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ポップアート

ポップアートという名まえは聞いたことがあった。しかし、どのようなものかいまいちわからなかった。『踏みはずす美術史』という本によると

かぎられた少数の人々ではなく、多くのひとびとが生活の中で目にする親しみのあるイメージ(ポピュラーイメージ)が注目されている。それらが芸術家を経由して、日常生活の場所から芸術のジャンルに移しかえられたとき、ポップアートが生まれたのです。卑俗(キッチュ)で安物(チープ)で、高尚な「お芸術」とは無縁だと思いこんでいた「ポピュラーなもの」が、かえって新鮮な美の光景に見えたので、みんながびっくりしてセンセーショナルな話題になっていった。(145-146ページ)



ということらしい。ようするに、芸術の大衆文化化みたいなもんなのだろうか。まあ、文章よりも、いくつか絵を見たほうが早いだろう。この本の中では、次のような絵が紹介されている。



リチャードハミルトンの絵



キャンベルスープ



ブリロの箱



うーん・・・(汗)
確かに、アメリカでは、よく目にするようなものばかりが使われているのだが、この絵の、どのあたりが芸術なのか、凡人の俺にはまったくわからない(笑)。まあ、でも、高尚な「お芸術」みたいなものが、大衆のための芸術になったという流れが美術の世界にもあったというのは興味深い。

ただ、それだけが理由で、この本を紹介したわけではない。『踏みはずす美術史』を読んでいて面白いなと思ったのは、日本とアメリカではポップカルチャーの捉え方が異なっていたと書かれていたからだ。つまり文化を受容するときに、その文化要素が変容するという現象である。こういうのって、文化人類学でも重要になってくるので、ここで紹介したかったのだ。

それでは、アメリカで誕生したポップアートは、日本に持ち込まれたとき、どのように変容したのか?まず、ポップアートが受容されたときの日本の状況を確認しておきたい。この本の著者の森村さんによると、次のような感じだったという。

・・・美術評論家の難解な議論と、見えにくい小さな図版しか情報源はなかったのでした。「キャンベルスープ」といったって、そんなもの日本には売ってなかったし、ましてや食べてみたこともなかった。絵に描いた餅ならぬ、絵に描いたスープだった。
 つまり、これはたいへん重要な点だと私には感じられるのですが、「ポップ」といわれていたけれど、このスープは、日本に住む私にはぜんぜん「ポップ=ポピュラー(なじみのあるもの)」ではなかった。カップヌードルとかかっぱえびせんなら、よく見知ったポピュラリティのある商品です。それらとは異なり、キャンベルスープは、はじめて目にする目新しいイメージでした。(149-150ページ)



アメリカのポップアートが入ってきたとき、日本でのポップアートの議論は、「記号論的あるいは表現論的(148ページ)」なものが多かったらしい。ようするに難しいことを、いろいろと、こねくりまわしていたらしいのだ。では、その日本人論者たちが、実際にそのアメリカの大衆文化を熟知していたかというと、そんなことはなかったらしい。1960年代の日本では、アメリカの日用品なんて、そこまで使われていなかったし、あまり知られてもいなかったのだから。

キャンベルスープもブリロの洗剤もアメリカでは大衆文化の象徴であり、大量消費社会の象徴でもあった。だから、これらを題材にしたポップアートも、高尚な芸術ではなく、もっと身近な芸術になっていた。しかし、日本に持ち込まれたとき、ポップアートの意味は次のような変容を見せる。

 簡単に言ってしまうと、ブリロの箱もキャンベルスープの缶詰も、「カッコよかった」んですね。それらはこれまでの日本の湿り気の多い生活感覚とはべつものでした。日本文化にとっては、じつは「ポピュラー(なじみのある)」なものではなかった。はんたいにものめずらしく新鮮で「ストレンジ(不思議)」なものとして、カッコよく日本に上陸してきたわけです。
 ポップアートが日本に入ってきたとき、多くのひとびとにとってそれが刺激的だったのは、ポップアートそれじたいというより(言いかえれば、その芸術的意味からというよりも)、ポップアートをとおして、カッコいいアメリカをかいま見ることができたからではないでしょうか。キャンベルスープやブリロの箱のようなシャレた日用品がごろごろしている。そんな「ポップ」なセンスがポピュラーであるアメリカのライフスタイルがカッコよく見え、あこがれのまなざしが向けられた。ポップアートについての難解な芸術論は、「ポップ」なカッコよさに魅了されたり、とまどったりした感覚の裏づけ作業として働いたのだと私は思います。(152ページ)



このように、ポップアートの本来の意味が大きく変わってしまっていた。ポップアートの存在意義は、その成立からして、高尚な芸術を大衆の芸術にするための運動だったように思う。もしもそうならば、日本に持ち込まれたとき、その芸術の大衆化という部分がすっぽり抜け落ちてしまった日本のポップアートとは一体なんなのだろうか?高尚な芸術とは違うが、大衆の芸術とも異なる。とても面白い現象のような気がする。このような「ずれ」はポップアートに限らず、異文化を受容するときに必ず生じるように思われて、興味深い。




と、思いません?

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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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