったような気がする。なんか思い出したら、また泣きたくなったきた。まあ、そういうことで、このゲームは、とても感動できるゲームだったのだ。

 もう一つの俺が泣いたゲームである『ラングリッサーⅢ』というのはサウンドノベルではなく、シミュレーションRPGというジャンルのゲームだ。シミュレーションゲームなので画面にマス目が出てきて、自分のユニットを動かして敵を倒したりクリア条件を満たしたりして、面をクリアして話を進めていくわけだが、普通のシミュレーションゲームと違う点は、自分のユニットは経験値を稼いでレベルアップしたり、アイテムを入手して強くなったりしなくてはいけないということだ。つまり自分のユニットを成長させるという意味でRPGなわけだ。さらにゲームはある大きな物語にそって、様々な面をクリアしていくことになっている。ちなみに、『ラングリッサーⅢ』の世界観は剣と魔法のファンタジーなので、まあいわゆるシミュレーションRPGの王道みたいなゲームだ。

 それぞれの面はただ敵と戦うことが目的なのだが、それぞれの面をクリアーすると、ショートムービーが現れて、物語が語られる。例えば敵の王様が次の作戦を指示するシーンが映し出されたりする。そのようなショートムービーを見ることによって、世界で何が起こっているのか、そもそも主人公は誰のために何のために戦っているのかなどが理解できていくわけだ。つまり断片的な物語をつなぎ合わせることによって背後の大きな物語を理解するという物語消費みたいな感じだ。

 まあ、ゲームのシステムはそんな感じで、次にシナリオの話に移ろう。これも遠い昔にプレイしたのでほとんど思い出せないのだが、たしか主人公は戦士みたいな感じで、最初、ある小国のために敵と戦うことからゲームが始まったと思う。その敵というのは世界征服をたくらむ強大な帝国で、その帝国軍に対抗して、様々な仲間とともに帝国を倒すというのがゲーム前半の目的である。ただゲームの後半になると、実は本当の敵は帝国ではなく、闇の軍団であるということがわかり、帝国と戦いながら、闇の軍団も倒すということになる。つまり闇の軍団と帝国軍と主人公の軍隊の三つ巴の戦いなのである。

 ただし、ここで興味深いのは、帝国軍が単純に悪者だけの集団ではないということだ。確かにただのワルもいるのだが、尊敬できる武将も帝国軍の中にいる。で、ゲームの途中で帝国軍の一人が主人公に帝国軍に入らないかと誘ってくるシーンがある。ここで帝国軍に入ることを決断すると、それ以降のシナリオは大幅に変わるというわけだ。つまりこのゲームでは帝国軍に入らずに帝国軍と戦うシナリオと、帝国軍に入り昔の仲間と戦うシナリオの二つの物語に大きく分かれているのだ。で、この昔の仲間と戦うというシーンでは、ゲームの後半に仲間が4,5人出てきて、彼らを倒さないといけないわけだが、仲間を倒すたびにちょっとした台詞を言って死んでいく。一緒に戦いたかったとか、実はあなたの事が好きだったとか、なんか、くさい台詞なのに、なぜかそれがすごく胸に響くわけ。というか、なんかすごく悲しくさせられて、もう裏切りませんみたいな気分にさせられたわけだ。

 そういうわけで、俺はこの二つのゲームが、結構心に残っているわけで、感動して泣いた日のことも忘れない。ただゲームになぜここまで感情移入したのかという理由が、もちろん表面的には彼女や仲間を裏切ったのに彼らは俺を信じてくれていたというところに泣いたということは理解できていたのだが、それでもゲームでなぜ感動するんだ?みたいな気分にはなっていた。なぜなら、俺としてはゲームのシナリオは漫画や小説などよりも劣ると考えていたからだ。『かまいたちの夜』は確か小説家かシナリオライターが書いているから、大分しっかりしたストーリーだったと思うが、ラングリッサーのほうはそこまで凝ったシナリオでもないと思っていたので、なぜ感動したのかいまいちわからなかった。

 で、前置きがすごく長くなってしまったのだが、さっきも言ったように、実は今日、『ゲーム的リアリズムの誕生』東浩紀(著)という本を読んでいて、なぜラングリッサーが感動できるのかという理由がわかった気がした。で、そのわかったことに感動して、今日はそのことについてぜひともブログに書かなくてはと思って、今書いているわけだ。そういうことで『ゲーム的リアリズムの誕生』で何が語られているかということを、可能かどうかちょっと怪しいが、簡単に要約してみたい。

 この本では、いろいろなことが述べられているのだが、今回注目したいのは、『All you need is kill』というライトノベル小説の解釈の部分である。この小説を俺は読んだことがないので、『ゲーム的リアリズムの誕生』の紹介だけを手がかりに簡単に紹介したい。『All you』の物語は次のような感じらしい。主人公の男の子は異星人の作った機械と戦う兵士である。ただ普通のSF小説と違う点は、彼はその敵を全部倒さない限りタイムスリップして30時間前に戻ってしまうらしい。つまり人生がループに入ってしまっていて、30時間の間に敵を倒さない限り、主人公はループから逃れられないのだという。ところで主人公の意識は、そのループでの記憶をすべて覚えているという設定だ。だからループするたびに、主人公は兵士としてはどんどん経験豊かな強い兵士になっていくことができるのだという。このような設定はゲームをしている人にはなじみのなる設定である。ようするにゲームオーバーしたらリセットしてまた最初からプレイするという行為に対応している。

 ということで、この小説では読者は、小説を読むように主人公に感情移入するレベルと、ゲームをプレイしているようにメタなレベルで主人公を見ている二つのレベルが読者の意識にはある。つまりこの小説はゲーム的な小説ということになる。ゲーム的小説とはどういうことかというと、普通の小説では分岐点はないので一つの物語が語られる。だから小説の中で誰かが死ぬということは、とても悲しい出来事であり、だからこそ読者は悲しみを共有できるのだ。一方、ゲーム的とは例えばマルチエンディングのアドベンチャーゲームのような感じだ。だからゲーム的小説では物語が複数存在し、プレイヤーはそれをメタなレベルで俯瞰することができることになる。つまりメタ物語の視点を持っている。

 このように従来の小説とゲームもしくはゲーム的小説では「死」に対する見方が変化せざるを得ない。なぜならゲームでは、あるキャラクターが死んでしまったとしても、他のエンディングではそのキャラクターは幸せに生きているかもしれない。つまり「死」というものの意味がないのである。死ぬということはたくさんあるシナリオの一つに過ぎないわけで、その「死」を受け入れたくなければリセットボタンを押せばいいわけだ。つまりマルチエンディングのゲーム的な物語では一回性の死というものを描くことができないということになる。

 しかしと「ゲーム的リアリズムの誕生」の著者の東浩紀は言う。『All you』では「死」というものが別の次元で描かれており、その描き方は一回性の死ではないが、ゲーム的小説でしか描くことのできない「死」があるのだと。どういうことだろうか?

 我々の人生は一回性である。リセットボタンを押して過去のある時点からやり直すということは出来ない。だからこそ、一回性の死というものも「運命」として受け入れるしかない。死は悲しいことだが、それを回避することが出来ないのであるから、それを受け入れるしかないのである。その理不尽な消失を「運命」と受け入れ、そのような事象を受け入れやすくするために宗教は発達してきたと思う。

 さて、ここで特殊な力を得てリセット可能であったならばどうなるのだろうか?数年前に流行った『バタフライ・エフェクト』という映画を議論にのせてもいいのだが、そこまでの時間もないし俺の力量もないので、それは次回に回そう。ただ『All you』の世界では、バタフライ・エフェクトよりもさらに興味深い問題が提起される。なぜなら、もし過去に戻ってやり直すことができるのならば、そして戦友を救うことが出来るのであれば、我々はどうすべきなのか、何ができるのかという現実を突きつけてくるからだ。この小説のなかで主人公はループから脱するために敵を倒すわけだ。もし倒さなければ、30時間前に戻って、死んでしまったものたちはすべて生き返ってくる。つまりループしている間は、誰が死んでも問題ない。「死」の意味はほとんどない。しかし、敵を倒した時点でループから抜けられるのである。だからループの最後で起きたことはすべて主人公は現実として受け止めなくてはいけない。もし、そうならばその時に誰を助けるかという問題が出てくるであろう。もちろん、すべての人たちを幸せにできるのであれば、それがベストなのだろうが、現実はそんなに単純ではない。だから誰かを助ければ、他の人が死んでしまう。そのような様々なシナリオの中から一つを選ばないといけないという現実を主人公は突きつけられているのだ。

 一回性の人生では「運命」として受け入れられた(受け入れざるを得なかった)「死」というものが、メタ物語の視点から複数のパターンを見ることが出来ると、「死」というものが偶然でしかないことが理解できてしまう。別にある人が死なずに別の人が死んでもよかった。そこで、その人が死ぬ必然性はなかったのであり、あったのはただ偶然に、その人がそこにいたから死んだという事実だけなのである。メタな視点で世界を見回すと、そのようなことになるのである。だからこそ、その複数のシナリオのなかでどれを選ぶかというのは、選ぶ人には大きな負担としてのしかかってくるわけだ。どの物語も正解であり、正解ではない。ただの偶然なのだから。正解のない複数の答えの中から一つを選ばなければいけないわけだ。東さんはここらへんから、この状況は多様な価値観を認める現代社会で、正解のない選択肢から一つを選ばないといけないポストモダンにおける現代人の苦悩を表しているというようなことまで言っている。とても興味深い解釈だと思う。

 さて、このように見てくると、従来の小説では物語が一つであるために、一回性の「死」というものを表現することができ、それによって不条理な死というものも表現することができた。しかしゲーム的小説ではマルチエンディングの物語群では一回性の「死」を表現することはできないのであるが、代わりに人生はすべて偶然の集積でしかないという、人生の不条理というものを表現することが出来るのかもしれないということになる。

 そして『かまいたちの夜』や『ラングリッサーⅢ』がなぜ感動できたのかという理由がはっきりするわけだ。それはマルチエンディングだからである。つまり『かまいたちの夜』で、自分の彼女を犯人と疑わず、犯人に殺されて死ねる、もしくは一緒に生き残るシナリオを俺は知っている。『ラングリッサーⅢ』で仲間と一緒に戦い最後の敵に勝利するパターンも俺は知っている。このようなパターンを知っているが故に、彼女や仲間を裏切ったことを、単純に運命だったと割り切ることができずに、悲しい気分になってしまったのだろう。同じようなシナリオでも、彼女や仲間を裏切る物語を小説として読んだだけでは、ここまでの感動は得られなかったような気がする。つまりメタ物語が必要だったわけだ。

 同じようなことは漫画や小説でも見られる。例えば『金田一少年の事件簿』という漫画で、復讐のために愛し合っていた幼馴染の女性を泣きながら殺害して山の上に埋めるという話がある。その話の最後で金田一少年が、その犯人と幼馴染の女性が幸せに暮らしているというパラレルワールドの夢を見るシーンがあったのだが、俺はそれを読んで泣いた。他にも映画『キャシャーン』の最後で、登場人物が幸せに生きているパラレルワールドが映しだされたり、エヴァンゲリオンの最後でも戦いのない世界が映し出されたりする。このような世界を見て涙するのは、おそらくメタ物語的つまりゲーム的小説だから泣けるのと同じ感覚なのだろう。

 そういうことで、今日は『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んでいて、なんで俺はゲームで感動したかということが理解できたような気がしたので、嬉しくてこの文章を書いた。そのうち『ゲーム的リアリズムの誕生』の書評も書くつもりだけど、興味のある人はぜひ読んでみてください。かなり面白いです。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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