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逆パノプティコン



 近所のサティに小さな本屋さんが入っているのだが、その中をぶらぶらしていたら、『逆パノプティコン社会の到来 ウィキリークスからフェイスブック革命まで』という本を見つけた。パノプティコンという単語が気になったので一時間ぐらいでざっと立ち読みしてみた。まあ内容自体は可も無く不可もなくという感じで、とりあえずウィキリークスとかを知りたければ読んでみたらいいんじゃないかなというような本なのだが、この逆パノプティコンという単語がひっかかったので、今回はこの本に関してちょっと書いてみる。というか、逆パノプティコンという用語はちょっと違うだろうということを論じてみたい。ただ、先に言っておきたいのは、この本の内容を否定しているわけではないので、そこは間違えないでください。逆パノプティコンという用語が間違っているだろうということを言いたいだけなので、この本を読んで気にいっている人は気を悪くしないでください。さて、話を戻すが、まずは、この本の内容をざっと見てみたい。アマゾンには次のように紹介されている。

「パノプティコン」という言葉をご存じだろうか?日本語では「全展望監視システム」と訳されている。18世紀、ベンサムによって考案された監獄の設計案だ。ウィキリークスやフェイスブック革命による一連の騒動を見て、このパノプティコンを思い出す。ただ、構図は逆だ。看守塔にいるのは政府ではなく市民なのである。あのジョージ・オーウェルが小説『1984』において危惧していたのは、「ビッグブラザー」としての政府によって、市民の一挙手一投足が監視される未来社会だったが、ウィキリークスやフェイスブックの登場は、政府活動の陰の部分を含めたあらゆる情報を明らかにし、勇気ある市民が声を結集し、命をかけた政治行動を起こすための強力な武器を市民に与えた。看守塔にいるのは市民であり、監視されるのは政府であるという「逆パノプティコン社会」の到来だ。本書では、ウィキリークスやフェイスブック革命の分析を通じて、この「逆パノプティコン社会」の到来について論じることにする。


 この文章を読めば大体の内容は推測できると思う。まあ、ぶっちゃけ、よくあるネット社会論という感じの本だ。ただ、この本の感想とかをグーグルとかで検索するとなぜか非常に評判がいい。その理由はわからない。そこまで斬新なアイデアが書かれているとは思えないし、深い考察がなされているわけでもない。確かにウィキリークスの事に関しては結構詳しく書かれている。しかも読みやすい。なのでウィキリークスに興味のある人やネットのメディア論などを勉強したい人にはいいかもしれない。ただ、メディア論やネット社会論としては真新しいことは書かれていないし、著者の意見も社会思想の研究者とかの観点から見たら面白みに欠けていると思う。少なくとも著者の考えの基礎にあたる部分はそこまで深くないような気がする。例えば、「民主主義は素晴らしい政治体制である」、「国家と市民は常に対立している」、「国家は情報を統制し常に市民を抑圧する存在である」、「国家の枠を超えたネットのつながりには希望が持てる」、「国家レベルを超えた公共利益や普遍的な正義や価値観というものが存在している」などなど。まあようするに近代思想に反権力とか地球市民というような軽めの思想がミックスされただけではないかというような印象をもってしまう。だから、社会思想系を勉強している人などが読んだら、結構不満が残ると思う。そこらへんが気にならない人ならば、普通には楽しめる本だろう。

 さて、一時間程度でざっと立ち読みしただけなので、細かい点などは見落としている部分もあるわけだが、やはり、この本の一番の売りは「逆パノプティコン」という用語だろう。というかこの本の著者は比喩表現というかネーミングが好きらしい。例えばウィキリークスの変化をウィキペディア型からマスメディア型に変化したと表現したり、行政サービスが自動販売機型からiPhone型になったと表現したりしている。彼のネーミングは結構面白いし、その努力は評価に値するんだけど、ただ残念な点は、ネーミングがちょっとずれている時があるような気がするところだ。

 たとえばウィキペディア型という単語だが、これはウィキリークスの説明のところで使われていた。初期型のウィキリークスのサービスでは、さまざまな情報をアップするだけのサービスだったらしいのだが、そのような玉石混交の情報を単に提示するだけのサービスから、ウィキリークス自身が情報を選別・価値付けし文脈化するというジャーナリスティックな情報の加工までを手がけるようになった。この変化をウィキペディア型からマスメディア型になったと表現している。つまり、ここで言うウィキペディア型というのは個人が情報を自由にアップして編集することができるということを指しているようだ。しかし、実はそのような玉石混交の情報がフラットに提示されている状態というのはネット空間の性質であってウィキペディアの本質ではない。ウィキペディアの理念というか本質は、情報が自由にアップされるという部分ではなく、お互いに利害の一致しない不特定多数の専門知識を持った人たちがウィキペディアに書かれている情報をチェック・編集することによって、その情報を洗練させていき、最終的にはブリタニカなどの百科事典と同等かそれ以上に正確な情報に限りなく近づけようとするのがウィキペディアの試みであり本質だった。だから玉石混交の情報がフラットにそして乱雑に並べられていたウィキリークスの初期の状態を表現したいのであればウィキペディア型というネーミングはちょっとずれちゃっているような気がする。

 同じように、この本を読み始める前からすごく違和感を持っていた用語がタイトルにある「逆パノプティコン」である。フェイスブックやウィキリークスなどネット上には様々な情報が飛び交っており、それらの情報によって我々国民は政府を監視する術を手に入れた。従来は政府が国民を監視するパノプティコン的社会であったのが、今では市民が政府を監視する逆パノプティコン社会になった。と、こんな感じの議論がなされている。そういうことで、この本が指す逆パノプティコンというのは、市民が政府を監視する状態を指しているのだろう。単純化すればパノプティコン=権力側からの監視という意味でパノプティコンという用語を使っており、政府や権力が市民を監視するのがパノプティコン、逆に市民が政府や権力を監視するのが逆パノプティコンということになろうか。

 ここで確認しておきたいのは、そもそもパノプティコンというのが権力側からの監視という単純な意味で使われているのかという点になってくる。つまり監視社会の象徴としてパノプティコンという単語が使われてきたのかということだ。この点が、私が逆パノプティコンという単語を聞いて違和感を覚えた理由に繋がっていくことになる。そういうことで、まずはパノプティコンについて考えてみたい。

 社会思想などをちょっとでもかじったことのある人は、パノプティコンといわれたらミシェル・フーコーの名前が出てくると思う。フーコーがベンサムの考案したパノプティコンに注目したのには理由があった。それは監視するシステムだという点でパノプティコンに注目したのではなく、パノプティコンの中の囚人の心の持ちようが他の監獄とは違うという点が興味深かったからだ。監視されている状況だけだったら別にパノプティコンでなくてもいい。他の監獄でも捕虜収容所でも留置場でも、とりあえず監視されているシステムだったら何でもよかっただろう。フーコーが興味を持ったのは、だから監視システムそのものではなくて、パノプティコンでしか起こりえない事象であった。それはパノプティコンのみが、囚人が自らを律するシステムだったという点にある。

 パノプティコンのなかの囚人は看守が自分を監視しているかどうかがわからない。なぜなら監視塔に看守がいるかどうかが囚人からは見えないからだ。看守は監視塔にいて自分を凝視しているかもしれないし、昼寝しているかもしれないし、マンガを読んでいるかもしれない。極端な話、誰もいないかもしれない。しかし囚人には見えないから判断できない。他の監獄だったら、看守がいるかどうかを囚人は把握できている。だから看守が見回りに来たときだけ自分の行動に注意を払えばいいのだが、パノプティコンでは看守がいるのかどうかが定かではないため、常に看守がそこにいるかもしれないという看守の影に怯えながら行動しなくてはいけなくなる。その結果、看守に監視されているという気持ちを常に持ち行動するようになる。つまり監視されているかもしれないから、常に自分の行動を律しようという気持ちを持つようになり、その結果、そのような自己を律する精神が内面化されていくのだ。この点がパノプティコンのすごいところだった。なぜなら、これによって看守はいなくてもよくなるからだ。要は看守がいるはずだと思わせる構造、つまりはパノプティコンの構造さえあれば、看守はいなくても、監獄として機能する。だから看守の人件費などをカットでき、監獄側はコストを削減できる。もともと、コスト削減のためにいかに効率的な監獄を作るかということからベンサムが考え出したのがパノプティコンという構造だったので、これは当たり前と言えば当たり前の事柄だ。しかしこの囚人が自己を律する精神を内面化してしまうというところに興味を持ったのが、フーコーのすごいところだった。

 フーコーが、この仕組みに注目したのは、現代社会の支配の仕組みがこれと似ていたからだ。どういうことかというと、社会を支配する仕組みとして、昔は王様とかがいて、力で支配していた。法を犯したら見せしめに公開処刑したり鞭打ちにしたりと、まあ公衆の面前で罰を与えていた。王様がいい人なのか悪い人なのかということはここでは関係がない。長い歴史のなかで王制が常に圧制で民衆は虐げられてきたと考えるのはフランス革命以降の進歩主義者や近代思想家、マルクス主義者などの悪い癖だ。実際には、ほとんどの時代で、民衆は生き生きとした人生を謳歌していたのではないかと思われる。そして、その長い歴史のなかには素晴らしい王様もいただろう。ただそのような王様の良し悪しと、力による支配とは関係の無い話だ。遠山の金さんはいい人だけど、悪い奴は、はりつけ獄門とか平気でしていたし、そうしないと示しがつかなかった。つまり支配する権力側は常に支配される側から見えるところにいて、悪い気を起こさないように見張っていた。我々はここにいるぞということを見せることによって支配していた。支配するということは、民衆から見えるところにいるということだ。こういう支配の仕方はコストがかかる。法を犯したり権力に反抗したらこんなになるぞというようなことを絶えず見せないといけない。そのためには磔にされた人を槍でつつく人も必要だし、拷問係も必要だ。そのほかにもいろいろといろんな役職が必要だろうから、力の支配はコストがかかる。それよりも効率的なのはパノプティコンの囚人のように監視されているという感覚を支配される側が内面化するように仕向ければいい。それが生政治というやつだ。ウィキペディアの一部を抜粋してみよう。

 現代社会の支配体系の特徴として、例えば政府等の国家が市民を支配する際に、単に法制度等を個人に課すだけではなく、市民一人ひとりが心から服従するよう になってきたとして、個人への支配の方法がこれまでの「政治」からひとりひとりの「生政治」にまで及ぶようになったと説明する。これを「生政治学 (Bio-politics)」という。これはフーコーの著書『監獄の誕生』の中で言及される主要な概念のひとつで、この例を示すために、「パノプティコン」の例がよく使われる。

(ウィキペディア)


 そういうことで、フーコーがパノプティコンの議論を出したのは、権力が監視しているという社会を批判したいのではなくて、支配の仕組みが変わってきたということを示したかったからだ。昔は見える支配だったが、今は見えない支配になっている。ようするに権力側が実行力を伴って支配する仕組みではなくて、支配される側が内面から服従するようになったというところにパノプティコンの仕組みとの類似性が見て取れるわけだ。そしてそのメカニズムのキモにあたる部分は、1.支配している主体が見えないということ。2.支配される側が服従するという精神を内面化しているということ。この2点がパノプティコンの議論では不可欠な要素だと思う。

 つまり支配されているけど誰が密告者だかわからないというような昔の五人組や、監視カメラがいたるところにあってコンピューターで管理するビックブラザーの社会の話とはまったく違うのだ。五人組とかビックブラザーとかの監視社会では支配されていることが見えている。誰が監視しているのか、何処から監視されているのかはわからないが、少なくとも支配されているという事実は自覚している。一方、パノプティコン的な社会では自分で自分を律しているため、支配されていることに、もはや気がついていない。むしろ自発的に服従しているのだと思う。

 そのように考えてくると、逆パノプティコンって何?ということになってしまう。パノプティコンの議論では内面化と支配している人が見えていないという事実が重要になってきたわけで、これの逆の状況を逆パノプティコンと表現したいのであれば、少なくとも同じような状況が見られなければならないだろう。監視しているのが市民で、監視されているのが政府や権力ということになるんだろうけど、そもそも政府が監視されているということを内面化するとはどういうことなのかというようなことを考えなくてはいけなくなる。私はむしろウィキリークスとかフェイスブックなどのSNSの状況というのは、パノプティコン的な状況というよりも、むしろ五人組的な状況に見える。つまり誰が密告者だかわからない状況。お互いが疑心暗鬼になって、いつ裏切られるかわからない状況に近いのではないだろうか。もちろん、それによって、自分を律する精神も生まれるかもしれない。しかし、それはパノプティコン的な内面化ではないような気がする。まあ、そういうことなので、逆パノプティコンという用語はやっぱり違うような気がしてならない。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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