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『テレビは見てはいけない』を読んだ

テレビは見てはいけない (PHP新書)テレビは見てはいけない (PHP新書)
(2009/09/16)
苫米地 英人

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 というわけで、今日は『テレビを見てはいけない 脱・奴隷の生き方』という本の紹介をしたい。なかなか興味深い題名の本で、昨日、本屋で見つけて衝動買いしてしまい、今日読み終わった。というか、本当は再発見したという方が正しいかもしれない。実は去年の冬に、この本をぱらぱらっと見たことがあったのだ。題名からして読んでくれと言わんばかりの本だった。ただ、その時は、この手の本を読んでいる時間はなかったし、それに内容もちょっとスカスカっぽい感じだったので、ブックオフで100円になったら買おうかな程度の本だった。それが、昨日、本屋を回っていてすごいことに気がついた。この本は、あの苫米地英人が書いていたのだ。

 「あの苫米地英人」と書いたけど、別に彼の事をそこまで知っているわけではない。ただこの前の冬に、ユーチューブの動画で知ったのだが、この人は宮崎・宮台のM2と一緒にテレビに出ていたみたいだ。その番組によると、苫米地さんはM2とあわせて日本が誇る天才三人組なのだそうだ。その番組を見ていてもちょっと胡散臭さがにじみ出ていたのだが、その胡散臭さというか馬鹿っぽさが普通の馬鹿とは違ってきらりと光る部分があった。もしかしたら大うつけのふりをして天下を狙っている織田信長じゃないのか?というか、そういうキャラを俺が好きだから、馬鹿っぽい人を見るとすぐに評価してしまうのだが。要するに、その動画を見てから、苫米地さんの事がちょっと気になっていた。だから苫米地さんの本を見つけたら一冊ぐらいは読んでみたいなと思っていた。そういうこともあって、今回はちょっとがんばって本屋で立ち読みしていたのであるが、立ち読みしてたら文章がおもしろい。内容もなかなか興味深いということで、衝動買いしてしまった。

 で、家に帰ってきて第一章を読み終えて、ちょっとだけ胡散臭い記述もあったけど、そこはご愛嬌ってことで、一人で満足しながら、アマゾンの書評をちょっと覗いてみたら、賛否両論だった。まあ胡散臭いよね。やっぱり。ちょっと読む気が失せた(笑)。気に入っている本は読み終わるまではアマゾンのコメントをみないほうがいいということを再確認。昨日はちょっとへこんでいた。今日、気を取り直して第二章から読み始めたら、やっぱりおもしろかった。胡散臭さも倍増されたけど。ということで、今日はこのちょっと(もしかしたら相当?)胡散臭い本を紹介したい。

 さて題名は『テレビを見てはいけない』なのだが、テレビ批判の話は第一章と最終章だけだ。だからテレビ批判目当てでこの本を買おうとしているんだったら、買う前に本屋さんで中身を確認した方がいいと思う。テレビ批判じゃなきゃ、この本は何をテーマにしているのかというと、実は「生き方」について書いている。我々は自分の生きかたというものを親や社会に教えられて育つ。で、ある価値観というか生きかたみたいなのを、当たり前と思って、生きている。でも、その生きかたが絶対なのかというとそうではないだろう。いろいろな生きかたがあるのに、一つの生きかたが絶対だと信じてしまっているのは、洗脳された人が、それをあたかも真理であるかのように信じて生きることに似ている。そして、それは不幸なことだと著者は言う。自分で考えずに、教えられたことだけを鵜呑みにして生きる生きかたでは幸せになれない。そうではなくて、我々は自分の頭で考えて、自分の考えに正直に生きるべきなのだ。という感じで、要するに人生哲学みたいなのを、著者の専門である「脳機能学(脳科学?)」とか「心理学」とかを紹介しながら、「自分の道は自分で決めろ」とか「社会の空気なんて気にせずに、自由に生きろ」とかそういうことを言っている。まあ、無理して、ひいき目に見たらポストモダン的人生哲学になるのかな(いや、無理か)。まあ、いいや。ポストモダンを出さなくても、90年代以降、個性を大事にして自分の人生は自分で決めて幸せに生きましょう的な言説が垂れ流されていたと思うんだけど、そういう路線です。で、こういう個性の発達や自分で考えることを阻むものが、社会から押し付けてくる価値観などなのだが、そのような価値観を効率的に垂れ流してくる一番影響力のあるメディアがテレビなのだ。だからテレビなんて見てはいけない。見たら奴隷の人生になるぞと言っているわけだ。

 まあ、そういうことなので、テレビ批判と言ってもたいしたことは書かれていない。ただテレビの裏事情の部分とかは面白い。例えば、

 日本のテレビ番組の企画をつくっているのは、「構成作家」と呼ばれる人々です。彼らが書いた企画書が、ドラマ、ニュース、バラエティ番組のもととなり、日本じゅうに流されるのです。日本のキー局の番組を政策している構成作家の人数は、見習いも含めて、おそらく数百人といったところでしょう。そのうち、日本のテレビ界の中心で活躍しているのは、二、三〇人くらいの人数だと思います。
 たったそれだけの、国会議員より少ない人たちが考える番組によって、日本じゅうの流行や、お茶の間の話題、政治的な世論までもがつくられているかとおもうと、驚きの感情が湧いてきませんか。
 行為ってはなんですが、構成作家のなかには、ビックリするくらいものを知らない人が実際にたくさんいます。政治や経済について専門的に勉強したわけでもない人たちが、付け焼刃の知識で番組を量産しなければならないのですから、致し方ない面もあります。それでも、テレビ番組が劣化してきた原因の一つに、構成作家の質の低下があることは間違いないと私は感じています。
 彼らがどこから番組のネタを拾ってくるのかといえば、多くの場合は雑誌とインターネット。自分で取材先を見つけ出して交渉し、一次情報を取ってくる気概のある構成作家は、残念ながらほとんどいないのが現状なのです。
 また構成作家の多くが、英語圏の情報を集める作業をしていません。それは単純に、彼らが英語を苦手をしていることが理由だと思われますが、日本のテレビ報道に海外初の情報が少なく、きわめてローカルな報道に終始している原因はここにあると思われます。

『テレビは見てはいけない』 (87~88ページ)


 この記述がどこまで信憑性があるのかはわからない。ただテレビの薄っぺらいメッセージ性を見ていると、否定はできないんじゃないかなって思う。ハリウッドで流行ったテーマを、すぐにテレビに流したりとかもよく見かけるし、流行だけで中身のない議論を延々としていたりね。こういうものの延長線上に思想としてのサヨクとかも現れるんだろう。「平和」とか「平等」とか「差別」とか、考えなければ、なんとなく正しいと思ってしまうようなものを垂れ流す。そのようなテレビの安っぽさってのは、要するに製作者の程度の低さを表しているのかもしれない。本物の左翼思想家のように充分に考えた結果、信念を持って語てくれたら、意見が合わなくても、その人の思想は尊重出来るんだけどね。

もう一つ、面白い記述があった。

 いまでも新聞記者や民法キー局の報道記者たちは、大臣の首を獲るのが勲章だと思っているフシがあります。国民に不利益をもたらしているシステムの欠陥や問題点を知らしめるのがジャーナリストの役割だと私は思うのですが、なぜか記者たちは、問題の下人をシステムのせいではなく、個人の問題に還元しようとしがちです。
 日本のジャーナリズムには昔から、そのように個人を追及するカルチャーがあるように思えてなりません。問題にすべきなのは、個人の前にシステムのはずです。もちろんシステムの上で不正に甘い汁を吸っている役人がいたならば、個人の責任が追及されるのは当然ですが、それは本来、警察や検察の仕事です。メディアのやるべきことは、それを許したシステムそのものを徹底的に正していくことです。

(前掲書 56ページ)


 ここは俺も大賛成だ。俺がマスコミ不信になった一番の理由は、あの考古学捏造事件だった。もう10年以上前の話になるが、石器を埋めて「発見し」ていた自作自演の考古学者を毎日新聞者がすっぱ抜いた事件だ。その記者会見の様子が生中継だったと思うがテレビに放映された。俺もチラッと見たが、記者たちの罵声が飛び交うその場所は、まるでリンチ会場か魔女狩り裁判のようで、気分がすごく悪くなったのを覚えている。俺はこの考古学者を擁護するつもりはない。ただ、記者たちの怒りの意味がまったく理解できなかった。この事件の責任の一端はマスコミ自体にあるわけだし、とくに毎日新聞をはじめとした多くのメディアがこの考古学者にプレッシャーを与えたのが原因だ。まあ、それにのってしまった考古学者の方にも非はあるのだが、すくなくともメディアが罵声を浴びせる権利がどこにあるのか俺にはわからなかった。

 マスメディアごときに人を裁く権利はないと思っているし、彼らにはそもそも正義などない。自分たちの正義が絶対の正義だと誰が決めたのか。自分たちの主張をあたかも絶対の正義のように振りかざすのは、うぬぼれもいいとこだろう。誰もマスコミに悪人を裁いてくれなどと頼んだつもりはないのだ。考古学事件のようなマスコミ全体のヒステリー状態は、この前のイギリス人殺害事件の犯人が捕まったときにも見られた。まるでお祭り騒ぎだった。何がそんなに大騒ぎしなくてはいけないのか今いちわからなかった。ただ一つわかったことは、要するに日本のジャーナリズムは程度が低いってことだ。そして、そのような程度の低さが政治関連の話に行くと、指摘しなければいけないシステムの不備ではなく、スケープゴートとしての犯人探しにやっきになってしまう。いい思いをした人間をつるし上げて、自己満足する。悪者を一人とりあげて、それを断罪することで、ストレス発散する。このような傾向が日本だけのものなんか、それともジャーナリズムの本質なのかはわからない、ただ我々はこういう問題に自覚的になっておくべきだろう。そして、マスコミが馬鹿騒ぎしても、馬鹿騒ぎしているのは彼らだけで、我々国民は冷めた目で彼らを観察できるぐらい冷静でいたいものである。

 そういえば、この本によると、マスコミのとりあげるブームも、必ず仕掛け人がいるらしい。そこらへんも、マスコミに踊らされないようにするために、知っておくべきことだろう。

 という感じで、他にもいろいろ書かれているのだが、ようするにテレビなどを見ていると自分の意見がいつのまにかテレビの主張するメッセージに置き換わってしまって、頭が悪くなるから、テレビばかり見るのはやめましょうというのが第一章の論点だ。興味があったら是非読んでみてください。ただ、どこまで信じていいのかはわかりません。心理学方面の話は嘘はなさそうだけど、心理学の専門家が見たら、もしかしたら竹内久美子並みのトンデモ本に分類されるのかもしれない。

 そういえば、フーコーの記述が怪しいとアマゾン・レビューで指摘されている。その箇所は俺も違和感を感じた。次の文章だ。

キーホールTVのような「だれでもテレビ局となりうる」システムによって、まさに哲学者ミシェル・フーコーがかつて主張した相互監視装置(パノプティコン)ができあがり、世界が少しずつでも平和になる可能性が高まるのです。

(前掲書 41ページ)


 正直、この先生、本当にフーコーわかってるのかなって不安になる。というかわかってないんじゃないかな。まあ、無理を承知でがんばって擁護するならば、フーコーがかつて主張したのは「相互監視装置(パノプティコン)」であって、決して「パノプティコンによって平和になる」と主張したわけではないよ、と読もうとすれば、出来ないこともないだろう(笑)。まあ、そこまで擁護する義理も無いのだが。しかもパノプティコンを設計したのはベンサムだし。まあ、いいや。

 もう一つ、少し疑問の箇所は動物の種を保存するために自分と同じ種の動物を仲間と認識して共同で敵と戦っていた(おそらく群れ行動をする動物のことを話しているのだろう)。このような感情が差別という感情の源であるといった感じのことも言っているが、このあたりも疑問がわく。まず動物の仲間意識というか群れ行動をする動物はゲーム理論などで研究されていると思うが、結構難しい問題である。ただ種を保存する方向に進化するという考えは退けられている。なぜなら利他行動は血縁関係など特別な条件が無い限り発達しないはずだからだ。またこの動物の仲間意識と差別問題というのも直接関係のある事柄なのかどうかもはっきりしないだろう。

 まあ、そういうことで、ところどころ怪しい部分があるので、どこまで信じていいかわからないのだが、それでも読んでいて面白いのは確かだ。あと着眼点が面白い。特にこの本のテーマである「洗脳」が面白かった。「洗脳」といっても、別にカルト教団の「洗脳」だけではなく、もっと広義のマスメディアなどによって刷り込まれた常識全般を「洗脳」と見ているのだ。そのあたり、マルクス主義にも通じるところがある。ということで、本当はそこらへんを書きたくて、この文章を書いたのに、まったく関係のない話を書いていたら、長文になってしまったし、俺も疲れたので、本論というか、この続きは明日書きたい。

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利他行動は血縁関係など特別な条件が無い限り発達しないはずだからだ。

これは、違うように思います。
通りすがりの人が、困っていれば、助ける気持ちがわいてくるのは、普通の感情だと思います。
むずかしいことは、分かりませんが。

コメントありがとうございます

bt9さん
 コメントありがとうございます。
 さて、問題の箇所ですが、どうもすいません。文章が中途半端すぎました。誤字脱字も多いし(汗)利他行動の部分ですが、人間の世界で利他行動が見られるというのは、bt9さんがおっしゃるとおりです。ただ、人間の方は文化的要素も複雑に絡んでくるので、利他行動の起源みたいなものを体系だって一般理論として提出しているものはおそらくないのではないかと思います。19世紀の人類学者とかは考えていたかもしれませんが、勉強不足なので詳しくは知りません。

 とりあえず人間行動は複雑すぎるので、ここでは取り上げていませんでした。ここで話していたのは、もっと単純に、動物の話というか遺伝子レベルの話です。人間も動物も遺伝子が進化してきたわけで、遺伝子レベルで考えた場合には、利他行動は通常成り立たないことになっているのです。

 とりあえず、参考までにもう少し詳しく書いておきます。長々と書いてしまって申し訳ありません。もし興味があったら、お読みください。あと、私の知識はだいぶ古いです。しかも今、手元に資料がないので、記憶だけで書いてます。ということで、何かあったらネットで確認してください。古かったり、間違ってるかもしれないので。

 で、話をもどすと、遺伝子を共有していない仲間を助ける遺伝子が突然変異として生じたとします。その個体は仲間を助ける行動をとる遺伝子を持っているので、極端な場合、仲間のために潔く死んでいきます。このような遺伝子が生じる可能性は否定しません。問題は、そのような遺伝子が集団中に広まっていくことができるのかということです。なぜなら、その「仲間を助ける遺伝子」が次の世代に受け継がれない可能性が高くなってしまうからです。また、もしすでに「仲間を助ける遺伝子」が集団中に広まっていて、すべての個体がこの遺伝子を持っているという理想的な社会を想定します。そこに、あるとき、「仲間に助けて貰うだけで、仲間を助けない、ずるい遺伝子」が突然変異で生じてしまったとすると、通常は、この遺伝子が集団中に広まってしまうことになります。助けられるだけのほうがリスクが少ないので、生存率が高くなり、結果、子どもの数が多くなるはずだからです。こういうことを考えていくと、利他行動が利己的な遺伝子で進化していくということは無いように思います。

 ただ、例外はあります。それがアリ・シロアリ・ハチの世界です。ここでは利他行動が普通に見られるため、利己的な遺伝子仮説を信じていた生物学者を悩ませていました。また何種類かの鳥は、他の個体の子育てを助けるという利他行動をします。これも謎でした。ただよく調べてみると、彼らは血縁関係であったということがわかってきました。アリたちは、巣の中の仲間すべてが姉妹なので、働きアリは繁殖できずに死んでも、自分と同じ遺伝子が女王アリを通して次世代に受け継がれていくことになります。また鳥たちも通常は繁殖できる兄弟を助ける行動でした。配偶者が見つけられないなどの理由で、自分が繁殖できない状況では、何もしないよりも、自分と同じ遺伝子を持っている可能性の高い自分の兄弟の子育てを助けることの方が、結果的に自分の遺伝子を次世代に残せる可能性を高めます。

 また血縁関係以外の個体に対する利他行動が発達する条件としては、ゲーム理論から推測されるのですが、タカ・ハトゲームではなく、もう一つの戦略として「しっぺ返し」という戦略が知られています。これは、まずは他の個体を助けるのですが、もしも相手に裏切られたら、それを覚えていて、裏切った個体は次回から助けないようにするというようなものです。これによって、助けられてばかりいて、助けてくれない、ずるがしこい個体(フリーライダー)を退けることができます。ただこの戦略は前の状況を覚えていないといけないので、ある程度頭がよくて、ちゃんと学習できる動物じゃないと駄目なようです。

 人間はこのしっぺ返し戦略もあると思いますが、それ以上に文化的要因が大きいと思います。その他人を助けたい気持ちも、文化的・社会的に規定された概念(人文系では大きな物語と読んでいます)だと思います。なので、何ともいえません。
長々と書いてしまって申し訳ありませんでした。

お邪魔してますv

kemma様はなんて博識なんだろうといつも思ってます!専門的な事を学んでいない私には分らない言葉もありますが関心のある事は 後で調べてみたりしてます( 当然明らかに自分のキャパを超えています!vv )(笑
 私の狭いキャパと刷り込みの恐らく多いであろう微々たる知識でkemma様のブログを読
むのは申し訳ない気持ちもあるのですけど 何かを知る足掛かりになったり色々考えさせられます 
 頭の良い方から何かを学ぶというのはなかなか難しい事なんですよ( 笑  
 kemma様のブログは冷静さと優しさとすごい分析力!批判文もキチンとした言葉の武器ですよね!!

だから利他的なブログだと思っています  自分が考えていない事や及ばない事、でもそれを考えて声を出してる方がいて下さるから助けられてるんだなって事を最近特に感じます。
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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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