スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

動物化するポストモダン

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
(2001/11)
東 浩紀

商品詳細を見る


この本のポイントは5つぐらいだと思う。

 一つは、オタク系文化の消費行動というものがどのようなものかという議論である。結論から先に言えば、それはデータベース型消費ということになる。従来のモデルでは、背後に大きな物語があり、ひとつひとつの作品はその大きな物語を切り取った断片であった。そこでは、背後に大きな物語が存在するため、断片である小さな物語から遡行する形で大きな物語を得ようとする欲求が生まれる。それが虚構の時代になると、背後の大きな物語はもはや存在しないのであるが、それでも、その背後の物語を再構築しようと試みる時代があった。それが物語消費という行動である。
 データベース型消費では、この背後の大きな物語がなくなり、消費者もそれを求めることの無い世代の消費行動である。そこでは、背後にあるものは大きな物語の変わりに、すべての要素を備えたデータベースという「大きな非物語」である。そのデータベースから抽出された要素を再構築して作られた「小さな物語」を消費していく。これらの「小さな物語」は同じデータベースから抽出された要素からなっており、その組み合わせを変えるだけで、無数の「小さな物語」、すなわちシミュラークルが生成され、消費されていく。そこでは、オリジナルと二次創作の区別はない。なぜなら、どちらも同じデータベースから抽出された要素を組み合わせただけの存在だからである。このようなデータベース型消費という新しい消費行動が本書の一番重要な論点になっている。

二つ目のポイントは、消費行動の歴史的変遷であり、モダンからポストモダンという社会的な流れが消費行動にも大きく影響を与えているという点である。具体的には、理想の時代の大きな物語の消費から、虚構の時代物語消費、そしてデータベース型消費行動という流れであるという点である。

そして三番目のポイントとしては、データベース型消費とともに、オタク系文化は小さな物語を消費している。この二層構造がポストモダンの大きな特徴である。どういうことかというと、さっき言ったようにシミュラークルとしての「小さな物語」を際限なく消費するのが現代のオタク系文化の消費行動であるわけだが、それと同時に、その背後にあるデータベースにアクセスしようとする欲望が生まれる。この本では、ノベルゲームを例に挙げている。ギャルゲーと呼ばれるノベルゲームは、テクストや画像などのデータの組み合わせで作られているのだが、消費者はマルチエンディングのシナリオ(一つ一つが「小さな物語」に相当する)を動物的に消費し感動していくとともに、このゲームのシステムにアクセスし、データを再構築して、二次創作を行おうとする。このように、オタク系文化の消費者は一方で無数の「小さな物語」を消費しながら、他方で、システムとしての背後のデータベースにアクセスしようとする欲望があるのである。

4つ目のポイントは、その小さな物語を消費する行動が動物的であるという点である。この動物的というのは、他者を必要とし社会的な文脈の中で生起する人間的欲望ではなく、他者を必要とせず、すなわち社会的な文脈とは関係なく、特定の対象との関係のみで満たされる単純な渇望の動物的欲求である。

そして最後のポイントとしては、歴史的変遷として、モダンの時代からスノッブの時代、そして動物的な時代になったというわけだ(←疲れたので、相当いい加減ですいません)
なお、最後のほうで面白い記述があったので引用しておきたい。

 ルソーを持ち出すまでもなく、かつては、共感の力は社会を作る基本的な要素だと考えられていた。近代のツリー型世界では、小さな物語(小さな共感)から大きな物語(大きな共感)への遡行の回路が保たれていたからである。しかしいまや感情的な心の動きは、むしろ、非社会的に、孤独に動物的に処理されるものへと大きく変わりつつある。ポストモダンのデータベース型世界では、もはや大きな共感など存在し得ないからだ。そして現在のオタク系作品の多くは、明らかに、その動物的処理の道具として消費されている。(『動物化するポストモダン』 139ページ)


もう一つ同じような内容だが、結論部分を引用しておく。

 近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有の社会性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。
 しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社会性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の乖離的な共存。現代思想風の用語を使って表現すれば、これが、本章の第二の問い、「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、では人間性はどうなってしまうのか」という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。(前掲書 140~141ページ)


という感じだ。面白いでしょ。
まあ、そういうわけで、この本は本当におすすめです。ただ第一章は納得いかないので、近いうちに反論を書きたいと思ってます。あと、第三章のウェブの話や、多重人格の話、それにギャルゲーの『YU-NO』の解釈は感動モノで、とにかくとても興味深いです。ウェブの話は数ページしかないけど、『ウェブ進化論』よりもはるかに深い内容だし、思想家に語らせると、ウェブの話もこうなるかみたいな感じで驚かされた。そういうことなので、気が向いたら、そこらへんもいつか紹介したいと思っています。でも、その前に続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』を読みなおさなくては。。。


『わたしたち消費』を読んだ

わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)
(2007/11)
鈴木 謙介電通消費者研究センター

商品詳細を見る

昨日、『わたしたち消費』をなんとか読み終わった。とりあえずの感想は、

ちょっと読みづらい

悪文アップしまくっている俺が言うのもなんだが、もう少しわかりやすい文章を書いて欲しかった。この電通消費者研究センターの人たちが分担執筆したから、ときどき変な文章が紛れ込んでいるのか?この著者の鈴木さんが、そもそも、あまり文章が上手くないのか?それか、これが一番認めたくはないのだが、俺の読解力のレベルが単に低すぎるだけなのか(笑)。理由はなんにせよ、少し読みにくいと思う。

まあ、でも、こんな俺でも、著者の言いたいことは、なんとか半分ぐらい理解できたと思っている。昨日も書いたとおり、この本の主張としては、最近の消費行動が、以前の消費行動と違うということである。その違いを説明しているのが、本書の前半で、そのわたしたち消費という新しい消費行動に対して、効果的な販売戦略はどのようなものか、価値が多元化している現代社会で、どのようにしたら、ヒット商品が作り出せるのかというのが本書の後半に当たる。

本書の前半は面白いと思う。大雑把にまとめると、ようするに、70年代までは、車やカラーテレビなど、日本人なら誰でも欲しくなるようなものが存在していた。それは人並みな生活をするために必要なものだとされていた。このようにすべての人が同じようなものを欲しがるため、企業は、価値観が単一の大衆という消費者を相手にすればよかった。彼らの価値観や行動原理は同じだから、販売戦略も単一の戦略で十分であった。しかし、80年代以降、このような大衆がいなくなった。それは、ほとんどの人が車やテレビなどを手に入れて、人並みな水準を満たしてしまったということと、価値観の多様化が起こったことによる。このため、販売方法も多様化せざるを得なくなった。

さて、ここで面白いのは、昨日も言ったとおり、わたしたち消費という消費行動が生じてきたことである。それは、ある一部のグループではヒット商品であるものが、他のグループではまったく知られていないというようなヒット商品がいろいろ生み出されたということだ。たとえば、ケータイ小説のベストセラーなどが、それにあたる。ケータイ小説のベストセラーが誰に支持されているのかは、あまり知られていない。女子中高生や20代の女性ではないかといわれているが、はっきりしない。ただ売れているらしいということだけが伝わっている。アニメなどもその例であろう。たとえば、「空の境界」もそのたぐいだと思われる。アニメファンの間では有名なこの作品も、アニメを見ない人たちにとっては、名まえすら知らないものだろう。

このような、一部の人たちの間だけでヒットする原因としてあげられている理由が、ある情報を共有したという仲間意識であり、その情報を自分たちだけが知っているという優越感に似た感情である。そして、このような消費行動はネット上などを通して、仲間同士つながっていき、そのつながりによって、新しい情報が共有されていく。これによって、そのグループの中では、ヒット商品などが生み出されるのだ。

また、著者のいうコミュニケーションのためのコミュニケーションという考えも興味深い。
これを著者は

ネタ的コミュニケーション

と命名しているのだが、ようするに、あるイベントに参加したり、ある商品を買うことが、次のコミュニケーションのネタを提供するような状況を指している。もともと、現代の人たちは他人と繋がっていたいという欲望が強い。だから、SNSなどが流行っている。こういう状況で、自分と同じ感覚を持った人たちと仲間になっているということに満足しているし、この仲間たちとのコミュニケーションのために、イベントに参加したりするのである。その一環として、ある商品を購入するということもあり得るわけだ。

そのモノ自体が欲しいのではなくて、コミュニケーションのネタとして購入する。

まあ、ようするに、好きだった娘が読んでいた漫画を俺も買って、それをネタに接近して、デートして、手をつないで、キスして、それから・・・って、よだれ垂らしながら、いろいろ妄想膨らませていたら、そもそも話す機会がなかった中学の頃の俺みたいなもんか。(ちょい、違うだろって)

で、話を戻すが、この前半は、結構面白かったのさ。オタク的消費行動とかは、こういう限定的なグループのなかだけでヒットしているものだし、他のグループでは違うものがヒットしている。それでいいと思うし、価値観が多様化したポストモダン社会としては、それしかないと思う。むしろ、SNSなどで見られるように、他人と繋がっていたという欲望を持った人たちが多いということの方が興味深いし、「私たち」という架空のグループへの帰属意識みたいなのも、ウェブとの関連ですごく面白いネタだと思ってたのさ。

なのにー、なーぜー♪

って歌いたくなってしまうのが、本書の後半。俺の読解力不足で誤解しているだけなのかもしれないのだが、後半は、このような「わたしたち消費」の時代に、グループ間を越えて、いかにメガヒット商品を作り出すのか!みたいなノリになってしまう。でも、そういうのは無理って言ってたじゃん。なぜ、価値観が多様化している現代、メガヒットを目指すのかがわからない。

というか、そもそも、前半の議論で対象にしているグループというのは、ウェブ上で知り合ったオフ会のメンバーとか、コンピューターのマックが好きでiPhoneを口コミで宣伝するいわゆる”伝道者”集団や、アニメオタクとか、スポーツオタクとか、要するに自分の好きな事をしているなかで自然に価値観が共有されて形成されたグループだと思うのだが、後半の議論の対象になっているグループというのは、それ以外のさまざまなグループが入ってしまっているような気がする。つまり「わたしたち」という感覚で結ばれた緩いグループというのが、この本の中心的な概念であったはずなのに、後半では、その重要な概念が拡大解釈されたのか、忘れ去られたのか、あいまいなものになってしまっているのだ。だから、どこか狐につままれたような気分になってしまう。

そこらへんを我慢して、なおも読み進めると、「わたしたち消費」では、従来のようなヒット商品の火付け役であるイノベーターと呼ばれる人たちではなく、わたしたち拡大層とよんでいる一部の人たちがキーパーソンになっているのだという話になる。この人たちは、人の影響を受けて消費しやすく、なおかつ、口コミ発信するのが好きという人たちだ。ようするに、流行に流されやすく、おしゃべりな人。。。。。。

はい?

何も考えずにテレビなどの言ってることを鵜呑みにして、流行ばかり追いかけて、人に宣伝する人たちって、昔からいたような気がしますが。この人たちが何か?
という感じなので、俺的にはいまいち理解できなかった。

まとめると、前半だけ理解すればいいのではないかと思う。特に「わたしたち」という概念は示唆に富んでいる。

価値観を共有できる人たちと共振することで自分の存在価値を確認する「共振する社会」が誕生しているのです。(199ページ)



と書かれていることからもわかるように、この本の「わたしたち」という概念は、今後のSNSなどの繋がりを求めるウェブ社会を理解するために重要になってくるだろう。


『検索バカ』を読んだ

朝日新書から出ている『検索バカ』という本を読んでみた。この前、言ったように、第二章からは検索に関することではない。
検索する人
 ↓
自分で考えずに安易な答えを求める
 ↓
自分で物事を判断できない
 ↓
人の意見・判断に委ねる(アマゾンレビューとかランキングなど)
 ↓
クウキを読まないと生きていけない社会になってしまっていないか?
 ↓
以前は世間の目が行動を律していた
 ↓
地域共同体の崩壊とともに、世間の目がなくなった。
 ↓
世間やクウキなどは必要ない!個人がすべてなのだ
 ↓
自分で考えよう。

という感じの論を進めているのだが、ようするにクウキとか世間というのを出しちゃうとこが朝日らしいといえば朝日らしい。ついでに、空気をクウキと意味もなく、カタカナ語にするのも、朝日らしい。そっち方面の人って、カタカナ語が好きだよね。まあ、いいや。

あと、この本は相当、説得力に欠ける。というのも、新聞やワイドショーのニュースネタ以外は、著者の若い頃や子供の頃の体験談を元にしているからだ。もちろん、そういうのもありだし、そんな出来すぎた話は嘘だって頭ごなしに否定してはいけないんだろうけど、体験談の数が多すぎるんだよね。ここまでいろいろ書かれると、なんかすべて出来すぎじゃねー?って感じてしまう。まあ、そういう感じなので、すこし説得力に欠ける。

あと、やっぱ、50歳か60歳になってまで諸手を挙げて個人主義を礼賛しちゃってると少し頭悪いんじゃない?って印象を受けてしまうのも事実。そのあたりのサヨク的言説を受け流せるのなら、同意できるとこも多いから、ある程度、楽しめる本だとは思う。まあ、そういう感じなので、第二章以降は読む価値があるのかどうかは、本屋で立ち読みして判断して欲しいのだけど、第一章は面白かったと思う。

第一章は、タイトルどおりの内容で、検索エンジンを使って答えをすぐに手に入れたり、他の人の考えをコピペしてレポートや宿題を終わらせてしまうと、考える力が育たないので、よくないだろうということを言っている。確かにそうだと思う。また、これに関連しているが、最近の傾向として結論を性急に求める人が増えているのだという。著者は次のように言う。

このごろ本の感想で増えているのは、
「この本には結論がない」
というものです。
私が最初にノンフィクションを書いたのはもう十年以上前になります。そのこと、読後感として「結論がない」「だからこの本はだめだ」というようなものはありませんでした。
この傾向は私の本にかぎったことではありません。どんなたぐいの本にも「結論」を求める読者が多くなっている。大学の先生などと話をしていても、
「こうすれば解決する」
という「策」が盛りこまれていないからこの本はダメだ、という意見が多くなったといいます。
そのとき読者がいう「結論」とは、つまり「解決策」のことなのです。一冊本を読んだら、たちどころに問題の解決策が分かる。それが当たり前だと信じる人々がいる。(22ー23ページ)



こういう傾向は確かにある。ただ、これは著者が言うようなネットの影響というよりも、科学的思考法を重視してきた現代教育の帰結だったのではないかと俺は思う。科学的思考法とは、別に数学や物理を勉強することではない。そうではなくて、世の中には真実が存在し、すべての事柄は説明可能であるという信仰に似た思考法をここでは科学的思考法と言っているのである。もちろん世の中は説明可能な単純なものばかりではないし、それに、そもそも何かを説明するということが世の中を理解することではない。説明ではなく解釈で理解する方法がある。それが人文系や芸術系の学問なのだが、最近の問題はその人文系や芸術系の力が弱まったからなのではないだろうか。

人間は生来、因果関係を求めるものだし、すべてのものを説明しようと試みる生き物である。だから、現代教育以前であっても、科学的思考法というものは(それが真に科学的なものか魔術などのオカルト的なものかの違いはあるにしても)、人間が本来持っている傾向だといえる。だからこそ、フレーザーは魔術→宗教→科学という発展段階を設定したのだし、呪術は間違った因果関係とはいえ、何かしらの因果関係というものが基本にされていることを明らかにしたのだ。このような因果関係を求める傾向はギャンブルやスポーツなど勝負の世界では、お守り、まじない、ジンクスなどの形で観察される。まあ、そういうことで、人間は黙っていても、因果関係を求めようとするし、世の中を説明しようと試みる生き物なのである。ちなみに、2つの事象の間に因果関係を設定し、学習する能力は進化論上有利であるため、他の動物も持っている。

まあ、ようするに、ここで言いたいのは、こういう科学的思考法や解決策を求める傾向などはネットの影響だけとは思えないのだ。むしろ人文系や芸術系学問の衰退が原因ではないだろうか。また効率主義の現代社会のもう一つの側面が、このような「答えを提示するのかしないのか」といった安易な思考法を助長しているように感じる。そうであるならば、科学の重要性は否定しないが、義務教育では、解釈学的思考法というものを重視するべきだったのではないかと思うのである。

国語の授業でも、答えを求める授業がなかっただろうか?社会でも答えを暗記することが重視されていたのではないか。本来なら答えがないことを学ばなければならない文系の学問においても、答えが提示され、それに自分の思考を合わすように要求される。それが現代教育だとしたら、そこにこそ問題があるのだと思う。

うん?なんか話がだいぶ脱線してしまったが、俺が言いたかったのは、ようするに、『検索バカ』という本の第一章はおもしろいので、立ち読みする価値はあると思うということです。

『写真美術館にようこそ』を読んだ

『写真美術館にようこそ』という本を読んだ。
この本は写真鑑賞をどのように楽しむかという本である。だいぶ面白かった。
写真の歴史という時間軸と被写体の違い(人物、ヌード、モノ、風景、都市、出来事など)という、いわば空間的な広がりの軸を設定し、今までの写真家の様々な試みや作品を、それらの軸にそって分類・説明してくれる。なので、この本を読むと、今までは単なるいろんな写真の集合という一つのかたまりであったものが、構造化され、体系化された集合として見えてくる(ような気がする)。

また、いろいろおもしろいことを述べている部分もあった。
例えば、ダイアン・アーバスという写真家の作品を取り上げて次のように説明する。

彼女は巨人、小人、両性具有者のようないわゆる”畸型者たち”や衣装倒錯者、ヌーディスト、狂信的愛国者といった社会的規範からやや逸脱した「特殊」な人たちを被写体に選ぶことが多い。ところが彼らの写真を見ているうちに、われわれはそこに人間という存在の純粋な原型というか、いわばもう一人の自分自身の姿を見出してしまうのです。「特殊」と「普遍」が、一枚の写真の中に奇妙にねじれた形で共存している。(67-68ページ)



これを読むまでは、見世物小屋なんて、ひどいもんさと思っていたが、たしかに、この著者の言ってることにも一理あるかなと思ってしまった。畸形者が出てくるから、倫理上の問題とかが絡んできて、なんとなく判断をくもらせてしまうんだけど、実は、違う例をあげたら、同意する人も多いと思う。例えば、学問の世界では、なにかの事象の本質を導き出すときには、さまざまな事象を比較して、それらの事象が持っている共通項を抽出するのが一つの上手いやり方だ。で、その様々な事象には、もちろん極端な例というのを入れたほうが、その事象のより普遍的な本質を導き出せることになる。ということは、多くの人が同意すると思う。ならば、現代においては目を背けたくなるような畸形者たちの写真によって、人間の本質を見出せるのかもしれない。もちろん、これらの写真をそのように見る人は稀であろうし、昔の見世物小屋なども、もっと卑俗な好奇心や優越感を満たすためだけに足を運んだという人が大半だったと思う。それでも、この「特殊」と「普遍」が隣り合わせになっているという指摘には、どこか惹かれるものを感じた。

あと、もう一つ気に入ったフレーズがあったので引用しておきたい。

・・・写真を撮影するということ自体が、モノを日常の文脈から切り離して別の場所に「転移」する行為であるといえます。(113ページ)



写真を撮るという行為は、日常の文脈から切り離すということだ、ということに、我々は自覚的であるべきだと思う。特に他者に影響を与えてしまうフォトジャーナリストや人類学者は肝に銘じておくべきことだろう。

『キャラクター小説の作り方』を読んだ パート1

大塚英志(著)『キャラクター小説の作り方』という本を読んだ。
大塚英志といえば、80年代ぐらいに書いた物語消費論で、そっち方面では有名な人だったらしい。俺は日本のサブカルとか勉強していなかったので、最近まで彼の事を知らなかったのだが。。。
で、最近、他の本を読んでいて、物語消費論に興味がでたのと、ライトノベルとかの書き方の本にも興味もあったし、ついでにブックオフで100円でこの本を見つけたということもあって、この大塚さんの本を買って読んでみた。
一言で言うなら、おもしろい本だった。
小説の書き方みたいなことに関して素人同然の俺としては、いろいろ学ぶとこはあったように思う。
アマゾン・レビューとかの評価は、ちょっと辛めなので、まあ、本気で買おうかと悩んでいる人は、そっちの意見も参考にした方がいいとは思うが。。。なんせ俺は小説の書き方みたいな本はあまり知らないので。
ただ、大塚さんの考えを単純に楽しみたいという人は、この本もお勧めです。
じゃ、どういうとこが面白かったかということなんだけど、面白いなって思える部分が二つあったんだよね。で、今回と次回でそれを紹介したいなと思っています。

まず、今日話したいとこは、第三講「キャラクターとはパターンの組み合わせである」の中の、「決まり文句から写生文へ」というところです。78ページから80ページぐらいのとこなんだけど、この中で大塚さんは近代以前の文芸というものと近代以降の文芸の違いを次のように紹介しています。
近代以前は、決まり文句というものがいろいろあって、その決まり文句に特定の名詞を代入して、そういう決まり文句をいくつか組み合わせて物語を作っていたというのです。
例がないとちょっとわかりづらいと思うので、この本で示されている例を引用させてもらうと、

・・・例になっているのは「信徳丸」という「説経節」です。その中には「××この由聞こしめし」というフレーズが頻出します。これは「××はそれを聞きました」ぐらいの意味です。つまり××が誰かから重要な話を聞いた、という状況が語られるときには××が誰であれ必ず「この由聞こしめし」という決まり文句によってのみ表現される、というのです。この基本型は××の部分に何が代入されるかによっても一定の規則性を持って変化します。
 説経節の語り部たちはこういう状況はこういう決まり文句で表現するという状況と決まり文句がワンセットになったものをたくさん頭の中にインプットしています。いわば辞書として持っているわけです。
 ですから、語り部は「説経節」の個々の物語に関してはその一つ一つを細やかに覚えているわけではありません。せいぜい「私の知っているあの物語」といった程度である、と説経節の研究者は推定しています。こういう主人公がいて、こうなってああなって・・・・・・という大雑把な筋道を記憶している程度で、主人公が生まれる場面に物語がさしかかったら「出産」に対応する決まり文句を持ってくる、といった形で語り部が語っていくわけです。「説経節」という中世に存在した物語の語り部は、今なら単行本一冊分の物語をいくつも語ることができましたが、彼らは盲目であったり、無学で文字を知らない人たちが大半でした。それでも彼らが語り部たり得たのは物語を丸暗記していたからではなく、「パターンの組み合わせで物語る」という技術を修得していたからです。(76~78ページ)



では、近代以降はどうなのかというと

それが近代に入って日本語に「写生文」という考え方が入ってきて大きく変わったわけです。つまり目の前にあるものをあるがままに忠実にことばで「写生」していく、というのが新しい小説の形式となりました。すると別々の人物の類似した行動を同じ決まり文句で表現することは許されなくなりました。(78ページ)



だという。

で、ライトノベルのようなキャラクター小説はパターンの組み合わせが基本であり、故に近代以前の小説のような体裁をとっている。ただし、それを否定する必要はないのだ。という議論に進んでいく。まあ、そのあたりも面白いのだが、ここで大塚さんが指摘している興味深い点は、

小説の中には極端に分ければ「写生文」的なリアリズムに基づくものと「記号」的なパターンの組み合わせに基づくものの二通りがある、ということです。(79ページ)



という部分だ。

もちろん、この二つの対立は厳密ではなく、記号的でありながら、写生文的なリアリズムを持った小説というものや、写生文なリアリズムのなかに記号的なパターンが入っている物語も考えられるという。
ただ、この二つの対立を明確に指摘してくれたことはとても意義深いと俺は思うのだ。なぜなら、この対立する二つの概念というのが、小説に限らず、いろいろな場面でも使えるような気がするからだ。
たとえば、写真と絵画の違いも写生文と記号的な表現の違いに対応するような気がする。絵画では写生から抽象に移ったみたいだが、この対立する二つの概念は興味深い。(と絵画をまったく知らずに勝手に語っている俺・・・。まあ、絵画については、そのうちさわりだけでも勉強したい)

で、アニメとCGってのもこの対立関係と無縁ではないような気がする。
リアリズムを追求しているCGの技術は、どんどんすごくなっているんだけど、だからアニメはすべてCGになっちゃうかっていうと、そうはならないと思う。
で、その理由がこの写生的か記号的かの違いだと思うわけなのです。
ここは、岡田さんのオタク学に書かれていたことだけど、アニメではキャラや動きが極端にデフォルメされることによって、独特の雰囲気を出している。この独特の雰囲気はけっしてリアリティーを追求したら得られるというものではない。

この写生的か記号的かの違いというものの違いを考えるたびに思い出すのが、生物学の授業である。
昔、大学の生物学の授業で、顕微鏡で見た生き物を写生する機会があった。機会というか強制だったのだが。。。
で、絵を描くのが得意でない俺としては、絵をなぜ描かなくてはいけないかという理由がわからず、先生に聞いたことがあった。だって写真をとればすむことだろうに、今更なぜ絵を描かないといけないのだろうと不思議だったからだ。
しかし、写真ではダメだといわれた。あ、ちなみに、ここでは、絵の事を、写生と言っているが、むしろ今までの議論における記号的な絵に似ている。
では、なぜ写真ではだめなのか?
その理由は、写真だと、その生物の特徴が、うまく描き出せないからだという。もちろん、写真はその特徴も表現されている。しかし、ある特徴が浮き上がって見えるように、デフォルメして、その特徴を強調する絵というものの方が優れているのだ。特に、昆虫図鑑などの世界においては、こういう特徴が強調されているイラスト絵の方が、写真よりも優れていることは容易に理解できる。

で、アニメとCGの違いを考えるとき、ときどき、この生物学実習のことを思い出す。
アニメでも、ある動きなどがデフォルメされることが、好まれる。
それはリアリティーを追求したCGにはできないことだ。
非現実的な動きであっても、視聴者がそれを好むのであれば、CGよりも優れていると思う。
いや、むしろ視聴者はそういうデフォルメされた動きこそ求めているのではないか?
もし、そうならば、アニメの変わりにCGが台頭してくるちう考えは間違っているように思われる。
なぜなら、リアリティーを求めているのはアニメではなく、実写版の映画だからだ。
つまりリアリティーとしての実写またはCGと記号的パターンのアニメという対立が正しいのだと思う。
それでは、実写の変わりにCGが置き換わるかというと、それもありそうにない。そもそもリアル世界を映した実写の変わりに、リアルっぽいCGが置き換わる理由がないからだ。例外は実写では表現できない世界。つまりSFとかファンタジー系であろう。
だから、CGは実写を補助するツールとしては、魅力的なものになることは確かだし、今後もその方向で発達すると思う。
しかし、アニメの代わりに、もしくは実写版の映画の代わりに、全編CGという映画が流行るとは思えない。
そういうことで、CGに過度な期待をして、アニメとの融合をはかろうとしている人たちには申し訳ないが、アニメの本質はリアリティーの追求ではなく、デフォルメされた記号であるということを、このキャラクター小説の作り方を読んで再確認できたわけなのである。まあ、そのあたりに興味がある人は、この本とか岡田さんのオタク学入門とかを読んでみてください。

スポンサードリンク
最新記事
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
プロフィール

kemmaarch

Author:kemmaarch
右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

本や映画の感想はアマゾン・レビューにも書いています。ぜひ遊びに来てください。
アマゾン・レビュー
はてなブックマーク

ツイッター(Kemmaarch)
検索フォーム
ブログ・ランキング
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
フリーエリア
リンク
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
スポンサードリンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。