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短い文章の日記を書いて夢を実現させよう!

今日、ツタヤの横を通ったので、ちょっとのぞいてみたら、面白そうな本を発見!
それがこれ↓

1分間の日記で夢は必ずかなう!~成功と幸せを引き寄せる!「感性」を刺激する習慣~1分間の日記で夢は必ずかなう!~成功と幸せを引き寄せる!「感性」を刺激する習慣~
(2009/12/10)
今村暁

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タイトルが気になったので、ぱらぱらっと読んでみた。最初は買おうと思ったが、ちょっと高い。正直、買って読むほどの価値があるかどうかは疑問。買う価値があると思う人も要るだろうし、立ち読みで十分と思う人もいるかもしれない。実際、1時間か2時間ぐらいで読めちゃいそうな本だと思う。飛ばし読みだったら30分もかからないかも。まあ、そういうことなので、買ったほうがいいとすすめることは出来ないし、実際、私も全部読んだわけではない。ただ、この本が紹介している一分間の日記というアイデアはいい感じだと思う。

ということで、そこだけ紹介したい。一分間の日記といっても、完全に一分で終わるというわけじゃないんだけど、ノートの一ページまるまるを一日分に使って、そこに5項目を書き込むことをすすめている。5項目というのは

1.夢や目標(長期的)
2.やりたいこと(短期的)
3.今日の出来事
4.感謝
5.その日に学んだことや覚えておきたい言葉など

だそうだ。
で、一番と二番の項目は朝、残りの項目は夜、一文とかのすごく短い文章で書き込んでいく。書くことによって自分のやりたいこととかを意識に上らせて気分を高めていくことが大事なのだから、別に上手い文章をながながと書いていく必要はない。この本の一番のテーマはこの一点だ。もちろん、それだけだと一冊の本にはならないので、これらの項目を実際にどのように書いていくのか、どうやって気分を盛り上げていくのかみたいなことが書かれているようだたった。ほとんど読んでいないので、詳しくは言えない。見た感じ、いろいろ興味深いことが書かれているようだったけど。。。

それでもやっぱり私が面白いと思ったのは短い日記を書くことをすすめている点だ。手帳の書き方とかの本は何冊か読んできただが、夢の実現のために日記を書くというアイデアを、私は今まで考えたことがなかった。わたし的には、日記は自分の思い出を残しておくためのものだと思っていたからだ。ある程度長い文章で今日の出来事や今日感じたことを書くのが日記だと思っていた。

しかし、よく考えてみたら、今、自分が何を求めているのか、何がしたいのか、そして、今日何をして、何を学んで、何に感謝したのかということは、すべて日記に書く題材だ。そして、自分のための日記だから、別に綺麗な字できれいな文章を長々と書く必要はない。短い文章で書いていけばいい。そのようなことを教えてくれただけで、この本と今日出会えたことに感謝したい。ちゃんと読んでいないから、ほとんど自分流にアレンジしていくだろうが、私も短い文章の日記をいろいろと試していきたいと思う。皆さんも、もし興味がわいたら、ぜひこの本を本屋さんでチェックしてみてください。



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人の幸せ (後編)

それでは人間の幸せとは何かという話に入りたい。多様性を考える言論誌kotoba第二号に「幸福に結びつく豊さとは?」と題して、ネパールの事例が紹介されている。ネパールは最貧国なのだが、国民が幸福と感じているかどうかを計る幸福度は日本よりも高いのだそうだ。この記事を書いているのは宗教人類学者なのだが、彼によると、ネパールでは様々な通過儀礼を経て、歳をとるとともに、どんどんレベルがあがっていくのだという。例えば90歳の老婆の事例が紹介されているが、彼女はすでに神として崇められているそうだ。つまり歳をとることが極めてポジティブに考えられている。そのようなイメージは死後の世界にまで拡張されている。だから日本の高齢者のネガティブなイメージとは対照的に、ネパールの人たちは未来に対してネガティブにはなっていない。それが幸せの一つの条件ではないかと、この人類学者は考えている。彼は次のように言っている。

--------------
つまり、人々が幸せでいられるには、いま現在がうまくいっているかどうかということではなく、「未来が確実に幸せかどうか」ということにかかっている。
--------------

この指摘は重要だ。昨日書いたように、パチンコで勝って大金が舞い込んできたとしても幸せを感じられないことの一つに、将来への不安があった。今日大勝ちしたからといって、明日勝てる保証はなにもない。大金を持っていても、不安なのだ。もちろんパチンコをやめて、その大金を使うという選択肢もあるのだが、普通はそこでやめられないのが人間の性だろう。明日勝つかもしれないというのに、みすみすチャンスを逃すギャンブラーはあまりいないと思う。結局すっからかんになるまで、終わりのない泥沼のパチンコの日々を続けざるを得ない。

同じようなことは株でも見られるだろうし、形は若干異なるが、大量消費社会にも見られるのではないだろうか?

大量消費社会では、企業は絶えず新しいものを作り出し、消費者に買わせるようにする。そうしないと企業はやっていけないからだ。そこで広告などを活用して、物欲を刺激し新しい商品を絶えず買うようにしむけていく。例えばPCを持っていて別段機能的に困っているわけではないとしても、新しいPCを欲する様に使いもしない余分な機能をつけたり外見を良くしたりして絶えず消費者の購買欲を刺激する。その結果、必要でもないものを買い、まだ使えるものを廃棄する。そこにあるのは、絶え間なく湧き上がって来る物欲だ。一度ついた欲望には終わりはない。常に新しいものを買うが、それで欲望が満たされることはない。もちろん買ってすぐのころは一番のお気に入りになっているだろう。束の間の幸せを感じることはできるかもしれない。しかし、それはほんの一瞬だ。すぐに新しいものを渇望し、その欲望は日に日に強くなっていく。その繰り返しである。その欲望を永久に満足させるものはない。抑えることができるのはほんの一瞬である。どこかパチンコに似ていないだろうか。束の間の幸せを得ることしかできず、そのあとはまた欲望がめらめらと噴出してくる。常に何かを求め、満足することができない。そんな状態で幸せを感じることができるかといえば無理だろう。つまり、物欲を刺激され絶えず新しいものが必要だと喧伝される消費社会では、自分の欲望を満足させることはできないのだ。消費者が満足してしまったら企業は困る。だから、物欲を絶えず刺激するしかない。だとしたら、消費社会というものが、そもそもの問題なのではないだろうか。それが人間の幸せを阻害しているのではないだろうか。

面白いことに仏教では欲をなくすことで、心の平穏を取り戻そうとした。神に奇跡を求めたり、心の平安を祈ったり、幸福を祈願したりするのではない。幸せを感じるために、外部を変えるのではなく、その人の心の内部を変革する。これは大変興味深いことだと思う。

幸せは何かを得る事ではないのだ。金があっても、もっと欲しくなる。女に不自由なくても、他の女が欲しくなる。綺麗な服を持っていても、新しい服が欲しくなる。何かを持つということで欲望を抑えても一時的にしか抑えられない。新しいものを持ちたいという欲望は渇望にかわり、その渇きを永久に潤すことなどできない。何かが足りないから幸せになれないのではない。何かを欲しいと思うから幸せになれないのだ。だから、その欲望を無くせば心の平安が訪れる。そこにこそ、幸福がある。

物が氾濫している現代社会では、物を所有すれば、それを欲する欲望が満たされ幸せを感じることができると考えがちだ。
しかし、真の幸せはまったく逆で、物を持っていなくてもいいのだ。むしろ無いほうがいいかもしれない。無欲になること。それだけで、薄っぺらい物質主義では達成出来ない真の幸せを得ることができるだろう。

大人の条件

 大人の条件ってなんだろう?昨日、聞かれるまではあまり深く考えたこともなかった。大人の定義など当たり前の事のように思えたからだ。しかし、よく考えてみると、大人とはどんな状態をいうのか、はっきりしない。日本で一般に言われている大人というのは、お金を稼いで経済的・精神的に自立した個人みたいな感じだろう。しかし、このような大人のイメージというものは普遍的な大人の定義なのだろうか?おそらく違う。

 例えば、前近代の社会では、通過儀礼を終えた若者は大人になることが出来ると考えられていることが多い。そういう社会では大抵、大人になると結婚して家庭を持つことが許される。つまり結婚して家庭を持つことが成人した証だといえるかもしれない。もし、このような社会で育っていれば、自立してばりばり働いているが結婚する気のない先進国の人たちは、一人前の大人とは見なされないかもしれない。

 それでは、「経済的・精神的に自立した個人」=「大人」というイメージはどこから来たのだろうか?おそらく、このような大人のイメージは近代西洋社会で作り出されたのではないかと思う。近代という時代の特徴の一つに、人間は理性的な生き物だという信念があった。理性があるがから、人間は常にいい方向に改善する能力があると考えられた。理性的な人間達が作り上げたモノが悪いほうに変化するはずが無い。だから技術も社会も進歩していく。理性的な白人男性が作り上げた近代西洋に向かってすべての社会は発展していくという進歩史観が近代思想の柱になった。

 理性こそが人間を動物から峻別する特徴であり、それゆえに自然界の頂点に君臨する権利を有するとされた。自然を畏怖し自然と共存するのではなく、むしろ自然を人間と対立するものとし、自然を支配する対象と考えるのも、理性ある人間が理性のない動物や自然を神に変わって統治する必要があるという近代思想の表れだろう。同じ論理は植民地の支配体制を正当化する言説にも見られた。なぜなら理性を十分に持ち合わせているのは白人男性に限られたからだ。白人の女性や子供、そして野蛮で理性的とはいいがたい(と西洋人が感じていた)社会に住む非西洋社会の有色人種の人たちは、理性的な人間とは見なされなかった。もちろん彼らは理性がまったく欠如した動物とは違う。有色人種も人間である以上、しっかりした教育を施せば理性的な人間になれる。ただ、白人男性と有色人種の人たちの違いは、理性を兼ね備えた成熟した個人か、いまだ理性を発揮できない幼児かという違いだと認識された。つまり非西洋の人たちや女性達は、大人になりきれていない子供であるというイメージで説明されたのだ。このような考えが近代の特徴だ。そこに見られるのは、理性的な白人男性=大人、感情的で非理性的な人=子供という二分法だった。

 つまり西洋近代における大人の定義は理性を持ち合わせているかどうかということである。理性を持ち合わせていれば自分の行動をすべて把握できている。それはつまり自分の行動に責任が持てるということだ。自己責任で動ける一個の身体。それが近代西洋の個人像であり大人像だ。個人としての大人は社会の束縛から自由に行動することができる。ここでいう自立とはつまり自由ということになる。そもそも現代社会では金があればほとんどのものは手に入る。社会の絆など無くても、金さえあれば生きていけるのだ。

 それでは近代以前の社会ではどうだっただろうか?例えば、昔の社会には村八分という制裁があった。なぜ八分かというと、葬式と火事のときだけは、村人は村八分にした者と交流するが、それ以外のことでは、一切関わらないからだ。追放という社会的制裁がある社会もあった。単に共同体に帰って来られないという制裁だ。死刑などに比べたら村八分や追放などは別に対した制裁に見えない。なぜそれが社会的制裁として機能していたのか?それは、共同体との関係がなくなると、生存が極めて困難になったからだろう。今の社会で、例えば東京のアパートに住んでいるものが村八分になったり追放されたとしても、経済的収入がもしあるのならば、なんら制裁にはならない。なぜならお金さえあればほとんどなんでも手に入るからだ。地域共同体と関係を結ぶことなく、容易に生活が営むことが出来る。しかし前近代では信用や付き合いといったものが生きていく上で重要だった。お金さえあればいいという状態こそ特異で異常な状態なのだ。つまり、近代的な大人、経済的に自立し社会から独立した個人が大人であるというのは、地域共同体内部の人間関係が希薄な現代社会でしか成立しない定義ではないかと思う。

 では、大人の本質はまったくないのだろうか?先にも言ったように、通過儀礼を迎えれば大人の仲間入りを果たせた。そして、それは結婚が出来るようになるという条件にしている社会も多かった。このようなことも大人の条件だと思うが、もう一つ忘れてはいけないことは、人間は成長する過程で社会との関わりの度合いが大きくなっていくという点だ。バンド社会など極めて小規模な社会は例外としても、数家族が共同で暮らす部族社会やそれ以上の規模の社会では、地域共同体内部や外部の共同体との関係など、人間関係は極めて複雑である。同盟や戦争、妬みや嫉妬・羨望、競争や協同など様々な関係が絶えず作り出され、それに対処して生きていく。複雑な人間関係を処理するために人間は知能を発達させたという話を本で読んだことがあるが、人間の一生とは、食べて寝てセックスする以外は、おそらく人間関係をうまく処理して維持していくことに人生の大半の時間を割いているのではないかと思う。つまり人間とは理性的動物以前に社会的動物なのだ。そのような社会では、もちろん人間関係を円滑にすることが重要になってくるし、諍いを調停する長老など共同体の安定に寄与する者たちが要請される。そのような役を与えられるのは、もちろん長年の経験と勘を持った大人たちだ。つまり、子供と大人の違いとは、公共の場で、社会にどの程度貢献できるかということに他ならない。

 例えば古代ギリシャのポリスでは(私は古代ギリシャなどはほとんど知らないのだが)、成人男性は国政に関与し国防の義務を負っていた(と思う)。しかし労働の義務は無かったのではないだろうか?確か奴隷が労働力を担っていた(と思う)。労働をする代わりにポリスの運営と防衛を任されていた。つまり個人的な生活よりも公共の利益を優先することが大人のつとめであるという観念があったのではないかと思う。古代ギリシャを模した未来社会で生きる若者達を描いたSF映画『スターシップトゥルーパーズ』のなかで、軍隊に入隊し選挙権を与えられる「市民」と、経済的には裕福だが軍隊に入隊していないので選挙権を与えられていない「一般人」の違いを語らせるシーンがあるのだが、そこにはもう一つの大人像が見え隠れする。そこでは経済的裕福さや自立した個人などは必要ではない。そうではなくて、個よりも公を優先させることが出来るか否かということが大人と子供の違いになっている。

 大人の定義でもう一つ指摘しておきたいのは、精神的な成長を遂げたかどうかという尺度だ。先に述べた近代思想ではないが、やはり子供と大人では考え方に違いが出てくる。自分の子供の頃のことを思い出せばわかると思うが、子供の頃というのは好奇心があって何でもすぐに覚えることができる。しかし知識を活用する術をしらない。だから事実やルールなど単純な事柄を覚えることは得意でも、多様な価値観を吟味し理解することは出来ない。

 そもそもこの世界は複雑で一つの答えが存在するなんてことはあまりない。ただ、子供たちは世界を単純化し理解しようとする。複雑な世界を複雑なままに受け入れる力が備わっていないからだ。視野は狭く、理解できる世界も狭い。自分の限られた知識で世界の複雑さを理解しようとすれば、単純化するしかない。これはどこか科学的思考法と解釈的思考法の違いに似ている。科学は限られた知識(といっても科学が積み重ねてきた知識体系はもちろん膨大なのだが、複雑な世界の自然現象と比べたら、その知識体系も微小でしかないだろう)でもって複雑な世界が理解できるという信念の元に研究を重ねている。世界を理解するということは、世界の背後にある隠された法則やモデルを見つけ出すことであり、それによって世界を理解可能なものにする行為であると信じている。つまり仮説である法則やモデルで、ある自然現象が説明できれば、その現象を理解したということになる。
 しかし、ある現象を理解するということは、必ずしも説明することだけではない。もともと世界の多くの事柄は説明不可能である。それは知識や実験器具が無いから説明できないという意味ではない。そうではなくて、そもそも答えが一つではないから説明できないのだ。例えば、文学作品を理解するということは何を意味するのか。その文学作品に答えがあるわけではない。ある問いを立てたとき、その問いに対する答えは千差万別である。そのどれもが正解であって、正解ではない。そのような状況で我々に出来ることは、問いに対する答えを並べて吟味していくしかない。つまり多様な解釈を提示することで、作品を鑑賞する新しい視点を獲得し、それによって、より深く作品を堪能することができる。その作業に終わりはない。解釈をして理解を深め、また新しい解釈をしていく。そのような終わりの無い円環運動によって、作品をより深く理解していくことが可能になるのだ。

 このような説明と解釈の違いが科学的思考法と解釈学的思考法の違いではないかと思う。そして、子供と大人の違いとは、この説明と解釈に似ているような気がする。子供は単純な説明を求めるが、成長するにつれ、様々な価値観や考え方を理解できるようになって来る。子供から大人になる過程で確かに論理的思考なども鍛えられるだろう。しかし、それ以上に成熟した考え方というのは、他者の視点を尊重し理解できる視点ではないかと思うのだ。そのような多様な考え方を獲得していく過程こそが精神的成長であると思う。

 そうであるならば、お金がすべてだと信じている拝金主義や、今の資本主義や民主主義が人間社会で一番優れた政治・経済システムだと信じて疑わない人たち、他の社会の慣習や文化を理解しようとしない人たちは、子供の思考法ということになるであろう。私の父親などは、だいぶ歳をとっているのだが、未だに東京が日本の中心だと信じて疑わない。すべての日本人が東京に憧れ、東京に住めることが幸せだという単純な東京中心主義を信じており、他の地域が住み易いなどということは理解できない。このような単純な思考法を持った大人たちは意外に多いのではないかと思う。もちろん、それは日本に限らない。日本以上に単純な二元論を振りかざすのがアメリカ(や多分オーストラリア)だ。例えばシーシェパードなどが、いい例だと思う。

 和歌山県の太地町では、イルカ漁をやめさせようとシーシェパードのメンバーらが漁師に嫌がらせを行っている。南極海では正月早々シーシェパードの抗議船が日本の捕鯨船に妨害行為を始めた。抗議船には今年は二人の日本人女性が乗り込んでいるというから驚きだ。太地町のイルカ漁に対しても、西洋人と同一化してしまって思考停止状態に陥っているような一部日本人がイルカ漁をやめさせようとネット上で声を張り上げている。彼らの問題点は反捕鯨の運動をしていることではない。そうではなくて、捕鯨が悪で自分達の考えが善だという単純な善悪二元論で捕鯨を断罪し、自分達の考えが唯一の真実の答えだと信じてしまっていることが問題なのだ。彼らには、他者の価値観や視点を受容する能力が完全に欠如している。彼らの考えや行動が極めて幼稚に見えるのは、世界に多様な価値観が存在するということを理解できる域に達していないからだろう。だから、傍目に見ていると、論理の破綻した独り善がりの考えを怒鳴り散らす姿に、スーパーで手足をばたばたさせて泣き叫ぶ幼児の姿が重なって見えてくるのだ。

 話を戻そう。大人と子供の違いは何か。ここでは3つの考えを提示してみた。経済的・精神的に自立し社会から自由になった個としての人間、個よりも公を優先する人間、そして多様な価値観や考え方を受容・許容できる人間である。そのどれもが重要であると思われるが、一つ目の「自立し自由な個としての人間」という片手落ちの大人像のみが語られている状況が、今の日本の問題なのではないかと思う。なぜなら、このような自由な(そして身勝手な)大人たちが自己主張する社会ほど住みにくい社会は無いからだ。むしろ多様な価値観や考え方の重要性を尊重し、自己主張よりも他者を尊重する精神、つまり個よりも公を優先する精神性にこそ、真の大人像を求めるべきなのではないだろうか。そのような精神性にこそ、真の大人としての社会に対する責任(ここでいう責任とは、決して自分の行動に対してだけの、自己責任という自分本位な責任に矮小化されるべきではない)が宿るような気がするのである。



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昔の記事

思えば、去年の正月にシアトルのスペースニードルの花火を見てから一年、今年は本当にいろいろあった。で、去年の一月にどんなことをブログに書いていたかなって思って、記事を一つ読んでみた。そしたら、おもしろかった(←自分で言うなー!)
ということで、自分で自分の記事を紹介。

「アメリカン・ビューティーを見て思ったこと」

途中、相当馬鹿っぽい表現とかありますが、もしよかったら、読んでみてください。ツイッターにはまる前なので、今より少し読みやすい文章のような気がします。って、どれだけ自分の文章の下手さをツイッターのせいにしてるんだ>俺?

というか、今日こそブログ書かなくては。
がんばって、今夜には、書きたいと思っていますのでよろしくお願いします。


歳の市に行ってきた

 昨日の続きを書こうと思っていたのだが、今日は家の近くで歳の市が開かれたので、お袋と兄貴家族と行ってきた。というか、兄貴の家の前で市が開かれているんだけど。。。

 俺が子供の頃は、商工会青年部の人が出店っぽいのを出したり、たこ焼きや金魚すくいなどのテキヤさんの出店も来たりして、もっとにぎやかだったのだが、どんどん店が減ってきてしまい、今ではお飾りのお店4件程度になってしまった。相当寂しい。買う人もあまりいないようだし。。。なんか、お飾りとかも西友とかで買っちゃって人が増えているのかなって思う。もし、そうなら、なんだかなーって感じ。安ければいいというもんでもあるまいに。。。やっぱり伝統とか宗教心とかって大事だと思うんだよね。俺のお袋は、「縁起物だから安いものは買えない」とか言いながらお飾りを買っていたけど、その言葉の中に、非合理的だけど人間社会にとってお金などよりももっと大事な何かがあるような気がした。拝金主義が蔓延し、すべての価値を金でしかはかれなくなってしまっている人が増えてきているが、そういう拝金思想から社会を守るためには、やはり伝統文化を守っていくことが必要なんじゃないかなって思う。ということで、今日はシャーマンの話ではなく、歳の市の様子をちょっと紹介。カメラを向けられなかったのでiPhoneで写真を撮った。ちょっと暗かったし、急いで撮ったので、ピンボケ+画質悪くてすいません。












切火を切ってくれているところ。

兄貴がだるまさん買って、お袋がお飾り買ったのだが、どっちも買ったらちゃんと切火を切ってくれた。ちょっと感動。あと異人論などもちょっと脳裏をかすめた。昔の人たちは市の人達を神聖視していたんだろうなー。まあ、いろいろと興味深い。こういう伝統は残していったほうがいいと思うから、お店の人たちは大変だろうけど、この先もずっと歳の市を開いていって欲しいものです。


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右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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