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自然と文明

 先日サンデーモーニングで「考・震災」という特集をしていたのだが、その中で生命誌(?)を研究している女性(誰かが中村桂子さんと呼んでいた気がしたが勘違いかも。。。)が興味深い話をしていた。なお、この話は震災対策としてはまったく役に立たない話なので、復興や災害対策の議論とは切り離して読んでください。

 今回の震災では多くの人が「想定外」という単語を使っていた。確かに今回の大震災は未曾有の災害であり、誰も想定していなかった規模の大災害であった。だから想定外とか未曾有という単語が使われているのは決して責任逃れとか言い訳ではなく仕方のないことだったと思う。

 ただ、そのような責任論などの議論とは別に、この「考・震災」の女性は次のような問いを発していた。そもそも自然災害に想定できる範囲というものが果たしてあるのだろうか?もちろん災害対策のためには、なんらかの基準を想定するのは必要なことである。しかし、この「想定外」という単語には、人間が自然をコントロールできるという考えが根底にあったのではないか。自然に打ち勝つという考え自体が人間のうぬぼれだったのではないだろうか、と。このような話をされていた。この番組の視聴者が彼女の言葉をどのように受け止めたのかはわからない。しかし、私は不意にこのようなことを言われてはっとした。彼女の考えが斬新だったわけではない。このような考えは日本ではよく知られていたことだ。それにもかかわらず私は震災後このような考えをすることを忘れてしまっていた。そして同じように日本のメディアでそのようなことを言う人はこの一ヶ月いなかったように思うのだ。

 日本は高度に発達した科学技術とアニミズム的宗教観が渾然一体となっている社会だとよく言われる。例えば何かの本で指摘されていたが、日本では飛行機が飛び交う空港に神社があったりする。日本の都市部を見ていると機械文明にどっぷり浸かった社会に見えてしまうが、実は大都市の真ん中に木がうっそうと茂る神社があったり、道祖神やお地蔵さんが道路の片隅にひっそりと立っていたりと、実はアニミズム的風景はいたるところに見られる。神社にいると多くのビジネスマンが訪れるのを見ることができる。日本人は科学技術大国でありながら、たぶん精神的にはそのような物質文明一辺倒を否定する面も持ちあわせているのではないかと思う。

 実際、科学技術に対する懐疑の念はアニメやRPGなどではよく見かけるテーマだ。例えばジプリのアニメとかファイナルファンタジーシリーズなどには自然に対する畏敬の念や物質文明や機械文明に大きく依存することへの警鐘などが含まれている。銀河鉄道999には自然派と科学派の二つに分かれた文明が惑星を二つに分けてしまったという話がある。日本ほどではないが、ハリウッド映画でも同じようなメッセージを見ることがある。特にパニック映画などには自然の脅威などのメッセージが込められていることが多い。例えば「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」という映画で、主人公達が急速に広がる超大寒波から命からがら図書館に逃げ込むシーンがある。その図書館で本を片っ端から焼いて暖をとるわけだが、そのシーンにこの映画の重要なメッセージが込められている。本には有史以来の人間の英知がすべて詰まっている。だから、その本が保管されている図書館は人間が築き上げてきた文明そのものなのだ。その図書館に立てこもった主人公たちが、大寒波という自然の圧倒的な力の前では、人類の英知の結晶である本を焼くことしかできなかった。人類の浅知恵など自然の脅威の前には赤子同然だということを見せ付けてくれる。あ、ちなみに、「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」はマジで面白くないので注意してください。ということで、話を戻そう。



 さて今見てきたように自然と文明はしばしば対立した概念として語られることが多かった。特に科学技術を発達させてきた西洋文明は自然と対峙して発達してきたと考えられてきた。西洋文明そして科学の発展に大きな影響を与えてきたキリスト教は苛酷な自然環境の下で発達してきたのはよく知られている。一方でアニミズム的信仰を持っている日本などの非西洋社会は自然とともに生きてきたといわれる。そこでは自然は破壊をもたらすとともに、自然の恵みを与えてくれるなくてはならない存在だった。つまり自然から生きる術を奪い取らないといけない西洋と自然から恵みを与えられる非西洋ということになるだろうか。

 過酷な自然によって科学が発達してきたということに関連して、今朝の朝日新聞に次のような社説に興味深い記述があったので、すこし引用してみよう。

 自然災害は、人と文明に大きな変化を促すきっかけになることがある。阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター長の河田惠昭(よしあき)さんが著書「津波災害」で二つの例を紹介する。

 紀元前2000年ごろから同1400年ごろ、地中海クレタ島などで栄えたミノア文明は大噴火で発生した大津波が原因の一つとなって衰退したという。

 1755年、リスボンを大津波が襲った。死者6万2千人から9万人。列強の中でポルトガルの弱体化が進んだ。

 ただ、この経験が、神学的な世界観を転換させ、近代的、自然科学的な思考を育む契機になったという指摘もある。

「岐路に立つ電力文明―持続可能な暮らしを求めて」
2011年4月4日 朝日新聞社説



 つまり、大災害が自然科学的な志向を育む契機になったというのだ。確かに西洋文明は過酷な自然環境を克服するために自然科学的思考の基礎を発達させてきたと思う。しかし私は大災害が科学的な思考を育んだとは思えない。なぜなら科学が対処できるのは予測可能な自然の脅威であって、今回のような予測不可能な大災害ではないと思うからだ。

 自然科学的な思考の原点は因果律の探求にある。二つの事象が連続して起きたときに、その間に因果関係があると想定するのは人間だけではない。動物の段階でもそのような因果関係を学習し、次に同じような危機的状況が生じたらすぐに対処できるようにしている。因果関係を想定するのに科学的根拠などいらない。直接関係のない現象であっても、二つの現象が連続して起きたら、そこに因果関係があるとまずは考えるのが動物なのだ。そしてそのような連続した現象が何度も起これば、その因果関係の記憶はどんどん強化されていく。そして、このような感覚が人類に呪術や宗教などをもたらした。

 人類学の一年生のクラスで教えられることだが、大リーグの選手はお守りを持っていたりジンクスを非常に重視しているという。勝負ごとやギャンブルなどでは、お守りやジンクスが重要になってくるわけだが、その理由はこの因果律を求める人間の性向に関係している。何かの服を着たときにたまたま勝負に勝てば、その服が幸運の服になってしまう。たまたま何かの動作をしたとき、いいことが起きれば、その動作が重要になってくる。パチンコ屋に行けば、このような願掛けの動作をいろいろ見ることができるだろう。

 私がパチンコを打っていたときにも、同じようにいろいろな動作を試していた。例えば、リーチが来たら、ひざをさするとか、さりげなく手をあわせるとか、タバコの箱を3回まわすとか、さまざまなことをしていた。そのような事をしていて、たまたま当たりがくると、次のリーチのときも同じ動作をする。しかし、もちろん、そのときは当たりは来ない。だから他の動作も組み合わせて試してみる。そうして、当たりがくると、今度はその一連の動作がすべて必要な動作ということになって、次のリーチの時にはその動作をすべてする。

 まあ、そういう感じで、あたりを引くための動作は、いろいろな動作を組み合わせていくから、どんどん複雑な動作になっていく。もちろんリーチの間にできる動作というのは時間的制約もあるし、あまりにも奇妙な動作をしていたら店から追い出されるので、目立たない動作でなければならない。それに、あまりにも複雑な動作は実際疲れる。だから、ある程度複雑になったところで止まるわけだが、そのような複雑な動作が宗教的儀礼の原初的な形態だったのかもしれないと、当時パチンコを打ちながら漠然と考えていた。もともとは単純な動作だったものが、効果がないと他の動作も組み合わせていくというようなことの繰り返して、最終的にはとても複雑な工程を踏むようになってのではないかと思ったりしたものだ。

 儀礼の話はどこまで正しいかはわからないのだが、呪術が発達した原因は人間が因果律を予測しがちな生き物だということと密接に関係していたのは確かだろう。有名な人類学者のジェームズ・フレーザーは次のように考えた。人間は最初、間違った因果律を見出し、呪術を発達させてきた。それがいつしか宗教になり、最終的には、きちんとした因果律を研究する科学が発達した。フレーザーの単純な進化論的見方は問題があるが、科学も呪術も因果律を捜し求める人間の性向という同じ原理で発達してきたことを発見したのは卓見であった。

 さて、そうであるならば、自然科学的な思考が発達する土壌は因果律がはっきりしているところということになる。つまり予測可能な自然現象が見出される場所でなければならない。ナイル川の氾濫がエジプト文明を作ったとはよく言われることだが、これは毎年同じ時期に氾濫するから文明を作ったのであって、この氾濫(どの程度の規模の氾濫なのかは知らないが)が不規則に襲う大災害であったならば、おそらく文明の発達はなかったと思う。つまり自然が過酷か過酷でないかということが、自然を克服するための自然科学の発達を促した要因ではなく、予測可能か可能でないかが重要なのだ。だから、今回の大震災のように予測不可能な大災害に直面した人間は科学思考よりも自然への畏怖や自然の神に対する信仰を強くするのではないかと思う。すくなくとも現代科学が発達するまでは、そのような複雑な現象に対して何かをしようなどとは思わなかっただろう。

 もちろん、大災害においても、いろいろな智恵が語り継がれていたようだ。今回の大津波に関しては先人の智恵が生かされたというようなことがテレビで紹介されていた。例えば、地震のあとに井戸の様子を確認しろということが言われていたとか、船で漁をしているときに津波が来たらなるべく沖に逃げろという話などである。このような昔からの智恵はとても重要だし、長い年月をかけて文化や慣習などに取り込まれていく。しかし、そのような智恵は科学的理論として確立された体系化された知識ではなく、断片的な知識でしかない。なぜなら、科学では検証を必要とするが、不規則に襲ってくる大災害に対する智恵は、その智恵を検証することが困難だからだ。語りつがれていくのは断片化した智恵と、村を襲った大災害の記憶だけだろう。そのような大災害の記憶は自然への畏敬の念を強め、アニミズム的信仰を強化していくのではないだろうか。

 さて最初にお断りしたように、この大震災とは切り離して話をさせてもらった。しかし、それでも今こんな話をして何になるという人もいるだろう。今は復興や今後の災害対策をするべきであって、自然と文明などという2項対立の言葉遊びをしているときではないと思うかもしれない。それは正論だ。こんな話をしていても、復興にはまったく役に立たないし、たぶん今、避難所で苦労されていらっしゃる方達にとってはどうでもいい話だ。

 しかし、長期的にはやはり人間は自然との接し方を考えていくべきだとは思う。自然の脅威を知ったからといって地震や津波が防げるわけではもちろんない。いまさらアニミズム信仰を発達させようなんて考えているわけでもない。大災害に対処していくためには、これからもさらなる技術革新をしていかなければいけないのは確かだ。しかし、それと同時に自然と共生していくのはどういうことかということも考えていくべきだろう。少なくとも平静を取り戻した日本人は将来そう考えるだろうと思う。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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