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「悪口まつり」と、プチ宗教人類学

 栃木県足利市で大岩昆沙門天(最勝寺)で、年末の大晦日に悪口(あくたい)まつりという奇祭が行われるという。るるぶ.com情報によると、次のように紹介されている。

一年間に蓄積された鬱憤を晴らし、さっぱりとした気分で新年を迎えようというまつり。初詣の人々が、除夜の鐘が鳴り終わるまで悪口を言い合う。新年を迎えると本堂で僧侶が信者の頭上から酒を注ぐ「滝流しの式」が行われる。

るるぶ.com情報



 この奇祭は江戸時代に始まったということなので、宗教的側面というよりも、むしろ祭りとしての側面が強いのかもしれない。しかし除夜の鐘が鳴っている旧年と新年の間の特別な時間に、いつもは言ってはいけないことを言うという、日常の逆転現象が行われているのを見ると、へネップの通過儀礼やビクター・ターナーのリミナリティなど宗教人類学の理論を想起せずにはいられない。

 通過儀礼というのは、人生の節目に行われる儀礼行為であり、クリスマスやお盆のように毎年来る祭りや祝い事とは区別される。例えば成人式とは、20歳になった若者が大人になったことを社会の他の成員が認知・承認する儀礼行為である(今は単なる馬鹿騒ぎの祭りに見えるが)。。。他の通過儀礼の例としては結婚(独身から家庭を持つ状態になる)や葬式(生者から死者になる)などがあげられる。人間は人生を生きていく中でいくつかの段階を経ていく。そしてそれらの段階に移ったことを社会に承認してもらうということが必要になってくる。だからすべての社会で何らかの通過儀礼が見られる。

 フランスの人類学者アルノルト・ファン・ヘネップは通過儀礼を3段階に分けた。それが分離期(分離)、過渡期(移行)、統合期(再統合)である。どういうことかというと、通過儀礼とは定義に従えば、ある段階から次の段階に移行するときの儀礼である。例えば成人式では、通過儀礼が始まる前は「子供」という集団に属していた者が、通過儀礼が終わると、「大人」という集団に属するようになる。それでは通過儀礼の間は、当事者は子供だろうか?それとも大人だろうか?実は、通過儀礼の間はどちらにも属さない存在になるのである。どちらにも属さないということはどういうことか?それは、社会の成員ではない存在であると解釈される。

 つまり通過儀礼とは、当事者を社会から一度分離し、儀礼行為を執り行って(移行)、もう一度社会に統合する。通過儀礼が終わったときには、新しい段階の存在として生まれ変わっているのだ。すなわち通過儀礼とは、儀礼的な死も意味しているし、また通過儀礼の最中は社会に属さない存在として危険な存在という解釈をされることもある。

 象徴人類学などを研究していたヴィクター・ターナーはこの特異な状態(過渡期)に注目し、リミナリティやコミュニタスを提唱した。リミナリティとは境界と訳される。そもそも境界とは特殊な空間である。境界と言っても、アニメ『空の境界』の話をしているわけではない。そうではなくて、世界の分節の仕方と、その境界線の話をしているのだ。

 これは人間が、どのように世界を認知しているかという問題と深くかかわってくる。そもそも世界とは何か?実は連続した世界には厳とした区別など存在しないことが多い。構造主義などによると、われわれ人間は、そのような連続した世界に境界線を引いて世界を分節している。例えば、よく引き合いに出される話が、イヌイット(以前はエスキモーと呼ばれていた人たち)の話だ。彼らは何種類もの雪を区別している。日本人も北国の人なら、さらさら雪とか何とか雪とか雪の種類を区別しているかもしれない。一方、他の地域の人たちから見たら、それらはすべて、ただの雪である。これはどういうことかというと、もともと雪というものに本質的な違いは存在していないということだ。つまり客観的に誰もが納得する違いが雪にあるわけではない。そうではなくて、雪をいくつかに分類し(世界を分節し)、それぞれに名前を付与することによって、連続的で混沌とした世界(この場合は雪というものの集合)に秩序を与え理解可能なものにしているのだ。イヌイットや北国の人達は雪という漠然としたものではなく、細分化した分類が生活に必要だったため、そのように世界を分節した。しかし、雪があまり降らない地域では、そこまで細分化する必要がない。だから、雪という単語だけで十分になる。

 ここで重要なのは、世界が本質的に、もとから分類されているわけではないという点だ。そうではなくて、連続した世界を分節し秩序を与えているのは人間の側であり、そのため、文節の仕方は社会・文化によって恣意的になっている。つまり、どの分節の仕方が正しいということはいえないのだ。さて、今回は文化相対主義の話をしたいわけではないので、社会によって分節の仕方が異なるという話はこの辺でやめておこう。そちらに深追いするのではなくて、世界の分節の仕方には正解はないというところに戻りたい。

 連続した世界に恣意的な境界線を引いて、世界を分節していくとするならば、その境界線というものも世界に本来備わっている本質的な性質のものではなく、境界線を引いている人間側の幻想でしかないということになる。このようなことは、実は昔からすべての社会の人間は気がついていた。だから、ことさら境界というものに注意を払ってきた。例えば村境には同祖神の像が置かれ、村の内と外の境界線を示したりしている。恣意的であるが故に、人間が境界線をきちんと作り出し再確認していく必要があるのだ。

 境界線を設定することで境の内側と外側という区別は容易につく。しかし問題が完全に解消されたわけではない。曖昧な部分が残されている。それが境界線の上である。境界線の上は外側なのか内側なのかがはっきりしない。境界線というものも恣意的だから、どちらかに属すると約束事を決めてしまえば話は簡単なのだが、ほとんどの社会では境界線というものがどちらにも属さない領域であると解釈している。そして、その曖昧さゆえに、この領域は特別な領域だと考えられている。

 例えば「逢魔時」は特別な状態の時間だとされている。それは昼と夜の境だからだ。極めて単純化してしまえば、昼は人間の世界、夜は人間でないものの世界だと考えられるだろう。すなわち昼も夜もなんらかの秩序が存在している。一方、逢魔時はどちらの秩序にも属さない極めて不安定な状態であるが故に危険なのだ。

 他の例としては亀や蛙などの存在が挙げられるだろう。生き物を陸と水中に住む生物に分類したときに問題となってくるのが亀や蛙など、どちらにも属する生き物だ。これらは陸生の生物と水中の生物の境界線上に位置する生き物であり、それゆえに特別な力を持っていると解釈されることが多い。このような、どっちつかずの生物は霊性や魔性が付与され、普通の生き物と区別される。

 象徴人類学者のヴィクター・ターナーはこのような境界をリミナリティと呼んだ。リミナリティとはネットのヤフー辞書では次のように説明されている。

「日常生活の規範から逸脱し、境界状態にある人間の不確定な状況をさす言葉。道化・トリックスター・シャーマン・修行者などの位置・状況をさすのに用いる」



 つまり境界の不安定性から、その状態は神聖視されたり、危険視されたりし、そのような境界という不安定な状態に属する人間たちは道化や漂白民など、どちらの状態にも属さずに、どちらにも属するという両義性から特別な存在として差別され同時に崇められてきた。

 さて、この境界線は、内側の世界とも外側の世界とも関係していない。すなわち、どちらの世界の秩序にも属していない、独特の空間であるというのは今述べたとおりだ。しかし、その境界線というものは、人間が恣意的に設定した線であるため、社会の成員に理解してもらうためには、ことさら、その境界線を強調することが必要だということも述べた。通過儀礼などでも、これは同じことだ。儀礼行為を見ていても、境界線がはっきりと認識できなくては、意味がない。そこで、境界線上では、既存の秩序(日常またはケ)をことさらに否定するということが行われる。逆転現象だ。

 例えば、日常生活において社会の内部には様々な決まりごとがあるし、はっきりとした上下関係が存在している。それらの否定とはすなわち無秩序な状態や極めて平等な人間関係ということになるはずだ。そのような日常を否定し非日常(ハレ)を演出するために作り出された平等な人間関係の状態を、ヴィクター・ターナーはコミュニタスと呼んだ。コミュニタスの定義はもっと複雑だが、基本はこのような通過儀礼における平等な状態を指していたと思われる。

 ここまでをまとめると、通過儀礼というものは、ある状態から次の状態に移るための儀礼行為であり、その儀礼には3つの段階が存在する。前の状態から分離される段階、移行する段階、そして次の状態に再統合される段階である。通過儀礼全般が、二つの状態の境界線にあたるわけだが、詳細に見ていくと、分離される段階とは前の状態の死を意味し、再統合の段階とは次の状態に生まれ変わることを意味している。その二つの段階の境界(移行段階)こそが、通過儀礼のキモであり、もっとも不安定な状態を意味している。なぜなら、前の状態にも次の状態にも属していない段階だからだ。それは既存の秩序が否定され、聖と魔の両義的な状態であるとも言える。

 さて、それでは、栃木県の悪口まつりの話に戻りたい。悪口まつりが行われるのは、大晦日の晩である。まさしく旧年と新年の境界線上の特別な時間だ。その時に、日常の生活では、口にしてはいけない、悪口が叫ばれる。日常の秩序(ケ)を否定することによって、境界線を強調し、非日常(ハレ)を演出している。これによって、古い年が死に、新しい年に生まれ変わることができる。江戸自体に始まった儀礼なので、もっと世俗的なものであるのかもしれないが、それでもリミナリティなどの概念で解釈することもあながち間違いではないと思う。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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