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映画『コーヴ』とイルカ漁



 この映画の予告編を見て正直衝撃を受けた。

うまい!

 映画『ブレアウィッチ・プロジェクト』や『フォッグ』とかを思い出す。もともとアメリカの映画は、田舎町の血塗られた謎みたいなものが好きだ。というか、『金田一少年の事件簿』なんかがあるから、日本人もそういう展開は好きか。。。まあ、そういうわけで、この映画はエンターテイメントとしては、よく出来ていると思う。アメリカの片田舎が舞台の普通のホラー映画とかだったら俺も楽しんだと思うよ。ただ、ドキュメンタリー映画という名目で、外国の片田舎の風習を非難している点が問題ありだ。この映画のことは知っている人も多いと思うが、先に言っておくと、この映画は和歌山県の太地町のイルカ漁の悲惨さを訴えた(自称)ドキュメンタリー映画らしい。

 個人的にはイルカは好きだし、この町のイルカ漁のことは知らない。だから、このイルカ漁に過度に肩入れするつもりはないし、単なるナショナリズムから、この映画に反発しているわけでもない。それよりも、もっと冷静に一歩ひいた位置から第三者的に見ているつもりだ。そのような立場から見ても、この映画を問題だと思う。もし日本人が他の国に行って同じような映画を作ったとしても、映画を非難する。日本とかアメリカとかではなく、一般論として、この映画は異文化表象や異文化理解という点から問題がありすぎるのだ。

 俺は文化人類学を勉強してきた。文化人類学は民族学とも呼ばれる。なお民俗学と民族学は似ているが違う。民俗学は柳田國男、南方熊楠や折口信夫が有名だが、これらは日本の民俗習俗や民具・民話などを研究する人たちである。一方、民族学や文化人類学とは、もともとは外国の社会を、とくに「未開社会」と呼ばれるような伝統的な小規模社会を研究対象にしていた。

 で、人類学者はなにをする学問なのかというと、まあ人類に関すること全般を研究する学問だから、なんでもありなのだが、基本は研究対象の社会に入っていって、そこで数ヶ月とか数年とか、ある程度長い期間を、その社会の成員と生活し、彼らを観察してデータを集めていくということをする。現在の文化人類学は多様なトピックを研究対象にしているので一概には言えないが、本来は調査から帰ってきたら民族誌を書くということが研究成果の一つとなっていた。昔の民族誌は、文化や社会をホーリスティックに見ていたから、ある特定の社会の社会構造、民話や神話などの精神文化、民具などの物質文化など、できるかぎり、すべての文化要素を記述することが求められていた。

 以前は、そのような民族誌は中立で客観的な事実であると考えられてきた。もちろん20世紀の人類学者は客観的で中立的なデータを得るためにフィールド調査に行くことに誇りを持っていた。それが探検家や宣教師などが記述した本を元に社会の進化など大理論を打ち立てようとしていた19世紀の人類学者達(彼らはフィールドに行かなかったので、肘掛け椅子人類学者と揶揄されていた)と大きく違う点だった。このようなことから、20世紀初頭から人類学では、文化を観察・記述する訓練を受けた人類学者自身がフィールドに出て、民族誌を書くことが推奨されたのだし、人類学者によって集められたデータは客観的でイデオロギー的に中立的なデータであると信じられてきた。

 しかし70年代以降、特にポスト構造主義やポストモダンの影響が無視できなくなってきた。その結果、民族誌を記述する行為という一見、中立的で何の問題もないような行為にも様々な問題があることがわかってきたのだ。例えば、記述する主体は人類学者だが、彼は本当に中立を保っているのか?彼は無意識のうちに自分の社会の基準で異文化を評価しているのではないか?彼はそもそも彼の文化から完全に自由なのではない。なぜなら彼の社会で生きていくためには、その社会の慣習などが必要だからだ。ならば、そのようなイデオロギーが調査中の観察結果にも影響を与えている可能性もあるだろう。そもそも人類学者がある現象を観察しているとき、彼は本当に現地の人が見ているのと同じようにその現象をみることができているのだろうか?人類学者の言語や世界公用語としての英語などで現地の文化を正確に記述することはできるのか?人類学者は現地の人にいろいろな意見を聞くことがあるが、その会話の中にすでに人類学者(先進国)と現地の人(後進国)という政治的な力関係が入り込んでいるのではないか?などなど。

 実は異文化を記述し表象するという行為は非常に難しい行為であり、真実や客観的な描写などはそもそも存在しない。異文化の一側面や一解釈しか記述できないのだ。さらに厄介な問題は、そもそも誰が文化を語ることが出来るのかという、人類学調査以前の大きな問題も残されている。日本人やアメリカ人研究者がどこかの「未開社会」に行って彼らの文化を語ることは、何を意味しているのだろうか?最終的に突き詰めていくと、人類学という学問の存在意義すら崩しかねない、これらの問題はある程度のところで止まっているような気がする。もちろん、外部の人間だから気がつく事柄というものあるわけで、内部の人間だけが文化を語ることの出来る能力を有しているわけでない。ただ、少なくとも文化を語る権利は、その社会が持つべきであろう。例えば、日本に人類学者や日本文化の研究者が存在していなかったとする。そのような状況で、欧米の研究者が日本に来て、彼らの論理で日本文化を解釈し、彼らだけが日本について語ることができるという状況を考えた場合、おそらく日本人としてとしては、あまりいい印象を持たないと思う。欧米の研究者の研究結果の内容が正しいとか間違っているとかの問題以前に、研究者と研究対象という力の差が問題になってくる。同じことが、異文化、特に「未開社会」と呼ばれるような社会と人類学者の間に見られるのだ。

 70年代~80年代以降、人類学ではそのような観点から様々なことが語られてきた。またフェミニズム運動にも同じようなことが言える。フェミニズム運動の初期には、世界中の女性は抑圧されているはずだという神話のもと、白人女性による世界の女性の解放ということが大きな目標だった。しかし、実際には白人女性は女性というカテゴリーの前に、白人という支配する側のカテゴリーに属し、現地の女性とは正反対の位置にはいたわけだ。この白人女性と現地女性の対立というのは、例えば「陰核切除」論争に見られる。この「陰核切除」は初期のフェミニズム人類学者の大きなテーマの一つであった。数日前アグネス・チャンがこの悪習の廃絶を訴えていたような気がするが、実際は、そう簡単に結論を出せる問題ではなくて、人類学者の間でも未だに議論がされている問題だと思う。もちろん、「陰核切除」が危険であるということはわかっている。ただ現地の女性達は、この通過儀礼によって一人前の女性として認められるため、この風習の廃絶には反対の意見を持っている女性もいるという。そのあたり、俺は専門ではないので、詳しくは知らないが、ただ小学生の感想文のように「かわいそうだから」とか「危険だから」などという低次元の議論だけで結論を出せるほど簡単な問題ではないのは確かだ。もし「かわいそう」だけで議論が終わるのなら、とっくの昔に結論が出ているわけだし。

 そういうことで、異文化を表象したり、評価したりすることは極めて難しいことなのである。特にメディアの発達により、様々な映像が瞬時に世界中を駆け巡る時代になった。ただ、それは異文化理解を容易にしただけでなく、困難にもしたと思う。もし映像だけですべてが表現できるのであれば、人類学者などはフィールド調査の仕方などは勉強する必要もなく、ただ外国にいってビデオ撮影をしていればいいということになる。拒否されたら、盗撮でもすればいい。もちろん盗撮などは論外だし、普通にビデオ撮影したとしても、それがすべてを語っているわけではない。そして、その映像を見て、視聴者が同じメッセージを受け取っているという保障もない。
 
 さて、長々とおもしろくないことを書いてきたが、実は『ザ・コーヴ』というドキュメンタリー映画に憤りを覚えている点は、自分達の主張や価値観を押し付けているだけで、異文化を理解しようという態度がまったく見られないからだ。異文化表象の難しさなどは微塵も感じていないのだろう。ただただ自分達は正しいというエスノセントリズム丸出しの考えだけで異文化を断罪している。それが、この映画の問題の核心なのだ。

 なんでも和歌山・太地町の伝統的なイルカ漁を非難するために、その模様を盗撮し、一部捏造も加えたらしい。盗撮なんて犯罪行為は恥ずかしくて自分の家でこそっと見るものだと思うのだが、彼らはあろうことか映画にして世界に発信したわけだ。そんな映画にアカデミー賞まで、あげちゃうんだから、正義もくそもない。さらに映画製作者は、最近、太地町の役場に再度行ってインタビューしようとしたら門前払いをうけたらしい。当たり前だ。スカートの中を盗撮されて、それを世界中にばら撒かれた女の人のところに、もう一度いって感想を聞くなんて、盗撮AVを撮っているヤクザまがいのチンピラ監督でもしないことだろう。この映画を作った連中は、どういう神経をしてるんだか。盗人猛々しいとは、このことか。彼らの「調査結果」をレポートにしてオバマ大統領に提出するそうだ。馬鹿丸出しだね。

 なんかマスコミとか映画製作とかの人間って、ほんと異文化理解がまったく出来ていない。文化を語るとはどういうことなのか?文化を語る権利は誰にあるのか?そもそもどのように異文化を理解するべきなのか?そういうことをちょっとでも考えたことがあるのだろうか?

 「イルカがかわいそう」。そりゃそうだ。殺される動物はみんなかわいそうだ。人間はそれでも食っていかなきゃいけない罪深い生物なのさ。それを否定するんだったら、自殺でもするしかない。そのあたり、肉食の欧米人の方が問題が大きいんじゃないんですかって言いたい。まあ、でも、百歩譲って、イルカを殺すなって主張をするのはいいと思うよ。太地町で街宣でもすればいい。それか、町の人たちと話し合って、説得すればいい。そういう態度だったら、自分の価値観を押し付けている馬鹿に変わりはないが、まだ許せる。そういう話し合いをせずに、自分達の価値観で他の人間を断罪してしまうような映像を勝手に世界に流してしまうのはどうなのよってことだ。あなたたちアメリカ人の価値観は絶対なのか?欧米や外国の人間に太地町の文化を非難する権利があるのか?

 正直、安っぽいヒューマニズムをちらつかせて、偽善者づらして自己満足されては困るのだ。この女優も映画が話題になったら、名前が売れるぐらいにしか考えてないんじゃない。売名行為もはなはだしい。よそ様の文化にケチをつけて金儲けしようなんて、どういう神経をしているのか。ユーチューブの動画のどっかで「よくない伝統なら、伝統をやめればいい」みたいなことを製作者の一人が口走っていたが、そもそもポストモダンでは「よい伝統」と「よくない伝統」を分ける絶対的な基準というものが存在しないんだよ。そういう自分の価値観を振りかざすのをエスノセントリズムというのです。そんな基本的なことも理解できてないのに、異文化を語るな!

 伝統文化を守れとか言うと保守主義とか右翼とか言われそうだけど、そういう次元の話じゃないと思う。多様な価値観を守ることがポストモダンなのだから、そこには右も左もない。アメリカ人と一緒に日本の「遅れた」伝統文化を非難して国際人を気取る人が出てくるかもしれないけど、そういうのってコスモポリタンとか国際人とかじゃ全然ないし、異文化理解が出来ているわけでもない。アメリカ文化に迎合して、彼らの価値観しか持ちあわせていない、単なるエスノセントリズムだ。こういう歪んだメンタリティって、植民地のエリートによく見られる。欧米人の真似事して、自分の文化を卑下することでしかアイデンティティを保てない。ある意味、悲しい人たちだけど、はっきり言ってはた迷惑な人たちでもある。我々に求められているのは、アメリカとか韓国とか中国の文化を取り入れて、彼らの価値観に同化することじゃない。そうじゃなくて、自分の文化や価値観を大切にしながら、多様な価値観を認め合うことを目指すべきなのだ。

【アカデミー賞】「ザ・コーヴ」受賞で地元の和歌山・太地町が猛反発
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100308/tnr1003081335010-n1.htm

「ザ・コーヴ」出演女優、現地で漁中止訴える
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100327-OYT1T00232.htm





ちなみにオスカーを受賞したとき、次のようなことを言ったらしい。

 オスカーを受賞した製作陣は「みんなを啓蒙することができました。人類全体のインスピレーションになりました」と喜びの言葉を述べた。

産経新聞【アカデミー賞】長編ドキュメンタリー賞は日本のイルカ漁隠し撮りの「ザ・コーブ」
より引用
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100308/tnr1003081311008-n1.htm



ははははは。

「みんなを啓蒙することができた」って!?

傲慢というか、おめでたいというか。ほんと、ただの馬鹿だね。この人たち。

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非公開コメント

興味深く読ませていただきました。テーマ重いですね。
食文化とタブーについて
考えさせられました。
「自分の文化や価値観を大切にしながら、多様な価値観を認め合うことを目指すべきなのだ。」というくだりは、その通りだと思います。


コメントありがとうございます

コメントありがとうございます。
そうなんです。こういう問題って、正解というものもないし、人によって意見が分かれるので、すごく難しいんですけど、やっぱり多様な価値観を認め合うってことが基本になるのかなって思うんです。今回はアメリカ人の映画ですが、日本のテレビとかが同じようなことをしているときがよくあるので、そういう番組がない社会になったらなと願っています。

いるか

Kemmaarkさん、こんばんは。
いるかの映画、トップのYouTubeから見てみました。
違和感や不快を感じました。
どうしてなのか、じっくり考えてみたいと思います。



こんにちは

只野乙山さん。コメントありがとうございます。ええ、そうなんです。なんか違和感を覚えてしまうんです。すごく難しい問題なので、実は自分でも何が正しいのかはよくわかっていません。ただ日本人一人ひとりがきちんと考えて自分で正しいと思うように行動するのが一番かなと思います。それによって、イルカがかわいそうだから、イルカ漁をやめるという決断をするのだったら、それはそれでよいことなのだと思っています。もちろん逆の決断も充分ありだと思うし、それは誰にも非難されることではないと思っています。
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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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