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文化復興運動2

 ということで、先日の続きを書きたいのだが、まず先日だらだらと書いたことをまとめておきたい。いちお次のようなことを書いた。

 文化復興運動というのは、実はいいことなのかどうかは分からない。先進国に住む人類学者が便利な機械に囲まれて快適な生活を送っていながら、文明の利器がまだ行き届いていない辺境の地で伝統的な生活を送っている(完全に伝統的な生活を送っている社会はもはやないのだが)人たちに向かって、伝統文化を守るべきだとか偉そうなことをいうのは、文明社会に反対し牧歌的な伝統社会を懐古するロマン主義でしかない。伝統社会の人たちにも文明の恩恵を受けて快適な生活を送る権利があるのだ。

 しかし、伝統文化を壊してまで、近代化を推し進め、すべての社会が西洋化・近代化されることが果たしていいことなのかというと、それもはっきりはしていない。特に自ら西洋化を推し進めた日本の今の状況を見たときに、はたして住みやすい社会になっているのかというと、よく分からないだろう。物質主義・拝金主義にどっぷり使ってしまっている日本よりも、自給自足で貧しい生活を送っていてもお互い助け合って生きている社会のほうがよっぽど幸せなのではないか。人間関係が希薄になって貧困などが原因で自殺者も増えている都市部の日本人などは、そう思うかもしれない。

 そういうことで、文化復興運動は必要なことなのだろうかということは、実ははっきりとは分かっていないのが現状だ。分かっていないというか、研究者のスタンスによっていろいろな意見があるというほうが正しいと思う。ようするに答えのない問いなのだ。

 ところで、このような問題は政治的なスタンスとは関係のない話である。確かに人類学とかやっている人の多くは左翼系もしくはリベラル系の人なので、保守主義のオレとかは肩身が狭い思いをするのであるが、それでも異文化理解や文化復興運動に関しては、右派とか左派などとは次元の違う話をしている。だから保守主義は右寄りだから民族主義のはずで、それはネオナチとか原理主義者とかエスノセントリズムの人間たちで、彼らは好戦的で人種差別主義者で・・・というようなことは決してない。

 政治とかを、あまり考えていない人たちってのは、エスノセントリズムに走りがちだと言われる。まあ、確かにそういう面はあると思う。ただリベラル思想というものを、ほとんど理解せずにリベラルを気取っているファッション左翼も多いと思う。平和とか人権とか美辞麗句を並べられたら、普通は否定できないからね。ようするに、あまり考えていない人は左翼にも右翼にもなるわけで、唯一の違いっていえば、左翼系は女性的、右翼系は男性的というイメージがあるので好きな方を選ぶぐらいの違いなんじゃないだろうか。ここでは、そういう人たちの考えは考慮しない。

 さて、話を戻すが、右派と左派は同じような考えになっているということを説明したい。まず異文化理解という点に関しては右派も左派も似たような態度を示すと思う。例えば、保守主義(右派)とリベラル(左派)では立場は異なるが、異文化を尊重するという点では意見は一致している。

 もちろんこれは社会外部を見るときと社会内部を見るときでは異なる。保守主義とリベラル左派が異なるのは社会の内部を見ているときだ。前にもこのブログで何度となく述べていることだが、保守主義は共同体内部に対しては「大きな物語の共有」を強調する。それが共同体の絆を強固にするからである。それに対してポストモダンのリベラル左派は共同体内部の多様性を強調し「大きな物語の消失」を宣言している。もちろんどちらに比重を置いているかという問題であって極端な話をしているわけではない。だから、保守主義が全体主義を志向しているわけでもないし、リベラル左派もアナーキズムを志向しているわけではない。保守主義も個人の自由を認めているし、リベラル左派も無際限の自由を認めているわけではない。だから結果としては、両者ともまったく異なる理想を掲げているというわけではないのだが、それでも保守主義とリベラル左派は共同体内部に対しては意見が若干異なっているのは事実だろう。

 しかし、共同体の外部に存在する異文化に目を向けたときには、保守主義とリベラル左派は同じような態度をとる。保守主義もリベラル左派も文化相対主義の立場をとっているためだ。保守主義は相対主義によって自分たちの文化の正当性も保証される。だからこそ他の文化も尊重することが要請される。リベラル左派にとっては、もともと多様な価値観を認めているわけだから、異文化を尊重するのは当たり前になる。つまり、どちらの立場でも異文化に対しては寛容な態度をとっているのだ。

 左派にはリベラルとは異なる、もう一つ大きな潮流が存在する。それがマルクス主義だ。文化を全否定している古典的マルクス主義は伝統社会などには見向きもしないので論外だが、構造主義的マルクス主義などは人類学者にも大きな影響を与えてきた。例えば、世界の辺境地域が世界経済に包摂されてしまうという世界システム論などを使って伝統社会が世界経済の波にどのように対応してきたかという研究などを行っている。このあたり資本主義と伝統社会の対立軸において伝統社会内部や外部との関わりなどの社会の動態を明らかにしようとしている。ただ階級闘争など対立軸が好きなマルクス主義人類学でも、伝統社会は必ずしも世界経済の波に押しつぶされている弱者という単純な構図を提示しているわけではない。そうではなくて、伝統社会も実はもっと主体的な選択をするエージェントとして、強大な力を持った外部社会とうまく(ときには狡猾に)渡り合っているということを明らかにしている。そのなかで社会も文化も変化していく。

 まあ、こういう感じで、政治的スタンスが保守主義であろうと、リベラル左派であろうと、マルクス主義であろうと、異文化を尊重するという態度では一致しているし、おそらく文化復興運動ということに関してはあまり対立はしないと思う。伝統社会や伝統文化に対して理解を示していないのは、むしろリバタリアンなどではないかと思う。アメリカのネオコンや新自由主義者とかなのだが、彼らの問題は伝統文化に対する理解がなさすぎるということだと思う。オレはそこまで知らないが、ただ外部から見ていると、彼らは自分たちの価値観を世界に振りまいているとしか思えない。もちろん、彼らの中には世界の貧富の差を無くそうと考えているやさしい人たちもいるだろう。しかし、それが本当に彼らにとって幸せなことなのかどうかということまでは考えていないように思う。ただ単に便利なものや役に立つものを与えることが文明社会の義務だと勘違いしている。

 ここではあまり深く述べられないが、例えば近代化に懐疑的な意見を述べると、よく聞く反論に、現代医療だったら助かる命が助からずに死んでいく。そういう状況を黙って見過ごすのかということを言ってくる人がいる。そういう人は、世界中すべてが近代化されることが世界の幸福だと信じている。このような現代医療と伝統社会のどちらを選ぶかというジレンマは映画『ヴィレッジ』にうまく表現されているのだが、おそらく彼らの間違いは医療が宗教に勝っていると信じているからだと思う。我々は、現代医療をもってしても、人の死は止められない。人間は必ず死んでいくのだ。その時に、現代医療でも助けられなかったのだからしょうがないと考えて自分を納得させるのと、祖先の住む世界に還っていったと考えるのとでは、どちらが残されたものにとって幸せなのかということになってくる。つまり、ただただ延命させることが幸せなのか、それとも精神的な幸せを感じるのが幸せなのかということだ。なお医療ではなく宗教が人を救う力があるということを表現した映画に『エミリーローズ』というのがあるので、興味のある方はぜひ見てください。

 まあ、そういうことで、伝統文化を守ることはいいことだとは思う。ただ、何度も言っているように、それは我々が外部からみた意見であって、内部の人間の意見ではない。で、実際に南の島とかにいって生活すると、彼らは西洋社会とかに憧れているのがよくわかる。彼らはハリウッド映画を見たり、フィジーやニュージーランドなどに留学したりする。男は船乗りとして世界中を回ってきたりもする。だから、世界の情報や新しいモノが島にどんどん流入してくる。海外の企業も金儲けのためにやってくる。例えば、オーストラリアとかの会社とかが携帯電話のアンテナを建てたりして、まったく必要のない携帯電話を売りさばく。町は端から端まで1時間ぐらいで歩けてしまう距離なのだが、そこで若者たちは携帯電話で話をする。彼らは話すことではなく、携帯電話を使っているということに意味があるようだ。もちろん、それは彼らの選んだ道だから、俺たちには何も言えない。おそらく言う権利はないだろう。

 ただ、一つだけ我々外部の人間にもできることがあるんじゃないかと信じている。それが教育だ。教育といっても、ニュージーランドなどが南の島の人たちを対象に行っているように島のエリートを留学させてあげるというようなことではない。そのような制度は確かに魅力的だが、実は西洋文化の代弁者をエリート層に作り出すことで西洋文化の優位性を再生産するという新しい支配体制を作り出しているに過ぎない。彼らの学ぶことはすべてが西洋的な価値観だから、そのような価値観が社会の上層部に入り込んで、それによって西洋的な価値観が力を帯びてしまうのだ。だから、そのような留学制度というものは、うまく機能しないと思う(もちろん植民地のように支配したいのだったら魅力的な制度だろうが)。

 そうではなくて、もっと現地の人たちが自分たちで教え、学べる環境が必要なのだと思う。前のエントリーで書いたように、実は日本はそのような観点から見ると、いろいろ興味深い苦労を重ねてきた国なのだ。そのような苦労や知恵が日本人は使えるのではないかと思う。アメリカで人類学を勉強していたとき思ったのは、白人は支配される痛みが分かっていないということだ。白人人類学者は差別される異民族に対して同情はできるが共感はできないと思う。日本人は支配される側の痛みと、支配する側の傲慢さの二つを理解できた唯一の民族ではないかと思う。そして、そのような立場でしか見えなかったものがあるんじゃないかと思うのだ。
 
 そのようなものを伝えつつ、西洋かをいかに相対化するかを一緒に考えることが文化復興運動には必要な事ではないかと思う。そして、その前提になるのは、マヤ言語復興運動のように抽象概念などの現地語を導入して、現地の言葉で考え、議論できる場を創出することが必要だろう。さらに人類学者たちは、彼らに伝統文化の素晴らしさや多様な価値観の素晴らしさを教えることなのだと思う。そのうえで、西洋近代化を推し進める事が、その社会にとって得策であると、現地の人たちが考えるのならば、それはそれで一つの道なのだろう。反対に、近代化よりも伝統文化を守るほうを選択するかもしれない。どちらにせよ、重要なことは西洋文化を相対化できる能力を持つことだ。西洋文化を相対化することで、西洋文化と自分たちの伝統文化を公平に比較することができる。そのためにも、現地語による教育制度の充実が必要になってくると思っている。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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