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ネット上の情報を考える(後編)

 ツイッターの魅力は、そのリアルタイム性にある。同じ時間を共有しているという一体感を味わうことが出来るし、「祭り」と呼ばれるある種の興奮状態を引き起こしやすい媒体でもある。このようなリアルタイム性は、効率的に災害情報などを流すことを可能にする。だから、ツイッターが緊急時の情報伝達を行ううえで極めて有効な媒体になる可能性は十分に考えられる。しかし、情報の信頼性の観点からは、やはり不安は残るのも事実だ。今回はネットやツイッターが扱う情報に関して、簡単に、そして独善的に(笑)、論じてみたいと思う。ツイッターに関する記事がJ-CASTに載っていたので、まずはそれを紹介したい。

『イラン美少女惨殺を速報 メディア変える「ツイッター」』
http://www.j-cast.com/2009/06/22043748.html

この記事は次のような文章から始まる。

ネットサービス「ツイッター(Twitter)」が、マスコミより早く、イランの生々しい衝突ぶりを伝え続けている。16歳の美少女惨殺のビデオ情報は、すぐにツイッターに上がり、世界を震撼させた。速報の威力は、マスコミをも不要にしてしまうのか。
(『イラン美少女惨殺を速報 メディア変える「ツイッター」』から引用)


 この文章にツイッターの人気の秘密が隠されている。ツイッター人気の秘密は速報性にある。リアルタイムにあらゆる情報を発信し受信することができるのがツイッターの強みだ。ツイッターユーザーは世界中に散らばっているため、世界中で起こっている事柄はリアルタイムでツイッター上にあがってくる。一つ一つの情報は断片化された不完全な情報だが、不特定多数のユーザーが独立して提示してくる断片化された情報を総合することによって、ある一つの全体像が現れてくる可能性が考えられる。

 リアルタイム性と世界中に存在する観察者の「目」があること、そして情報の断片化という三つの特徴は世界を表象するのに極めて重要な要素になっている。リアルタイム性と世界中に存在する観察者の「目」の重要性は容易に想像が付く。世界中に観察者がリアルタイムに世界の出来事を逐一知らせてくれるというのはニュースの基本だろう。そういえば、情報の速報性というものの重要性について、確かヨーロッパの戦争の勝敗をいち早く知ったイギリス人が大儲けしたとかいうエピソードを聞いたことがあるような気がする(なお、俺は半年位前にその話を聞いたのだが、詳しいことは忘れたのでここではこれ以上説明できない)。まあ、その話はほとんど忘れたのだが、ようするに情報の速報性というのはそれだけで価値のあることだし、世界中の情勢がリアルタイムに伝わってくるのであれば、使いようによっては、アニメ『ゴクウ』の左目と同じぐらい威力を持つのかもしれない。

 ツイッターのもう一つの特徴はその断片化された情報にある。ツイッターには140字制限というものがあり、長文はかけない。それによって、情報は断片化されるが、他方で、その簡便さから、多くの情報が発信されやすくなるという利点もある。だからブログやHPだったら他人のウェブページを見ていているだけで、情報を自らは発信せずに沈黙していた人たちも、ツイッターでは気軽に情報を発信することができ、結果、情報発信者の数が多くなる。それだけ多種多様な情報が発信されるということだ。さて、この断片化された情報というものには、もう一つ重要な点が隠されている。それは、世界を完全に表象することはできないとポストモダン的な現実とも関係してくる。

 既存のメディアである、新聞やテレビは世界を表象しようとするが、すべての情報を示すことは不可能だ。一番簡単で単純な方法は、すべての情報を羅列することだが、すべての情報を羅列することは不可能に近いし、さらに情報を受信するほうも膨大な量の情報を羅列されても、それらの情報を再構成して実際に何が起こっているかという全体像を知ることはおそらく不可能だろう。だからこそ、新聞やテレビは、情報の取捨選択を行って、何が起こっているかということを理解しやすい「物語」として提示しようとする。しかし、それは物語であって現実の世界そのものではない。つまり作り手である新聞やテレビが「現実」から切り取ってきた断面でしかない。既存のメディアは自分たちの言いたいことを順序立てて提示することで、視聴者にわかりやすいような「(彼らの)物語」を提示しているに過ぎず、それはもちろん普通は捏造などとは関係のないことなのだが、実際に起こっていることのある一側面を表示しているに過ぎないのだ。つまり全体像ではないということになる。しかし、さっきも言ったように、そもそも全体像というものを提示することが出来ない以上、そのような「物語」を提示するしかない。視聴者が出来ることは、そのことに自覚的になり、いくつかの情報筋をあたることによって、つまりいくつかのテレビや新聞に接することによって、異なる「物語」を獲得し、それらから全体像に接近することしか出来ないだろう(なお、それを可能にしたのが、まさしくネット空間であったのだが、ここではその議論はひとまず置いておく)。

 ただ既存のメディアが提示する「物語」の問題は、そこには、すでに作り手たちの物語性が入り込んでいるということだ。これらの物語性から解放されるためには、さらに物語性を排除したぎりぎりの断片化された情報を集積することしかないだろう。そのような断片化され、情報発信者の物語性が入り込んでいない純粋な情報こそ、ツイッターの「つぶやき」という情報ではないかと思うのだ。140字という制限に加えて、リアルタイム性を最優先に考える環境下では、物語性を作り出す時間もなければ自分の意見を十分に差し挟む余地はない。また物語性という自分の意見をサポートするための情報を順序だてて発信するという方法もとれない。できるのは、機械的にその時の感覚を正直に吐露していくことだけだ。その結果、物語性が排除された価値中立的な情報がツイッター上を飛び交うことになる。それらの価値中立的な情報を総合することができれば、実際にあたかもその場所にいるような臨場感で出来事に接することができるのかもしれない。バイアスのかからない本当の事実を目の当たりにすることができるのかもしれない。その意味で、ツイッターは他のメディアにはない強みがあるといえる。

 さて、上で言っていることとは矛盾するようであるが、それだからこそ、ツイッターには限界もある。今言ったように情報は断片化され物語性は排除されている。あたかも自分がその場所にいるかのような感覚に襲われる。そのような臨場感がすべてという情報もあるにはある。例えば事故現場の情報などでは、実際に見たという以上の情報はほとんどない。誰かが傷ついて、その状況に困惑したり、被害者に同情したりする、そのような情報だけであろう。ツイッターはそのような感情論だけの情報とは親和性が高い。なぜならそのような感情論の情報は臨場感がもっとも重要な要素だからだ。

 しかし、その場にいても、全体像が見えないという場合もある。例えば、誰かがどこかに人質をとって立てこもり、何かを要求したとする。警察が出てきて大騒ぎになったのをツイッターで中継したところで、野次馬が得られる程度の情報しか発信できない。犯人グループが何を要求しているのか、国や警察はどのように対処しようとしているのか、そもそもなぜこのような事が起きたのか、これからどうしたらいいのか、などの議論をするための情報は、現場にいたからといってわかるわけでもない。そのような事件は、時間をかけて様々な角度から分析し議論を重ねることによって全体像が浮かび上がってくるわけだし、そのような議論には様々な情報や考察といった物語性が必要になってくる。ツイッターでも議論は出来るようだが、そのようなツイッター上での議論の情報は議論をする人たちがすでに持っている情報を共有するというだけであって、リアルタイムに何かの情報を得て、それを議論の俎上に載せているというわけではないと思う。ただ同じ時間を過ごしているという一体感や臨場感というものが、リアルタイム性の高いツイッター上の議論にはあるのかもしれないし、それが魅力なのかもしれない。裏を返せば、議論の内容だけを考えた場合、じっくりと考えずに返答せざるを得ないツイッターには限界があるだろう。相手の意見をしっかりと聞き、じっくりと考えて意見交換ができる掲示板やブログのコメント欄のほうが生産的な議論ができるような気がする。そこらへんは、ツイッターの議論に参加していない俺はなんとも言えないが、少なくとも、ツイッターがもっとも得意とする、実際の事件現場にいるかどうかという臨場感やリアルタイム性のある情報が、議論をする上で常に価値があるとは限らないということをここでは指摘しておきたい。さらにツイッターに詳しいメディアジャーナリストの津田大介さんは次のようにツイッターの欠点を指摘している。

とすると、もう速報メディアはいらなくなるのか。
これについて、津田さんは、やや否定的だ。「デマもツイッターで悪用されれば、真実と受け止められてしまう可能性があります。情報の信頼性をどう担保するかが課題で、現状では検証するすべはありません。それは、今のところマスメディアがフォローするしかないでしょう。ツイッターの速報を、真実かどうか掘り下げるべきということです」
(『イラン美少女惨殺を速報 メディア変える「ツイッター」』から引用)


 つまり、情報の信頼性をどう担保するかが課題であると指摘しているわけだが、ツイッターに限らず、ネット上の情報に関しても同じことが言える。もちろん、ツイッターはリアルタイム性と簡便性を追求したため、誰でも簡単に情報を発信することができるようになった。それは、すなわち情報の信頼度が落ちるということだ。もちろん毎日ツイッターのメッセージを見ていくことで、ある程度情報発信者の信頼度というものはわかってくるとは思う。少なくとも、実際にしゃべるがそこまで仲はよくない知り合い程度の同僚よりも、ツイッターの友達の方がより親近感がわくのかもしれないし、信頼も置けるかもしれない。それでも、信頼のおける友達や知り合いがいう言葉を信じたいという感情論と、その情報が正しいのかどうかという信頼度はあまり関係がない。それでは、ネット上の情報はどのように信頼されているのだろうか?

 ネット上の情報が信頼できる理由の一つは、お互いに利害が関係していない大多数の第三者が情報を絶えず監視していてくれているからだ。特定の人物や団体の利益のために書かれた情報があっても、その人物や団体と関係のない大多数の第三者の目に映ることによって、そのような偏った情報は削除・訂正される。ウィキペディアなどはそのような理念にそって作られているのはよく知られていることである。そして、ネット上の情報を見る限り、多くの場合、確かに上手く機能しているように感じる。もちろんイデオロギー論争などが絡む事柄については、誹謗中傷だけの非生産的な議論が繰り広げていることもあるが、論争にならないような事柄に関しては、すくなくとも悪意ある偽情報というのは、そこまで出回っていないような気がする(俺が知らないだけかもしれないが)。少なくとも科学系の事柄など客観的真実といえるものや言葉の定義などはネット上でもある程度信頼に足る情報だと考えても問題ないだろう。

 ところで、このような情報の信頼性は、そのような大多数の人たちが監視してくれているという理由なき信頼が前提となっているのだが、本当に大多数の人たちが監視してくれているのだろうか?俺たちは見えない他人の好意に頼っているだけで、自分では何もしないタダ乗り(フリーライダー)ではないのだろうか。実際はネット上のほとんどの人がフリーライダーになってしまっている危険性があるのではないだろうか。そして、そのような理由のない信頼はツイッター上でも起こっているのではないかと思うのだ。それでも普通のブログなどの情報だったら、他のブログやコメントを読むことによって、ブログに書かれた情報の真偽をゆっくりと考えることができる。つまり情報を吟味する時間的余裕があると思う。しかし、臨場感があふれ、興奮状態を共有することによって一体感を得るツイッターでは、あふれるように流れ込んでくる情報をすべて吟味する時間があまりないのではないだろうか。ものすごいスピードで流れ込んでくる情報に圧倒されながら、むしろ感情的な反応のみで情報に接しているだけの人の方が多いのではないだろうか。もちろん、それ自体に問題はあるといいたいのではない。それで楽しめるのなら、それはそれでいいことだ。ただ、災害情報や緊急警報などの情報が流された場合に、それを一種の祭りのようなものと捉え、その情報の真偽を吟味する十分な間も無く、他の人に拡散してしまうという危険性があるかもしれない。もちろん、そのような他の人に伝えるという行動はデマを流すというような悪意ある行動ではなく、むしろ多くの人に危険を知らせなくてはいけないというような好意から生じた行動であると思う。ただ、真偽を確認していないがツイッター上で大多数の人たちが言っているから真実であろうと考えてしまうフリーライダーたち現れるだろう。そして情報はさらに多様な形態を呈しつつ再生産され拡散されていく。一箇所の情報筋から得られた情報なのに、それが2次加工、3次加工されるなかで形が変わり、一つの情報だったものが、いつの間にか、あたかも多数の情報筋から得られた情報のように見えてきてしまう。つまり不特定多数の第三者に承認された客観的な真実としての情報に見えてきてしまう。ツイッター上では、限られた時間のなかで祭りのように盛り上がる傾向が強いと思うので、このような一つの情報が客観的事実に見えてしまう危険性がさらに高いと思う。

 もしも、ツイッター上にデマが流された場合、デマはいつの間にか客観的な事実として流通し、それを抑えること不可能になってしまう。それが暴動を誘発するようなデマだったら取り返しの付かない事態になってしまう。極限状態ではおそらく思考能力も低下し、冷静な判断が出来なくなってしまっているだろう。だからこそ、災害情報などは一次情報として流すべきだし、政府は不安を煽るのではなく、信頼に足る情報を流して国民を安心させる努力をこそするべきなのだ。そのような観点からしたら、ツイッターで災害情報を流すようなことは、まだ時期尚早だったと思う。原口大臣はツイッターの祭りの中心になりたかったか、または祭りの興奮を伝えたいというような子どもっぽい単純な動機で災害情報を流していただけのような気がしてならない。

 ネットユーザーがネット情報やツイッター情報に過度の信頼を置いている状況は危険のような気がする。もちろん、ツイッター上には価値のある情報も数多くある。最近、俺もTogetterというものの存在をしり、そこにまとめられているツイッターの議論などを読んでいるのだが、内容はだいぶ面白いし、得るものも多い。いろいろな人がいろいろな意見や考えを表明しているため、普通の本を読むのとは違った知的刺激を得ることができる。しかしそれは平時のときの議論であって、何度も言うように緊急事態のときの情報伝達とは状況が異なる。新聞やテレビなど既存の大手メディアの不祥事が続くからといって、大手マスコミが提示する情報よりも、ネット上の情報の方が正しいというような考えは間違っている。テレビやラジオは一次情報を繰り返し流すことができるため、受けては常に一次情報に接することができる。またチャンネルを変えることによって、その情報が正しいということを判断することができる。つまり一つの局だけが間違った偽情報を流してもすぐにわかる。またテレビやラジオの信頼性は国が保障している。このような事を考えていくと、少なくとも災害時に緊急警報などの一次情報をすばやく伝達する手段としては、現在のところテレビやラジオに勝るものはないと思う。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

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