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朝生の堀江貴文氏の発言を考える(前編)

 先週の金曜日の深夜に放映された「朝まで生テレビ」における堀江貴文氏の発言が物議を醸しているようだ。私も金曜日の夜中眠い目をこすりながら最後まで見ていたのだが、「激論!日本は本当にダメな国なのか」と題して、日本の将来についてジャーナリストや政治家、経済学者など多彩なメンバーが討論していた。番組の前半は日本経済の再生などについて話していたのだが、後半で急に国旗国歌の話が始まって結構面白くなってきたなと感じたのを覚えている。国旗国歌には問題があり、それを強制する日本の状況は変だという田原総一朗氏の問題提起から始まって、防衛の話に論点がシフトしていったのだが、そのなかで、堀江氏が彼独特の国家観や防衛論を唱え、それが常識と大きくかけ離れていたために議論が紛糾したのだ。

 堀江氏の発言内容の詳細は、すでにネット上にアップされているし、動画もアップされているので、詳しくはそちらを参照してほしい。



とりあえず堀江氏がどんなことを言っていたかというと、例えば次のようなことを言っていたと思う。

  • 北朝鮮や中国が日本を攻めてくる理由もないしメリットもない。だから攻めてくるはずがない。つまりこれらの国が危険だと想定するのはナンセンスだ。

  • もし仮に攻めてきたとしても、国際世論が黙っている訳がない。日本が軍事的行動に出なくても国連軍が助けにきてくれるはずだ。

  • 尖閣諸島など必要ない。欲しいならあげちゃえばいい。そもそも中国が攻めて来たら、戦わずに明け渡せちゃえばいいのだ。もしどうしても必要というならばお金を出して買い戻せばいいだけの話だ。中国はお金さえ出せばどうとでもなるはずだ。

  • 中国が沖縄を占領するなんてあり得ない。なぜなら沖縄の人民を押さえ込むことにコストがかかるし、国際世論の非難を浴びたら中国は経済的に孤立してしまう。そのようなコストとリスクをおかしてまで沖縄を占領する理由がない。中国だって沖縄なんていらないというはずだ。

  • 国家対国家の戦いは古い。今はゲリラ戦(テロも含む?)が主流だ。だからもし仮に中国が攻めてきても、ベトナム戦争でアメリカが破れたように、日本人も中国軍に勝てるだろう。いざとなったら愛する人を守るために国民が立ち上がればいいのであって、国を守るということを強制するのはナンセンスだ。そんな強制をしなくても、戦うときにはちゃんと戦う。

 と、まあ、こういう感じのことを言っていた。ちなみにここに書いてあることは、私の記憶をたどって書いているので、正確な情報は冒頭に紹介した動画などでチェックしてください。ただ大筋では間違っていないと思う。

 さて、堀江氏の発言に関してはツイッターやブログなどで反論が書かれている。それに対して、堀江氏は彼のブログにおいて再度反論を試みている。朝まで生テレビの討論についての補足

 またジャーナリストの上杉隆氏の動画サイトに出演して自分の考えの正当性を主張している。


 堀江氏の反論を聞いていると、彼の言い分もわからなくはない部分もあることがわかる。ただし私は堀江氏の国家観に賛同しているわけではない。私が堀江氏の主張で理解できる部分は、彼の国家観ではなくて、彼の思考法に関してだ。堀江氏は反論のなかで常識にとらわれない議論をしたかったと述べていた。この考えはとても重要であり、それを否定するべきではないと思うのだ。

 常識にとらわれない議論というのは現代思想や人類学ではとても重要なことであり、それをないがしろにはできない。だから、私も常日頃から、なるべく自分の価値観を相対化し、常識にとらわれないように考えを深めたいと考えている。つまり堀江氏の議論を非常識や非現実的と頭ごなしに否定することはたやすい。しかし、それは常識でもって堀江氏の意見を否定しているにすぎないのではないかと思ったのだ。堀江氏のヒステリックな反論を見ていると、どこか私がポスト資本主義の話をするときに似ているような気がしてならなかった。

 私は国家論や防衛論では常識的な考えを持っているのに対し、経済の話では後で述べるように、わりとラディカルなことを考えている。市場経済や資本主義経済というもの自体を改変したいと願っている。しかし、そのような議論はあまり一般受けしない。資本主義や市場経済を否定する私の考えは、他の人たちにとっては非現実的で非生産的な議論に映るらしい。もちろん、それがなぜ非現実的な議論なのかは理解できる。しかし、私としては、非現実的だからといって議論を止めてしまうことが問題だと思っている。なぜなら、そういう非現実的な議論こそが、経済問題の議論の本質であり重要であると考えているのだ。

 堀江氏も同じようなことを感じたのではないか。彼はあえて非現実的な状況を問題提起したのではないだろうか。それを現実的でないと否定することは容易いが、常識の範疇でしか議論できない狭い視野では理解できないこともあるのではないか。堀江氏はそういう大きな視点で議論しようとしていたのではないのか。そう感じたのだ。だからこそ東浩紀氏も堀江氏の擁護にまわったのではないだろうか。そのような多様な視点で議論することは重要だし、それ自体を頭ごなしに否定するべきではないと思う。

 しかし、私はそれでも堀江氏に対して反論したい。それはなぜかというと、多様な価値観を重視するのはいいことだが、それと同時に単一の価値観すなわち大きな物語と呼ばれているような価値観の共有も共同体内では重要ではないかと思うからだ。

 そういうことで、今回は多様な価値観がいかに大事なのか、そしてそのような多様な価値観を押さえてでも単一の価値観を共有することが必要なときとは、どういう時なのかということを考えてみたい。そのようなことを考えることによって、堀江氏の意見が間違っているということを再確認できるのではないかと思う。

 それでは、まず、なぜ私が堀江氏の発言に対して反対すること躊躇したのかという点をもう少し詳しく説明してみたい。このブログでもしばしば言及しているように、私は人類学者として文化相対主義を重視している。文化に限らず、様々な点で多様な価値観を尊重する相対主義という考えは重要だと考えている。相対主義の一番の敵は何かというと、「常識」だ。つまり多くの人たちが当たり前だと思ってしまう事柄、それ以上には深く考えずに思考停止してしまっている事柄が常識と呼ばれるものだ。

 このような「常識」は日常生活を営む上ではほとんど問題にならないし、意識にのぼることもほとんどないだろう。そのような「常識」が意識されるのは、その「常識」が通用しない状況に直面したときである。例えば外国で生活をしたり、外国の人たちと交流したときなどがそれにあたる。そのとき初めて、自分の「常識」が相手の「常識」ではないということを知る。そして、自分たちが当たり前だと思っていた「常識」が実は当たり前でもなければ、物事の本質でもないということを知る。

 相対主義を理解するということは、自分の「常識」が絶対正しいというわけではないということを理解するということだ。つまり自分の価値観だけがすべてではないということを知ることなのだ。それを理解することによって初めて他人の価値観を尊重することができるし、お互い尊重し合うことができるのだ。付言しておくと、そのような相対化は自分の価値観を否定することではない。左翼系知識人に多いのだが、相対化→外国の人と仲良くすること→日本文化を否定して彼らの文化を批判なく受け入れることだと信じている、おめでたい人たちがいるが、相対化は自分の価値観を取り去って他者の価値観をまるまる受け入れてしまうことではないのだ。そうではなくて、自分の価値観をしっかり持った上で、それが絶対的な価値観ではない、自分の価値観は絶対正しいというわけではないという謙虚な気持ちを持つことに他ならない。だから西洋文化や中国・韓国などの文化を称揚し日本文化をないがしろにしている進歩的知識人たちは多様な価値観を尊重などできていないのだ。むしろ外国の価値観を絶対視している点で、日本が一番優れているとがなり立ててる街宣右翼と同じレベルだと言わねばならない。まあ街宣右翼は右翼じゃないが。。。

 さて、「常識」の話に戻ろう。常識とは社会や文化に固有のものであり、しばしば伝統文化と混同しがちだ。しかし実際には伝統文化と完全に同一視されるべきものではない常識もある。例えば資本主義経済や市場経済が始まった近代以降に作り出された常識である。つまりその時代のその社会の成員が当たり前だと考えて疑わない価値観はすべて常識の範疇になる。だから常識が常に個々の社会特有の何かである必要なないのだ。

 文化や歴史が異なる二つの社会においても社会構造が似通っている場合は、同じような常識がまかり通ることがある。マルクスは経済活動(生産活動と交換行動を含む広義の経済活動)などの下部構造が、精神文化などの上部構造を規定すると考えた。社会や文化はそこまで単純ではないのだが、それでも資本主義をベースにした近代社会はどの国でも同じような価値観を共有していることも事実だと思う。アメリカでも日本でも韓国でも歴史や基層文化は異なるが、生きる目的や人生の成功モデルなど精神面から生活スタイルや流行まで多くの価値観を共有している。お金を稼ぐことが社会人として当然だとか、働く女性は輝いているとか、公式な場ではスーツを着るべきだなど、様々な考えが先進国や新興国で共有されているだろう。

 このような資本主義の市場経済システムを下部構造としている社会では、それに規定された上部構造の価値観は、歴史や文化に基づく基層文化よりも、より普遍的な価値観だと思われがちだ。なぜなら他の社会との比較が困難だからだ。例えば日本文化の特異性を知るには他の国に行けばいい。西洋文化に接すれば日本特有の文化や考え方が見えてくる。一方、資本主義社会に特有の価値観というものは、資本主義以外の経済システムを採用している社会に行かないと見えてこない。しかし現代社会において資本主義や貨幣経済とまったく異なる経済システムを採用している社会は少ない。だから資本主義や市場経済がない社会というものを想像することも、そのような社会では何に価値をおいているかを知ることも極めて困難になってくる。そして、そのような比較対象がないと、我々の価値観を相対化することも困難になる。もっと言えば、文化や歴史が異なっているのに同じ価値観を持っていることをしると、それがあたかも人間社会に普遍的に見られる価値観だと考えてしまうだろう。資本主義の市場経済システムによって作り出される常識を疑うことは、だから文化や社会に根ざした常識を疑うよりも困難なのだ。

 このような資本主義の市場経済や貨幣経済と関わりのない社会の状況を知るには人類学の知見に頼るしかない。考古学や文化人類学は時間的・空間的に見られる多様な社会を研究している。その比較によって我々が当たり前だと思っていることのほとんどが実は当たり前ではないということを知ることができるのだ。それは自分の価値観を相対化する第一歩となる。これが人類学が、経済学や政治学、社会学など他の社会科学などと大きく異なる点だ。

 文化人類学の中に経済人類学という分野がある。経済人類学にはいくつかの流派があるのだが、その中の一つは人間行動の本質を交換行動と位置づけている(経済人類学に関しては以前このブログに書いているので興味のある方は経済人類学序説1 経済人類学序説2 クラ交易 経済人類学序説3 ポトラッチなどを読んでみてください)。しかし、交換行動が市場経済というわけではない。市場経済は現代社会においては重要な位置を占めているが、近代以前では市場経済はここまで重視されてこなかった。むしろ交換や再分配といった行為がより本質的な交換行動だというのだ。つまりこういうことだ。他の社会から孤立して、交換行動をしていない社会というものは存在しない。交換によって他の集団と交流することは人間社会の本質である。しかし、市場経済は人間社会の本質ではない。市場経済がない社会というものは今まで数多くあった。だから市場経済がなくても人間社会は存在できるのだ。それではなぜ交換行動をするのか。それは他の集団と交流するためだ。決して金を稼いだりすることが人間社会の本質ではないのだ。そうならば、人生の目的もかわってくるだろう。金持ちになることや、高価なものを持つことが、人生の目的と思っている人がいるかもしれないが、それは現代社会でしか通用しないことがらだ。むしろ人間関係を円滑にしていくことこそが、人間社会の本質的な行動であると言える。

 このような観点から議論すると、現代の社会問題は資本主義に問題があるという結論に達するだろう。経済学者や社会学者そして一部の人類学者などは発展途上国の生活水準を高めるのに経済の発展モデルを提示している。どのように現地の経済を発展させたらいいのか、どのように公平な貿易をしたらいいのかと行った事柄を考えている。つまり資本主義というシステムは変更せずに、そのシステムの上でいかにうまく立ち回るかということを研究しているのだ。それは確かに現実的な対処の仕方だろう。そして、それによって多くの人が助かるかもしれない。

 しかし、見方を変えれば、そのような療法は、病気を治さずに、表面的な治療を行っているようなものに見える。現代の問題の核心は資本主義の市場経済システムだ。そしてそれはすべての価値を貨幣に換算してしまう市場に問題があると考えられる。それが拝金主義を生み出し、文化や道徳というものを飲み込んでいってしまっている。市場経済が発達していない社会においては、交換行動はもっと宗教的で政治的な行為であった。つまり人間関係を円滑にするために行われていたのだ。富を蓄積することは悪と考えられていたし、ヤップの石貨のように貨幣はある目的のためにしか使用できないため、それを所有することが富の一極集中を生み出すことにはつながらなかった。このような様々な状況を見てくると、資本主義に固執する必要もないし、資本主義が優れていると考える必然性もなくなってくる。もっと優れた経済システムを世界各地の社会は独自に築きあげてきたのだし、これからも資本主義貨幣経済などとは異なる経済システムを作り出せる可能性は十分にある。市場経済が肥大しそれによって拝金主義が蔓延する。そのようなニヒリズムの世界よりも、もっと人間社会に本質的なものを大事にする社会が可能なのだ。それは、富の蓄積ではなく、万人が物質的に富めるといった安っぽい社会ではない。そうではなくて、もっと精神的に富める社会。すなわち人間同士の関係性を強化していくような交換行動を基本とした経済システムこそが求められているのだ。

 と、このような議論ができる。そして、そのような議論こそ、するべきだと思う。常識にとらわれて、資本主義の市場経済システムが当たり前だとして、それ以上は思考停止してしまうと、その先のアイデアが生まれない。資本主義の市場経済システムという前提に問題があったならば、それを疑わずに議論していても、根本的な解決にはならない。だからこそ、すべての常識を疑ってかかることが必要だし、そのためには自分の価値観を相対化していくべきなのだ。これが私の意見である。

 さて、それでは堀江氏の考えも同じように尊重するべきなのだろうか。当たり前だと考えられている国家観や国旗国歌に関して堀江氏の意見は相対化できているのか。それとも、国家観などは相対化するべきではないのか。その辺りを次回見ていきたいと思う。

続きは↓
「常識と本質 朝生の堀江貴文氏の発言を考える(中編)」



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オタク文化論のすすめ

 この文章はフェイスブックの方にのせたものなので、ちょっと喋り方が気色悪いですが我慢してください。内容自体は以前このブログで何度かアップしたものとほとんど同じですが、批評家の東浩紀さんたちが提唱するデータベース消費というものについて少しわかりやすく説明できたかなと思ったので、このブログにものせることにしました(←同じ文章を複数の場所にのせたりして、「ずる」をしているわけではないんです)。。。というか、同じような内容ばかり書いてしまって申し訳ないです。ほんというと、最近、新しいネタもアイデアも浮かんでこなくて。。。なお、もしデータベース消費やオタク文化論などに興味をもたれたら、ぜひ東浩紀さんの『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』などを参照していただけたらと思います。

 私の理解している範囲で少し説明をさせてもらうと、最近議論されている「オタク系文化」の特徴の一つは、萌え要素を楽しむ傾向があるということです。アニメやRPGゲームを楽しんでいるとき、キャラクターが出てきますよね。そのキャラクターは、物語を無視しては存在できないはずでした。例えばアニメのキャラクターだったら、本来ならアニメの物語の中でしか存在できないはずです。物語があってこそのキャラクターですから。ただ、最近の傾向として、物語から乖離したキャラクターというものが好まれるようになってきました。つまり物語はどうでもよくて、表面的な特徴、例えばメガネをかけているとか、妹キャラだとか、髪の毛がはねてるとか、ツンデレだとか、そういう特徴だけが注目されるようになってきているそうです。それが萌え要素と呼ばれるものです。物語が関係していないので、同じキャラが違う物語に登場できたりするわけです。また、萌え要素の組み合わせで、似たようなキャラが量産されることにもなります。このように萌え要素を組み合わせて新しいものを作り出していく、そのような楽しみ方をデータベース消費と呼んでいます。ここで重要な点は、そこには物語性というものが存在しないということなのです。それは「大きな物語」を消失したポストモダンの世界に対応しています。で、このような萌え要素を楽しむ消費の仕方(データベース消費)というのは実はオタクだけのものではなくなってきています。

 ネットで何かを知りたいと思ったときに、まず検索しますよね。検索で得られる情報というのは断片化された情報です。ブログを楽しむときでも、ブログの最初からすべてを読むわけではなくて、あるページだけを読むと思います。
 一方、書籍は違います。書籍を読むときは、普通は一ページ目から順に読んでいくと思うんです。論文書いているときなどは、必要な箇所だけ参照するということをしますけど、基本的には紙の本は最初から読むことを想定されていると思います。そして、その書いてある順序というのは、書き手の意思が(ある程度は)反映されているはずなのです。つまり書き手が作り出す「物語」にそって書かれていたはずです。読み手は、本を読むことによって本の中の情報を得るとともに、書き手の「物語」も同時に受け取っているのです。ネット検索で得られた断片化された情報では、その背後に存在するであろう書き手の「物語」は忘れ去られています。ネットで情報を得るというのは、「物語」を消費することではなく、断片的で表面的な情報だけを消費していることになります。つまりデータベース消費と同じに構造になっています。そういうことでオタク系の情報の消費(消費といっても購買行動ではなくて情報の利用の仕方という意味ですが)の仕方というものは、実は世界中で見られるようになって来ているのではないかということになります。

 よく言われるもう一つの例としては音楽があげられます。音楽を楽しむのに、昔は作り手がアルバムを作りました。作り手がこの順番に聴いて欲しいという曲の順番を決め、その曲の順番こそが作り手の「物語」だったわけです。つまり聴き手はアルバムを最初からきちんと聴くことによって、作り手の「物語」を理解できるし、楽しむことができていました。それが、今では気に入った曲だけをダウンロードしてiPodなどに入れて楽しんでしまいます。つまりアルバムに込められた作り手の「物語」などには興味がなく、音楽は曲単位に断片化され、気に入ったものが萌え要素のように消費されています。これもデータベース消費といわれるものの一種のようです。

 とりあえず、オタク系文化とポストモダンというものは親和性が高くて、データベース消費というようなオタク系文化の本質的な部分が世界中に広まっていくんじゃないかと思うわけです。そして、もしそのような消費行動が広まっていくのであれば、経済活動にもいろいろ影響していくだろうし、そういうことでオタク系文化の研究というのは机上の空論でも、一部のマニアックな研究者のお遊び学問でもなくて、実は経済学や社会学など様々な研究分野を巻き込んだ学問領域になっていくのではないかと考えています。


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「説明」と「解釈」

 お気に入りのブログで『トリック』というドラマが何度か取り上げられていた。なんでも『トリック』はメタフィクション性を感じさせるドラマらしい。メタフィクションと聞いて興味がわいたので、一昨日からトリックを見はじめた。違う意味でおもしろかった。まだメタフィクション性とかは、はっきりと出ていないが、確かに普通のドラマとは若干異なる雰囲気を醸し出している。どことなくアニメや漫画的という感じか。ウィキで調べたら2000年初めごろの作品らしいが、今でも十分通用する作品だと思う。まあ、今更、そんなことを言う必要もないかも知れないが。

 もう少し見ないと、漫画的なメタフィクション性という部分を語ることはできないようだが、今までの部分でおもしろい部分と言えば、超常現象をいかに説明するかということがテーマの一つになっているという点だ。簡単に言ったら、「X-file」と「ガリレオ」という二つのドラマを足して2で割ったような作りだろう。もちろんコメディ要素をふんだんに盛り込んでいる部分も、このドラマを特異な存在にしている重要な要素ではあるわけだが、今回はコメディの部分はスルーしておく。

 さて「ガリレオ」と「X-file」というドラマについて若干説明しておきたい。「ガリレオ」というドラマは天才物理学者のガリレオ先生が怪奇事件を次々に解決していくというドラマだ。ガリレオ先生は超常現象を信じていない。すべての事象には原因があり、論理的に考えていけば、物理現象として説明可能な現象しか、この世には存在しないと考えている。

 一方、「X-file」は超常現象がからんだ怪奇事件を捜査するFBI捜査官の物語なのだが、その主人公であるモルダー捜査官は超常現象の存在を信じている。つまり科学では説明不可能なものの存在を認めているのだ。その上で、モルダー捜査官は超常現象を理解しようとする。今の科学では解明できないことでも、実は将来解明できるのであると信じている。例えばまだ解明されていない高度な科学法則によって解明できる場合もあるだろうし、宇宙人や新種の生物のように未だ発見はされてはいないが、その存在を仮定したらすべての謎が解明されるという場合もあるだろう。つまり今の科学力や情報では超常現象に見えるのだが、実はそれは説明が不可能な事象ではないということでなる。単に人間の科学技術がすべての現象を説明できるレベルに達していないだけなのだ。

 この『トリック』のドラマは、今のところ『ガリレオ』に近い感じだ。犯人は毎回、自分こそが本当の霊能力者だというのだが、結局、主人公の女性マジシャンにトリックを見破られる。ただ、ドラマでは何度となく、本物の霊能力者がいるということを言っているので、ドラマの最後では本物の霊能力者が現れるのかもしれない。もしそうならば『X-file』に近い展開になっていくだろう。ただ、ここで注目してほしいのは、どちらの展開になるにせよ、理解不能な事象をすべて理解しようとする、もしくは、説明することを要請している点では同じなのである。

 実は『ガリレオ』と『X-file』そして『トリック』はすべて同じ地平にたっている。どういうことかというと、すべての現象を説明しようと試みているのである。これはすべて科学的思考法である。なぜなら科学の目的は「説明」することだからだ。「ガリレオ」は科学者だが、モルダー捜査官はオカルト信者だから科学を信じていないと考えるのは誤りだ。モルダー捜査官も十分科学者的なのである。そして『トリック』も今のところ科学的思考法のドラマでしかない。

 なぜこのようなことを考えているかというと、この数年、理系と文系の対立というのが、理系人間の無知から生じている可能性が高いということに気がついたからだ。(ただ、科学を理解できていないだけなのに、科学などまったく必要ないと言ってはばからない、文系人間の負け惜しみの言説を支持するわけではない)。つまり理系から見ると、文系の理論は客観的ではなく、故に科学的ではない。『ガリレオ』的ではなく、『X-file』的なのである。つまり「科学」と「オカルト」と対比してしまっている。しかし、文系の思考法というのは、決して「オカルト」的ではないのだ。

 科学は事象を「説明」しようとする。何かを理解するためには、説明できなければいけないと考える。このような考えは一般的だと思うのだが、実は何かを理解するために「解釈」するという方法論も存在する。それが人文系や芸術系が採用している文系の研究法なのだ。ただ科学系や社会科学系の研究者は「理解」=「説明」だと思い込んでしまっている。さらに学校教育のせいで、一般の人も科学的思考法に慣れ親しんでしまっているために、何かを理解することは説明することなのだと信じこんでしまっている。なぜなら、学校教育では、「なぜそうなるのか」とか「なぜそれが起きたのか」ということばかりが問題になる。そして、そのような問いには必ず答えが容易されている。だから、何かを理解するということは、答えを提示して説明することだと勘違いしてしまっている。だからこそ、ドラマでも『トリック』や『ガリレオ』『X-file』といったように、「説明」してくれるようなドラマを見ると何か満足感を得ることができるのだと思う。もちろん、その説明は科学的である必要はない。超常現象オチでもいいわけだ。だからミステリーやSFだけではなくて、ホラーも「説明」してくれる物語に入るだろう。

 ただ、そのような思考法だけでいいのだろうか?と最近思う。そもそも単純な答えを与えられなくてもいいのではないか。むしろ、考えることに意味があるのではないかと思うのだ。そして、「解釈」を提示し共有したり批判したりする態度というのは、単純な説明や答えを与えられる行為よりもはるかに高度な知的作業ではないかと思う。もしそうならば、そのような思考法こそ、小学校から学んでいくべきことではないだろうか。世の中には、簡単には説明できない事象が数多くある。例えば、何かに感動した時に、その感動を科学的に説明しても意味がない(もちろん、まったく意味がないわけではないが)。むしろ感動を分かち合うことにこそに意味があると思う。もちろん、そのような感動の仕方は一つではない。だから答えは一つではない。科学的思考法では、そのような感動を理解することはできない。それが科学の限界であるように思う。科学のように新しい現象を解明することではなく、むしろ様々な解釈や価値観を共有する事によって、今まで見てきたものを新しい視点から見れるようになる。そのような自己内部の変化こそが本当の成長なのではないか。そのように思う。そして、それが理系と文系の違いなのだろうと思う。



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文化復興運動2

 ということで、先日の続きを書きたいのだが、まず先日だらだらと書いたことをまとめておきたい。いちお次のようなことを書いた。

 文化復興運動というのは、実はいいことなのかどうかは分からない。先進国に住む人類学者が便利な機械に囲まれて快適な生活を送っていながら、文明の利器がまだ行き届いていない辺境の地で伝統的な生活を送っている(完全に伝統的な生活を送っている社会はもはやないのだが)人たちに向かって、伝統文化を守るべきだとか偉そうなことをいうのは、文明社会に反対し牧歌的な伝統社会を懐古するロマン主義でしかない。伝統社会の人たちにも文明の恩恵を受けて快適な生活を送る権利があるのだ。

 しかし、伝統文化を壊してまで、近代化を推し進め、すべての社会が西洋化・近代化されることが果たしていいことなのかというと、それもはっきりはしていない。特に自ら西洋化を推し進めた日本の今の状況を見たときに、はたして住みやすい社会になっているのかというと、よく分からないだろう。物質主義・拝金主義にどっぷり使ってしまっている日本よりも、自給自足で貧しい生活を送っていてもお互い助け合って生きている社会のほうがよっぽど幸せなのではないか。人間関係が希薄になって貧困などが原因で自殺者も増えている都市部の日本人などは、そう思うかもしれない。

 そういうことで、文化復興運動は必要なことなのだろうかということは、実ははっきりとは分かっていないのが現状だ。分かっていないというか、研究者のスタンスによっていろいろな意見があるというほうが正しいと思う。ようするに答えのない問いなのだ。

 ところで、このような問題は政治的なスタンスとは関係のない話である。確かに人類学とかやっている人の多くは左翼系もしくはリベラル系の人なので、保守主義のオレとかは肩身が狭い思いをするのであるが、それでも異文化理解や文化復興運動に関しては、右派とか左派などとは次元の違う話をしている。だから保守主義は右寄りだから民族主義のはずで、それはネオナチとか原理主義者とかエスノセントリズムの人間たちで、彼らは好戦的で人種差別主義者で・・・というようなことは決してない。

 政治とかを、あまり考えていない人たちってのは、エスノセントリズムに走りがちだと言われる。まあ、確かにそういう面はあると思う。ただリベラル思想というものを、ほとんど理解せずにリベラルを気取っているファッション左翼も多いと思う。平和とか人権とか美辞麗句を並べられたら、普通は否定できないからね。ようするに、あまり考えていない人は左翼にも右翼にもなるわけで、唯一の違いっていえば、左翼系は女性的、右翼系は男性的というイメージがあるので好きな方を選ぶぐらいの違いなんじゃないだろうか。ここでは、そういう人たちの考えは考慮しない。

 さて、話を戻すが、右派と左派は同じような考えになっているということを説明したい。まず異文化理解という点に関しては右派も左派も似たような態度を示すと思う。例えば、保守主義(右派)とリベラル(左派)では立場は異なるが、異文化を尊重するという点では意見は一致している。

 もちろんこれは社会外部を見るときと社会内部を見るときでは異なる。保守主義とリベラル左派が異なるのは社会の内部を見ているときだ。前にもこのブログで何度となく述べていることだが、保守主義は共同体内部に対しては「大きな物語の共有」を強調する。それが共同体の絆を強固にするからである。それに対してポストモダンのリベラル左派は共同体内部の多様性を強調し「大きな物語の消失」を宣言している。もちろんどちらに比重を置いているかという問題であって極端な話をしているわけではない。だから、保守主義が全体主義を志向しているわけでもないし、リベラル左派もアナーキズムを志向しているわけではない。保守主義も個人の自由を認めているし、リベラル左派も無際限の自由を認めているわけではない。だから結果としては、両者ともまったく異なる理想を掲げているというわけではないのだが、それでも保守主義とリベラル左派は共同体内部に対しては意見が若干異なっているのは事実だろう。

 しかし、共同体の外部に存在する異文化に目を向けたときには、保守主義とリベラル左派は同じような態度をとる。保守主義もリベラル左派も文化相対主義の立場をとっているためだ。保守主義は相対主義によって自分たちの文化の正当性も保証される。だからこそ他の文化も尊重することが要請される。リベラル左派にとっては、もともと多様な価値観を認めているわけだから、異文化を尊重するのは当たり前になる。つまり、どちらの立場でも異文化に対しては寛容な態度をとっているのだ。

 左派にはリベラルとは異なる、もう一つ大きな潮流が存在する。それがマルクス主義だ。文化を全否定している古典的マルクス主義は伝統社会などには見向きもしないので論外だが、構造主義的マルクス主義などは人類学者にも大きな影響を与えてきた。例えば、世界の辺境地域が世界経済に包摂されてしまうという世界システム論などを使って伝統社会が世界経済の波にどのように対応してきたかという研究などを行っている。このあたり資本主義と伝統社会の対立軸において伝統社会内部や外部との関わりなどの社会の動態を明らかにしようとしている。ただ階級闘争など対立軸が好きなマルクス主義人類学でも、伝統社会は必ずしも世界経済の波に押しつぶされている弱者という単純な構図を提示しているわけではない。そうではなくて、伝統社会も実はもっと主体的な選択をするエージェントとして、強大な力を持った外部社会とうまく(ときには狡猾に)渡り合っているということを明らかにしている。そのなかで社会も文化も変化していく。

 まあ、こういう感じで、政治的スタンスが保守主義であろうと、リベラル左派であろうと、マルクス主義であろうと、異文化を尊重するという態度では一致しているし、おそらく文化復興運動ということに関してはあまり対立はしないと思う。伝統社会や伝統文化に対して理解を示していないのは、むしろリバタリアンなどではないかと思う。アメリカのネオコンや新自由主義者とかなのだが、彼らの問題は伝統文化に対する理解がなさすぎるということだと思う。オレはそこまで知らないが、ただ外部から見ていると、彼らは自分たちの価値観を世界に振りまいているとしか思えない。もちろん、彼らの中には世界の貧富の差を無くそうと考えているやさしい人たちもいるだろう。しかし、それが本当に彼らにとって幸せなことなのかどうかということまでは考えていないように思う。ただ単に便利なものや役に立つものを与えることが文明社会の義務だと勘違いしている。

 ここではあまり深く述べられないが、例えば近代化に懐疑的な意見を述べると、よく聞く反論に、現代医療だったら助かる命が助からずに死んでいく。そういう状況を黙って見過ごすのかということを言ってくる人がいる。そういう人は、世界中すべてが近代化されることが世界の幸福だと信じている。このような現代医療と伝統社会のどちらを選ぶかというジレンマは映画『ヴィレッジ』にうまく表現されているのだが、おそらく彼らの間違いは医療が宗教に勝っていると信じているからだと思う。我々は、現代医療をもってしても、人の死は止められない。人間は必ず死んでいくのだ。その時に、現代医療でも助けられなかったのだからしょうがないと考えて自分を納得させるのと、祖先の住む世界に還っていったと考えるのとでは、どちらが残されたものにとって幸せなのかということになってくる。つまり、ただただ延命させることが幸せなのか、それとも精神的な幸せを感じるのが幸せなのかということだ。なお医療ではなく宗教が人を救う力があるということを表現した映画に『エミリーローズ』というのがあるので、興味のある方はぜひ見てください。

 まあ、そういうことで、伝統文化を守ることはいいことだとは思う。ただ、何度も言っているように、それは我々が外部からみた意見であって、内部の人間の意見ではない。で、実際に南の島とかにいって生活すると、彼らは西洋社会とかに憧れているのがよくわかる。彼らはハリウッド映画を見たり、フィジーやニュージーランドなどに留学したりする。男は船乗りとして世界中を回ってきたりもする。だから、世界の情報や新しいモノが島にどんどん流入してくる。海外の企業も金儲けのためにやってくる。例えば、オーストラリアとかの会社とかが携帯電話のアンテナを建てたりして、まったく必要のない携帯電話を売りさばく。町は端から端まで1時間ぐらいで歩けてしまう距離なのだが、そこで若者たちは携帯電話で話をする。彼らは話すことではなく、携帯電話を使っているということに意味があるようだ。もちろん、それは彼らの選んだ道だから、俺たちには何も言えない。おそらく言う権利はないだろう。

 ただ、一つだけ我々外部の人間にもできることがあるんじゃないかと信じている。それが教育だ。教育といっても、ニュージーランドなどが南の島の人たちを対象に行っているように島のエリートを留学させてあげるというようなことではない。そのような制度は確かに魅力的だが、実は西洋文化の代弁者をエリート層に作り出すことで西洋文化の優位性を再生産するという新しい支配体制を作り出しているに過ぎない。彼らの学ぶことはすべてが西洋的な価値観だから、そのような価値観が社会の上層部に入り込んで、それによって西洋的な価値観が力を帯びてしまうのだ。だから、そのような留学制度というものは、うまく機能しないと思う(もちろん植民地のように支配したいのだったら魅力的な制度だろうが)。

 そうではなくて、もっと現地の人たちが自分たちで教え、学べる環境が必要なのだと思う。前のエントリーで書いたように、実は日本はそのような観点から見ると、いろいろ興味深い苦労を重ねてきた国なのだ。そのような苦労や知恵が日本人は使えるのではないかと思う。アメリカで人類学を勉強していたとき思ったのは、白人は支配される痛みが分かっていないということだ。白人人類学者は差別される異民族に対して同情はできるが共感はできないと思う。日本人は支配される側の痛みと、支配する側の傲慢さの二つを理解できた唯一の民族ではないかと思う。そして、そのような立場でしか見えなかったものがあるんじゃないかと思うのだ。
 
 そのようなものを伝えつつ、西洋かをいかに相対化するかを一緒に考えることが文化復興運動には必要な事ではないかと思う。そして、その前提になるのは、マヤ言語復興運動のように抽象概念などの現地語を導入して、現地の言葉で考え、議論できる場を創出することが必要だろう。さらに人類学者たちは、彼らに伝統文化の素晴らしさや多様な価値観の素晴らしさを教えることなのだと思う。そのうえで、西洋近代化を推し進める事が、その社会にとって得策であると、現地の人たちが考えるのならば、それはそれで一つの道なのだろう。反対に、近代化よりも伝統文化を守るほうを選択するかもしれない。どちらにせよ、重要なことは西洋文化を相対化できる能力を持つことだ。西洋文化を相対化することで、西洋文化と自分たちの伝統文化を公平に比較することができる。そのためにも、現地語による教育制度の充実が必要になってくると思っている。



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文化復興運動

 アイヌ問題の事に関してはそこまで詳しくないので、一般論の話をさせてもらいます。その中で、少数民族の文化復興に関する自分の考えを書きたいと思います。なので、今回も、ちょっと真面目なネタです。

 少数民族の文化復興運動というのが世界的に注目を集め始めたのは、おそらく70年代以降だと思われる。60年代、アメリカでは黒人差別撤廃の運動が激しくなってきた。その動きはアメリカ先住民などの少数民族の運動につながっていった。

 カナダやニュージーランドでは先住民運動はもっと早くから行われていた。とくにニュージーランドの先住民であるマオリ族とニュージーランド政府との交渉は、極めて早い段階から行われていた。しかし世界的な動きになっていくのは、アメリカの公民権運動や、世界的なポストモダンの流行などが顕著になった、70年代以降であろう。

 さて、異文化を尊重しようというスローガンはおそらくほとんどの人が反対はしないだろうと思う。とくに多様な価値観を尊重するポストモダンが常識になっている現代、自分の文化だけを絶対的なものとして主張するのは自分の無知をさらけ出すことに他ならない。専門的な教育を受けていない普通の人でも異文化を尊重しようと言っているのだから、文化を研究している文化人類学者は異文化を尊重し伝統文化が壊されないように日夜がんばっているものと思うかもしれない。しかし、実は伝統文化が壊されないように見張っていることがいいことなのかどうかは、人類学者の間でも意見がわかれており、まだ解決されていない問題なのだ。異文化を尊重することに反対する人類学者はいない(はずだ)。しかし、近代化をせずに伝統的な生活を送ることがいいことなのかどうかは人類学者の間でも異見の分かれるところなのだ。

 近代化の問題は映画『ラストサムライ』のテーマである。伝統文化を守るべきなのか、それとも近代化するべきなのか。どちらが正しいものなのかは実際のところ、実はよくわからない。従来の人類学者は他の社会にいって、そこで異文化を実践している少数民族を観察してきた。それは現代社会に住む人類学者から見たら、「高貴な野蛮人」と呼ぶにふさわしい、生き生きとした生を全うしている人たちに見えたであろう。また西洋文化とは異なるエキゾチックな文化に興奮し、そのような文化を保持するべきだと感じたかもしれない。近代化の波に押されて近代人が失ってしまった何か大事なものを彼ら現地の人たちは近代化によってまさに失おうとしていたかもしれない。理由は様々だが、人類学者にとっては、伝統文化を守ってほしいと願う気持ちに嘘偽りはなかったと思う。

 しかし、それは大きなお世話かもしれないのだ。彼ら伝統社会に生きる人々にとっては、西洋諸国のように近代化したいのかもしれない。ハリウッド映画は世界の隅々にまで浸透している。彼らはアメリカ人がどのような生活を送っているかということを知ってしまっている。そして、そのような生活に憧れてしまっているのだ。先進国の人間だけが近代化を果たして、伝統社会に生きる人たちは彼らの伝統文化を守らないといけないというのは、先進国に住む人類学者のエゴでしかないだろう。伝統文化はその社会の本質的なものではないのだ。文化は常に変化している。別に今現在の彼らの文化が彼らが何千年も変化させずに守ってきた文化ではないし、これからずっと守らなくてはいけない文化でもない。だから彼らが彼らの文化を守らないといけないという考えは本質主義でしかないし、さらにもっと重要なことは人類学者をはじめとして我々外部の人間が彼らの選択にとやかくいう権利はないのである。彼らが彼らの文化をすべて捨て去り西洋文化をそっくり取り込んだとしても、それは誰も咎めることはできない。

 しかし、と、オレは思う。日本人の人類学者はこのような状況に何か貢献ができるのではないかと思っている。なぜなら日本は世界で唯一、植民地化されずに、(半ば強制的にだが)自ら近代化を推し進めてしまった日本は、はるか150年も前に、すでに近代化の導入と伝統文化の保持というジレンマに悩まされていたからだ。当時は西洋人は西洋文化以外を認めていなかったし、非西洋諸国も西洋文化を崇めてしまっていた。そういう状況にあって、脱亜入欧などというスローガンに見られるように西洋文化を取り入れ西洋人と同化しようとする心情はあったにしろ、現代のグローバル化と伝統文化保持のジレンマを日本社会の中にみることができたような気がする。

 例えば一番わかりやすい例の一つは日本の文字をどうするかという国語学の論争だと思う。明治の初め、中国は西洋列強に植民地にされはじめていた。そのような状況で、中国よりも西洋を見習おうという気運が日本で生まれたのは仕方のないことだった。興味深いのは、そのような時代に、ひらがなやカタカナのみで表記しようとする漢字廃止論者やローマ字表記推進派などが論叢を繰り広げていたことだ。結局、漢字仮名交じりという今に通じる書き方に落ち着いたわけだが、当時の日本人のレベルの高さを物語っているように思う。なぜなら英語やドイツ語を公用語にするわけでもなく、ローマ字表記に走ることもなく、最終的に漢字仮名交じりという極めて妥当な表記法に落ち着いたからだ。同音多義語の多い日本人にとっては、漢字仮名交じりがベストだっただろう。もちろん韓国のハングルのように、ひらがななどで表記することも可能ではあるが、それは弊害も大きいことは韓国の状況を見ているとわかる。

 さらに日本や東アジアがここまで急速に発展した理由の一つに、明治日本における大量の造語が貢献したことが挙げられると思う。西洋文化や技術を学ぶのに、日本人は日本人全員が英語を学ぶんで技術を習得するのではなく、むしろほとんどの概念や単語を日本語(漢字だが)に置き換えてしまうことにより大衆レベルで技術の受容を可能にするという戦略をとった。これは極めて重要な戦略だったと思う。そして日本人が作り出した大量の漢字熟語は韓国や台湾・中国に逆輸入され、それによって彼らも英語を介さずに高等教育を受けることが出来たと思うのだ。

 逆に、今でも東アジア以外の、旧植民地では大学以上の高等教育に必要な概念や単語が英語の借用語でしかないために、英語教育を受けられるエリート以外は、そのような知識体系にアクセスできないといった弊害が生じている。また有能な人材はまず英語を学ばなくてはいけないというハンディを課せられてしまっているのだ。何かに天賦の才を持っていたとしても、語学能力が無ければ認められないというのは、英語圏における天才とはハンディがありすぎるだろう。このような問題を解消するために、中米では高等教育も英語ではなく現地の言葉で学べるようにするというマヤ語復興運動などが展開されているようである。それを日本は150年も前に自力でしかも短期間のうちに完了していたというのは驚きだと思う。

 このように日本はとても特異な存在であるという認識は重要である。これは戦前の日本を肯定しようとして言っているのではない。ただ当時の日本は何のモデルもなく、多様な価値観などはほとんど認めてくれていない西洋諸国と対抗していかないといけなかった。今の北朝鮮のように駆け引きだけで生き延びられるなどという平和な時代ではなかったのだ。そのような緊張した国際情勢のなかで、日本人としてのアイデンティティを無くさないように頑張っていたというのは、実は文化復興運動にも必要なことではないかと思うのだ。

 文化復興運動は自発的な行為であるべきだ。そして、外部の人間がとやかく言える立場にはない。ただし、日本が西洋人と同化することなく、日本という国を保持できたように、少数民族も文化的アイデンティティを保持したいがために文化復興運動を行っているのだ。だからこそ、アメリカ先住民のように、一度はアメリカに同化させられ、自分たちの文化をほとんど忘れてしまっていたとしても、それを復元しようとがんばっているのである。それは決して経済的な繁栄を求めて行っているわけではないのだ。一方、他の少数民族では、伝統文化よりも経済的な裕福さを求めている社会ももちろんある。そのような社会を批判することは外部の人間にはできない。日本が近代化を推し進めた末に現在の日本があるように、他の社会も経済的な繁栄を求めることは、当たり前のことなのだ。そのような伝統社会に対して何ができるのかというのが、オレがいつも考えてきたことだ。まあ結論は出ていないので期待されても困るのだが、もう少しだけ書きたいことがあるので、続きは明日書きます。おそらく。



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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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