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映画『アバター』の中の死生観

 昨日言ったように『アバター』の死生観を考えていたら、「死」についていろいろ考えさせられた。で、「ファイナルファンタジー」などの死生観なども思い出したので、まずは「ファイナルファンタジー」の死生観から見てみたい。

あらゆる生物が死によって星の中心に還るときに、持っていた知識やエネルギーが蓄えられ(このエネルギーを精神エネルギーと呼ぶ)、世界全体が栄え再び新しい命を生み出す源となっている、という死生観が存在する。
ウィキペディア ファイナルファンタジーVII


 こういう考えは、祖霊崇拝や神道にも通じるだろうし、アイヌやアメリカ先住民の死生観などとも似ていると思う。ようするに、いろんな社会で結構ありそうな死生観だということだ。『アバター』の死生観も、このようなアニミズム的世界観と同じだと思われる。まあ『アバター』はアメリカ先住民社会をモデルにしているし、アニメとかゲームの影響も受けているので、ファイナルファンタジーの世界と『アバター』の世界の死生観が似ているという点は驚くことではない。

 さて実は昨日ブログを書くために『アバター』の死生観に関して調べていたのだが、そのとき面白いブログ記事を見つけた。

『永遠にエイワと -アバター- 』
http://blogs.yahoo.co.jp/kabulaya/60792555.html

 このなかで、かぶらやさんは次のように言っている。人間は、死後の世界がしっかりとわかっていないから、死を恐れ、他者の死を悲しむことが出来る。しかし、惑星「パンドラ」ではそのような悲しみや恐怖がない。なぜなら『アバター』の世界では死後の魂がエイワに吸収されるということを、ナヴィ社会ではみんなが知っているからだ。この違いは大きい。人間は死後の世界などが理解不能であるが故に哲学や宗教を発達させてきた。しかしナヴィの世界ではそのような恐怖や悲しみがないので、哲学や宗教を発達させることもなかったのではないかという。なかなか興味深い考えだ。

 じゃ、ナヴィの社会では「死」とはどのようなものなのか。それは、それぞれの成員の魂がエイワに接続され、そこに還っていく。すなわち冒頭で紹介したファイナルファンタジーシリーズの死生観と似ている。『アバター』では、その死生観に、エイワという有機ネットワークを絡めているのである。ちなみに昨日紹介した『批評学園』では、この有機ネットワークのエイワとインターネットを対比させて考えているが、かぶらやさんも同じような考えを持っているようだ。つまりナヴィの社会における「死」とは、個人の情報をネットワーク上にバックアップすることに似ているし、惑星「パンドラ」の生物たちがエイワによって繋がっているという感覚は、インターネット上で不特定多数の人間たちと常時繋がっているという現代人の感覚に似ているのだろう。このあたりの話から、かぶらやさんは次のような考察をしている。

 わたしは、この映画を観た人々が、アバターで描かれた、エイワ(永和?)を核とした『惑星レベルのネットワーク』に憧れることに弱冠の危惧を感じるのです。


 より大きいモノに接続して、叡智を共有すれば孤独感もなくなる……


 しかし、人類にある「孤独感」こそが、文明を発達させ、哲学を生み、深化させたことを考えれば、安易に精神を一本に束ね、記憶をそういったメガ(じゃないなヨタ)メモリバンクに保存することは、少なくとも地球人にとっては好ましくないと思うのです。

 おそらくは、そう遠くない未来、全地球レベルでネットワーク化が推進され、ヒトは電脳化されて、あらゆる者が五感ごとネットワークにつながって、死亡する際には、ネットワークにその経験が吸収されるようになるといった出来事もあるのでしょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/kabulaya/60792555.html


 かぶらやさんの主張はおそらく、ネットやSNS、さらには「緩いつながり」が強調されるツイッターなど馴れ合いの繋がりで、孤独や適度な緊張がなくなってしまっているインターネット上では、本当の意味での思想が成立しないのではないかという危惧だと思う。なぜなら哲学や宗教というものは、本来、孤独で非情な現実と、どう向き合うかということから発達してきたものだからだ。そのあたりも興味深い話ではある。ただ、今回は、俺が面白いと思った、もう一つの点に注目したい。それは最後のパラグラフに示されていることなのだが、すなわち「死亡する際に一生の経験がネットワークに吸収されるという感覚」に関してである。

 ナヴィ社会では、魂がエイワに還っていくから、死の悲しみが少ないという。すなわち、魂がエイワに還っていくだけで、「死」の恐怖も悲しみも薄まるらしい。まあ「魂」が死後の世界に還っていくという発想までは理解可能だ。多くの宗教が同じような事を言っている。死者の霊魂が別個の意志を持って死後の世界で生きていくのか、それとも一つの霊体のようなものに統合されてしまうのかの違いはあるわけだが、魂は不滅だから悲しくないという論理は別段新しいものではないと思う。俺が注目したいのは、その「魂」とは「経験」なのだという部分だ。自分の経験をネットワークに還元するということはどういうことだろうか?それが「死」とどういう関係にあるのだろうか?「死」というものを知るためには、「生きる」とは何なのかを知らなければならない。

 そもそも人間は何を目的にして生きているのだろうか?科学的な答えを求めるとしたら、そこには意味も目的もないというニヒリズムに陥るしかない。本来、人間は他の生物と同じで、単に食って寝て子孫を残して死んでいくというだけのモノでしかない。そこには意味も目的もないのは自明だ。別に俺が死んでも、世界はまわっていくだろうし、人類が滅亡しても地球には他の生物が繁栄するだけだろう。それだけのことなのだ。生きている意味がないのだから、死ぬ意味もない。ただ生体機能が停止したら、死んだというだけだ。身体が腐って消滅するということが、一番簡単な「死」の定義であろう。

 ただそのような科学的な見地だけでは、やはり人間は生きていけない。だから我々は「自分の生」に何か大きな目的や意味があるのではないかと考える。社会の模範的な生き方というものも考える。そしてそのような生き方をしようとするのだ。もし理想的な生き方ができたならば、満足して死んでいけるだろう。逆に後悔しながら死んでいくこともある。満足や後悔はどこから来るのかというと、生きる意味にかかってくる。金持ちになりたかったのに、貧乏で死んだら、後悔するかもしれない。貧乏でも正直に生きることが素晴らしいことだと信じている人は、貧乏でも多くの人に囲まれて死を迎えるだけで満足なのかもしれない。すべては生きる意味にかかっている。そのような生きる意味の中で名声や名誉などを求める人もいるだろう。

 名声や名誉を求めなくても、自分のことを思い出して欲しいと願う気持ちは多くの人が持っているのかもしれない。「死」を怖れる理由の一つに、自分の存在が忘れ去られてしまうという恐怖が挙げられる。「身体の死」だけに注目する人間にとっては、死んだ後に自分を思い出してくれようが思い出されなかろうが、別にどうでもいいことだろう。「魂」が死後の世界に行くことを信じる人たちも、本来は、魂を信じることと故人を偲ぶことは別物だと思う。しかし多くの社会では故人を偲ぶということがなされているわけだし、文化的に一番簡略化されているアメリカですら、親や友人を偲んで墓参りに行くということをしているようだ。人から忘れ去られないために、この世に何かを残すこと人もいる。権力者や政治家になって銅像を立ててもらうとか、研究者になって大発見をするとか、社長になって社長室に写真が飾られ続けてもいいだろう。本を書いて名を残すのという手もある。とにかく、名を残すということは、世界から忘れ去られるという恐怖を取り除くための戦略なのだろう。

 では、エイワやネットワークの問いに戻ろう。「経験」をネットワークに還元して「死」を迎えるとはどういうことか?それは、自分の業績を社会に認めてもらい名を残す行為に近いのではないだろうか?今までなら、限られた人しか名を残すことが出来なかった。しかし、インターネットやコンピュータの力によって、すべての人の経験がネット上に還元され、それが次の世代の智恵となって利用されていく。そのような世界になるということだろう。「経験」や「知識」をネット上に還元することによって、自分の存在は半永久的にネット上に残される。

 20年ほど前に日本中世史の歴史学者である網野義彦さんが歴史の上には出てこなかった「名もない庶民の生活」を研究対象にして話題となった(他の日本の歴史学者がすでに庶民研究をしていたのかどうかは知らないが)。歴史とはそのような名もなき庶民が作り出してきたのだが、これからは名もなき庶民ではなく、すべての人たちが名前を持った庶民として情報を発信していくし、それがすべてストックされていく。今までだったら家族や知人にしか思い出してもらえなかった大多数の人間たちの生活がブログ日記などを通してネット上に公開され、それが時空を超えて未来の誰かに永遠に参照されていく。日本のブログ日記は現代の万葉集だと作家の山川健一さんは述べているが、まさしくそのとおりだと思う。(このことについては以前書いたエントリーを読んでください⇒『ブログを書くということ』)つまり今までのように家族や知人の心の中だけに行き続けるのではなく、不特定多数の人たちが参照するインターネット上で半永久的に生き続けられるのである。これが「経験」をネットに還元して「死」を迎えるということなのではないだろうか?

 まとめると、動物的・生物学的な「死」というものは今のところ避けられないし、「死」の意味や理由などはもともとない。同様に「生きる」ということの意味や目的も本来はないはずだ。そこに何か意味があるはずだと考えるのは、ニヒリズムの世界では生きていけない人間の弱さが原因だろう。ただ、逆に言えば、同じ苦難でも生きる意味さえ与えられれば、苦痛は安らぎに変わる。そこに「宗教」の存在意義があるはずだ。不条理な人生に対して、大きな物語で説明してくれるものが必要だし、生きる指針が必要になってくるのだ。さて、どんな権力者や金持ちでも避けられないものは「死」であり、彼らの怖れるものは、自分が存在したという事実が忘れ去られることだろう。同じことは、多くの人間が感じることだと思う。今までならば、一部の有名人以外は、少数の知人に覚えていて貰えればそれで満足だったのだが、今では自分がこの世に存在していたという証をインターネット上に残すことができるし、それは時空を超えて半永久的に保存されていくのである。そしてそのような「経験」は蓄積されて新しい世代の「智恵」となって再利用されていく。魂がエイワに還り、また新しい生命が生み出されるように、ネットワーク上に自分の「経験」や「智恵」が生き続けるのである。その「経験」や「智恵」を「魂」と考えることも、また可能な事なのではないだろうか?

 「経験」や「智恵」の情報が「魂」と同じであるという考えに違和感を覚える人は、次のようなことを考えて貰いたい。将来、科学が発達して、脳の情報をそっくりそのままコンピュータに移せることが可能になったとする。そのとき、その操作は、脳の情報を単にコンピュータに移したのだけなのか、それとも魂も移したということが言えるのか?もし後者に同意できるとするならば、脳の情報の大半を占めている「経験」や「智恵」という情報を取り出してネットにバックアップしたことと大差ないのではないだろうか?まあ哲学にも宗教学にもコンピュータサイエンスにも素人である俺のような人間が、無い知恵しぼって、いろいろ考えても答えは何も出てくるはずもないが、いろいろと考えさせられる興味深い問題ではあると思う。

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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