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2ちゃんねる考

最近はあまり利用していないが、数年前まで2ちゃんねるを結構利用していた。朝日新聞の文句を書くために2ちゃんねるを覗いていたので、専らマスコミ板を利用していたのだが、他の板もたまに訪れたりしていた。

2ちゃんねると聞くと、おそらくネガティブなイメージを抱く人が多いと思う。マスコミがことあるごとに2ちゃんねるを叩くので、ウィニーと並んで、犯罪の温床のような印象を持っている人もいるかもしれない。犯行予告の書き込みをする場所か、差別的言動を交えた便所の落書き程度の低レベルな書き込みをする場所程度に思っている人も多いだろう。確かに誹謗中傷などくだらない書き込みも散見されるのだが、それでもニコニコ動画とともに日本のサブカルを牽引してきたし、これからもネット文化の中心的役割を担っていくと思う。

2ちゃんねるの一番の特徴はやはりその匿名性にあると思う。『アーキテクチャの生態系』のなかで濱野智史氏は2ちゃんねるの特徴として二つのことをあげているが、そのひとつは匿名性によって可能となるコピペ文化である。濱野氏は次のように言っている。



またこうした「総コピペ主義」の背景には、匿名掲示板という性質も大きく関係しているものと思われます。なぜなら、2ちゃんねるでは、そもそも「誰が」そのAAやテンプレを製作したのかを、認識することができないからです。ですからそこには「著作者」という概念そのものが機能しえない。逆にそのことが、自由な著作物のコピペによる伝播と流通を促しているとも言えるわけです。



濱野氏はこの匿名性に「都市空間」を見出しているわけだが、2ちゃんねるには、2ちゃん用語などをつかって仲間意識を喚起する「内輪空間」という感覚も同時に存在している。内輪空間で重要になってくるのが「祭り」的な集合的協同現象であり、ネタ的コミュニケーションというものだ。なおネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションの基本である情報の交換ではなく、他者との繋がりを維持するためにコミュニケーションをとっていくという現象だ。つまりコミュニケーションの内容が重要なのではなく、コミュニケーションをするという行為が重要にになっているようなものを指している。だから、このようなコミュニケーションでは、内容ではなく2ちゃんねる用語を使って仲間意識が喚起され「内輪空間」が生じていればいいのである。

すなわち、2ちゃんねる語をウェブ上で用いることで、互いが誰であるのかを問うことなく、「みんな同じ」であることを巧妙に先取りしてしまうコミュニケーション。2ちゃんねる語によって「”アイロニカル共同体”のメンバーだ」というシグナルが送られると、互いに平等な匿名メンバーとして「お約束の中」で振る舞えるようになるーこうした言葉遣いのもっとも表層的なレベルでの共通性を軸に、2ちゃんねらーたちは「内輪」の境界設定を行ってきたわけです。



濱野氏は、ここからさらに踏み込んで、この2ちゃんねるの状況と近代国家としての「想像の共同体」を重ね合わせる。

2ちゃんねるという空間は、ある種不思議な「二面性」をかかえているということができます。一方で2ちゃんねるは、互いの顔を見ることができない匿名的な「都市空間」である。しかしその一方で、それは「2ちゃんねらー」という名の一つのキャラたちが集まった、巨大な「内輪空間」でもあるということです。(中略)こうした二面的な特徴は、かなり議論が飛躍してしまいますが、政治学者・ベネディクト・アンダーソンが論じる「想像の共同体」としてのナショナリズムの働きに比較的近いのではないかと筆者は考えています。つまり、顔も見たことのない「国民」と呼ばれる市民同士が、新聞(出版資本主義)というマスメディアを通じて、互いにどこか仲間意識や家族のようだと感じてしまうことの不思議に、2ちゃんねるのメカニズムは近しいように思われるのです



なかなか興味深い見解である。ただ、2ちゃんねるという空間は常にネタ的コミュニケーションだけをしているのかというと、そうではないような気がする。もちろんテーマによってはネタ的コミュニケーションが目立つ板もある。例えば、マスコミ板などは、ネタ的コミュニケーションに似たスレッドが立つことがあるし、反応がわかっているようなスレッドを立てて、お約束の展開を楽しむということが確かに行われている。しかし、他の板では違ったことが行われているのも事実だ。2ちゃんねるは、2ちゃんねると一言で済ますのは無理なほど多様なパターンが存在するし、おそらく2ちゃんねるユーザーでもすべてを把握している人などいないのではないかといえるほど巨大だ。そしてそこでは膨大な情報が毎日消費されていっている。膨大な数のスレッドが同時並行的に参照され多数の書き込みがなされそれらの書き込みが消費されていくわけだから、その書き込みのすべてを把握しているものなどいないだろうし、そのようなことを試みる必要もない。ヘビーユーザーでさえ、自分の興味のあるいくつかの板を訪れるぐらいで十分なのだ。そしてそれらの多様な書き込みがなされているのであって、誹謗中傷や罵り合っている板がある一方で、親身に人生相談の相手をしてあげている板や、好きな趣味の話に花を咲かしている板もあるし、初心者の質問に職人のような少し厳しい口調で答えている板もある。2ちゃんねると一言でいっても、いろいろなテーマの議論がなされているわけで、一概に中身のないネタ的コミュニケーションだけを行っているわけではないのだけは確かだ。

そのようなさまざまな板のなかで、私が今日取り上げたいのは恋愛に関する書き込みがなされている板だ。そこでは匿名性ゆえにロランバルトのいうところの「作者の死」というものを引き起こしているように思うからだ。その板を説明する前に、まず「作者の死」という概念を簡単に確認しておきたい。ちなみにロラン・バルトの解説は内田樹(著)「寝ながら学べる構造主義」がわかりやすいです。



以前は文学でも映画でも作品と呼ばれるものを批評するときに、作者がなにを意図してその作品を作り上げたのか、作者の真意はどこにあるのかということを突き止めるのが作品を理解する行為だと考えられてきた。しかし、実際には作者にも何を表現したいのかはっきりとはわからないということがわかってきた。つまり一つの一貫した意味が作品の中にあるのではなく、むしろさまざまな要素が絡み合った織り物のような存在であると考えられるようになった。もちろん作者に製作意図はある。ある朝目覚めたら作品が目の前にできていた。誰がつくったのかはわからないが、おそらく自分が作ったのだろう。というような夢遊病者のような話をしているわけではない。ただ製作者が何かを表現したくて作品を作ったとしても、その表現したいことをすべて意識できているわけではないし、すべてを表現できるわけでもない。どう表現したらいいのかわからないこともあるだろう。製作者の意図しない表現が入り込んでいるということである。これは別に芸術作品に限ったことではない。日常の会話で我々は常に感じていることだ。言いたいことをうまく表現できなかったという経験は誰にでもあると思う。特に子どもの頃はそれが顕著である。子どもと話していると気がつくと思うが、自分の感情を上手く言葉で伝えたい、自分の考えをきちんと説明したい、というのがよくわかるが、上手く言葉にできなくて苦しそうにしている時がある。まだ言葉ですべてを表現できずにいるからだ。しかし、これは子どもだけの問題ではない。我々でも表現したいことを上手く伝えられずにもどかしい気持ちになるときがある。つまり言葉は完璧ではないのだ。内田さんは次のように言う。

言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりえません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。



そして、作品を作者が100パーセント把握できていないとするならば、我々はどのように作品を理解していけばいいのか。ここで重要になってくるのが読者の存在である。なぜなら受け手がどのように解釈するかということが重要になってくるからだ。さてここで、さらに興味深いことを内田さんは指摘している。それは匿名性の文化であるインターネットの世界における作者の死である。

私たちはインターネット・テクストを読むとき、それが「もともと誰が発信したものか」ということにほとんど興味を持ちません。だれが最初に発信したのであろうと、それはインターネット上でコピー&ペーストされ、リンクされているあいだに変容と増殖を遂げており、もはや「もともと誰が?」という問いはほとんど無意味になっています。問題は、それを私が読むか読まないか、読んだあと自分のサイトにペーストしたり、発信元のサイトにリンクを張ったりするか、という読み手の判断に委ねられています。これはバルトの言う「作者の死」とかなり近い考え方です。



ここで重要な点は「誰が最初に発信したのかということは重要ではなくなっている」という点だ。そして濱野さんが述べていたようにコピペが基本で著作者というものが機能しえない2ちゃんねるのような匿名の場において、この傾向は顕著に見られるであろう。

さて、何度も言うように2ちゃんねるにおいても、板によって雰囲気はガラッと変わる。だから一概にこれが2ちゃんねるだというような一般論を引き出すことは難しい。ただ、作者の死という概念と関係して私が2ちゃんねるで興味深いと思ったのは、恋愛板を訪れたときだった。

恋愛に関する板もいろいろあるのだが、その中で主に片思いの人たちが集まる板が二つある。恋愛サロンと純情恋愛だ。この二つの板を利用する人たちは片思いであり、自分の気持ちを伝えるスレッドが乱立している。相手に直接伝えられない想いをそこに書き、相手が偶然自分の書き込みを読んでくれるのではないかと淡い期待をするようだ。例えば次のようなスレッドがある。「好きな人と自分のイニシャルを書くスレ」、「想い人に言いたいことを書くスレ」、「切なくなったら書くスレ」、「好きな人にバレルことを書くスレ」などだ。ようするに、自分の存在や気持ちに気づいてほしいと思って書き込んでいる。しかし彼らはなぜ書き込むのか。2ちゃんに自分の気持ちを書き込んだよと好きな相手に言っているとは到底思えない。ほとんどの人はこっそりと書き込んで、相手が偶然に自分の気持ちに気づいてくれることを願っているだけだろう。しかも書いている人は、自分の文章を読んでくれることなんてほとんどないということは十分承知している。相手が自分の書き込みを読んで自分の気持ちに気がついてくれる可能性なんてほとんどないということを十分理解したうえで、一パーセントの可能性を夢見ているように思う。

さて、私が注目したいのは、その書き手の気持ちではなく、文章と読み手である。いろいろな書き込みがなされているが、例えば好きな人にばれる事を書くスレなどを読んでいると、自分の身の回りのこととダブって見えてくることがある。なぜなら、書いてあることが、誰にでも起こるような、日常のよくある出来事だからだ。今日電車に乗るところを偶然見かけましたとか、いつもあのコンビニでお弁当を買うんですねとか、今日帰りに偶然見かけて嬉しかったですとか、挨拶できました、とか今日久しぶりに話せて嬉しかったですとか、そういう文章が続く。片思いで悩んでいるわけではない状態のときにこのような文章を読んでも何も感じないとは思う。ただ、この板にくる人たちは、ほとんどが片思いの人たちだ。しかも相当悩んでいる人たちだ。だから彼らは、自分の気持ちを書き込むと同時に、自分の好きな人が書き込んでいないかという淡い期待をしながらいろいろな文章を読んでいく。そのような状況で、平凡でどこでも起こりえるようなよくある日常の出来事が書かれていると、自分の事ではないかと考えてしまう。これらの文章は誰とかどことかの情報が欠如していることが多い。そのような情報が不完全な文章(完全に状況を把握できる文章なんてあり得ないとは思うが)を読んだときに、多くの文章は自分と関連付けて読めてしまうのだ。

これはコミュニケーションの観点から言ったらまったくの失敗であろう。書き手は好きな人に気づいてもらいたくて書いた文章なのに、まったくの赤の他人の読み手が完全に誤解してメッセージを受け取ってしまっているのだから。しかも複数の読み手が勝手な解釈を加えているわけであって、そのどれもが間違っているということを、書き手も読み手も心のどこかで理解できている。このような誤読を最小限にする方法は、そして書き手が本当に伝えたい相手にメッセージを送りたいのであれば、具体的な情報を加えればいいだけの話だ。一番重要な情報は自分の名前を出すことだろう。それによって、関係者以外の人間達は、そのようなメッセージになんの関心も示さなくなる。

しかし、もしも恋愛板の住人が全員、自分の本名を名乗って告白ゴッコをしていったとするならば、まったく面白みのない場になってしまうだろうし、ほとんど誰も訪れることはなくなるだろう。単に自分のメッセージを書き残す場所としての機能しか残らないからだ。匿名であるがゆえに、文章は多様な読みを可能にし、そこから文章を自分にひきつけて楽しむことができる。情報は完全に開示されてしまっていてはいけない。しかし、同時に情報がすべて隠蔽されてしまっていてもいけない。その中間の不完全な情報のときにこそ、読者をひきつけていくのだとおもう。完全(秩序)と(無)ランダムの中間の不完全な状態、これは何か新しいものが常に生み出されるカオスの縁に似てはいるような気もする。いずれにせよ、このような不完全な情報が2ちゃんねるの恋愛板の魅力であり、そこでは書き手は淡い期待をすることができ、読み手は文章を自分にひきつけて一時的な心の平穏を得ることができている。

このような文章の断片と戯れることはまったく非生産的な行為でありおそらく社会には受け入れられないだろう。しかし精神的に追い詰められた人たちが避難できる場所、一時的にでも心の平穏を得ることができる場所というものが必要ではないかと思う。そして、そのような空間は匿名性故に自分の都合のいいように解釈できる場所、つまり多様な読みを可能にする匿名掲示板の2ちゃんねるという空間が重要になっているように思う。その賛否は置いておくとして、少なくとも、匿名の書き込みが作り出す特異な空間というものの存在は興味深いと思う。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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