スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

朝生の堀江貴文氏の発言を考える(前編)

 先週の金曜日の深夜に放映された「朝まで生テレビ」における堀江貴文氏の発言が物議を醸しているようだ。私も金曜日の夜中眠い目をこすりながら最後まで見ていたのだが、「激論!日本は本当にダメな国なのか」と題して、日本の将来についてジャーナリストや政治家、経済学者など多彩なメンバーが討論していた。番組の前半は日本経済の再生などについて話していたのだが、後半で急に国旗国歌の話が始まって結構面白くなってきたなと感じたのを覚えている。国旗国歌には問題があり、それを強制する日本の状況は変だという田原総一朗氏の問題提起から始まって、防衛の話に論点がシフトしていったのだが、そのなかで、堀江氏が彼独特の国家観や防衛論を唱え、それが常識と大きくかけ離れていたために議論が紛糾したのだ。

 堀江氏の発言内容の詳細は、すでにネット上にアップされているし、動画もアップされているので、詳しくはそちらを参照してほしい。



とりあえず堀江氏がどんなことを言っていたかというと、例えば次のようなことを言っていたと思う。

  • 北朝鮮や中国が日本を攻めてくる理由もないしメリットもない。だから攻めてくるはずがない。つまりこれらの国が危険だと想定するのはナンセンスだ。

  • もし仮に攻めてきたとしても、国際世論が黙っている訳がない。日本が軍事的行動に出なくても国連軍が助けにきてくれるはずだ。

  • 尖閣諸島など必要ない。欲しいならあげちゃえばいい。そもそも中国が攻めて来たら、戦わずに明け渡せちゃえばいいのだ。もしどうしても必要というならばお金を出して買い戻せばいいだけの話だ。中国はお金さえ出せばどうとでもなるはずだ。

  • 中国が沖縄を占領するなんてあり得ない。なぜなら沖縄の人民を押さえ込むことにコストがかかるし、国際世論の非難を浴びたら中国は経済的に孤立してしまう。そのようなコストとリスクをおかしてまで沖縄を占領する理由がない。中国だって沖縄なんていらないというはずだ。

  • 国家対国家の戦いは古い。今はゲリラ戦(テロも含む?)が主流だ。だからもし仮に中国が攻めてきても、ベトナム戦争でアメリカが破れたように、日本人も中国軍に勝てるだろう。いざとなったら愛する人を守るために国民が立ち上がればいいのであって、国を守るということを強制するのはナンセンスだ。そんな強制をしなくても、戦うときにはちゃんと戦う。

 と、まあ、こういう感じのことを言っていた。ちなみにここに書いてあることは、私の記憶をたどって書いているので、正確な情報は冒頭に紹介した動画などでチェックしてください。ただ大筋では間違っていないと思う。

 さて、堀江氏の発言に関してはツイッターやブログなどで反論が書かれている。それに対して、堀江氏は彼のブログにおいて再度反論を試みている。朝まで生テレビの討論についての補足

 またジャーナリストの上杉隆氏の動画サイトに出演して自分の考えの正当性を主張している。


 堀江氏の反論を聞いていると、彼の言い分もわからなくはない部分もあることがわかる。ただし私は堀江氏の国家観に賛同しているわけではない。私が堀江氏の主張で理解できる部分は、彼の国家観ではなくて、彼の思考法に関してだ。堀江氏は反論のなかで常識にとらわれない議論をしたかったと述べていた。この考えはとても重要であり、それを否定するべきではないと思うのだ。

 常識にとらわれない議論というのは現代思想や人類学ではとても重要なことであり、それをないがしろにはできない。だから、私も常日頃から、なるべく自分の価値観を相対化し、常識にとらわれないように考えを深めたいと考えている。つまり堀江氏の議論を非常識や非現実的と頭ごなしに否定することはたやすい。しかし、それは常識でもって堀江氏の意見を否定しているにすぎないのではないかと思ったのだ。堀江氏のヒステリックな反論を見ていると、どこか私がポスト資本主義の話をするときに似ているような気がしてならなかった。

 私は国家論や防衛論では常識的な考えを持っているのに対し、経済の話では後で述べるように、わりとラディカルなことを考えている。市場経済や資本主義経済というもの自体を改変したいと願っている。しかし、そのような議論はあまり一般受けしない。資本主義や市場経済を否定する私の考えは、他の人たちにとっては非現実的で非生産的な議論に映るらしい。もちろん、それがなぜ非現実的な議論なのかは理解できる。しかし、私としては、非現実的だからといって議論を止めてしまうことが問題だと思っている。なぜなら、そういう非現実的な議論こそが、経済問題の議論の本質であり重要であると考えているのだ。

 堀江氏も同じようなことを感じたのではないか。彼はあえて非現実的な状況を問題提起したのではないだろうか。それを現実的でないと否定することは容易いが、常識の範疇でしか議論できない狭い視野では理解できないこともあるのではないか。堀江氏はそういう大きな視点で議論しようとしていたのではないのか。そう感じたのだ。だからこそ東浩紀氏も堀江氏の擁護にまわったのではないだろうか。そのような多様な視点で議論することは重要だし、それ自体を頭ごなしに否定するべきではないと思う。

 しかし、私はそれでも堀江氏に対して反論したい。それはなぜかというと、多様な価値観を重視するのはいいことだが、それと同時に単一の価値観すなわち大きな物語と呼ばれているような価値観の共有も共同体内では重要ではないかと思うからだ。

 そういうことで、今回は多様な価値観がいかに大事なのか、そしてそのような多様な価値観を押さえてでも単一の価値観を共有することが必要なときとは、どういう時なのかということを考えてみたい。そのようなことを考えることによって、堀江氏の意見が間違っているということを再確認できるのではないかと思う。

 それでは、まず、なぜ私が堀江氏の発言に対して反対すること躊躇したのかという点をもう少し詳しく説明してみたい。このブログでもしばしば言及しているように、私は人類学者として文化相対主義を重視している。文化に限らず、様々な点で多様な価値観を尊重する相対主義という考えは重要だと考えている。相対主義の一番の敵は何かというと、「常識」だ。つまり多くの人たちが当たり前だと思ってしまう事柄、それ以上には深く考えずに思考停止してしまっている事柄が常識と呼ばれるものだ。

 このような「常識」は日常生活を営む上ではほとんど問題にならないし、意識にのぼることもほとんどないだろう。そのような「常識」が意識されるのは、その「常識」が通用しない状況に直面したときである。例えば外国で生活をしたり、外国の人たちと交流したときなどがそれにあたる。そのとき初めて、自分の「常識」が相手の「常識」ではないということを知る。そして、自分たちが当たり前だと思っていた「常識」が実は当たり前でもなければ、物事の本質でもないということを知る。

 相対主義を理解するということは、自分の「常識」が絶対正しいというわけではないということを理解するということだ。つまり自分の価値観だけがすべてではないということを知ることなのだ。それを理解することによって初めて他人の価値観を尊重することができるし、お互い尊重し合うことができるのだ。付言しておくと、そのような相対化は自分の価値観を否定することではない。左翼系知識人に多いのだが、相対化→外国の人と仲良くすること→日本文化を否定して彼らの文化を批判なく受け入れることだと信じている、おめでたい人たちがいるが、相対化は自分の価値観を取り去って他者の価値観をまるまる受け入れてしまうことではないのだ。そうではなくて、自分の価値観をしっかり持った上で、それが絶対的な価値観ではない、自分の価値観は絶対正しいというわけではないという謙虚な気持ちを持つことに他ならない。だから西洋文化や中国・韓国などの文化を称揚し日本文化をないがしろにしている進歩的知識人たちは多様な価値観を尊重などできていないのだ。むしろ外国の価値観を絶対視している点で、日本が一番優れているとがなり立ててる街宣右翼と同じレベルだと言わねばならない。まあ街宣右翼は右翼じゃないが。。。

 さて、「常識」の話に戻ろう。常識とは社会や文化に固有のものであり、しばしば伝統文化と混同しがちだ。しかし実際には伝統文化と完全に同一視されるべきものではない常識もある。例えば資本主義経済や市場経済が始まった近代以降に作り出された常識である。つまりその時代のその社会の成員が当たり前だと考えて疑わない価値観はすべて常識の範疇になる。だから常識が常に個々の社会特有の何かである必要なないのだ。

 文化や歴史が異なる二つの社会においても社会構造が似通っている場合は、同じような常識がまかり通ることがある。マルクスは経済活動(生産活動と交換行動を含む広義の経済活動)などの下部構造が、精神文化などの上部構造を規定すると考えた。社会や文化はそこまで単純ではないのだが、それでも資本主義をベースにした近代社会はどの国でも同じような価値観を共有していることも事実だと思う。アメリカでも日本でも韓国でも歴史や基層文化は異なるが、生きる目的や人生の成功モデルなど精神面から生活スタイルや流行まで多くの価値観を共有している。お金を稼ぐことが社会人として当然だとか、働く女性は輝いているとか、公式な場ではスーツを着るべきだなど、様々な考えが先進国や新興国で共有されているだろう。

 このような資本主義の市場経済システムを下部構造としている社会では、それに規定された上部構造の価値観は、歴史や文化に基づく基層文化よりも、より普遍的な価値観だと思われがちだ。なぜなら他の社会との比較が困難だからだ。例えば日本文化の特異性を知るには他の国に行けばいい。西洋文化に接すれば日本特有の文化や考え方が見えてくる。一方、資本主義社会に特有の価値観というものは、資本主義以外の経済システムを採用している社会に行かないと見えてこない。しかし現代社会において資本主義や貨幣経済とまったく異なる経済システムを採用している社会は少ない。だから資本主義や市場経済がない社会というものを想像することも、そのような社会では何に価値をおいているかを知ることも極めて困難になってくる。そして、そのような比較対象がないと、我々の価値観を相対化することも困難になる。もっと言えば、文化や歴史が異なっているのに同じ価値観を持っていることをしると、それがあたかも人間社会に普遍的に見られる価値観だと考えてしまうだろう。資本主義の市場経済システムによって作り出される常識を疑うことは、だから文化や社会に根ざした常識を疑うよりも困難なのだ。

 このような資本主義の市場経済や貨幣経済と関わりのない社会の状況を知るには人類学の知見に頼るしかない。考古学や文化人類学は時間的・空間的に見られる多様な社会を研究している。その比較によって我々が当たり前だと思っていることのほとんどが実は当たり前ではないということを知ることができるのだ。それは自分の価値観を相対化する第一歩となる。これが人類学が、経済学や政治学、社会学など他の社会科学などと大きく異なる点だ。

 文化人類学の中に経済人類学という分野がある。経済人類学にはいくつかの流派があるのだが、その中の一つは人間行動の本質を交換行動と位置づけている(経済人類学に関しては以前このブログに書いているので興味のある方は経済人類学序説1 経済人類学序説2 クラ交易 経済人類学序説3 ポトラッチなどを読んでみてください)。しかし、交換行動が市場経済というわけではない。市場経済は現代社会においては重要な位置を占めているが、近代以前では市場経済はここまで重視されてこなかった。むしろ交換や再分配といった行為がより本質的な交換行動だというのだ。つまりこういうことだ。他の社会から孤立して、交換行動をしていない社会というものは存在しない。交換によって他の集団と交流することは人間社会の本質である。しかし、市場経済は人間社会の本質ではない。市場経済がない社会というものは今まで数多くあった。だから市場経済がなくても人間社会は存在できるのだ。それではなぜ交換行動をするのか。それは他の集団と交流するためだ。決して金を稼いだりすることが人間社会の本質ではないのだ。そうならば、人生の目的もかわってくるだろう。金持ちになることや、高価なものを持つことが、人生の目的と思っている人がいるかもしれないが、それは現代社会でしか通用しないことがらだ。むしろ人間関係を円滑にしていくことこそが、人間社会の本質的な行動であると言える。

 このような観点から議論すると、現代の社会問題は資本主義に問題があるという結論に達するだろう。経済学者や社会学者そして一部の人類学者などは発展途上国の生活水準を高めるのに経済の発展モデルを提示している。どのように現地の経済を発展させたらいいのか、どのように公平な貿易をしたらいいのかと行った事柄を考えている。つまり資本主義というシステムは変更せずに、そのシステムの上でいかにうまく立ち回るかということを研究しているのだ。それは確かに現実的な対処の仕方だろう。そして、それによって多くの人が助かるかもしれない。

 しかし、見方を変えれば、そのような療法は、病気を治さずに、表面的な治療を行っているようなものに見える。現代の問題の核心は資本主義の市場経済システムだ。そしてそれはすべての価値を貨幣に換算してしまう市場に問題があると考えられる。それが拝金主義を生み出し、文化や道徳というものを飲み込んでいってしまっている。市場経済が発達していない社会においては、交換行動はもっと宗教的で政治的な行為であった。つまり人間関係を円滑にするために行われていたのだ。富を蓄積することは悪と考えられていたし、ヤップの石貨のように貨幣はある目的のためにしか使用できないため、それを所有することが富の一極集中を生み出すことにはつながらなかった。このような様々な状況を見てくると、資本主義に固執する必要もないし、資本主義が優れていると考える必然性もなくなってくる。もっと優れた経済システムを世界各地の社会は独自に築きあげてきたのだし、これからも資本主義貨幣経済などとは異なる経済システムを作り出せる可能性は十分にある。市場経済が肥大しそれによって拝金主義が蔓延する。そのようなニヒリズムの世界よりも、もっと人間社会に本質的なものを大事にする社会が可能なのだ。それは、富の蓄積ではなく、万人が物質的に富めるといった安っぽい社会ではない。そうではなくて、もっと精神的に富める社会。すなわち人間同士の関係性を強化していくような交換行動を基本とした経済システムこそが求められているのだ。

 と、このような議論ができる。そして、そのような議論こそ、するべきだと思う。常識にとらわれて、資本主義の市場経済システムが当たり前だとして、それ以上は思考停止してしまうと、その先のアイデアが生まれない。資本主義の市場経済システムという前提に問題があったならば、それを疑わずに議論していても、根本的な解決にはならない。だからこそ、すべての常識を疑ってかかることが必要だし、そのためには自分の価値観を相対化していくべきなのだ。これが私の意見である。

 さて、それでは堀江氏の考えも同じように尊重するべきなのだろうか。当たり前だと考えられている国家観や国旗国歌に関して堀江氏の意見は相対化できているのか。それとも、国家観などは相対化するべきではないのか。その辺りを次回見ていきたいと思う。

続きは↓
「常識と本質 朝生の堀江貴文氏の発言を考える(中編)」



応援よろしくおねがいします
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

スポンサードリンク
最新記事
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
プロフィール

kemmaarch

Author:kemmaarch
右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

本や映画の感想はアマゾン・レビューにも書いています。ぜひ遊びに来てください。
アマゾン・レビュー
はてなブックマーク

ツイッター(Kemmaarch)
検索フォーム
ブログ・ランキング
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
フリーエリア
リンク
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
スポンサードリンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。