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映画『アバター』 身体と魂

 俺のお気に入りのブログに「批評学園」さんのブログがある。数ヶ月前からちょくちょく読んでいるのだが、そのブログで最近アバターが取り上げられていた。「批評学園」さんの視点は斬新で、興味深いことが語られることが多いのだが、このアバターのエントリーでも、いろいろと興味深い考察がなされていた。その中で「身体」と「魂」を対比させ、アバターを「身体」という視点から論じている部分が特に興味深かったので、その部分を引用してみたい。

重要なのは心(魂)であり、身体ではない。むしろ身体などはその器にすぎない…というのは、西洋思想の一つの大きな流れだが、この作品ではそれを踏まえている。魂こそが実態であり、身体などというものは、人間としての肉体も、遺伝子操作で作られたクローン身体も、(コンピューター上の仮想身体も)全ては等価であり、全てアバターに過ぎないという結論が見て取れるのではないか。
http://hihyougakuen.blog113.fc2.com/blog-entry-664.html


 映画『アバター』に関しては、俺も以前に2回ほど取り上げたし、実はさらにあと何回かに分けて違うネタも取り上げたいと思っていた。ただ、俺が書きたかったのは3DCGのリアリズムとか、漫画の影響、そしてナヴィの世界観についてなどで、実は、この映画を見て「魂」とか「身体」について考えたことはなかった。だから、この「批評学園」さんのブログを読んで面白い視点だと思ったのだ。

 まあ、よく考えたら、確かにアバターを魂の容器としての身体としている点は、この映画の根幹をなしているし、そこからエイワというナヴィ社会の宗教観が理解できる。この「パンドラ」という星では、生物は死んだらエイワに吸収され生き続けることができる。つまり身体の死は精神の死を意味しない。重要なのは魂であって、身体ではない。というところに、つながっていくのだろう。このような考えは別に目新しいものではなく、多くの宗教で、すでに同じような教えが説かれていたと思う。魂の存在を認め、魂の救済を可能にしているのは、このように魂を身体よりも優位におかないといけないからだ。なぜなら死んだら身体が腐ってしまうというのは誰の目にも明らかで、だから魂が抜け出たという解釈をするしかなかった。身体が壊さないようにするという思想はミイラに行き着くし、洗骨や複葬などに見られる骨を重要視する考えも、不変的な骨に神聖性を求めたのかもしれない。まあ、そういう事例もあるのだが、「魂」を「身体」から切り離すという考えが基本になってくるだろう。

 さて、その「魂」であるが、SFの世界では魂が電気信号に変換され、他の体や仮想空間などに入り込めるようになるという設定になるという。例えば、SF映画の『マトリックス』や『The Thirteenth Floor』では仮想空間と現実世界を自由に行き来する人間たちが登場する。『マトリックス』は有名だからほとんどの人が知っていると思うが、『The Thirteenth Floor』のほうはちょっとマイナーだろう。『The Thirteenth Floor』は以前にも取り上げたので、興味があったら昔のエントリーも読んでください。

映画 『The Thirteenth Floor』
http://kemmaarch.blog11.fc2.com/blog-entry-144.html

 で、話を戻すが、『マトリックス』や『The Thirteenth Floor』で、人間が行き来できるのは当たり前だと考えていたが、その根底には「魂」もしくは「意識」というものが身体とは別であるという前提があって初めてそういう物語が成立するということを今回初めて知ったような気がする。もちろん意識は脳の中にあり、その活動は電気信号だけで成り立っているから、コンピュータと機能的に等価であるという発想は、脳科学やコンピュータ科学、そして人工知能の研究の発達などから発展してきた考えだと思う。もちろん脳科学やコンピューターサイエンスなど科学的な研究には「魂」という概念は欠如しているのかもしれないが、我々の多くは「意識」と「魂」が置き換え可能な概念であると感じることだろう。そういえば、俺の大好きだった夢枕獏の小説『魔獣狩り』シリーズでは、サイコダイバーと呼ばれる人たちが機械を介して他の人の心に潜るという設定だ。このパクリだと思われるハリウッドのSFホラー映画『The Cell』もある。これらの中にも、他の人の脳=考えの中に、自分の意識=魂をもぐりこませるという図式が成り立っているし、それを可能にするのが、脳の活動はすべて電気信号であるという科学的根拠に基づいている。

 さて、「魂」、もっと科学的で理解しやすい用語としては「意識」といったほうがいいかもしれないが、が電気信号に変換されてしまうということは、なんとなく受け入れやすいし、そのような考えは、もはや常識に近いものがあると思う。『マトリックス』を見て、人間の本質的な部分としての意識が電気信号なんかに変換されるはずがないと思う人はあまりいないだろう。多くの人はそれを容易に受け入れる。ただ、その意識が魂だと考えた場合、我々にはまだ受け入れることが容易ではない事柄も含まれているように思う。それが「死」についてだ。

 『マトリックス』の有名なシーンで、モーフィアスは赤い薬と青い薬をネオの前に差し出し、真実が知りたければ薬を飲めと言う。で、ネオは真実を知りたいと思い、赤い薬(青い薬かも)を飲んで、今までいた仮想空間から脱することに成功し、現実世界に蘇生する。同様に『The Thirteenth Floor』でも仮想空間に住むバーテンダーが、自分の世界は仮想空間だということを知ってしまい、現実の世界に行きたいと切望するシーンがある。
 
 我々映画を見ている人間としては、彼らの動機は充分理解可能である。なぜなら彼らの住んでいる世界は作り物の仮想空間であり、現実世界はもっと上の次元にあるということを知っているからだ。仮想空間から脱することは、真実の現実世界に来ることである。我々から見たら偽物の世界に安住してしまっている人間たちは無知であり哀れな人間たちに見えてしまう。もし真実を知っても現実世界にこようとしない人間がいたとしたら臆病者と感じるだろう。だから、『マトリックス』のネオの行動や、『The Thirteenth Floor』のバーテンの願いは充分理に適ったことなのだ。しかし、それは仮想空間と現実世界を知っている、つまり神の眼を持っている映画の視聴者だから言えることだろう。

 しかし、仮想空間にいる人間からしたら、ネオの行動と、仮想空間の中で普通に死ぬことと、どのような違いがあるのだろうか、という疑問がわく。そして、そこには違いなんて、おそらくないということになると思う。『The Thirteenth Floor』も同じで、仮想空間から脱して現実世界に来ることと、仮想空間で死んでしまうことは、仮想空間を現実だと信じている仮想空間の中の人間から見たら、両方とも「死」でしかないだろう。つまり、その世界から抜け出すことと、その世界で死ぬことは同じ意味しか持たない。ならば、この世界で死ぬことは何を意味しているのだろうか?今われわれが生きているこの世界は、もしかしたら仮想空間かもしれない。もしかしたら、この世界の外に、真実の現実世界があるのかもしれない。そこに行くためには、死ぬことが必要だといわれた場合、我々はそこに行くために死ぬことができるのだろうか?そもそも死を覚悟して、あるかどうか定かではない真実の現実世界に行くことが本当に必要なのだろうか?というか、この世が仮想空間であるというような科学的な解釈から導き出された真実の世界と宗教が示す死後の世界の違いはなんなのか?このようなことを考えてくると、死を覚悟して仮想空間から脱するネオなどの行動は理性的で勇気に満ちた行動というよりも、狂気に満ちた愚かな行動でしかないのではないか。彼の行動は、ただの自殺でしかなかったのではないか。

 という感じで「死」とはなんだろうと考えると、本当はよくわからなくなってくるような気がする。「身体の死」が本当の「死」なのか、それともこの世界からいなくなることが「死」なのか。もしもこの世界が仮想空間であったのならば、この世界から抜け出すことは死ではなく悟りなのかもしれない。『マトリックス』では、仮想空間から抜け出して真実の世界に行くことが悟りだと言っていたような気がする。もしも外に本当の世界があるのならば、それを感知することは一種の悟りであろう。そして、神の眼で真実を見ることができ、この世界の外側に真実の世界があるというのがわかっているのならば、この世に固執することは「無知」でしかないことなのかもしれない。ただ我々に、その外の真実の世界の存在を知る術はない。だから、そのような真実の世界は想定することは、「死」という現実から目を背けるためのものでしかないのかもしれない。

 死を回避できない我々人間にとって、このような死後の世界や不滅の魂というような考えは、とても重要になってくる。生きる意味とともに我々は魂は死なないという考えを持たなければ、死の恐怖から抜け出すことはできないし、生きていけない。また、死者の魂は死者の国や天国に行ったと思わなければ、残された家族や知人などもやりきれないだろう。だからこそ、宗教は魂の安らぎを強調する。

 しかし、このような魂の救済という考えは危険思想にもなりえる。この世はかりそめであり、死ぬことによって真実の世界に転生できるという考えを強調すれば、この世に未練を残すことなく、簡単に死ぬことができるようになってしまう。宗教団体の集団自殺や爆弾テロなどを起こしかねない。もちろん戦争などの戦いでは、死の恐怖を超克しないといけないわけだし、それには死後の世界を想定しなければ勇敢には戦えないのだろうと思う。

 さて、「死」について考えると、もう一つ疑問に思えてくることがある。それは「死」とは何かということだ。そして、それは「生きる」とは何かということに繋がっていく。最初に言ったように、アバターでは死んだ魂はエイワに取り込まれて生き続けるらしい。同じような死生観はファイナルファンタジーでも見られるようだ。そのような「死」は、本当の「死」なのだろうか?そのあたりについて、明日、続きを書いてみたいと思う。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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