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国民全員が外国語を流暢にしゃべれるようになるべきか パート2

前回の続きです。前回のエントリーは↓

国民全員が外国語を流暢に喋れるようになるべきか?


前回のエントリーでは、もう少し書きたい事があったと思ったので、続きは明日とか書いてしまったのだが、あれから何度か下書きを書いては消してを繰り返したが、どうにも話がまとまらない。というか、勢いで書いていると、どんどん意味不明な話になっていき収拾不可能にになってしまう。で、書き直し。それを繰り返していたら、疲れた。そもそも俺は一体何を言いたかったのだろう?という気持ちになったので、何を言いたくて前回のエントリーを書き始めたのかもう一度考えてみた。そしたら言いたい事はほとんど前回言ってしまっているんじゃないかという気がしてきた。なので、前回、続きを書くとか言ってしまったけど、前回のぐだぐだの文章を簡単にまとめて、ちょっとだけ付け足す程度に急遽変更しました。すいません。。。

前回述べた事を、まずまとめたい。というか前回のエントリーの文章がぐだぐだだったので、多分ほとんどの人は、何を言いたいのか理解できなかったと思う。そういうことで、もう一度簡単にまとめると、だいたい次のような感じのことを言うつもりで書いていた。

ようするに外国語を習得するのには莫大なエネルギーを必要とする。すべての国民が莫大なエネルギーを費やしてまで外国語をしゃべれるようになる必要があるのか?私はないと思う。ここで注意してほしいのは私は外国語を学ぶ事に反対しているわけではない。多様な価値観を学ぶ上で、外国語を学ぶことは有益だと思っている。また通訳や翻訳家あるいは研究やビジネスで必要だから外国語マスターしようと考える人たちの事を取り上げているわけではない。実際、後で述べるように通訳や翻訳家といった外国語の専門家の存在は重要だと考えている。私が述べたいのは、こういう人たちではなく、日常生活においては外国語を必要としていない人たちまで喋れるようにならないといけないのかということだ。もっと言えば、外国語をしゃべれるようにならないといけないというような風潮に反対したいのだ。例えば英語公用語論や小学生からの英語教育、国民全員が英語で日常会話が出来るようにならないといけないというような国民的強迫観念。そういうものに反対をしたいのだ。外国語を習得するのは苦手でも、他の才能に恵まれている人もいるだろう。外国語習得に費やすエネルギーを、他の才能を伸ばすために費やす方がいい場合もあるはずだ。国際化の時代だから国民全員が外国語をしゃべれるようにならないといけないというのは、語学習得の才能が無い人に無駄な努力を強いるだけだ。結果としてその人の才能を国のために活かす事ができなくなってしまうだろう。長い目でみたら、全体として国の力を弱めることにつながる可能性がある。

面白い事に、明治期の日本は逆の戦略をとった。つまり外国語を学ばなくても外国の知識を日本語で吸収できた方がいいと考えた。しかし西洋の先進的な知識を日本語に翻訳することは容易ではない。なぜなら、多くの場合、対応する日本語の単語がなかったからだ。西洋の知識を日本語で理解するためには、その知識を理解するために必要な概念や知識などに対応する日本語の単語が必要になる。だから膨大な新しい単語が作り出された。漢字の熟語で作り出された「新語」は、最近のカタカナで表記された外来語とは違い、漢字を見れば意味が分かる。このような「新語」を使う事によって、外国語に堪能でなくても、高等教育を受ける事ができるし、専門でない分野の知識にも容易にアクセスできる。もちろんアカデミックな世界とは無縁な人たちも新しい知見を容易に取り込む事ができる。

このようにして語学の才能が無くても、日本語で様々な分野の勉強をすることができるようになった。もちろん語学の才能がある人は、その才能を伸ばして行ける。語学の才能がある人と無い人、相互に依存し合う事によって、無駄な努力を最小限にすることができるようになった。デュルケームの社会分業論ではないが、相互に依存し合う事によってよりwin-winの関係になったということができる。

このように自国の言語で高等教育ができるようになれば効率が上がり、国家の教育レベルも上がるだろう。だから他の非西洋諸国でもこのような発展の仕方をするのが得策だったと思う。しかし、旧植民地の世界ではしばしばエリート層が宗主国側と結託して自国の民衆を支配するという構図になることが多かったのではないだろうか。その理由はいろいろあると思うが、一つには教育に使われる言語がエリート層と大衆の対立を助長する要因になってしまったのではないかと思う。なぜなら旧植民地では、宗主国の言語が公用語になっている事が多い。旧植民地の人間が高等教育を受けるためには、外国語を使わないといけない。高等教育にかぎらず初等教育から外国語で学ぶ国も多いだろう。その結果、教育を受けるためには、まず外国語に堪能でなくてはいけないということになってしまう。語学が堪能でない人間は、もし仮に他の分野で才能があったとしても外国語のハンディがあるので、自分の隠された才能を活かせるチャンスを得る事無く一生を終える事になる。また、そのような成功するかしないかというような事でなくても、ごく普通の人が持つような知識でさえ外国語を介してしか伝える事ができないと国民全員が同じ考えを持つ事を阻害するだろう。つまり国民の間で対話が成り立たなくなってしまう。例えば、老人など教育を受けていなかった人たちと、若者たち教育を受けている人たちの間には、知識量の格差が生じてしまうかもしれない。若者の間でも、教育レベルの差が歴然になってくるだろう。結果的にエリート層と大衆の二極化が進んでしまう。このように、何かの才能があっても語学の才能がないというだけで、その才能を伸ばす事ができず、また国民の間に知識レベルで格差が生じて、結果的に社会の二極化が進み、相互に依存し助け合うシステムが構築できない。このような状況は、国全体として見たら大きな損失になる。

韓国や台湾がこのような道を進まずに、急激に近代化を成し遂げる事ができた要因は日本人が作り出した「新語」が大きく貢献していたのではないかと思う。もちろん、だから日本に感謝すべきだと言いたいわけではない。日本人は日本のために「新語」を作っただけだ。しかし漢字で作られた「新語」は容易に漢字文化圏の国に流用できた。台湾の状況は詳しく知らないが、韓国語を学んでいたときに聞いた話では、韓国語には日本で作られた熟語が多く入り込んでいるという。その結果、韓国でも台湾でも高等教育を自国の言語で受ける事が可能になったはずだ。もちろん日本の統治時代、韓国や台湾の教育レベルがあがった事も無視してはいけない。例えば朝鮮が清朝やロシアに併合されていたら、おそらく清朝やロシア政府に迎合するエリート層の両班と、農民などの一般大衆との格差は是正されなかったと思われる。ここでも大衆が受けられる教育の存在が大きな意味を持っていたと思われる。もう一つ例を挙げると、中米でマヤ運動というのがあって膨大な量の新語が生み出されているらしいのだが、興味深い事には初等教育や中等教育だけでなくマヤ大学構想も考えられているらしい。この例からも言語や教育が社会にとってどれくらい重要かがわかる。

まとめると次のような事が言えるのではないだろうか?明治日本では大衆や国民の教育レベルをあげることによって、西洋の技術文化の恩恵を一部のエリート層が独占するのではなく、国民全体で享受する道を選んだ。その結果、一部の選ばれた者だけが富むのではなく、国が全体として発展し、結果的に国全体の力が高まった。これに対して、旧植民地では、一般国民は西洋の技術や知識にアクセスするのが不可能とは言わないまでも、困難になってしまっている。なぜなら外国語でしか高等教育を受けられないからだ。その結果、語学の才能があるものや、小さい頃から特別な教育を受けてきたものに有利な社会になってしまった。これは国内での格差を助長する要因になってしまった。さらには、そのような選ばれたものたちは奨学金などを利用して海外に行き、国に戻ってこないということも起こりえる。私が調査に入っていたツヴァルなどでは、国費でフィジーやニュージーランドに留学したのに卒業後、国に帰って来ようとしないとこぼす人が何人かいた。もちろんツヴァルは国が小さいため国内に留学生を受け入れるポストが十分ではないということもあるのだが、問題の核心は、若い留学生には、誰のおかげで今の自分がいるのか、何のために、そして誰のために自分たちはがんばるべきかという観点が抜け落ちてしまっているからではないかと思う。実際、留学先から休暇で帰ってきている若者達の中には、西洋人になったつもりなのか、おしゃれな服をきて、自分たちの伝統文化やツヴァルの年長者を非科学的だと卑下する若者もいた。彼らにとっては外国で暮らす事は、すばらしいことなのだ。同じ事が日本でも言えるのではないだろうか?最近のTPPの議論は経済や農業の話として語っているが、その核心は実は国家観を持っているかどうかではないかと思う。

つまり国家や国民の方を見るのか、それとも企業や個人を見るのかの違いに感じるのだ。TPPで外国を見るのではなく、まずは国の内部に目を向け、国民の生活レベルやGDPをあげるために内需を拡大しようとするのは、まさしく教育レベルをあげて全体的な国力をあげた明治二本の戦略に通じるものがある。

SF映画「ブレードランナー」では、エリートは新天地を目指して宇宙に出て行ってしまい、地球に残された人たちは下層民だという設定になっている。映画「They Live」では密かに地球に侵略し地球を経済的に支配しているどん欲なビジネスマンのエイリアンと、彼らとともに一般大衆を支配している地球人の成金財界人たちが現れる。国家観を持たずに個人主義を突き詰めて行けば、国を容易に捨てたり、自分の利益のために仲間を支配するようになるのではないか。それがTPPで危惧されることのような気がする。そのような動きを牽制するためには、国家や国民という枠組みの中に自分をきちんと位置づける作業が大事になってくるのではないかと思う。

って、ここまで、書いてしまってから、またTPPネタの部分を消すべきかどうかを悩んじゃってるんだけど、まあ、とりあえず消さずにアップします。ただ、実際、TPPがいい事なのかどうかは、私もわかりかねてます。一つだけTPPの問題で注目しておきたい事は、新しい対立軸を鮮明にしてくれたという点です。つまり左翼vs右翼とか、共産主義vs反共産主義とか、保守vsリベラルではなくて、リバタリアンvs反リバタリアンという対立軸を明らかにしてくれたという点がこれからの国家や社会の将来を語る上でとても重要になってくるのではないかと思うのです。ということで、TPPネタを書くのは少し気が引けるんだけど、近いうちにTPPによって明らかになった思想的対立みたいなエントリーを書きたいと思ってます。



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No title

なかなか面白かったです。

私は数年海外に居ましたが、
今ではほとんど英語を喋れません。

就職の面接等で「けっこう話せるんですね~」という質問には
「話せます」と答えます。
嘘を平然と付ける理由は、英語を話せないと困るシーンが無いからです。
帰国して割と堪能に話せてた英会話がほんの4年で忘れてしまう環境が、わが国日本。

使ってた事も使用しなきゃ忘れていきます。
使わないって事は必要では無いと私は考えています。笑

しかし、英語も授業は英会話の授業にすべきだと思います。
海外旅行行った時、「Where is 」も使えないようでは話になりません。
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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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