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タイガーマスクの寄付の連鎖と日本的優しさ

 よくテレビとかで暗いニュースばかりで申し訳ありませんとかいうけれど、ニュースというのは暗い話が多くなるのは当たり前だと思っている。特に社会面なんてのは事件や事故が主なネタなんだから、明るいニュースになるはずがない。テレビでは番組の最後に、明るいニュースですとか言って、世界のくだらないニュースを時々流すが、それがまた悲しいほどに寒い。と、ひねくれものの私などは感じてしまう。だって、例えば、世界のどっかの国のただの犬が一匹助かったところで私の知ったことじゃないだろう。そういうニュースを垂れ流されても、別に害にはならないが、その程度のニュースを聞かされただけで心があったまるほど私の心は純粋でもない。しかし、最近、そんな私でも嬉しくなるニュースがある。それは、最近日本を賑わしはじめている、タイガーマスクを真似た寄付の連鎖だ。

 私がなんで嬉しくなるかというと、実は「寄付というのはキリスト教社会である西洋でしか起こり得なくて、けちな日本人は寄付なんてしない」というような意味不明な言説を何度か見たり聞いたりしていたからだ。挙句の果てには、「日本人は他人の事などまったく考えない自己中民族だ。だから寄付などしないんだ」などというようなことを平気で言っていた日本人もいた(どこで誰が言っていたかは思い出せないが)。そういう言説に出会うたびに、違和感を覚え、嫌な気分になっていた。

 寄付の話で私を苛立たせていたのは、この日本には寄付が無いと得意げに言っている人のほとんどが、西洋やアメリカ一辺倒の奴隷根性丸出しのように見えたからだ。西洋を崇拝しまくっている、このような人たちは、一般人から有名な知識人まで、日本は寄付という文化が根付いていない遅れた社会だと信じたいのだろう。彼らはたぶん寄付をしようなどとは、露ほども考えたことのないケチで、さもしい心の持ち主なのだろうとは思う。その点では、そういうあさましい日本人がいるという証拠にはなっているのだろうが、だからといって彼らの卑しさを日本人の特徴として一般化しないで欲しいものだと常々考えていた。

 キリスト教社会の方が寄付の精神が若干強いのかもしれないが、日本にも布施や寄進というものが存在していた。そもそも前近代社会で、相互扶助の精神がない社会などというものはあり得ない。だから西洋と日本のどちらが寄付の精神が根付いていたかなんてことは、比べることからして馬鹿っぽいように思う。日本に寄付の文化が根付いていなかったという言説は怪しいだろう。私はアメリカの寄付と日本の寄付の違いは寄付をしたことのアピールの仕方の違いではないかと思っている。なお、先に断っておきたいが、西洋と言っても私はヨーロッパを知らないので、アメリカを中心に語りたい。ヨーロッパ社会はアメリカと違って、もっと成熟した文化の社会であるらしい。

 アメリカの大企業や大富豪は確かに寄付が好きだ。ある意味、お金を持っている人たちは、お金を持っていない人達に施しをして社会に貢献しなければいけないというキリスト教や騎士道精神が根底にあるのかもしれない。またイギリス植民地の時代から開拓時代にかけて危険に満ちた見知らぬ土地で生活していったわけだから、地域住民の助け合いの精神は強かった。だからアメリカ人というのは基本的に助け合う精神が強いのは確かだ。

 しかし、寄付を語る上で、もう一つ重要な点は、アメリカ人は寄付を公にしているケースが多いということだ。単に寄付をするわけではなくて、寄付をすることで名声を得ているように見える。個人でも会社でも寄付することによって社会に貢献したとアピールすれば、好感度がアップする。イメージアップの一環として寄付しているのではないだろうか。アメリカではそのような下心があるかもしれない行為でも評価される。結果オーライなところがある。本当に困っている人たちにとっては、寄付してくれる人がどのような思惑で寄付してくれようと、どうでもいいことだから、ある意味、変なプライドで寄付をしないよりも、いいことなのかもしれない。

 しかし日本人はそうはいかない。そのような下心丸出しの方法はとりたくないと思うのではないだろうか。それが寄付を敬遠しがちな社会にしているように思う。だからといって、日本人は寄付しないわけではないし、他人の事をまったく考えない卑しい人間ではもちろんない。むしろ他人の事を考えるからこそ、おおっぴらに寄付できないだけだ。しかし、例えば、1990年代後半、北朝鮮拉致事件がまだ「拉致疑惑」だと朝日新聞などでは呼ばれていた頃、拉致被害者を救いたいと考えている人たちが、アメリカの世論を動かそうとタイム誌やニューズウィーク誌に一ページ全面広告を出すからと寄付を募ったことがあった。確か、多くの人たちが寄付をしたと思う。もう一つの例としては、先日の宮崎県の口蹄疫被害で、寄付を募っていて多くの人が寄付をした。これらの例では、誰がどのくらい寄付をしたのかはわからない。しかし、だからこそ多くの人が寄付してくれたんじゃないかと思う。今回のタイガーマスクの件にしても、最初の人が、もしも自分の名前を出して寄付したのであれば、真似をする人は出てこなかったように思う。自分の名前を出さず、むしろ出さないが故に、寄付の連鎖が始まっているのではないか。他人に認められなくても、寄付をしたという行為を自分や家族が知っているだけで十分だと考えているんじゃないだろうか。それこそが日本的寄付の仕方なんじゃないだろうか。そして、そのような崇高な精神によって行われるのが本物の寄付なのではないかと思う。

 最近は他人のことを気にもかけない自己中心的な日本人が増えたという。確かに我も我もというような個人主義の社会に変貌してきてしまっているような雰囲気は感じる。特に都市部を歩いていると、日本人も変わってきたなと感じることが多くなった。ただ、心優しい日本人が多くいるのも確かだ。寄付に限らず、電車の中で席を譲りたいと思ってる人や、道端で困っている人を助けてあげようかなと思っている人は多いはずだ。本当に困っていたら、さりげなく助けてあげようと考えている人も多いだろう。そういう日本的な目立たない優しさはとてもいいことだ。グローバル化した社会では自分をどんどんアピールしていかないといけないという人も多いが、人助けまで自己主張の一部と化してしまっているような薄っぺらい社会にだけは住みたくない。私が、タイガーマスクの話を聞いて嬉しくなったのは、日本的なやさしさがまだ忘れられていなかったということを思い出させてくれたからだ。



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初詣

昨日、用があって東京に行ったので、帰りに明治神宮によってきた。
明治神宮に行くのは初めて。というか、代々木にあったなんて知らなかった。
意味もなく感動した。
で、まったく面白みに欠けるけど、いつものごとく、iPhoneで撮った写真。ピンボケでごめんなさい。













 すごい人の量だったけど、並んでいたのは30分ぐらいだったかなー。身動き取れないというほどの込み具合ではなかった。俺のおばさんとお袋が、隙間をぬってどんどん前に行けてしまうぐらい、ある程度余裕がある状態だった。というか、横入りするお袋たちを見ているのが恥ずかしかった。皆さんごめんなさい。。。

 それにしても、いろいろ面白かったんだよねー。特に、おみくじ売っている巫女さんもどきに茶髪っぽい娘がいて笑えた。いいのか、茶髪で?みたいな感じになった。まあ、日本人は黒髪で無ければいけないというのも、ある意味本質主義だし、黒髪に固執する必要はないのかもしれないが。。。昔、台湾の国際会議に出席したとき、台湾の伝統芸能を見る機会があったんだけど、その踊り子が茶髪で笑えたんだよね。俺的には、だから、今回の茶髪の巫女さんは、そのときぐらい、衝撃を受けたかなー(笑)。

 昨日はそんな感じで明治神宮に行ってきたんだけど、時間があったので、今日は近くの神社に行ってきた。いつもはあまり人がいない神社なんだけど、今日は人が沢山いて驚いた。

 で、昨日と今日、初詣をしてきて感じたのは、日本ってつくづく面白い国だなーということだ。よく日本人は無宗教だけど正月には初詣に行って、お盆にはお寺に行くぐらい、宗教が身近にあるというような意見を聞く。そのような意見に反対するつもりはない。俺も日本人って全然無宗教な国民ではなく、むしろ日常的に宗教と隣り合わせで生きている国民だと思っている。例えば、何でも無い普通の日に神社にいると、外回りの会社員の人やリクルート姿の若者などが、街中の神社にぶらっときて、お辞儀をして去っていく姿をよく見かける。通り道で寄っただけなのだろうが、そういうのを見ていると、日本人って結構宗教心強いんだろうなって思う。少なくとも人智を超えた何かを信じているのは確かだと思う。だから日本人が宗教を身近に感じているという考えには俺も賛成だ。

 しかし、昨日と今日初詣に来ている人たちを見ていると、初詣に関して言えば、どうも宗教心が強くて参拝に来ている人達ばかりではないような気がした。特に若者たちのことになるが、彼らを見ていると、なんとなく初詣を一種のイベントとして楽しんでいるように見えるのだ。初詣の本来の目的はあまり興味がなく、そこに行くという行為、もっと言えば初詣というのは単なるネタで、友達と遊ぶことや恋人とデートをするのが本当の目的になっているように見える。ここらへん、なんとなく、鈴木謙介氏が提唱する「わたしたち消費」というものに通じているように思う。

 鈴木氏によると、最近の消費行動で面白いのは、そのモノ自体が欲しいのではなくて、コミュニケーションのネタとして購入することがあるということだ。これをネタ的コミュニケーションと呼んでいるのだが、最近の初詣は、それに似ているのではないかと感じた。だって神様にお願いしたり、おみくじを引いたり、お守り買ったりするのが主目的ではなくて、むしろ友人や恋人とコミュニケーションをとることが目的っぽいんだから。そこらへんが、少し面白い現象じゃないかなと感じた正月だった。



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イルカ漁の映画 日本と西洋がすれ違う理由

最近、捕鯨問題やイルカ漁映画の問題が騒がしくなってきたような気がする。ツイッターで騒いでいる人たちのところを見ているから、世間で大騒ぎしているように見えるだけなのかもしれない。まあ、とりあえず、そういうところを覗いていたら、日本の状況とか何も知らずに、なめたコメントしている外国人を見て血圧高くなったりして、あんまり楽しいってわけでもないのだが、いろいろ考えさせられたこともあった。その一つが、イルカとかクジラなど人間以外の動物に愛を注ぐようになったのは興味深いみたいなコメントだ。

よく考えると捕鯨問題って結構不思議だ。もともと、自然と対立して、自然は人間様のためにあるのだから、俺様の前に跪けー!自然を征服してすべてを奪いつくすのだー!ぐわっはっはっはっていう悪者は、自然を搾取の対象としてしか見ていなかった西洋社会の専売特許のはずだ。日本では、自然との共生というのを第一義に考えてきたと思う。それが、なぜか捕鯨問題では、立場が逆転して、西洋が日本にクジラやイルカを守ってあげろと声を荒げる。その辺り、よく考えると、ちょっと不思議だ。

で、話は前後するが、先に言っておきたいことは、今回、西洋と日本という単純化を行っているが、もちろん、それは極端な単純化であり、ある意味ステレオタイプだ。だから、完全に西洋が自然に対して常に破壊の限りを尽くしているわけではない。例えばヒッピー文化やアーミッシュなどは反文明社会というイデオロギーが強く、自然の中で生きることに価値を置いているだろう。他にもヒッピー文化やニューエイジの流れを汲む環境保護運動家や動物保護運動家なども自然や動物の命を尊重している。逆に日本でも都市生活や文明社会を最良と考え都市開発を推し進める人や、山を切り崩してゴルフ場を造ってしまう拝金主義者などもいる。だから西洋と日本という区分を極端に単純化することは危険である。ただ、物事の本質をあぶりだすために、ここではあえて単純化した議論をしてみたい。

そういうことで、クジラやイルカに対してなぜ西洋人はここまでヒステリックに大騒ぎするのかという問題を考えたい。どこかのブログに興味深いコメントを書いている人がいた。その人が言うには、日本人は捕鯨問題の反論として、アメリカ人も牛や豚を食べているじゃないかということを言っても意味がないという。なぜなら西洋人は野生の動物と家畜を区別しているからなのだそうだ。つまり牛や豚は家畜だから殺して食べてもいいのだが、イルカやクジラは家畜ではないから西洋人は怒っているのだという議論だ。この「家畜」対「野生動物」という対立は興味深いが、今回の件では、おそらく関係がないと思う。例えばアメリカでは鹿猟が盛んだ。ウォルマートに行ったら、必ず猟をする人のためのコーナーがあり、空気銃や様々な装備が売っている。もちろん、本物のライフルなども手続きさえすれば、手に入るだろう。アーケードゲームやテレビゲームなどでも鹿猟のゲームが存在するという事実から、多くの人が猟を、釣りと同じように楽しんでいるのがわかる。鹿はもちろん野生動物だ。猟じゃなくても、釣りだって野生の魚が対象だ。これらの動物が可愛そうだという批判があがらないところを見ると、野生動物を殺してはいけないという感覚はあまり関係がないと思われる。

そもそも家畜と野生動物の対比というのは、西洋社会よりもアニミズム的世界観を持った社会の方が受け入れやすい概念ではないかと思う。アニミズム的世界観では草木や石などにまで神が宿っている。ただ、自然すべてが特別かというとそうではない。多くの社会では村に境界線を引いて、「うち」と「そと」という対立軸を設定し、非人間世界は「そと」であり、村の内部は人間世界だというような区分をする。その結果、村の内部に存在する動物は家畜であり、外のすむ野生動物とは区別されるのだ。もちろん、だから家畜がすべて食べられる存在だという単純な話ではない。ただ、家畜と野生動物というのは、人間世界と非人間世界の区分に対応していたのは確かだろうと思う。

西洋人がイルカやクジラに対してヒステリックに反応するのは、やはりイルカやクジラは「高い知能を持っているから」ということに尽きると思う。そして、それは捕鯨運動が自然と共生していこうという運動とは異なっているのではないかということをうかがわせる。どういうことかというと、西洋人はむしろ動物の一部を我々の側に引き寄せようとしているだけなのではないかと思うのだ。

スペイン人たちが中米や南米に足を踏み入れた大航海時代の頃、教会では大きな論争が巻き起こったという。それは、中米や南米に住む現地人が人間なのかどうかという問題だった。彼らが人間でないなら、殺しても構わないが、もし人間であるならば、キリスト教に改宗させ、文明化させないといけないというようなことだったらしい。宣教師たちは、西洋人ほど知能は高くないが、現地の人たちも人間としての知性を有しているということに気がついたため、文明化・キリスト教化してくれたわけだ。現地の人にとってみたら、ほんと迷惑な話なのだが。

さて、ここで重要だったのは、ある動物が(この場合は中米や南米の人たちだが)、人間の側なのか、それとも自然の側なのかということが問題であって、その基準が「知性」で測られたということだ。裏を返すと、人間の側でなければ、殺しても構わないという論理になる。もちろん、最近では、絶滅危惧種の問題も知られるようになったし、生物多様性が重要なことも認識されるようになったので、知性がなければ殺しつくしてもいいという考えの人はいないだろうが、基本的には動物(自然)か人間かの違いで区別していたことは明らかだし、そのような区分の仕方を未だにしているように思う。たとえば映画「スターシップトゥルーパーズ」のなかでも、バグズという違う星の巨大昆虫が知性があるのかどうかということを議論するシーンがある。これも西洋人が「知性」というものを重視し、世界を人間の側と自然の側に分けているという証ではないだろうか。

ここが、日本人が抱いているイメージと大きくかけ離れている部分だと思う。日本人は、知性のある動物を選んで人間の側に持ってくるのではなく(つまり人間側の領域を広げていって、そこに含まれる生物を増やすのではなく)、人間が自然の一部だという考えを持つ。だから、自然と人間を厳密に区別する必要もない。すべては連続的に変化しているのだ。だからこそ、イルカやクジラを殺してはいけないということになったら、じゃ、他の動物は?という議論に、すぐにいってしまう。知性があるから助けないといけないという人間中心の論理は、そこでは成り立たない。さらに人間も動物も他の生物の命をもらって生きながらえているという感覚を持っているため、感謝の念が強まるし、必要のない殺生はいけないという論理にもなる。猟を楽しむだけのハンターこそ軽蔑するべき行為になるのだ。このような世界観はもちろん日本だけのものではない。アニミズム的世界観が世界中にある。特に自然に恵まれている環境で発達した社会では、このような感覚が強いのではないかと思う。

もちろん、このような違いがわかったところで、捕鯨問題が解決するわけではない。しかも、イルカやクジラといった動物たちに知性を認めることは、もしかしたら必要なことなのかもしれない。中米や南米の先住民に知性があるから殺さなかったというような議論と同じ問題に、もしかしたら直面しているのかもしれない。もしも、そうならば、イルカやクジラを殺していた日本が、将来どのように評価されるのかはわからない。

もちろん、イルカやクジラは人間とは大きく異なる。彼らは知能は高いが、人間のような知能ではないという研究を、どこかの雑誌で読んだことがある。コミュニケーションの仕方から感情などまで根本的に異なるだろう。イルカやクジラは社会を発達させていないが、それは知性の発現の仕方が異なるからではないだろうか。ただし、ハワイのシー・ワールドのイルカは泡をつくって遊ぶという「文化」を作り出し、親から子へと受け継がれているということが90年代に報じられた。「ザ・コーヴ」で、泡で遊んでいるシーンが映し出されていたが、あれはこのイルカたちだろうと思う。そのあたりを考えると、いろいろ難しい判断をしなくてはいけなくなる。人間以外の生物で、まったく思考方法というか、知性の質も異なる生物間で、どのように人間の側に持ってくるのかということは、大きな問題だからだ。そもそも知性という定義も曖昧すぎるだろう。

日本人にしてみたら、動物の一部の種を恣意的に選んできて、この動物は知性が高いから保護するべきだ。こっちは知性はないから殺していい。というような議論は乱暴すぎる。また、今回の映画やシー・シェパードの過激な行動を見見せ付けられたり、シー・シェパードのように平気で嘘を世界中に発信するような態度を見せ付けられると、日本人としては、まったく納得できないだろう。一番の問題は、彼らの言説の裏に、人種差別的匂いが多分に感じられることだ。

西洋社会が本当に日本人に捕鯨問題を考えさせたいのならば、このように世界的な圧力を作り出したり、可愛いイルカを殺すのは可愛そうだというような感情論に訴えるのではなく、「知性とは何か」という問題の本質をつめていくべきだ。イルカやクジラには、人間とは異なるが、こういう意味で知性と呼べるものがあり、それはきわめて高い知性だから、共存していくべきだというのであれば、おそらく納得できると思う。実は文化相対主義は本当に難しいし、ある意味、カニバリズムも極端な相対主義では否定できなくなってしまうのだが、まあ、知性をきっちりと定義して話し合いをしようとしてくる態度を示してきたら、日本人も話を聞けるようになるだろう。そのような状況になって、初めて文化を保持するべきかやめるべきかという議論が日本人の間で出来るようになると思うのだ。もちろん、その判断の主体は日本人であって、そこに国際的な非難といった外部の圧力があってはならないのはいうまでもない。さらに日本人を啓蒙してあげようとか、真実を教えてあげようとか、自分たちの価値観を押し付けるなどというのは、人類学の世界ではありえない行為だし、もちろん自分の目的を果たすために現地の人の意見を無視して盗撮などをするなんて言語道断である。もちろんこのような異文化を表象するという行為はきわめてデリケートで難しい問題であって、それは人類学に限らずすべてのメディアが十分注意を払わないといけないものなのだ。今回の映画はそのような配慮がまったく欠如してしまっていた。それが大きな問題だったと思う。捕鯨団体反対派勢力は、まずは、そのあたりを深く反省して、太地町の人たちに謝罪するべきだろう。



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イルカ漁を考える

 今日の朝日新聞を読んでいたら、あの太地町のイルカ漁を批判的にとりあげた「Cove」という映画が市民団体の手によって中止に追い込まれたという記事が載っていた。記事ではご丁寧にも市民団体の名前を出して、あたかも右翼団体にちかい団体であるような印象操作を行っていた。まあ、そこは今日の論点ではない。その記事を読んで、ちょっと気になったので、ツイッターで検索を書けたら、英語の呟きがいくつかでてきた。「COVE」を中止に追い込んだ一部日本人をけなすようなコメントが多かった。そういうわけで、今日はこのことについて、簡単にではあるが、改めて考えてみたいと思う。

 イルカの殺されるシーンを見て、それをかわいそうと思わない日本人は、おろらくあまりいないと思う。それはイルカだけに限ったことではない。牛や豚も殺されるシーンというのは見たくないものだ。サモアで発掘調査をしていたとき、村の人がパーティーを開いてくれて、そのとき豚を1頭まるまる料理して出してくれたのだが、休日だったこともあり、俺と同僚は昼間から、料理小屋のあたりでしゃべったり、支度を手伝ったりしていた。で、豚を殺すところに立ち会ったわけだが、現代人にとってはやはり見ているのはつらいものだった。まあ、バケツに水を入れて、そこに頭を押し付けて殺すので、そこまで苦しまずに殺してしまうのだが、それでも、大型生物を殺して食べるというのは、見ていると、やはり抵抗を感じる。しかし近代以前はどの社会でもこういう風景は日常生活に入り込んでいたわけだし、それを動物を殺さなければ生きていけないのだから仕方がない。だから、動物がかわいそうという罪の意識を感じるよりも、我々のために命を捧げてくれてありがとうというような感謝の気持ちを感じるようになるのは当たり前のことだったと思う。それが身勝手な解釈だと断罪するのは容易い。しかし、それが現実なのだ。そして、そのような身勝手なロジックは文化によって組み立てられた。

 よくあるロジックは、神が人間のために動物を使わせてくれたとか、動物が人間のために肉体を提供してくれたという考えだ。神様とか動物の魂はどこか異界にあって、人間のためにこの世界に現れてくれる。だから感謝しながら動物を食べ、その魂を霊界に帰すことによって、また次のときに動物の魂は肉体をもってこの世界に戻ってくる。というような考えである。アメリカ先住民とかアイヌなどで顕著に見られる世界観だが、世界中いろいろなところで、そのような考えがあった。

 それでは、このようなロジックをつかって感謝の対象になるような動物とはどのような動物だろうか?熊なのか、それとも牛なのか。イルカやクジラなのか。実は、その対象も文化によって大きく異なるだろう。アメリカでは牛を平気で食べるが、ヒンドゥー教社会では牛は食べてはいけない。(ちなみにマーヴィン・ハリスという人類学者は牛を食べない理由を環境などの要因として、牛を食べないことが社会にとって得策だから食べなかったというとても興味深い説明をしている。一般受けする説明ではあるが、実はマーヴィンハリスは環境要因にすべてを帰するため、また解釈ではなく説明重視なために、文化人類学者のなかでは少し浮いた存在になってしまっている。一概に環境要因なのか、それとも宗教体系が先に出来上がったのかは定かではない。)同様にイスラム教徒は豚を食ってはいけないという。そこには彼らなりの論理が存在する。しかし、その論理はもちろん不変的な論理ではないし、他の社会が従うべきものではない。それぞれの文化は、世界を恣意的に分節し、それによって世界に秩序を与える。ある社会では食べていいものが、他の社会では食べてはいけないものになり、その逆も真なのだ。そこには絶対の真理はない。極端な話、それはカニバリズムまで正当化してしまう可能性もある。

 例えば、アステカ帝国ではカニバリズム(食人)の風習があったといわれる。実はアステカにカニバリズムの風習があったのかどうかもまだ議論の余地はあるのだが、ただあったとして話を進めよう。ここで紹介したいのは、アステカのカニバリズムに関して、興味深い話を聞いたことがあったからだ。アステカ帝国は絶えず近隣部族に戦争をしかけていたわけだが、なぜか領土を拡大するということをしなかったのだ。戦争で奴隷を捕まえてきても、なぜ領土を広げようとしなかったのか。次のような説明をする研究者がいる。アステカ帝国が近隣部族を打ち負かし、その領域もアステカ帝国に組み込んでしまうと、その打ち負かした部族の人間も、アステカ帝国の人間になってしまう。そうすると、アステカ帝国の人たちは、自分たちの仲間を食べる食人族になってしまう。だから、彼らをアステカ帝国に組み入れてはいけなかったのではないかという解釈である。つまり、アステカ帝国に組み入れなければ、近隣部族の人間は、人間ではないから食べれるのだという。この解釈がどの程度信頼できるものなのかわからないが、アメリカ先住民では、よく自分たちのことを「人間」という言葉で表現する社会が多くある。それらの社会では、別に食人風習があるわけではないのだが、ただ、アメリカ先住民社会の傾向として、自分たち「人間」と「人間ではないもの」という区分があったと考えられる。

 このような区分はアメリカ先住民社会に限ったことではなくて、例えばミクロネシアのポーンペイ島でも同じような区分があるし、日本でも異人などに顕著に見られる。つまり自分たちの社会の成員と、外部の成員は異なるという考えだ。外部から訪れてくる人間は旅芸人や漂白民(しばしば異人やマレビトと呼ばれるが)だが、彼らは特殊な知識や技能、または異国の道具を持っていた。彼らは新しい智恵や福をもたらしてくれると同時に、災いをもたらすものとして畏怖される存在でもあった。つまり異人とは両義的な存在だったのだ。だからこそ、彼らは共同体内部の人間たちとは異なる人間であって人間ではない存在だったである。

 まあ、そういうわけで、ここで何がいいたいかというと、世界を分節する仕方というのは文化に強く規定されており、それは食べていいものと食べてはいけないものなどの分類にも深くかかわってくる。さらに、自然や自らの命を提供してくれる動物たちに感謝するというような宗教体系なども深く関与してくる。そのような文化を抜きにして、何を食べていいのか、何を食べてはいけないのかというようなことを議論しても意味がない。単に、どこかの社会の価値観を押し付けていることにしかならないだろう。

 イルカやクジラを食うなと言っているアメリカ人は、イスラム教徒やヒンドゥー教徒に牛や豚を食うなといわれる状況を考えるべきだ。イスラム教徒やヒンドゥー教徒に、豚や牛を食うなと言われて、アメリカ人が明日から食べるのをやめるというのならば、日本人もイルカ漁をやめることを考えてもいい。しかし、おそらく、アメリカ人は、そんな理不尽な要求を受け入れるはずがない。アメリカ人はここぞとばかりに文化相対主義を出すだろう。そして、その判断は正しい。なぜならば、そこには絶対の基準は無いからだ。ならば、同じ論理で、日本人がイルカやクジラを食べるということを非難される筋合いはないのである。

 もちろん、日本人が自らイルカ漁をやめると決めるのならば、それに反対するつもりはない。イルカが、かわいそうだからという安易な理由でもいいと思う。ただし、アメリカ人が言っているからとか、西洋文化ではそんな野蛮なことをしていないからとか、イルカ漁は前近代的な伝統文化だからというような意味不明な理由では納得できない。日本文化は変化していくべきだが、その変化の担い手は日本人であるべきだ。そしてそのためには、主体である日本人が、日本文化をよく理解し、西洋文化を十分相対化した上で、西洋文化を日本文化に取り入れることによって日本文化を変化させていくべきなのだ。。西洋文化を相対化せずに、単純に受容してしまったら、西洋の猿真似しかできず、結果的に日本文化を破壊するだけだろう。戦後65年あまり、そのような失敗を続けてきてしまったが、そろそろ日本文化をどのように変化させていくかということを本気で考えていくべき時だと思う。



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ポスト資本主義

 一昨日、ニュースを見ていたら、興味深いカフェが紹介されていた。Saint Louis Bread Co.の店なのだが、看板にはCommunity Cafeと書かれている。普通のカフェに見えるのだが、何が興味深いかというと、お金を払うシステムが独特なのだ。英語ではPay what you canと言うらしいのだが、ようするに、値段というものはなくて、払える分だけ払ってくださいということらしい。こういう店の存在をオレは昨日初めて知ったのだが、ウィキペディアで調べたら、同じような店が、すでにいくつかあることがわかった。

 この話を聞いたときに、まず脳裏をかすめたのは、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というマルクス主義のスローガンだ。このカフェでは、財力に応じて払い(お金を持っていない人は簡単な労働で返すことも出来るらしい)、必要な分だけ食べるということになる。まあ、人間なんていくら頑張っても食べる量には限界があるわけだから、マルクス主義が成り立つ可能性のある場所というのは、こういうカフェなどになってくるのだろうと思う。金など溜め込める財では、必要以上に受け取ろうとするだろうからね。その意味で、このような試みは興味深い。あとシェルターとかで無料で料理を振る舞うのではなく、お金がなくても、その分を労働で返させるという部分も興味深い。たしかフロイトは患者がどんなにお金に困っていても治療費を請求しないといけないみたいなことを言っていたと思うのだが、お金か労働で払わせるというのは、同じような意味で重要になってくるのだろう。

 それにしても、最近は資本主義の限界が露呈してきたためか、ポスト資本主義時代を連想させるような新しい動きが、いろいろ出てきているように思う。例えば、最近、日本では(というか、ネット上の一部では)ベイシックインカムというものが注目されるようになってきた。よくは知らないが、ようするに生きるために必要最低限のものは国が無料で用意しましょうということらしい。ニコニコ生激論でベイシックインカムについて討論していたのを、ちょっとだけ見た感じでは、今だったら、国民全員をなんとか養う力を国が持っているのだという。あとは、ちょっと贅沢したいと思う人が、ちゃんと働けばいいというようなことを言っていた。ベイシックインカムを知識人が集まって真剣に話すぐらい現実味を帯びているのだったら、寄付で成り立つカフェなんてのは、もっと普通にそこら中にできてもおかしくないだろう。まあ、ウィキに紹介されているSAMEというカフェに関する記事を読んでいたら、経営者は結構大変みたいだけどね。とりあえず儲けではなく、人々のために働くことで満足感を得ているようだ。その点はNPOとか最近話題の社会企業家と同じ感覚なのだろう。社会企業家というものの存在は、半年ほど前にテレビ(クローズアップ現代だったと思う)で見てて、こんな人たちもいるんだって思っていたのだが、最近、本屋にいったらすごい量の本が置いてあってびっくりした。それだけ社会が急激に変化してきているということなのかもしれない。さらに、ポスト資本主義の形としてもう一つの方向も気になっている。それは、ネットを中心にして発展しているフリー経済(←経済学に疎いので、なんて呼ぶのかわからないが、とりあえず無料でいろいろ手に入る市場)の方向性だ。このような動きに人類学がどのような貢献が出来るのかということにも興味があるわけだけど、今のところ、ポスト資本主義の目指すものやフリー経済の動きに対して経済人類学が貢献できていないのではないかということが、ちょっとだけ残念な気にもなる。ということで、経済人類学というものを簡単に紹介しようと思ったんだけど、ちょっと疲れたので、次回に続きます。たぶん。



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右よりの内容ですが、もう一つブログを書いています。右よりの話でも大丈夫な人や日本が好きな人はいちど覗いてみてください。
保守主義のすすめ

私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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