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イルカ漁の映画 日本と西洋がすれ違う理由

最近、捕鯨問題やイルカ漁映画の問題が騒がしくなってきたような気がする。ツイッターで騒いでいる人たちのところを見ているから、世間で大騒ぎしているように見えるだけなのかもしれない。まあ、とりあえず、そういうところを覗いていたら、日本の状況とか何も知らずに、なめたコメントしている外国人を見て血圧高くなったりして、あんまり楽しいってわけでもないのだが、いろいろ考えさせられたこともあった。その一つが、イルカとかクジラなど人間以外の動物に愛を注ぐようになったのは興味深いみたいなコメントだ。

よく考えると捕鯨問題って結構不思議だ。もともと、自然と対立して、自然は人間様のためにあるのだから、俺様の前に跪けー!自然を征服してすべてを奪いつくすのだー!ぐわっはっはっはっていう悪者は、自然を搾取の対象としてしか見ていなかった西洋社会の専売特許のはずだ。日本では、自然との共生というのを第一義に考えてきたと思う。それが、なぜか捕鯨問題では、立場が逆転して、西洋が日本にクジラやイルカを守ってあげろと声を荒げる。その辺り、よく考えると、ちょっと不思議だ。

で、話は前後するが、先に言っておきたいことは、今回、西洋と日本という単純化を行っているが、もちろん、それは極端な単純化であり、ある意味ステレオタイプだ。だから、完全に西洋が自然に対して常に破壊の限りを尽くしているわけではない。例えばヒッピー文化やアーミッシュなどは反文明社会というイデオロギーが強く、自然の中で生きることに価値を置いているだろう。他にもヒッピー文化やニューエイジの流れを汲む環境保護運動家や動物保護運動家なども自然や動物の命を尊重している。逆に日本でも都市生活や文明社会を最良と考え都市開発を推し進める人や、山を切り崩してゴルフ場を造ってしまう拝金主義者などもいる。だから西洋と日本という区分を極端に単純化することは危険である。ただ、物事の本質をあぶりだすために、ここではあえて単純化した議論をしてみたい。

そういうことで、クジラやイルカに対してなぜ西洋人はここまでヒステリックに大騒ぎするのかという問題を考えたい。どこかのブログに興味深いコメントを書いている人がいた。その人が言うには、日本人は捕鯨問題の反論として、アメリカ人も牛や豚を食べているじゃないかということを言っても意味がないという。なぜなら西洋人は野生の動物と家畜を区別しているからなのだそうだ。つまり牛や豚は家畜だから殺して食べてもいいのだが、イルカやクジラは家畜ではないから西洋人は怒っているのだという議論だ。この「家畜」対「野生動物」という対立は興味深いが、今回の件では、おそらく関係がないと思う。例えばアメリカでは鹿猟が盛んだ。ウォルマートに行ったら、必ず猟をする人のためのコーナーがあり、空気銃や様々な装備が売っている。もちろん、本物のライフルなども手続きさえすれば、手に入るだろう。アーケードゲームやテレビゲームなどでも鹿猟のゲームが存在するという事実から、多くの人が猟を、釣りと同じように楽しんでいるのがわかる。鹿はもちろん野生動物だ。猟じゃなくても、釣りだって野生の魚が対象だ。これらの動物が可愛そうだという批判があがらないところを見ると、野生動物を殺してはいけないという感覚はあまり関係がないと思われる。

そもそも家畜と野生動物の対比というのは、西洋社会よりもアニミズム的世界観を持った社会の方が受け入れやすい概念ではないかと思う。アニミズム的世界観では草木や石などにまで神が宿っている。ただ、自然すべてが特別かというとそうではない。多くの社会では村に境界線を引いて、「うち」と「そと」という対立軸を設定し、非人間世界は「そと」であり、村の内部は人間世界だというような区分をする。その結果、村の内部に存在する動物は家畜であり、外のすむ野生動物とは区別されるのだ。もちろん、だから家畜がすべて食べられる存在だという単純な話ではない。ただ、家畜と野生動物というのは、人間世界と非人間世界の区分に対応していたのは確かだろうと思う。

西洋人がイルカやクジラに対してヒステリックに反応するのは、やはりイルカやクジラは「高い知能を持っているから」ということに尽きると思う。そして、それは捕鯨運動が自然と共生していこうという運動とは異なっているのではないかということをうかがわせる。どういうことかというと、西洋人はむしろ動物の一部を我々の側に引き寄せようとしているだけなのではないかと思うのだ。

スペイン人たちが中米や南米に足を踏み入れた大航海時代の頃、教会では大きな論争が巻き起こったという。それは、中米や南米に住む現地人が人間なのかどうかという問題だった。彼らが人間でないなら、殺しても構わないが、もし人間であるならば、キリスト教に改宗させ、文明化させないといけないというようなことだったらしい。宣教師たちは、西洋人ほど知能は高くないが、現地の人たちも人間としての知性を有しているということに気がついたため、文明化・キリスト教化してくれたわけだ。現地の人にとってみたら、ほんと迷惑な話なのだが。

さて、ここで重要だったのは、ある動物が(この場合は中米や南米の人たちだが)、人間の側なのか、それとも自然の側なのかということが問題であって、その基準が「知性」で測られたということだ。裏を返すと、人間の側でなければ、殺しても構わないという論理になる。もちろん、最近では、絶滅危惧種の問題も知られるようになったし、生物多様性が重要なことも認識されるようになったので、知性がなければ殺しつくしてもいいという考えの人はいないだろうが、基本的には動物(自然)か人間かの違いで区別していたことは明らかだし、そのような区分の仕方を未だにしているように思う。たとえば映画「スターシップトゥルーパーズ」のなかでも、バグズという違う星の巨大昆虫が知性があるのかどうかということを議論するシーンがある。これも西洋人が「知性」というものを重視し、世界を人間の側と自然の側に分けているという証ではないだろうか。

ここが、日本人が抱いているイメージと大きくかけ離れている部分だと思う。日本人は、知性のある動物を選んで人間の側に持ってくるのではなく(つまり人間側の領域を広げていって、そこに含まれる生物を増やすのではなく)、人間が自然の一部だという考えを持つ。だから、自然と人間を厳密に区別する必要もない。すべては連続的に変化しているのだ。だからこそ、イルカやクジラを殺してはいけないということになったら、じゃ、他の動物は?という議論に、すぐにいってしまう。知性があるから助けないといけないという人間中心の論理は、そこでは成り立たない。さらに人間も動物も他の生物の命をもらって生きながらえているという感覚を持っているため、感謝の念が強まるし、必要のない殺生はいけないという論理にもなる。猟を楽しむだけのハンターこそ軽蔑するべき行為になるのだ。このような世界観はもちろん日本だけのものではない。アニミズム的世界観が世界中にある。特に自然に恵まれている環境で発達した社会では、このような感覚が強いのではないかと思う。

もちろん、このような違いがわかったところで、捕鯨問題が解決するわけではない。しかも、イルカやクジラといった動物たちに知性を認めることは、もしかしたら必要なことなのかもしれない。中米や南米の先住民に知性があるから殺さなかったというような議論と同じ問題に、もしかしたら直面しているのかもしれない。もしも、そうならば、イルカやクジラを殺していた日本が、将来どのように評価されるのかはわからない。

もちろん、イルカやクジラは人間とは大きく異なる。彼らは知能は高いが、人間のような知能ではないという研究を、どこかの雑誌で読んだことがある。コミュニケーションの仕方から感情などまで根本的に異なるだろう。イルカやクジラは社会を発達させていないが、それは知性の発現の仕方が異なるからではないだろうか。ただし、ハワイのシー・ワールドのイルカは泡をつくって遊ぶという「文化」を作り出し、親から子へと受け継がれているということが90年代に報じられた。「ザ・コーヴ」で、泡で遊んでいるシーンが映し出されていたが、あれはこのイルカたちだろうと思う。そのあたりを考えると、いろいろ難しい判断をしなくてはいけなくなる。人間以外の生物で、まったく思考方法というか、知性の質も異なる生物間で、どのように人間の側に持ってくるのかということは、大きな問題だからだ。そもそも知性という定義も曖昧すぎるだろう。

日本人にしてみたら、動物の一部の種を恣意的に選んできて、この動物は知性が高いから保護するべきだ。こっちは知性はないから殺していい。というような議論は乱暴すぎる。また、今回の映画やシー・シェパードの過激な行動を見見せ付けられたり、シー・シェパードのように平気で嘘を世界中に発信するような態度を見せ付けられると、日本人としては、まったく納得できないだろう。一番の問題は、彼らの言説の裏に、人種差別的匂いが多分に感じられることだ。

西洋社会が本当に日本人に捕鯨問題を考えさせたいのならば、このように世界的な圧力を作り出したり、可愛いイルカを殺すのは可愛そうだというような感情論に訴えるのではなく、「知性とは何か」という問題の本質をつめていくべきだ。イルカやクジラには、人間とは異なるが、こういう意味で知性と呼べるものがあり、それはきわめて高い知性だから、共存していくべきだというのであれば、おそらく納得できると思う。実は文化相対主義は本当に難しいし、ある意味、カニバリズムも極端な相対主義では否定できなくなってしまうのだが、まあ、知性をきっちりと定義して話し合いをしようとしてくる態度を示してきたら、日本人も話を聞けるようになるだろう。そのような状況になって、初めて文化を保持するべきかやめるべきかという議論が日本人の間で出来るようになると思うのだ。もちろん、その判断の主体は日本人であって、そこに国際的な非難といった外部の圧力があってはならないのはいうまでもない。さらに日本人を啓蒙してあげようとか、真実を教えてあげようとか、自分たちの価値観を押し付けるなどというのは、人類学の世界ではありえない行為だし、もちろん自分の目的を果たすために現地の人の意見を無視して盗撮などをするなんて言語道断である。もちろんこのような異文化を表象するという行為はきわめてデリケートで難しい問題であって、それは人類学に限らずすべてのメディアが十分注意を払わないといけないものなのだ。今回の映画はそのような配慮がまったく欠如してしまっていた。それが大きな問題だったと思う。捕鯨団体反対派勢力は、まずは、そのあたりを深く反省して、太地町の人たちに謝罪するべきだろう。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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