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経済人類学序説3 ポトラッチ

 アメリカ先住民というと、荒野の遠くにそびえ立つ岩のてっぺんに馬にのってこっちを見ている勇者みたいな人を思い浮かべるのではないだろうか。あれは草原インディアンといって、スー族やアパッチ族などが有名なのだが、実はアメリカ先住民というのは彼らだけではない。北米大陸には農耕社会から狩猟採集社会まで様々な社会が存在していた。だいたい5つぐらいの大きな文化圏にわかれていたのだが、オレゴン州北部から、ワシントン州、カナダ、アラスカの南部までの海岸部には北西海岸インディアンと区分される人たちが住んでいた。この地域の中には、非常に多くの部族が乱立していて、文化や言語も異なっていたので一概にこれが北米海岸の社会だということは言えないのだが、産卵のため川を登ってくる鮭に依存し、狩猟採集社会でありながら高度に階層化が進んだ社会という共通点も見られた。

 彼らの文化には二つの有名な文化的特徴がある。一つはトーテムポールだ。シアトルやバンクーバーに行くとトーテムポールが立っているが、あれはこの地域の部族のシンボルマークみたいなもんだからだ。だから北米の他の地域でトーテムポールを見かけたら、「ひぐらしの鳴くころ」の竜宮レナのように「嘘だ!」と叫んでいいと思う。まあ他の地域でトーテムポールを見ることはないとは思うが。。。で、この地域の、もう一つの特徴こそが、今回のテーマであるポトラッチという饗宴だ。ポトラッチの方は一般にはあまり知られていないかもしれないが、人類学では一年生の教科書にも出てくるほど有名な風習だ。20世紀初頭まではホットなトピックだったので、人類学者だけでなく、社会思想家や哲学者なども長い間ポトラッチという風習に注目していた。

 なぜポトラッチがそこまで注目を集めていたかというと、その饗宴が普通の宴会とはまったく異なる原理で行われていたからだ。ここにAとBという集団があったとする。まずAの集団がBの集団を呼んで宴会を催す。Bの集団は料理を腹一杯食べて、ついでにお土産も山ほどもらって帰ってくる。貧乏人の俺なんかは、有難うという感謝の気持ちだけを返して、はい終了!なのだが、普通の人は、それじゃ終わらせられない。お返しをしないといけないからだ。だから、しばらくすると、Bという集団はお返しをするために、Aの集団をよんで宴会を催すのであるが、ここでAの宴会よりも大きな宴会を催すのだ。しばらくして、AはBをよんで、さらに大きな宴会を開き、それよりもさらに大きな宴会をBが開いてAを招待する。結局、宴会の規模はどんどんどんどん大きくなっていき、最終的には、どちらかが破産するまで宴会が続けられていく。まったく大人げない。俺みたいに貧乏人だと、貰うだけでお返ししないから、こういう悲劇は起きないんだけどね。。。人類学の教科書によると、饗宴の応酬がヒートアップしてくると、自分たちの奴隷を殺したり、とても高価な銅製品をすべて川に捨てたり、自分の家に火をつけてすべて焼いてしまったりと、ようするに自分の財産をなげうってしまうらしい。そこで、ポトラッチの「財の蕩尽」に、人間の本質を見ようとした思想家なども出現した。バタイユが一番有名だろう。俺はバタイユは名前しか知らないのだが、蕩尽によって消費することこそが人間の本質であり、それによって意味のない戦いが回避されるとかなんとか言っているようだ。

 さて、このポトラッチだが、なぜ自分の財を使い果たしてしまうのだろうか?実は、その背後には交換行動で生じた「負い目」というものが隠れている。前にも言ったように、我々は何かを受け取ると、お返しをしないといけないという感情を持つ。裏を返せば、お返しができないというのは、とても恥ずべき事態なのだ。そして、そこから、もう一歩発展させると、相手がお返しを出来なければ、恥をかかすことが出来るということにもなる。そういうくだらない見栄を克服しちゃっている俺みたいな貧乏人は、ある意味、無敵なんだけどね。まあ、普通の人は恥を感じちゃう。というか、恥を感じろよ>俺。。。まあ、いいや。。。ということで、要するに、ポトラッチとは擬似戦争みたいなものだ。相手を打ち負かすことが自己目的化してしまっているのだ。だから、すべてをなげうって、名声は得たが、すっからかんになってしまったというような、よかったのか悪かったのか分からない結末を迎えた部族もいたらしい。この破産しちゃった部族の話は、確か祖父江さんというすごく有名な人類学者の「文化人類学入門」という中公新書の本かなんかに、おもしろおかしく紹介されていたと思うんだけど、俺の個人的な感想だと、ちょっと怪しいような気がする。よく知らないけどね。

 あと、もう一つ、付け加えておけば、ポトラッチがこんなに過激になったのは西洋人接触後様々な物資が持ち込まれてからだという研究もあるようだ。本来は、そこまで過激な饗宴は行われてこなかったらしい。さらに19世紀当時の西洋人がどの程度正確にポトラッチを記録出来ていたかという点も怪しいんじゃなかったっけかな。その辺は俺はちゃんと調べてはいないので、詳しくは知らない。ただポトラッチという風習があって、その原理は饗宴の競争だったというのは事実だから、ここで話していることがすべて作り話だったということではない。

 さて、ポトラッチの目的は戦争をしないで、相手をうちまかすこと。つまり恥をかかすことなのだが、この饗宴は結果的に二つのものをもたらしてくれると考えられる。もちろん、それが目的だったわけではなくて、結果的にそうなったというだけだ。何が起きたかというと、一つは集団の成員全員に財が分配されたということだ。もともとポトラッチは政治的リーダーの家族や親族など関係者たちが自分たちの財を預ける形で溜め込まれる。そして饗宴において、集められた富を一気に放出するわけだが、その結果、饗宴に参加している人だけでなく、饗宴に参加できなかった彼らの家族(お土産は彼らに分配される)まで、社会の隅々まで富が分配されていく。つまり富が一ヶ所に集められて、放出されるというシステムになっているのだ。このようなシステムを再分配と呼んでいるのだが、再分配は、人間社会の富の移動の一つの重要な形態だ。なお、現代社会では税金というシステムが再分配として機能している。

 もう一つポトラッチの効用としては、ポトラッチによって富の永久的な蓄積が阻害されているということがあげられる。その結果、集団中の富の格差が生じないようになっている。ただし、最初にいったように、この地域の社会は高度に発達した階層化社会を形成しており、平等社会ではなかった。だから、ポトラッチによって富の蓄積が完全に抑えられていたとは思えない。ただこの社会では富の大きさだけが社会的地位を決めるのではなく、むしろ気前のよさが社会的地位を決定する。だから、ポトラッチの方向性というのは、社会的地位をあげようとする動機と財の蕩尽というものは矛盾してはいないのだ。

 ちなみに北西海岸の考古学では階層化社会の発展を説明するモノとして、野心的なリーダーが富を蓄積していったという「蓄財者理論」と呼ばれるモデルが提唱されているのだが、俺はあれは間違いだと思っている。蓄財者理論を信じている人たちは富をため込むのが人間の本質だと勘違いしているが、富をため込むことはそこまで普遍的な行動ではない。例えば常に移動している狩猟採集社会では、所持品は少ないに越したことはない。そして富をため込むということに価値を置いていない社会では、富をため込むという発想自体起こり得ないだろうし、野心的なリーダーはむしろ気前のよさを強化していくはずである。(ちなみに「蓄財者理論」に対する反論は俺のアイデアなので、論文で引用してくれる人は、連絡ください)

 ポトラッチはこのように政治とも深く関わっているのだが、最後に日本との比較をしてみたい。日本では、キリスト教社会と違って、「寄付」という行為が一般的ではないというようなことが、よく言われる。確かにキリスト教社会では「寄付」というものが一般的だが、日本人は寄付というものを大々的にしたがらない。そこから、日本人はまわりの人を助けようとする精神に欠けるからだというようなことを平気で言う人まで現れているようだが、俺は違う考えを持っている。それは日本人は相手に負い目を感じさせたくないから寄付というものをしたがらないのではないかということだ。つまりポトラッチと表裏の関係にあるのではないかと思うのだ。ポトラッチは相手に必要以上のモノをあげて、返済不可能にし、負い目を感じさせることで恥をかかせた。相手に何かをあげるということは、相手に精神的負担を与えかねない。つまり一方的に何かを施したり助けたりすることは、一種の暴力装置として働いてしまうのだ。それが日本で寄付やボランティアが敬遠される理由ではないだろうか。

 日本では何かをあげるときに、「つまらないものですが」とか「お口汚しにどうぞ」とか言うのであるが、これは謙遜という日本の文化ももちろん関係しているだろうが、モノをあげる時の、そのような暴力装置を回避する目的もあったのではないかと俺は考えている。相手の精神的負担を軽減させるためには、贈り物の価値を低くしてしまうことが一つの戦略になるだろう。それでも、受け取る側の精神的負担を考えると、やはりあげづらいかもしれない。何をあげるにしても、あげるという行為自体が、プレゼントをあげる側を、優位な立場にしてしまうからだ。だから貰った方は少なからず負い目を感じてしまう。プレゼントを貰う人になんとか負い目を感じさせたくないという心遣いに似たものを、プレゼントをあげる方は考えなくてはいけないわけで、そのようなことを考えるとなおさらあげづらくなる。つまりプレゼントを貰うほうだけでなく、あげる方も、いろいろな精神的な負担を感じてしまうことになる。

 プレゼントをあげた上に、さらに精神的負担まで感じたら割にあわない。だからかどうかはわからないが、日本とは逆の方向にマナーが発展していった社会がある。アフリカのサン族(以前はブッシュマンと呼ばれていた)だ。彼らの社会では、何かを貰うと、貰った側の人間が、貰ったものを罵るらしい。こんなつまらないものを貰っても、俺はうれしくもなんともないというようなことを言いながら、プレゼントを受け取るのだそうだ。現地の人の解釈だと、プレゼントをあげる人がいい気にならないように、彼らのくれたものをけなすのだと考えられているようだ。ただ俺は違う解釈をしている。俺の勝手な解釈だが、おそらく、プレゼントをけなすことによって、プレゼントをあげる人が、貰う人の心配をして、精神的負担を感じさせないようにするためじゃないかと思うのだ。つまり日本とは逆のケースである。

 この解釈があっているのかどうかはわからない。ただ、ポトラッチと日本とサン族の風習を見ていると、交換行動で感じる負い目というものは同じでも、その負い目という感情をどのように扱うかという点で、様々な変化を見せ、結果的にさまざまな風習になっていったのではないかということがわかる。さて、今までは、絶えず交流のある集団どうしの交換行動を見てきた。次は、言語も文化も異なる二つの社会の間で行われた、沈黙交易の話をしてみたいと思っている。



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ポトラッチ

ポトラッチ。とても興味深いです。

土地の私有と貨幣がなければ「蓄財者理論」というのは出てこなかったでしょうね。非常に面白いと思います。

コメントありがとうございます

だらだらと書いた文章を読んでくださって本当にありがとうございます。
ええ、そうなんです。僕もポトラッチとかシャーマンとか、そういうのが好きなんです。最近はこういう個別の風習よりも、オリエンタリズムとかポストモダンとか、そういう方に重点が置かれているような気がして、ちょっとだけ寂しいものを感じます。個人的には、こういう異文化の奇習は単純におもしろいというか、そういうのを見ることによって、当たり前と思っていた日本文化をいろいろ考えるきっかけになるような気がします。
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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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