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「常識と本質」 朝生の堀江貴文氏の発言を考える(中編)

 さて今日は堀江貴文氏の朝生における発言の問題点を考えてみたい。(ちなみに前回の話は→朝生の堀江貴文氏の発言を考える(前編)

 前回、長々と書いたように、堀江氏が常識というものに疑問を呈し、常識を超えた「地平」で議論しようとする態度は尊重するべきだというのが、私の基本的なスタンスだ。つまり、「国旗国歌は重要だ。国家は人間社会の基本だ」という、現代人が漠然と当然の事だとして、それ以上深く考えない事柄について、その根本的なところから議論していこうという姿勢は評価すべきだ。

(なお、今回、堀江氏への反論を書けると思っていたのだが、今日文章をアップする時になって計画を変更した。今回もあまり堀江氏への直接的な反論にはなっていない。きちんとした反論は次回に書きたいと思う。今回は多様な視点で議論するということに関して考えてみたい。多角的に議論するためには常識に縛られていてはいけないが、物事の本質を否定してもいけない。しかし実際には常識で議論していたり、常識も本質も両方とも否定してしまっている場合が見られる。そこで、前回の経済の話をもう少し詳しく説明することによって、常識を疑うことは必要でも、物事の本質を否定してはいけないということはどういうことなのかということを今回は述べてみたいと思う。)

 例えば昨日書いたように資本主義の問題点を議論する際、資本主義や市場経済における自由競争が当然であるという前提にたって議論しているうちは根本的な解決策を見つけ出すことはできない。もっと高い視点から、つまり資本主義をベースにした市場経済システムという枠を超えて、そのような常識の外側から、資本主義という経済システムが絶対ではないという前提に立つことで初めて市場経済システムそのものを議論の俎上にのせることができるのだし、そのような議論なくしては、問題の核心に迫ることはできないだろう。

 同様に政治を語る上でも、民主主義を前提としてしまっては議論は片手落ちになってしまう。イラク戦争が始まった頃アメリカやイギリスが唱えたのは中東での民主化という大義名分だった。イラク戦争に反対の立場をとる左翼系の人たちもブッシュ批判はしたが、アメリカが押し進める民主化という大義名分に意義を唱えた人は、ほとんどいなかったように思う。イラクに限らず、民主化という大義は今でもいたるところで聞かれる。ここ連日のエジプト情勢の報道でも民主化を素晴らしいことだとする論調ばかりだ。そこには右翼と左翼の対立は見られない。右も左も民主主義というものをほとんど無条件に絶対的なものとしてとらえ、それを前提に議論しているように思う。まるで民主化を行うことが人類社会の最終目標のような感じである。

 しかし、民主化が本当にいいことなのかどうかということは、実はよくわかっていない。例えば国家よりも部族や地域共同体に対する帰属意識の方が強い地域で、そしてそのような部族が乱立している場合、国家という帰属意識を強化することなく、民主化だけによって国家が平和的に統合されていくとは思えない。むしろ、そのような地域では部族同士の緩い関係を維持していくほうがいいように思う。もしも近代国家として統合したいのであれば、民主化よりも、強大な力で抑え込む体制の方が安定した政治体制になっているかもしれないし、仮想敵を作ったり外圧を強調して危機感をつのらせ団結力を高めるのもいいかもしれない。いずれにせよ、民主化を絶対視しないほうがいいような気がする。フランス革命後数十年の社会的混乱を見れば明らかなように、民主化とは、ある意味単なるエゴのぶつかり合いになってしまう危険性があるからだ。だからこそ、民主化とは同時に「個」ではなく「公」という観念を絶えず再確認していかなくてはいけないのだ。

 ちょっと話がずれてきたので、「常識」の話に戻ろう。つまり、このようなことを考えると、堀江氏の意見もあながち間違いとは言えない。実際のところ、常識を疑い、もっと高い視点に立って、自分の価値観を相対化したうえで議論するということが大事だからこそ、堀江氏はあのような発言を連発したのだというようなことを言っている。そのような姿勢はまったく問題はない。

 日本の国旗国歌は単なるシンボルとして機能すればいいのだから、別に日の丸と君が代である必要はない。他の旗でもいいし、ほかの歌でもいい。国旗国歌が本当に必要かどうかということを議論してもいいだろう。国家というもの自体が想像の産物なのだという議論がある。近代以降、人工的に造られた国民国家は想像の産物であり、本質的な存在ではないという。ここからサヨク系の人たちは想像の共同体など人間社会が本来持っている本質的な存在ではないのだから無くてもかまわないと言ったりする。世界同時革命を夢想する共産主義者たちは民衆を抑圧し搾取する国家というものを否定するのだから、国民国家は幻想だという理論を援用して国民国家など無くてもいいのだという暴論に行き着くわけだ。

 確かに、数百年先、国家が消滅している可能性は否定できない。それに代わる何か別の政治システムによって社会が統合されている可能性は十分ある。それが地球規模の帝国のような大規模共同体なのか、それとも昔のような小規模な地域共同体なのか、地域や空間からは解放され、人種や民族、社会階層、趣味などの共通点を持つ人間たちがコンピューターネットワークで精神的に繋がっている共同体なのか、どういう集団が政治システムの基本になっているのかはわからない。ただ、そのような現在とはまったく異なる政治組織をベースにした社会に住む未来人が今の社会を歴史の授業で学んだとしたら、なぜこの時代の人間達は人工的に造られた国家という不思議な共同体に生まれたときに属することを運命づけられ、恣意的に引いた境界線で領土を決め、パスポートなどという不都合なもので国家間の行き来を制限していたのか不思議に思うかもしれない。領土を侵犯したといった、ある意味「小さな」ことで戦争をしていることが馬鹿げた行為に映るかもしれない。そのような高い視点から見れば堀江氏の意見も理解できるかもしれない。

 そもそも領土をとられたからといってもどうということはないのは確かだ。少なくともそのことで損害を被るごく一部の人間たちを除けば、大多数の人たちにとってはどうでもいいことだ。しかもお金さえあれば、そのような土地は買いもどせる可能性もあるわけで、要はお金を持っていればいいだけの話である。自分とは関係のない土地を守るために殺しあう必要なんてまったくない。むしろ相手国と協力しあって開発していくほうが賢明な選択肢だろう。経済的に繋がっているのだから、戦争などせずに、自由にお金を稼ぐことだけを、どちらの国も考えていればいいのだ。お金を稼ぐことが社会を豊かにし、お金が社会に回れば、貧困はなくなる。その結果、社会全体が裕福になる。世界中が裕福になったら戦争などで死のうなどと思わなくなる。そうしたら戦争もなくなるだろう。つまり、われわれがすべきことは国家などという小さな枠で、いがみ合うことではなく、地球全体の経済を発展させていくことなのだ。それが社会に貢献するということだ。このようなリバタリアン的、もしくは新自由主義的な考えに賛同する人も多いだろうと思う。

 しかし本当にそうだろうか?私はそうは思わない。堀江氏の問題点は多様な価値観や非現実的な状況を議論に持ち込んだことではない(まあ実際には堀江氏の考えはリバタリアン的な「常識」であって多様な価値観を提示しているわけではないが)。そうではなくて、堀江氏は問題の本質を無視した議論をしたことに問題があるのだ。物事の本質は常識というもので覆い隠されてしまうことがある。だから、常識という価値観だけで議論をするのは危険だ。常識を疑うことが必要になってくる。しかし堀江氏のように、常識だけでなく、物事の本質まで否定してしまっては議論にならないのだ。

 例えば、前回の資本主義の例で言えば、私がなぜ資本主義の議論をするのに資本主義を否定するべきだと考えるかというと、人間活動の本質的な部分には資本主義や市場経済は関わっていないからだ。人間活動の本質とは、資本主義や市場経済ではなく、もっと純粋で素朴な交換行動にある。なぜなら資本主義や市場経済がない社会というものは存在するが、交換という行動をまったくせずに一人で黙々と生きている人間という存在はあり得ないからだ。人間は多かれ少なかれ他者と交流し生きていかざるをえない。そして他者との円滑な交流を維持するためには、交換というものをせざるを得ない。

 経済学では交換行動の原初的形態は物々交換であり、物々交換はお互いが必要なものを交換することでお互いにウィン=ウィンの関係になることだという素朴な「物々交換」観を唱えている。しかし経済人類学の研究によれば、物々交換は常にお互いが何かを欲するためにしているのではなく、むしろ相手との関係を強化するためにしているということがわかってきた。

 例えば日常会話を考えてみるとわかりやすい。一番単純な交換行動は会話だろう。会話によって、自分が欲しい情報と相手が欲しい情報を交換していると考えることができる。つまり言葉の物々交換である。ところで会話の中には重要な情報が含まれていないものがある。挨拶だ。「おはよう」と言えば、相手も「おはよう」とかえしてくれることを私たちは知っている。それを毎日しているわけだが、よく考えると、おはようという言葉の中には何も重要な情報は含まれていない。いくらひっくり返してみても、その言葉の中には価値のある情報なんてないのだ。しかし挨拶をまったくしないという社会は存在しないと思われる。重要な情報のやり取りはなくても、人間は挨拶をせずにはいられないのだ。それだけ挨拶は重要な行為なのだということがわかる。

 挨拶には確かに有益な情報は含まれていないのだが、実際には相手との関係を強化するという大事な役目が備わっている。挨拶をすることで、相手との関係が円滑になる。挨拶の役割はそれ以上でもそれ以下でもない。あなたは私の敵ではないですよ。あなたは赤の他人ではないですよ。ということを再確認するために挨拶はあるのだ。それは情報を交換することよりも大切なことだ。このような人間関係の強化こそが挨拶の役目なのだ。

 同じことが、他の交換行動にも見られる。例えば知り合いと酒を飲みに行ったとしよう。相手に酒をついであげれば、お返しに相手は同じビールの瓶をとって、今度は酒を注いでくれるだろう。酒を注ぎあうという行為は有益なものを交換するという観点では完全に無駄な行為としか映らない。自分のビールを相手に注いであげて、相手のビール(しばしば、まったく同じビールであることが多い)を注いでもらうのだから、何も交換していないことに等しい。飲みたい分だけを自分で注いでしまう方がよっぽど効率的だ。しかし自分にビールを注いでしまってはいけないのだ。なぜなら、ビールを注ぐという行為は相手のビールを飲みたいからではなくて、相手との関係を強化するためにビールを注いでいるからだ。そのビールが美味しいとかまずいとかは関係がない。ビールではなくてジュースだっていい。交換した「モノ」ではなく、交換したという「行為」が大事なのだ。ここにも交換行動の本質が見て取れる。それは他のモノを交換するときでも同じだ。年賀状やお歳暮お中元、誕生日プレゼントなど、世の中は贈り物であふれている。贈り物を贈り、その返礼を受け取る。そのようなことで人間同士、または集団同士の関係が強化されていく。

 この交換というメカニズムの背後には実はお返しをしなくてはいけないという負い目が隠されていると「贈与論」でマルセル・モースという人が言っている。この負い目というものは、ほとんど普遍的な価値観だ。おそらく負い目を感じない人間社会というものは存在していない。市場経済や資本主義がない社会は存在できるから、それがなくても人間社会は機能するが、交換行動をいっさいせずに他者から完全に孤立した人間というものは、存在しない。だから、経済の議論をするためには、市場経済や資本主義を否定して、資本主義や市場経済が当たり前だという常識から自由になることは可能でも、交換行動を否定することはできないのだ。むしろ、そのような視点に立つことによって、初めて市場経済や貨幣経済の弊害、つまり本来の交換行動では強化されるはずの人間関係が壊されているということを知ることができる。貨幣という特異な存在によってすべての価値観が一元化されることで、拝金主義を助長され、モラルの低下を招くといったことがわかってくるのだ。

 ここで重要なことは何か?それは常識を疑うと同時に、物事の本質を否定してはいけないということだ。経済の話では、資本主義や市場経済が当たり前の世界に生きている我々にとっては、資本主義や市場経済が常識であり、それを否定した議論など意味がないと思いがちだ。しかし、実際には、資本主義や市場経済システムなどなくても、人間は生きていけるのだから、それを否定することこそが、現代の常識を乗り越えた有益な議論ができるということになる。それでは、否定してはいけない経済の本質とは、一体何なのか?返礼をしなくてはいけないと感じる「負い目」という感情であり、人間関係を強化するための交換行動である。それらを否定することは、人間であることを否定することに他ならない。だから、経済の本質である交換行動を否定した議論は意味のないことなのだ。常識にとらわれず多様な視点で議論すべきだが、本質を無視した議論はするべきではないというのは、そういうことである。そのような観点から見ると堀江氏の意見には共同体が持っている本質を否定しているように見える。そこが問題なのだ。

 さて、そういうことで、こっから今度こそ本題に入ろうと思ったのだが、書いていたら疲れたので今回の文章はここで止めておきたい。実際にはある程度文章は書けているのだが、まだ最後まで書き終わっていないことと、話がぐじゃぐじゃで自分でも何がいいたいのかわかっていないこと、それにあまり長い文章をアップしても読んでもらえないだろうということを考えて、当初は「前編」「後編」にするつもりだったのだが、ここまで書いてきて旧に計画を変更しようと思いついた。なので「前編」「中編」「後編」にしたい。そういうことで、堀江氏への反論を期待して読んでくださった方が、もし仮にいたとしたら申し訳ありません。次回こそ本題に入るので、もう少し待ってください。はやく自分の考えをまとめて、続きはなるべく早く書きたいと思っていますのでよろしくお願いします。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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