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タイムトラベルSF映画を簡単にまとめてみた3 過去を変えたらどうなるか?

 前回、前々回と繰り返し述べているようにタイムパラドックスの本質はパラレルワールドを作り出さないようにすることであった。なぜなら、パラレルワールドが出来てしまうと、必然的に矛盾が生じてしまうからだ。

 例えば、前回話した『ロストメモリーズ』で、Aという歴史とBという歴史があって、Aの歴史が2009年まできたときに過去にタイムトラベルをし、Bという歴史に変更し、その歴史を修正するために他の人間がまた過去に戻ってAという歴史に戻す(厳密にはAに似た歴史)といったことが行われたのであるが、Aという歴史の2009年に日本人エージェントが過去に送り込まれて、Aという歴史の過去が修正されたとき、Aの歴史を送っていた残りの人たちの2009年以降はどうなったのか、同様にBという歴史を生きていた人たちは、2009年以降はどうなってしまったのか、まったく語られていない。過去に戻った主人公たちの後を追っていると、あたかも歴史がA→B→A´という流れで、元の歴史に戻って終わりという話に見えてしまうが、実際はBという歴史を生きていた人たちはその後もBという歴史を生きていたのではないだろうか。同様にAという歴史を生きていた人たちも、Aという歴史を生きていた。最初にエージェントを送った日本政府の陰謀によってBというパラレルワールドが生み出された。そして過去に送られたエージェントは確かにそのBというパラレルワールドを生きることが出来たのだ。しかし、他の大多数の日本人はAという世界を行き続けているのであり、パラレルワールドに入れるわけではないであろう。もしそうならば、Aという世界の日本政府は何が目的で過去にエージェントを送り込んだのかわからなくなる。なぜなら過去を変えたわけではなく、ただ単にパラレルワールドを一つ作り出したに過ぎないからだ。同様にBからA´に歴史を修正しようと命をかけた朝鮮独立派テロ組織も過去に送られた刑事一人を除いてはA´という歴史に触れることは出来ていないことになるのだ。

 もちろん、パラレルワールドが生じたと同時にAの世界の住人がすべてBの世界に入り込むということもと考えられるが、そうならば過去に送り込まれたエージェントの生死は新しい世界と矛盾してはいけなくなる。しかしタイムパラドックスの基本として、過去を変更してしまったが故に自分の両親が結婚しないという状況になってしまえば、自分が存在できなかったということになってしまい、だから過去を変えることは出来ない(または過去を変えてはいけない)というタイムパラドックスの原点に戻ってしまう。バック・トゥー・ザ・フューチャーとかは能天気だから、その矛盾を解決したくて、写真の人物が消えかかるというようなシーンを入れていたと思うのだが、そもそもパラレルワールドが生成されるとした時点で、パラレルワールド同士の関係はまったく異なる世界で、お互いは直接的には繋がっていないと考えるほうが無難だろう。

 パラレルワールドを生成するタイムスリップSFとしては、『バタフライ・エフェクト』という映画が数年前に話題になった。この映画はタイムスリップをする能力がある男の話である。彼は日記を読んだりして、過去の記憶を蘇らせると、その時間にタイムスリップすることができる。その能力に目覚めた主人公が現在の状況を改善しようと過去に戻って過去を少し変更するのだが、そのたびに現在の世界がガラッと変わってしまう。しかもすべてが悪いほうに変わってしまう。彼は何とか一番いい結末を探して、何度も過去にタイムスリップするのだが、そのたびに現在の状況は悪化していくので、最終的に一番最初の場面に戻ってすべてが「起きなかった」という状況を選ぶ。ここで彼が経験するパラレルワールドは様々なのだが、その世界を経験するたびに彼は脳に異変が生じる。つまり彼は過去に行って現在に戻ってきた時点で毎回過去から現在までの出来事が異なっているのだが、過去を変えるたびに、その記憶が前の記憶の上に上書きされていく。つまり彼だけは彼が経験したすべての世界の記憶を持っているのだ。これらの世界はお互いに独立しているので、彼を除けば、それぞれの世界を飛び回ることは出来ない。なお彼の父親は同じ能力を持っていたが、彼が作り出したパラレルワールドは彼にしか体験できないようだ。だから、彼以外にこれらのパラレルワールドを証明できるものはいない。すべてが彼の妄想だったということもあり得るのだ。

 さて、これらのパラレルワールドはまったく独立しているので、お互いに矛盾していても問題ないのだが、一つだけ疑問なのは、彼がタイムスリップできるのは彼が記憶を失っている時間だけなのである。実は彼は子どもの頃に何度も記憶がない時間に苦しんでいたのだが、それは成長した大人の彼がタイムスリップしたために、その時間の記憶が子どもの彼にはなかったのだ。ということは、記憶を失っていた時間のときにそれぞれのパラレルワールドは交差していたということになるし、最後のシーンで「すべてがなかったことにした」ときに、ほかのパラレルワールドはどうなったのか、そもそも彼の人生を時間軸をとって描いて見せたらどうなるのかなど、いろいろと疑問がわいてくる。

 個人的な感想としては、『バタフライ・エフェクト』のパラレルワールドはパラレルワールドに似ているのだが、それぞれの世界が平行に進んでいるわけではなく、むしろ主人公が過去に行くたびに、彼の脳が書き換えられるのと同じように、世界のすべてが書き換えられているような気がする。だから厳密なパラレルワールドというよりも、むしろ書き換え可能な一つの世界が舞台なのではないだろうか?ちなみに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズも、映画の中ではパラレルワールドが生成されてどうたらこうたらという説明があったような気がするが、おそらく書き換え可能な世界だろうと思う。なぜなら、もしパラレルワールドだったとしたら、過去と未来を行き来しているマイケル・J・フォックスはいいが、彼の家族はまったく救われていないということになる。彼の選んだ世界の家族が幸せになっているだけで、他のパラレルワールドの世界を生きている無数の彼の家族は幸せではないし、マイケル・J・フォックスは彼らを救っていないことになってしまうのだ。だから、普通に考えれば、書き換え可能な世界ということにするべきなだと思う。そのあたりが、パラレルワールドの方に重心をおく『ひぐらしのなく頃に』というアニメとは大きく異なっているように思う。

 『バタフライ・エフェクト』のもう一つ興味深い点は、過去を少し変えただけなのに、現在の状況が大きく変わってしまうということだ。些細な要因が予測不能な現象を将来引き起こしてしまうというのがバタフライ・エフェクトというものなので、そのあたりはいいのだが、ただ本当に歴史はそう簡単に変わってしまうのだろうか?もちろん、この世界の出来事なんて、すべての状況は偶然の積み重ねのようにみえるときもある。例えば、車にたまたま乗ったから事故ったとか、逆に寝坊したから事故にあわずに済んだとかいう話はよくあることだ。もちろん両方の世界を行き来できないのだから、われわれは仮定の話しかできないし、だから、本当に車に乗ったから事故ったのか、それとも車に乗らなかったらもっと悲惨な目にあっていたのかわからない。寝坊したから事故にあわなかったのか、それとも寝坊しなくても事故にあわなかったのかもわからない。もしかしたら映画『ファイナル・デスティネーション』のように死ぬべき運命の人が偶然に助かってしまったとしても、死神から完全に逃れる術はないのかもしれない。逆に寝坊したから助かったとしても、寝坊したことが必然だったのかもしれないし、寝坊しなくても助かったのかもしれない。まあ、そういうことで、すべては仮定の話なのだが、『バタフライ・エフェクト』では過去を変えてしまったら現在が大きく変化していたという部分が話の中心だった。しかし、そもそもそれは本当なのだろうか?

 この『バタフライ・エフェクト』の設定はタイムパラドックスの前提と同じである。歴史に干渉したら何が起こるかわからない。そのような前提のもとで、『バタフライ・エフェクト』では過去を変えてしまったから、現在が大きく変わってしまったのだ。しかし、世界の人たちは周りの状況に単純に反応して生きているだけなのだろうか?例えば、今日の夜ラーメンを食べようと考えていたが、家に帰る途中で駅前で焼いていた焼き鳥の匂いがおいしそうなので、思わず焼き鳥を食べてしまったというようなことはあるだろう。しかし、医者になろうとがんばっていた人が、弁護士の活躍する映画を見て急に弁護士になろうとするとは思えない。ちょっと例が上手くないが、つまり、世界には、簡単に変化する部分と、変化しづらい部分というものが存在すると考えたほうがいいのではないだろうか?なんでもかんでも環境の応答としてひとびとの行動が規定されていると考えることは無理がある。だから、環境の変化に敏感に反応して未来が大きく変化してしまうというのも考えづらい。そこらへんが、『バタフライ・エフェクト』と『ひぐらしのなく頃に』で大きく違う部分である。

 『ひぐらしのなく頃に』では、一人の少女がパラレルワールドを渡り歩き、猟奇殺人事件を食い止めようとする。なぜならその猟奇殺人事件で、その少女は必ず殺される運命だからだ。何度も何度も殺され、そのたびに他のパラレルワールドに転生してやり直すのだが、物語の後半ではある程度犯人の目星もつき、対抗手段も取れるようになってくる。それでも現状を変えられず、その少女は殺されてしまうのだ。この物語では、その理由が、「意志の強さ」というもので説明されている。つまり、殺人事件の背後には壮大な計画が横たわっていたのだが、その計画を立案した犯人は、とてつもなく「強い意志」を持っていた。その計画をなんとしても遂行しようとする「強い意思」が存在していたのだ。だから、表面上は大きく展開の異なるいくつかのパラレルワールドにおいて、この少女だけは必ず殺されてしまった。なぜなら計画を遂行するためには、この少女は殺されなければいけなかったからだ。歴史には、おそらくこのような事はたくさんあると思う。若干状況が変化したところで、計画を少し修正すれば同じ結末に行き着くだろう。ゆらぎはあっても、「強い意志」さえあれば最終的には同じところに行き着くのだ。『ひぐらしのなく頃に』では、この「強い意志」に導かれた結末をどのように回避するのかということが物語の後半のテーマになっている。

 このように『バタフライ・エフェクト』と『ひぐらしのなく頃に』では、現在の状況を変えようと過去に戻っていろいろ試みるのだが、その後の展開が大きく異なる。『バタフライ・エフェクト』では現在がどんどん悪いほうに変化していってしまう。他方、『ひぐらしのなく頃に』は状況が変わろうとも結末を変えることは困難で、必ず似たような悲劇が起こってしまう。そのあたりの違いが興味深い。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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