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映画『アバター』に見る女性像

 映画『アバター』にはシガニー・ウィーバーが出ている。シガニー・ウィーバーといえば、『エイリアン』シリーズや『愛は霧のかなたに』でアメリカのフェミニズムの発展に大きく貢献した女優だと思う。『エイリアン』では戦う女性リプリーを演じ、当時の西洋人フェミニストが大喜びするような「強い女性像」というものを表現してきた。『愛は霧のかなたに』は、アフリカのジャングルに滞在しゴリラを長年野外調査していた実在する人類学者の実話にもとづく映画なのだが、研究に半生を捧げた女性人類学者の役をシガニー・ウィーバーが演じている。この女性人類学者も、男などに頼らず、家庭というものを持たず、ゴリラ研究という仕事だけに没頭する、いわゆる精神的に強い自立した女性像が表現されてきたと思う。もちろんシガニー・ウィーバーは他にもいろいろな映画に出ている。さっきウィキペディアで調べていて気がついたのだが、『ゴーストバスターズ2』にも出ていたみたいだが、昔、見たときはまったく気が付かなかった。というか当時は白人はみんな同じ顔に見えたからね。ちなみに、俺は1999年に作られたSFコメディー『ギャラクシー・クエスト』が大好きなのだが、この映画にもシガニー・ウィーバーが登場し、ある意味大活躍をする。『ギャラクシー・クエスト』は本当におすすめなのだが、まあそこらへんを延々と書いていくと話がどんどんずれていってしまうのでやめておこう。とりあえず、ウィキペディアを見る限り、すべての映画でシガニー・ウィーバーが強い女性を演じていたわけではない。ただ、それでも80年代の、特に冒頭であげた『エイリアン』シリーズと『愛は霧のかなたに』はフェミニズム運動に大きく貢献したと思う。まあ、そういうわけで、シガニー・ウィーバー=フェミニズムというわけではないのだが、それでも、彼女が出てくると、『エイリアン』世代の俺としては、彼女の存在にやはり強い女性みたいのを感じるし、フィルムの中に潜むフェミニズム的メッセージ性とか探してしまうわけだ。ということで、今日は『アバター』に見られる女性像を探ってみたい。

 『アバター』に現れる主要女性キャラは、ナヴィの狩猟部族の族長の娘で主人公の恋人になるネイティリ、ネイティリの母親で「エイワ」の神託を伝える巫女のモアト、海兵隊パイロットでアバター計画の人員やアバターの輸送を担当するトゥルーディ・チャコン、そしてシガニー・ウィーバーが演じるアバター計画を率いる植物学者のグレイス博士の4人である。

 ネイティリは弓矢の扱いに長けていて、馬(のような動物)や竜(のような鳥)も巧みに乗りこなす。映画を通して、彼女は自立した女性として気高く生きているように見える。少なくとも男に媚びたり頼ったりすることはない。また獰猛な動物や敵に勇敢に立ち向かっていく姿から勇敢な戦士という設定が伺われる。おもしろいことにナヴィでは戦士層が男だけなのかどうかということははっきりしていない。ナヴィのモデルとなったアメリカ先住民社会では、女性戦士などというものはないはずだし、映画を見る限りナヴィでもネイティリ以外の女性キャラは戦士ではない印象を受ける。そのへんでネイティリが特異な存在であるし、多分に「強い女性」という現代的イデオロギーが感じられる。ただこのネイティリの「強い女性」像はアメリカ的なヒロイン像とは若干異なっている。ここでいうアメリカ的なヒロイン像とは、俺が勝手に想定している2つのタイプなのだが、簡単に言うと「男をまったく必要とせず、男と対等に戦える『エイリアン』のリプリーのような女性」タイプと「通常は一人で生きている強い女性だが、男との恋愛やセックスも楽しむことができる、「トゥームレイダース系のセクシーな女性」タイプのことを指す。俺が見ていて思ったのは、ネイティリはこの二つのヒロインタイプのどちらでもなく、むしろ日本のアニメやゲームに出てくるヒロイン像に近いような気がした。特にあのキスをする直前のシーンの2人のやりとりなどは日本的なヒロイン像に近いのではないだろうか。

 次にネイティリの母であるモアトを見てみよう。彼女は背も若干小さく、戦士としてのネイティリと違い、一見よわよわしい。しかし、最初に主人公のジェイクをナヴィ社会に受け入れると決めたのは彼女だったと思うし、グレイス博士やジェイクの意識をアバターに移す儀礼を行うのもモアトである。表立った活躍はしないものの、重要な案件に関しては的確な判断をし、影から支えるなど、母性的なものが見え隠れしているような気がする。また排他的な男たちに対して、受容する女性的な優しさみたいなものが出ていたような気がする。部族内ではシャーマンとしての役割をもっており、夫であり部族長であるエイチュカンと、若干異なっているとはいえ、同等レベルの発言力を持っている。事実、祭祀儀礼に関しては、彼女が実権を握っている。つまり社会的地位は極めて高い。にもかかわらず、男性的な強さは感じられないのは、先に述べたように、女性的・母性的魅力を持っているからだろうと思う。ちなみに伝統社会によく見られる発言力のある女性というのはモアトのような感じだろう。

 海兵隊の女性パイロットであるトゥルーディ・チャコンは、また違った魅力の女性である。彼女は言葉遣いなどに粗暴さが感じられるが、自分の信念を貫き通す強さを持っており、『アバター』では主人公のジェイクに加勢することになる。このような粗暴だが正しいと思うことや仲間のために命すらかけるという女性は、『エイリアン2』で指揮官と共に爆死する女性海兵隊員を思い出させる。そういえば彼女も南米系の女性だったような気がする。また、チャコンの役を演じるミシェル・ロドリゲスは、映画『バイオハザード』でも、粗暴な態度や言葉遣いだが最後まで主人公をサポートする特殊部隊の女性隊員を演じている。このような一見粗暴だが信念を貫くためには命もかけるという真の強さはニーチェ流に言ったら「英雄」にあたるのではないだろうか。このようなニーチェ的な「正義」を表現したものとしてはアニメ『ブラックラグーン』などにも見られるのだが、日本よりもアメリカの方が、このようなヒロイン像は好まれる傾向にあるような気がする。

 最後にグレイス博士である。彼女は植物学者ということで、とりあえず弱い(笑)。あのリプリーを演じたシガニー・ウィーバーなので、突然銃を乱射したり、パワードスーツに乗り込んだりしても不思議でないし、あの「大佐」と死闘を演じられる人物は彼女しかいないと思っていたのだが、さすがにそういう展開は無理だったらしい。それにしても、彼女は弱い。弱いといっても、喧嘩に弱いというだけであって、人間的に弱いわけではない。男に頼っているというような弱さではないし、映画を見ている限り、彼女は一人で研究してきたという強さはにじみ出ているのである。ある意味『愛は霧のかなたに』の人類学者のような強さである。ただ『愛は霧のかなたに』の人類学者よりも、人間的なそして女性的な優しさが備わっているように思う。

 このように見てくると、『アバター』においては、4つの女性像が表現されていたように思う。そのどれもが興味深いのであるが、ただ単に強い女性というのではなく、むしろ優しさや恥じらいなどを備えた女性像だったように思う。ただ、おもしろいのは、「大佐」と主人公の「ジェイク」は極端に強いが、この二人を除外すると、男の人類学者やアバターを開発した科学者、また採掘会社から派遣されてきた採掘場の責任者など、他の男性キャラは結構弱いイメージで描かれているような気がする。彼ら男性キャラクターは女性キャラほど活躍していない。女性キャラはモアトなど戦いに参加していないとしても、キープレイヤーとして物語に深くかかわっている。『アバター』は戦いの物語なのに、男たちの活躍よりも、彼女たち主体的な女性が未来を切り開いていくという話の展開になっているのは興味深い。


映画『アバター』

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 映画『アバター』を3Dのほうで見た。面白かったけど目が疲れた。すごくいい映画というわけでもないのだが、とりあえず、いろいろな意味で興味深い作品だったので、二、三日このネタでいければいいなと思っている。映画を見終わって数時間たっているが、いろんなことが頭に浮かんでくるということは、まあ、それなりに印象に残る映画だったということだし、歴史に残る映画だったといってもいいのではないだろうか。もちろん、多くの人が言っているように、物語はとても単純である。それでも、リアルな世界観や魅力的なキャラクターを構築したという点と、CGや3Dなど技術面の進歩に関して、この映画は特別だったといえるのではないだろうか。

 まず、この映画のあらすじを紹介したい。舞台は地球から4.4光年ほど離れたところに位置するパンドラという星である。その星にはナヴィと呼ばれる人間型の異星人が住んでいた。彼らは自然と共存しており、いわゆる「未開社会」を彷彿とさせるような部族社会を形成していた。そこに地球人が進出してきた。その星の貴重な鉱物の採掘のためである。22世紀という時代設定なので、地球人側は高度な科学力を持っているのだが、彼らはその貴重な鉱物が大量に埋蔵していると予想されるナヴィの土地を欲していた。そこで、地球人側はアバターという交渉役を使うことにする。アバターとは人間とナヴィのDNAを組み合わせて作り出されたナヴィの姿をした人工の体である。この人工体に人間の意識をコネクトすることによって、人間が、その体を操ることができるわけだ。アバターはもともと科学者チームによって作り出されて、ナヴィと接触し情報交換をするために用いられていた。これによってナヴィの一部は英語をしゃべることができ、また人間側でもナヴィの社会や言語を研究している人類学者と科学者チームのリーダーでパンドラの生態系を研究している生物学者はナヴィの言語をしゃべったりナヴィの文化や社会を理解することができるようになっていた。映画の主人公であるジェイクは海兵隊員なのだが、パンドラに駐留する軍隊は彼にアバターをもちいて交渉役をするように命令する。そこでジェイクはナヴィ社会に溶け込んでいくのであるが、その過程で徐々にナヴィ側にたつようになり、最終的にはナヴィのために戦う決意をするという展開になっていく。まあ詳しいあらすじはウィキペディアとかを見てください。

 さて全体的なストーリーについてであるが、アメリカ先住民との戦いという路線は、すでに多くの人が指摘しているように、あまり新鮮味はない。ただこの映画が『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』(1990)の影響を受けているとかパクリだとかいうのは間違いだと思う。アメリカ先住民との対立や戦いというテーマの映画は別に『ダンス・ウィズ・ウルブズ』だけではない。似たようなモチーフの映画は90年代にいくつか作られていた。その流行のルーツは、80年代以降のアメリカ先住民の文化復興運動や、ヒッピー文化からニューエイジやスピリチュアリズムに至るサブカルチャーの流れと関係があるのではないかと思う。もちろんもっと大局的な立場に立てば、先住民族の視点や多様な歴史観の受容というのは、ポストモダンという大きな流れと無関係ではないだろう。このような流れの中、単なる敵としてのアメリカ先住民ではなく、主体性をもった一人の人間としてのアメリカ先住民が映画に登場するようになる。例えば『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)やディズニーアニメの『ポカホンタス』(1994)、『ジェロニモ』(1994)などが作り出された。また、はっきりとは思い出せないが、アメリカ先住民が直接的な主題ではない西部劇に登場するアメリカ先住民のイメージも90年代以降大幅に改善されてきているように思う。先住民やマイノリティーの視点というものはアメリカ先住民に限らない。例えばケルト民族をモチーフとした『ブレイブハート』や明治日本を舞台にした『ラストサムライ』などにも見られる。ちなみに『ラスト・サムライ』は日本の歴史を歪曲していると的外れな非難をする日本人がいるが、個人的にはこの映画の監督は日本を好意的に表現していると思う。そもそも『ラストサムライ』のテーマは日本ではない。そうではなくて、伝統社会に近代化の波が押し寄せ、伝統文化を守りたいが近代化する必要性もあるという非西洋社会が共通に持っている(持っていた)ジレンマがこの映画では映し出されているのである。このような伝統文化と西洋文化の対立やグローバル化の問題というものが『ラストサムライ』の大きなテーマだったのであって、決して日本の歴史やステレオタイプな日本のイメージを表している映画ではない。だから、忍者が出たとか歴史考証がしっかりしていないなどの瑣末な点から『ラストサムライ』を否定する人たちの解釈はまったく当を得ていないと俺は思っている。まあ、『ラストサムライ』で一つだけ問題があるとするならば、正直、トム・クルーズが出てくる必要はまったくなかったし、日本人の女性とキスをする必要もなかったということだろう。そのあたりにアメリカ人のメンタリティというか、ハリウッド映画のなかにおける異民族の女性を表象の仕方に問題が残されているのだが、少なくとも他のハリウッド映画と比較した場合、『ラスト・サムライ』の日本人像は男のイメージも女のイメージも共に極めて好意的に表象されていたように思う。キスのシーンにしたって、俺はそれ自体は『ラストサムライ』の監督がどうのという話ではなく、白人男性と異民族の女性が結ばれるという話の展開にしないと受け入れられないアメリカの視聴者に問題があるのではないかと思っている。ハリウッドでは未だに異民族の女性はセックスシンボルとして扱われているのは明らかだ。その意味で、ハリウッド映画なのに、キスまでで止めたのは、この監督ができた、ぎりぎりの選択だったと、俺は高く評価している。まあ『アバター』における異民族の女性という話も時間があったらそのうち書いてみたい。で、話を戻すが、90年代から繰り返し作られてきた先住民の戦いというテーマの一つとして『アバター』は位置づけられるし、その意味では新しいものではないのだが、それでもこのテーマはこれからも当分の間は重要だと思うし、手を変え品を変えこのテーマの映画が再生産されていく必要はあると思っている。だから、陳腐な物語でも俺はいいと思う。これ以上複雑な話にしてもしょうがないし。。。

 話のテーマとしては、それで十分なのであるが、ただあらすじというか話の進め方でどうしても納得のいかない部分はある。それは軍隊が馬鹿だということだ。アメリカ先住民の戦いでは、彼らは別に弓矢だけで戦っていたわけではない。ラコタ族(スー族)などの草原インディアンと呼ばれるアメリカ先住民がアメリカ政府と本格的に対立しはじめた19世紀には、すでに馬と銃が多くの部族にいきわたっていた。そのような状況に比べると、『アバター』では、弓矢だけで近代兵器に立ち向かうという、ほとんど無謀に近い戦い方をしている。そのような戦い方をある意味容認し、さらに他の部族までけしかけて、勝算のある戦略も示さずに、ただ敵に突撃させるような、主人公の判断には首を傾げざるをえない。特に、地上部隊などは特攻にすらなっておらず、ただの無駄死にとしか言いようがない。しかも主人公とその相棒だけはちゃっかり銃を使っているし(笑)。ただ、ナヴィ側の戦い方だけがお粗末かというとそうではなくて、地球人側の作戦はもっとお粗末だ。まあ、だからこそナヴィ側が勝利できたのであり、普通の軍隊相手だったら、ナヴィは100パーセント勝ち目はなかったと思う。そもそも地球軍がこの殲滅戦にすべての戦力を投入する必要はなかったのであり、ガンシップ一つだけを出撃させて森を爆撃でもすれば、それだけで十分だったのではないだろうか。竜に乗ったドラゴン騎士団みたいな連中も高度を上げたら振り切れるはずだし。地上軍などはまったく必要なかっただろう。それよりも基地を守らせていたほうがよっぽどよかった。さらに、ナヴィは効果的な銃器を持っていないのだから、大型飛行機の後部ハッチを開けて、そこから機銃掃射する必要もないわけで、ハッチを閉めておけば敵に侵入されることもないし、竜に首を突っ込まれることもなかっただろう。まあ、全軍出撃している間、基地のほうは防備が手薄になっていたと思われるが、そこに別働隊を送り込まないナヴィ側も馬鹿と言えば馬鹿で、まあどっちもどっちだったのかな。パンドラの生態系やナヴィの文化・言語などリアルな世界観の構築に多大なエネルギーを費やしている映画にしては、戦い方がお粗末としか言いようがなく、とても残念だ。

 ただ地球軍の司令官の「大佐」には感動した。40歳後半か50歳前半ぐらいに見える人なのだが、ひたすら強い。そのへんの若造など束になってかかっても敵わないだろう。エンジンがやられて、落下する飛行機の中でもまったく動じず、敵と戦いながら的確な判断をし、飛行機が墜落する直前でパワードスーツに乗り込んで脱出し、なお戦い続ける、その気迫というか、生や勝利への執着はすさまじいものだ。軍人魂というやつか。まあさっきも言ったように全軍出撃という命令しか出せないようなので、頭はすこぶる悪そうだが、その強靭な肉体には脱帽だ。こういうオヤジになりたいものだ。というか、この映画見て、筋トレ始めたオヤジが世界中にわんさかいるのではないだろうか。俺もがんばろう。そういうエネルギーをくれただけでも、「大佐」に会えてよかったというのが、俺の正直な気持ちだ。同じような感動を俺は『ジーパーズ・クリーパーズ2』という映画でも感じた。その映画でもオヤジが強くてかっこいい。オヤジになってしまった俺としては、すっごく個人的な感想だが、かっこいいオヤジが出てきてくれるとうれしいので、個人的にはこういう映画はどんどん作られるべきだと思う。

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 実は最近『ひぐらしのなく頃に』を見ていて忙しかったのでブログが書けなかった。というか、本当は毎日同じような事しか考えていないので、書くネタとしては、ゲーム的リアリズムに関することか(すなわち、ひぐらし関係か)、右より発言か二つに一つだった。で、ひぐらし関連というかゲーム的リアリズムに関することをまた書くとマンネリ化してしまいそうなので、何か新しいネタを書きたかったのだが、他にない。だからといって、右より発言だと書きたいことはあるにはあるのだが、例えば岡田外相が韓国行って勝手に謝罪しちゃっていることにむかついたり、日韓併合がいつの間にか日韓強制併合になっていたり、韓国に不法占拠されている竹島にアメリカの防衛義務なしとした政府答弁とか、陸自自衛官が首相を批判したと大騒ぎしている毎日新聞とか、2週間ぐらい前に日中歴史共同研究に関する朝日の社説で、2000年以降の日中関係悪化は小泉元首相の靖国神社参拝が原因だという嘘八百がいつの間にか既成事実化してしまっているような気がすることとか、まあ、毎日書きたいことがたくさんあるわけで、下手すると右より発言ばかりになってしまう。そのあたりがちょっと心配で、書くのを躊躇してしまっていたら、いつの間にか時間がたってしまった。あ、で、先に言っておくと、今日書いたエントリーの後半部分は右より発言なので、左よりの人は読まないほうがいいです。別に喧嘩売りたいわけでもないし。

 で、今日久しぶりに映画を見たので、それについて書こうを思う。今日見た映画は『若き勇者たち』という1984年のハリウッド映画だ。話の内容はコロラドの田舎町にある日突然ソ連の落下傘部隊が強襲。高校に通っていた主人公たちは銃を持って山に逃げ込む。で、そっからゲリラ戦を仕掛けて戦い始めるという青春戦争映画だ。俺はこの映画を浪人時代に見たのだが、そのとき結構気に入って、それ以来、この映画をもう一度見たいと思っていた。残念ながら、題名を忘れてしまっていたので、それから一回も見ることが出来なかったのだが、今日グーグルで検索したら題名がわかって、動画を探したら、英語版がユーチューブにアップされていたので、それを見てみた。懐かしかった。まあ、さすがに昔ほど感情移入もできないし、昔の興奮も味わえなかったけど。

 というか、やっぱ普通の高校生が8人ぐらいで山にこもったところで、軍隊と互角に戦えるゲリラになれるわけもなくて。いわゆるセカイ系というやつなのだろうか。セカイ系という単語の定義を俺はちゃんと理解できていないのだが。アマゾンのレビューには、この映画が反戦映画だみたいに評価している人がいたようだが、おそらくそれは深読みのしすぎであって、ただのアメリカ万歳映画か、ただの青春戦争映画であることは確かだと思う。俺の個人的な感想を言えば、この映画は深い内容ではない。80年代といえば日本もいろいろなアニメが出来てきたころだったんだけど、『太陽の牙 ダグラム』というアニメの方がゲリラや植民地の独立運動というのをもっと上手く表現していたような気がする。まあダグラム自体、子供の頃に見ただけなので、どこまでリアリティーを追求していたのかは思い出せないが。他にもガンダムやボトムズなど戦争アニメがいくつかあって、俺の記憶だけで判断すると、おそらくそれらのアニメの方がよく出来ているし、よっぽど大人向けだったと思う。少なくとも『若き勇者たち』よりかはリアリティーあったんじゃないかなー。

 まあ、そいでもこの映画は結構楽しめた。特にソ連ネタが結構出てきたので、ある意味80年代の雰囲気が出まくっていて懐かしかった。KGBとかソ連の攻撃ヘリ「ハインド」など、その後80年代の漫画とかアニメで流行ってたからね。あとグリーンベレーとかF-15イーグルとかもね。この映画では出てこなかったけどソ連の特殊部隊スペツナズとか、彼らが使っていた射出ナイフのスペツナズナイフとかも、80年代から90年代初頭にかけて漫画とかアニメで流行ってたような気がする。なんかいつの間にかそういうネタが出てこなくなったんじゃないかな。まあソ連が崩壊したからってのもあるんだろうけど、ある程度使われて陳腐化すると、マイナーなものが好まれるんだよね。こういう世界って。ある意味、データベース消費の萌え要素だったんだと思う。

 それにしても、うらやましいのは、こういう映画を作っても大騒ぎにならないアメリカという国だ。この映画とか80年代前半に作られた『ファイナル・カウントダウン』という映画とかを見ていると、どっちもトンデモ映画なのだけど、おそらく70年代のベトナム戦争の傷跡から抜け出せていないアメリカ人が、一方では『ファイナルカウントダウン』などをつくって第二次世界大戦や太平洋戦争におけるアメリカの正義(←アメリカ人から見た正義ってだけで、日本人はアメリカ=正義なんて思わなくていいのだけど)を再確認し、他方ではこの映画とかでアメリカ人のゲリラを描いて、ベトナム戦争のアメリカ版みたいのを作ってみたみたいなノリだったのかもしれない。まあ、アメリカ全体がそういう雰囲気だったとは思わないけど、一つ言えるのは、少なくとも、国を守るために戦うことは大事だということが理解できている点でアメリカはうらやましいと俺は思う。というか、こういう感情は別にアメリカに限らず、どこの国でも常識のはずなんだけど。例えば、韓国でも、自国を守るために戦うという映画はたくさんあるわけだし。最近の映画だと『韓半島』とか『ロストメモリーズ』ね。両方とも日本が仮想敵国なんだけど、日本が関係しない映画なら『シュリ』もそうなわけだし。90年代は『ムクゲの花が咲きました』などの、いわゆる反日小説が流行っていたらしいんだけど、そのいくつかも戦争小説だったわけで。まあ、なぜか日本の進歩的知識人とかは日本とアメリカ以外の国が作った戦争映画とかには軍靴の音が聞こえないらしいから不思議なんだけどね。日本で近未来戦争映画などを作った日にゃ、大騒ぎだと思うんだけど。というか、最近知ったのだが、日本のそっち系の知識人とか言論人ってのは自衛戦争すら否定して「殺されても殺さない」とか言っちゃってる人もいるみたいだから驚きだ。殺されても殺すななんて、信念があって一人でやってる分にはいいけど、日本人全体に強制すべきことじゃない。というか、こういう人に限って、何かが起きたら自分の身内の命を優先しそうなんだけど。まあこういうメンタリティーが自衛隊批判とかにも繋がっていくんだろうなと思う。

 それにしても日本の自衛隊批判とか警察批判ってのは度を越している。何か問題があるとすぐに警察がこんなことしましたとか、自衛官がこんな不祥事をしましたとか大騒ぎする人たちが多すぎるような気がする。特に毎日新聞が、こっち方面の反権力が大好きな新聞だと思うんだけど、ほんと困るんだよね、こういう報道されると。この前も陸自自衛官が首相批判をしたとか大騒ぎしてるし。なんかほとんど陰謀論だけで記事を書いている感じがする。

 自衛隊といえば、今日ユーチューブを見ていて気が付いたんだけど、災害救助にあたった自衛隊の皆さんに感謝の言葉を送っている動画がユーチューブとかニコニコ動画にアップされているんだよね。例えば、この動画。ちゃんとテレビのニュースをチェックしていたわけではないので、こういう動画を地上波のテレビのニュースで流していたのかどうかはわからないけど、俺はこういう動画はどんどん流していくべきだと思う。だって自衛隊の人たちに感謝すれば、自衛隊の人たちだってそれに応えてくれるでしょ。戦前の日本だって兵隊さんと言って信頼していたんだから。もちろん兵隊さんが全員ちゃんとしているかどうかは別だけど、少なくとも一部の日本人みたいに軍隊に対する感謝の気持ちを忘れて、税金で雇われている自衛隊が災害援助などの仕事をするのは当たり前だから感謝などする必要はないと横柄な態度で接したり、自衛隊なんていらないんだみたいなことを平気で言ったりしていたら、自衛隊の人もやる気をなくすだろうと思う。何も悪いことをしていないのに、疑われたら、そりゃやる気をなくすわけで、だから、俺的にはもっと自衛隊の人たちが国民を助けるためにこんなに汗をかいてくれているというようなことをテレビで流すほうが、自衛隊は悪いことをしていないだろうかと毎日疑ってばかりいるよりも、よっぽどいいことだと思う。ほとんどの人って、信頼されたら、がんばってあげようって気になるだろうからね。そういう態度が自衛隊嫌いの人たちにはないんだよねー。不思議だ。そのくせ凶悪犯罪の犯人に対しては、なぜか観音様みたいにすべてを信頼してあげちゃえる慈悲の心を持っているんだよねー。ほんと不思議な人たちだ。


映画『Stay Alive』を見た

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 久しぶりにホラー映画を見た。『Stay Alive』という映画だ。邦題は『デスゲーム』というらしい。詳しいあらすじはアマゾンとかで確認して欲しいのだが、簡単にいうと呪いのゲーム(バイオハザードのようなシューティングゲーム)をプレイした人が、ゲームプレイ中に死ぬと、現実でも同じ怪物が出てきて殺されるという、まあ、言ってみれば、『リング』の「呪いのビデオ」が「呪いのゲーム」になったような設定だ。ボスキャラはさすがにオリジナルの姿をしているが、この映画の途中に出てくる敵キャラには、『リング』の貞子っぽい化け物が登場する。アメリカでも『リング』の影響が強いし、実際、2000年以降、アジア系ホラーがアメリカで流行りだした発端は『リング』に求められると思うので、この映画の監督が『リング』の影響を受けていてもおかしくない。実は、俺は、この映画をニコニコ動画で見ていたのだが、もともとはニコニコ生放送でコメントつけながら皆で見ていたらしい。俺はそれを時間差で見たわけだ。で、そのコメントの中に『リング』とか『貞子』という単語が出てきているので、まあ、多くの日本人が、この映画の中に『リング』の影響を見て取ったことがわかる。

 ただ、こういう現実世界と虚構世界が絡み合ったホラーというのは、別に『リング』が最初ではない。今、ぱっと思い出せるだけでも、例えば1986年に作られたホラー映画『デモンズ2』では、テレビ画面から悪魔が出てくるという話だし、1991年に放映されたテレビドラマ『世にも奇妙な物語』の竹中直人が出演する『プリズナー』という話も、ビデオの中の世界に閉じ込められていた男が現実世界に戻るために、ビデオを再生した男をビデオ内に引きずり込んでしまうという話だった。

 映画の中の虚構世界が現実世界に入り込んでくるという設定は、『エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア』にも見られる。この映画では、『エルム街の悪夢』という映画に出演する主演女優や製作スタッフが、映画の中のキャラクターであるフレディに狙われるという話である。同じような虚構世界と現実世界をいったり来たりする物語としては、ホラーでなければシュワルツネッガー主演の『ラスト・アクション・ヒーロー』なども挙げられる。なお『エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア』は、もともとの『エルム街の悪夢』という映画それ自体を物語の中で物語化してしまっている点で、他の虚構世界と現実世界が単純に重なり合った世界観ではなく、むしろメタフィクショナルな環境を導入した作品として興味深いと思う。

 そもそも虚構世界というのはいろいろな媒体を通して表現されてきたのかもしれない。例えば古典的な媒体としては「鏡」が挙げられる。「鏡」の世界というのはホラーやファンタジーで一番愛されてきた道具だろうし、異世界への入り口としては、メジャーなものだろう。他には「写真」や「絵画」も、その中に虚構世界とか異世界が存在するといった感じで、ホラー映画などでは、たまに使われる。また「小説」という虚構世界と現実世界が重なりあうという設定はスティーブンキングの『ダーク・ハーフ』やジョン・カーペンター監督の『マウス・オブ・マッドネス』などが挙げられる。

 このように現実世界と虚構世界が複雑に絡み合った物語は今までもたくさん作られてきた。それだけ多くの人たちを惹きつけてきたということなのだろう。これらの物語の魅力は、フィクションとしてしか楽しめないはずの虚構世界が、フィクションの中とはいえ、その「虚構世界」と比較すると、よりリアルな「現実世界」に入り込んでくるということを描写することによって、フィクションであるはずのこれらの物語全体も、我々の住む現実世界に入り込んでくる可能性があるということを示唆しているからだろうと思う。まあそういうわけで、虚構世界が現実世界に入り込んでくるというのは、小説やテレビなど媒体が異なるとはいえ、ホラーとしては人気のあるテーマなわけだ。だから、この『Stay Alive』も、オリジナリティがあるとは言えないまでも、設定が面白いから、そういった意味では、まあそれなりに面白かった。少なくとも中盤までは結構面白い。最後の20分とかはちょっと微妙だけどね。というか、後半部分は俺は退屈だった。でも、まあ、普通にB級ホラーとしては、まあまあよく出来た作品だとは思う。

 欲を言わせてもらえば、ゲームの世界と現実世界がシンクロするところをもう少しひねって欲しかった。特に後半部分で、主人公たち3人が敵の本拠地に乗り込むんだけど、そのとき2人が建物に入って、他の一人はゲームの世界からサポートするというシーンがある。で、目の前に実際にある建物と同じ建物がゲーム画面に現れたので、ゲームをプレイしている主人公の友達が、虚構世界と現実世界が交錯した、この世界観のカラクリに気が付いて、建物の構造がどうなっていて、どこの部屋に行ったらいいかなどの指示を出したり、道具を渡したり(ゲームの世界で持っていたアイテムを捨てたら現実世界にアイテムだけ現れる)、ドアの鍵を開けたり(ゲームの世界でドアの鍵をあけたら、現実世界でもドアの鍵が開いた)、ゲームの世界でアイテムを使って敵を退散させたら、現実世界での味方が助かったとかといった具合に、ゲームの世界と現実世界の交錯した設定を逆手にとって反撃に出るという部分がある。ここら辺の展開ってのが、おそらくホラー映画ファンのツボというか萌え要素に当たる部分だと思う。

 極端な話、ホラー映画ファンってのは、新しいアイデアを見たいがために、ホラー映画を見ている部分もあるわけだ。例えば『エルム街の悪夢』では夢の中のフレディという悪魔とどのように戦うんだろうということを考えながら見ているわけだし、『13日の金曜日』では不死身のジェイソンとどうやって戦うかということを考えながら見ている。だからこそ、夢の世界に引きずりこまれないために「寝ない」という安易で消極的な防衛策ではなく、自ら夢の世界に入り込んでフレディをこちらの世界に連れ出してしまうという発想や、夢自体を操ってしまうというようなアイデアが斬新的に映るわけだし、ジェイソンと互角に渡り合う超能力少女やアンドロイドなどが登場するという、ある意味荒唐無稽で、悪乗りしすぎたような展開にも、ホラー映画ファンは歓喜してしまうわけだ。

 同じように『Stay Alive』の後半部分も、ゲームの世界から、どのように現実世界に干渉し、主人公を助けることができるのかという部分が、この映画の一番の見せ場だったと思う。だからこそ、すべてのアイデアをつぎ込んで、いろいろ「遊ぶ」ことができただろうし、無茶なことを連発してもいいから、「遊ぶ」べきだったと思う。そして、このゲームプレイヤーがいたから、最後のボスキャラも倒すことができたみたいな展開にするべきだった。そうじゃないと、ゲームを題材にした理由がいまいち効いて来ない。そこらへんが、この映画では残念なところだし、映画の後半がだれてしまった原因だったのだと思う。そこらへんは、まあ、今後のホラー映画に期待したいというとこかな。「ゲーム」を題材にしたホラーというのはいろいろな可能性が考えられそうだから、これからこういうホラー映画が流行るかもしれない。そしたら、もっと面白い作品も出てくるのかもしれない。ゲームとホラーの組み合わせというアイデアというか着眼点はよかったからね。


映画『2012』



俺が英語を学んだときはまだ20世紀だった。だから年号を言うときは、上2桁と下2桁を分けて言えと教わった。例えば、1998年だったら、ナインティーン・ナインティ・エイトと、いうぐあいだ。それが、いきなり2000年になって、なんて読めばいいんだみたいになった。トウェンティ・ゼロ?っていうのみたいに悩んでいたら、thousandという単語を使えばいいということを学んだ。で、その後10年のあいだは、全部、下一桁だから、two thousand one、two thousand two とか言っていたのだが、やっと2010年になって、とうとうtwenty-tenといえるようになったのかと思ったら、two thousand tenらしい。なぜなんだーーー!!!ということで、この映画もtwo thousand twelveと読むらしい。

で、今日、この映画を見てきた。どういう映画かというと、簡単にいったら、地球滅亡をテーマにしたパニック映画だ。マヤの予言によると2012年の12月に地球は滅亡するといわれているらしい。で、アメリカの地質学者たちが2009年ぐらいから太陽の異変が原因で、地球の地殻変動というか天変地異が近づいていることをしる。で、アメリカやロシア、ヨーロッパ、日本という国が中心となって宇宙船を建設する。2012年になり、予想よりもはやく天変地異がきてしまい、主人公のリムジン運転手の家族や他の人たちが逃げまどうなか、まあいろんな人がチベットで建設されていた宇宙船に避難して、で、津波がきて噴火して、アメリカが沈んで、日本も沈んで、宇宙船と思ったら、ただの大きな船で、逃げ延びた人たちもいた。お金を持っていると船に乗れるらしい。やっぱり、ここでも、金がすべてか。俺は金がないから死ぬんだね。でも、人類が滅亡しなくて、よかった、よかった。という映画だ。俺の説明は滅茶苦茶なので、とりあえず、興味がある人は見てください。

感想としては、結構良くできていた。パニック映画だと、家族愛とかを前面に出したヒューマンドラマになったり、あり得ないヒロイズムが延々と続いたりして中だるみする映画が多いんだけど(例えばThe day after tomorrowとかね)、この映画はそういう中だるみを感じさせずに最後のほうまでぐいぐいとひっぱっていってくれる。個人的には最後の20分ぐらいは必要なかったような気もするけど、まあ許せる範囲だった。あとヒロイズムも従来のパニック映画よりかは弱めに設定されているので嫌味がない。まあ、崩れるビルの合間を縫って走るリムジンとか溶岩があたらなかったりとかあり得ない場面はいっぱいあるし、飛行機の操縦もありえない。と、あり得ない部分はいっぱいあるのだけど、そこらへんは、CGが良くできているので、まあ何も考えずに笑って楽しんであげましょう(笑)。

The day after tomorrowと違ってメッセージ性はまったく無い。ただ、アメリカ的なメッセージは多数含まれている。正義とか優しさ、勇気などである。他にも、科学者の方が政治家よりも大事だ!みたいな台詞があったと思うけど、そこらへんもアメリカ的かなと思う。まあ、本当は映画「CUBE」で上手く表現されているように、科学者には社会を牽引する力はないわけで、個人的には納得できないんだけどね。あとバチカンの崩壊などで宗教の無力さも見せ付けられるが、実際は宗教の力は偉大だと思っている。そこらへんが不満かな。この映画では科学力とアメリカのリーダーシップで人類は救われたという「大きな物語」が語られているわけだけど、実際にこのようなことが起こった場合に人類は滅亡を免れないわけで、その時に救ってくれるのは、中途半端な科学力ではなく、むしろ宗教だと俺は思う。

この映画では、宗教とか政治よりも科学を上位におきたがるアメリカ的思考法が根底にあるように思う。というかアメリカ人はそういう感じで発展してきたわけだし。あと、さっきも言ったように、他人を思う理性やヒューマニズムを前面に出している部分もすごくアメリカ的だ。この映画では、ようするにアメリカのメンタリティーというかアメリカ人が信じていたい「大きな物語」を語っているのだろう。最近「大きな物語の消失」というポストモダン的言説が、いろいろなところで言われるから、それが当たり前だみたいな気になっていたけど、ハリウッド映画によって広められている「大きな物語」は未だに健在なんじゃないかという気にさせられた。まあ、どの程度の人間が、そのような物語を共有しているかはわからないんだけど、少なくともアメリカ人のあいだでは「大きな物語」たりえているのではないだろうか?あと、ハリウッドの世界的影響力からして、ハリウッド映画によるアメリカニズムの伝播ってのは、このハリウッドの「大きな物語」たり得ているからではないだろうかと思わされた。

異民族のステレオタイプはほとんどなかったけど、日本人と結婚しているアメリカ人の男は必要なかったと思う。異民族女性の位置づけとか、国際結婚というものを映画とかで表象するときの影響などをハリウッドは理解すべきだと思う。。そういう映像から、どのようなメッセージを異民族の男性が受け取るかという問題とかもね。オリエンタリズムとか絡んでくるわけだし、この手のトピックはすごくセンシティブな問題なので、必要に迫られない限り、避けたほうがいいと俺は思うんだけどね。あと、チベットで宇宙船を作るという設定はわかるけど、チベットと中国の関係にも、もう少し気を使うべきだったと思う。こっちは政治的問題としていろいろあるわけだし。全般的には、ちょっと中国に媚を売っているような映画だった気がする。まあ、チベット僧侶にはちゃんと敬意を払っているようなので、そこらへんは評価できるんだけど。。。

最後に、俺が一番気に入ったのは、この映画でPBRというビールを飲むシーンがあることだ。PBRが映画に出ただけで、俺は感動した。なぜなら俺はPBRをこよなく愛しているからだ。水より安いビール。一缶1ドル以下の労働者が飲むビール。マルクスが好きな人は皆で飲もうPBRというわけさ。あ、ちなみに、俺はマルクス好きだけど、保守主義だから、共産主義者ではありません。

そういうことで、話を戻すと、この映画の評価だけど、エンターテイメントとしてみたら、60点ぐらいかなと思う。CGは迫力あった。ただそれだけと言えばそれだけかな。パニック映画が好きなら楽しめます。それ以外の人はテレビでやっているときに見ればいいのではないかと思います。あと、北朝鮮の小型潜水艇程度でも生き残れちゃったんじゃないかなーとか思わないように。津波と地震が怖いだけだから、なんとなく潜水艦に乗ってりゃ助かりそうだけど、それじゃパニック映画にならないからね(笑)。


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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