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インターネットは勉強の仕方を変えるのか?パート1

ウェブ人間論という本のなかで、平野さんが面白いことを述べている。教養について話している部分なのだが、現代は情報というものの構造が変わってきたという感じの話から、つぎのようなことを述べた。

今はそういう意味では、「教養」と言われるものの形も変わってきている気がします。その言葉がまだ有効かどうかも問題ですけど。例えば読書体験にしても、かつてはある本に辿り付くまでには、ある一定の読書経験というものがあったはずなんですね。大体、どういう本を読んでいるかを聞けば、その人の読書体験がどんなもので、どんなことを考えているかがわかる、というのが昔でしたけど、今は脈絡がないんですね。昔は例えば、さっきのアレントを読むには、そもそもそんな人の本に関心を持つようになるまでの道筋みたいなものがあって、それを辿った挙句に、ああ、こんな人がいるんだ、じゃあ、この人の本を読んでみよう、というのがあった。その道筋は、同時にアレントを読むための準備になっていたと思うんですよ。それが、今はアマゾンの紹介を通じて、そういう過程を経ずに一気にアレントにジャンプできちゃう。その両者の意味は全然違うと思いますけど、あえてどちらが良いとはいえない気もしますね。前者の方が内容は深く理解できますけど、当たり前の読み方しかできないのかもしれないし、読んでる本のラインナップも偏ってくるのかもしれない。そういう意味では、善い悪いは別として、要するに、教養のあり方が変わっている、ということなんだと思います。(ウェブ人間論: 174-175ページ)



このあと、梅田さんが、以前は、貴重な情報をすべて消費するというような時代だったのが、今は情報がどんどん放出されているから、必要なときに必要な情報を探して消費するという時代になったというようなことをいっている。こんな感じのことは、昔J-SAIL(オレゴン大学の日本人留学生の勉強会的集まり)でも話しあったことがあった。だから、とりたてて斬新なネタというわけでもないと思う(ただし、梅田さんの「流しそうめん」のたとえは、非常に面白いのだが)。

ただ、今回、この話を面白いと思った理由は、「流しそうめん」の比喩ではなく、むしろ平野さんの述べていることに関してである。ネット上での情報の処理の仕方が、初歩的な情報から高度な情報へと、従来のような、筋道だった手順を踏んで、情報にアクセスするのではなく、初歩的な情報も高度な情報もすべてが一元的に管理されているデータベースから任意に抽出して情報を処理していくという姿が、最近のオタク的消費行動と呼ばれているものに酷似していたからだ。

このオタク的消費行動とは、「動物化するポストモダン」という本の中で述べられているオタク第三世代と呼ばれる若者たちのデータベース消費と呼ばれる消費行動である。これは、たとえば、萌え要素と呼ばれるものを任意に抽出して楽しむ行動だという。もっとわかりやすいように、極端な例を作るとすれば、たとえば、あるアニメを見るときに、そのアニメを第一話から最終話まで順序だって見るのではなく、好きなキャラクターが登場する第2話と第5話のみを何度も見て楽しむといった感じであろうか。もっとも、これは極端に単純化した例であって、実際は、アニメオタクとして従来なら見ておかなくてはいけない様々なアニメを順序だててみていくというのではなく、自分の好きなアニメだけをつまみ食いのような感じで見ていくというイメージであると思う。このような最近のオタクと呼ばれている若者たちの傾向は「オタクはすでに死んでいる」で岡田さんも述べていることである。

平野さんが言っているように、こういうことは、どちらがいいというものではないのかもしれない。単純に情報の処理の仕方というものが変化してきた結果だというだけなのかもしれない。いや、そもそも、このような情報処理の仕方というものは、昔から志向されてきたことなのかもしれない。体系だった知の階層構造や、その知の体系を管理するアカデミックな世界という権威に対する反動として、以前から若者を常に魅了してきた考えなのかもしれないからだ。以前は、そのような反権威主義的な志向があったとしても、高度な情報に、その情報を管理する制度の外側からアクセスすることは容易ではなかった。それが、現在では、ウェブやコンピューターの発達とともに、複雑な知のヒエラルキーを無視して、すべての情報が単一平面に広げられ、だれもがアクセスできる状態になったというだけのことなのかもしれない。

このように知識がネット上に存在して、誰もがアクセス可能である現代では、知識を持っているということだけで、知の権威を保つことはできない。なぜなら情報はすでにネット上にあり、誰もがアクセス可能だからだ。だから、これから重要になってくるのは、知識の有無や知識の独占ではなく、知識の存在を認識できているかということになる。つまり、知識それ自体ではなく、ある問題を解決するためにはどのような知識が必要であるかというメタレベルでの知識体系の構造を把握しているだけで十分なのだ。知識それ自体は、必要に応じていつでもアクセスできる。しかし構造を知らなければ、つまりある知識の存在を知らなければ、その知識にアクセスすることはできない。だから、そのような浅く広く様々な知の体系の構造をしることが、ネット上の知を十二分に活用できることにつながっていくわけである。

このような考えは十分理解できることである。確かに知識それ自体を持つことには何の価値もないような時代に突入しているだろう。クイズ王と専門家の違いと同じである。しかし、果たして浅く広く様々な知識のインデックスを持っているだけでいいのだろうか?インデックスを持っている人は確かに、ネット上に散在している、個々の断片化された情報を有効に活用できるであろう。しかし、このようなインデックス主義だけで十分なのだろうか?ネット上の断片化された情報を引き出すことが、学問の目的なのだろうか?私はそうは思えない。インデックス主義では、断片化された情報が一つの体系を呈しているかもしれない。この状況のときは、この情報とこの情報を参照すればいいといった感じである。つまり索引と同じ役割を果たしている。しかし、索引は目次にはなりえない。つまり、ある知識体系を形成している構造の鳥瞰図としては、インデックスではなく、目次のようなメタレベルの知識体系が必要だと思うのである。

このインデックス的な情報処理の仕方と、目次的な情報処理の仕方は大きくことなる。ある分野に精通している人は、おそらくインデックス的な情報処理のみで十分である。しかし、初学者たちにとっては、インデックス的な、つまみ食いに似た情報の消費の仕方には、二つの大きな問題があると思われる。1点目の問題点として、断片化された知識を活用するためには、それらを、いかに有効に利用するかというメタレベルの知識体系が必要である点だ。それを抜きにして知の活用はできない。なぜなら、まったくの無から、必要な情報を取捨選択できるとは到底思えないからだ。そして2点目の問題点としては、乱雑に並べられたデータベースのような知識がいくら充実していようとも、そこから、新たな知は創造されないと思われる点である。ということで、次にこの2点について、さらに詳しく考えてみたい。


つづく

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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