こんな意見書を出しても何も変わりゃしないのに
「イラスト・口語多用…バラエティー番組にBPO意見書」
冒頭の部分を引用してみると
放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は17日、バラエティー番組の質が低下し、視聴者のテレビ離れを招いていると指摘する意見書を日本民間放送連盟に出した。
意見書は、「このあと、すぐッ」「さァ、イッてみようっ」などと、くだけた口語を多用する異色の形式。委員の一人でマンガ家の里中満智子さんが描いたイラストも多数載せた。いずれも、制作現場のスタッフに理解してもらえるよう工夫した結果だ。
(以下略)
バラエティー番組が低下してきた?昔のバラエティー番組ってそんなに質が高かったっけ?俺には目くそ鼻くその違いにしか見えないのだが。と思っていたら、なぜか、この部分の記述がなくなった。新しい文章は以下の通り。さすが朝日新聞。どんどん記事を書き直す(笑)。
放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は17日、テレビのバラエティー番組について、性的表現や内輪話などが視聴者のテレビ離れを招いていると指摘し、番組づくりの見直しを求める意見書を日本民間放送連盟に通知した。「さァ、イッてみようっ」「これはレッドカード、即退場」など、くだけた口語を多用する異色の文体で、制作現場の若手に共感してもらえるよう工夫した。
意見書では、バラエティー番組を「古い秩序や権威を笑い飛ばし、常識や社会通念を揺さぶってきた」と評価した上で「相当数の視聴者が不快感・嫌悪感を持ち、反発する問題点がある」と指摘。
(以下略)
なぜ、バラエティー番組の質が低下し、という部分を削除したのかはよくわからないが、まあ、いいや。そいでも、この新しい文章の第二段落が気になる。
「古い秩序や権威を笑い飛ばし、常識や社会通念を揺さぶってきた」と評価
はい?
これはまた、大風呂敷を広げちゃいましたね、BPOさん。
バラエティー番組ごときが社会に貢献?
というか、古い秩序や権威を笑い飛ばしって、あなた、別に笑い飛ばさないといけないような権威なんて今の日本にはないのですが(笑)
この人たち、脳内妄想で、未だに圧政を敷く絶対君主かなんかと戦っちゃってたりしてるのかな?
ついでに、古い秩序って・・・(笑)
まーた、マルクスの亡霊たちかい!
俺も、マルクス自体は好きだけどねー。
学生運動で盛り上がっちゃった世代の、マルクス主義者もどきの人たちは嫌いだ。
とりあえず、反権力と革新だけ唱えてりゃ、女にモテルなんていう時代はとっくの昔に終わってるっつーの。
というか、この人たち、自分たちが、すでに体制側にいるんだってことに、なぜ気がつかないのかな?
まあ、でも、国民総白痴化計画がテレビ局の方針みたいなので、そういう意味では、常識や社会通念を揺さぶってきたという部分だけは、あながち間違いとも言えないわけだが。。。というか、バラエティー番組が原因でこんな社会になったという自覚があるのなら、常識や社会通念が通じなくなった社会にしてしまったことについて、謝罪しようよ!
それにしても、はやいとこバラエティー番組を減らしてくれないかな。別に完璧に無くさなくてもいいのだけど毎日、毎日、同じような番組をすべての局で垂れ流している必要はないでしょ。一つか二つの局で十分だと思う。それより、アニメを朝から晩まで流してほしいわ。アニメ流してくれたら、テレビ擁護で論陣を張ってあげるのにな。
過熱報道
夕べ、市橋容疑者が新幹線から降りる様子がテレビに映っていた。なに?この報道陣の数。どう見ても、異常だろ。しかも、まるで、お祭りにでも参加しているような興奮気味の異様な人たち。なぜ、そこまで大騒ぎするのかがわからない。もう捕まったんだろ。それ以上、なにを見せる必要があるのだろうか?俺にはよくわからん。
まあ、報道陣にしてみれば、市橋容疑者や被害者のことなどどうでもいいのであろう。要は、話題性のある絵が撮れればいい。
話題性
それだけで、ニュースを垂れ流していていいのだろうか?最近のテレビには本当にうんざりしている。普通の報道番組までワイドショーみたいな事件ばかり取り上げて、どうするんだって感じ。そういえば、ワイドショー化する日本というシリーズものの記事をブログに書いている人がいた。結構おもしろい。他にも、この過熱報道について否定的な意見を書いている人も多いみたいだ。みんな同じようなことを感じているわけだね。ネットがあって本当によかった。報道関係の人たちの世論操作に対抗できるのはネットだけだし。
それにしても、正義のためという大義名分さえあれば、事件や事故までも面白おかしく報道してしまうことが許されるのだろうか?人の人生をネタに生計を立ててる。嫌な人種だ。しかも、犯人に同情するつもりはないが、今回の異様な盛り上がりを見ていると、なんとなく情報操作や監視社会というものが見え隠れして、ちょっと怖かった気もする。
「ORIGAMI マエストロ」を見た
アメリカかどっかで製作された番組みたいだ。
折り紙の話なのだが、折り紙の話だけではない。
科学と芸術における創作活動というものが本質的にあまり違わないのではないかということを、折り紙を通して考えていく番組だった。
なので、結構おもしろかった。
出ていた人も、創作芸術の折り紙の専門家の人だけではなく、折り紙に魅せられた数学やコンピューター・サイエンス、生物学といった科学の専門家たちも多数出てきた。
彼らも折り紙の達人みたいな人たちで、折り紙を科学的な立場から見ている。一方、創作芸術の人たちは芸術という側面から折り紙を語っていく。
折り紙の達人は折り紙で様々なものを折ることができる。
彼らに言わせると、折れないものは無いそうだ。
だから、若い人たちは、折り方などの技術の習得に熱中してしまうらしい。
もちろん、複雑な物体を模倣するためには高度な技術が必要であり、そのような技術は素人を圧倒する凄さが感じられる。
が、年配の達人に言わせると技術だけではだめなのだという。
技術を高めるだけではいい作品は出来ないのだそうだ。
複雑な物体を完全に模倣することよりも、余分な部分を削ぎ落とし、物体の本質だけを表現することのほうが難しい。だからこそ、そのようなデフォルメされた形体にこそ芸術性の価値を置く。
結構おもしろい考えだ。
ここらへんに、写実主義から印象画や象徴画などにいたる絵画の歴史が垣間見えるのかもしれない(俺はまだそっち方面の知識が不十分なのでなんともいえないが)
余談だが、ここから写真と絵画の違い、CGとアニメの違いなどが考えられるような気がする。
この番組もここから、抽象画と折り紙、そして科学の接点を探る。
科学の本質の一つは抽象化(モデル化)である。
もともと科学の目的は森羅万象を記述することである。しかし、それは不可能に近いし、また無意味である。様々な現象を比較し、共通する本質的な何かを見つけ出すこと、それが科学の役割であろう。
つまり自然現象のなかの余分な部分を出来るだけ削り取り、そこから物事の本質を抽出するのが科学の方法論である。
そして、その最たるものが数学である。
つまり抽象化という芸術における創作活動と科学におけるモデル化・抽象化などの創作活動は類似した行為なのである。
従来考えられてきたように科学と芸術がまったく違う世界の出来事であるわけではない。
こんな感じの事を、この番組では言っていた。興味深い意見だったと思う。
ただし、この番組では述べられていなかったのだが、芸術における抽象化は科学における抽象化とは異なる側面があるのも確かであろう。
それは、禅などに見られるような、簡素化である。
西洋の具象画のように、リアリティーを追求するのではなく、むしろ余分なものをぎりぎりまで削り取って、本質的な部分だけを残す。
ぎりぎりまで抽象化したことにより多義的な解釈が可能になる。
この多義的な解釈は、厳密な定義の元で客観性を重視し唯一の結論を導き出す科学的手法とはまったく異なるものであるといわざるを得ない。
これは非線形や複雑系などによって変化してきた科学界においても、なお解釈学を主要な方法論とする人文系や芸術系とは大きく異なる点であると思われる。
日本のテレビ
だからテレビはあまり見ない。
ドラマとか映画、最近はアニメ番組も好きだが、他はどうでもいいかなみたいな。
だけど、あまり見ないテレビでも、日本に一ヶ月もいると、テレビに対して文句の一つも出てきてしまう。
今日は朝から晩まで酒井法子の裁判ネタばかり。
何がそんなに面白いのか?俺にはまったくわからない。
麻薬だかマリファナだかしらないが、そんなに大事件なのか?
俺にはその事件の社会的重大さがよくわかんない。
芸能人は麻薬をしている。よくあることじゃん。
つかまったから、罪を償う。
それでいいんじゃない?
なんで、日本中が、そこまで大騒ぎするのかわからない。
酒井法子よりも、人のネタや噂話で飯食ってる、ワイドショーのほうが、下品に見える。
まあ、ワイドショーだけなら、いいのだが、報道番組までワイドショー化していることのほうが、酒井法子の裁判より問題だと思いません?
もう一つ、日本に帰ってきて、すごく気になることがある。
それは、パチンコのCMが多すぎるということ。
数年前から、2チャンネルとかでパチンコとサラ金のCMばかりになってしまったとかいう書き込みを時々見かけていたが、ここまでパチンコのCMばかりになっているとは思わなかった。
正直、びっくりした。
「日本の若者は~」とか「これからの日本は~」とか言ってるすぐ後に、パチンコCMを垂れ流しているんだから世話ないよ。
俺はパチンコが嫌いだ。
というか、実は、パチンコにはまって人生をダメにした。
やめたくてもやめられない。その苦しみを知っている。
パチンコ依存症は本当に怖いということを知っている。
パチンコに、はまった人は知っていると思うが、あれは、本人のやめたいという意志の力が弱いから、やめられないんだというような、単純な話ではない。
パチンコ中毒になると、自分が自分でなくなる。
やめたくても、やめられないのさ。
町でパチンコ屋を見た途端に、血が騒ぐ。
ドラマでパチンコ見たら、行きたくなる。
パチンコ番組とかCMを見ただけで、パチンコのことばかり考えてしまう。
だからパチンコに関するような映像をテレビで流すべきじゃないと思う。
パチンコ依存の人たちは、そのような誘惑に抗えなくなっているのだから。
パチンコに、はまってしまったら、日本に逃げ場はない。なぜなら、どんな田舎でもパチンコ屋を見つけてしまえるから。
唯一の治療法はパチンコのないところに避難することだ。
俺はアメリカに逃げた。もちろん勉強したいという気持ちでアメリカに行ったのだが、パチンコをやめるという目的も実はあった。
アメリカに数年いたおかげで、今はパチンコ屋を見ても、店に入りたいとは思わなくなれた。少なくとも、パチンコをしたいという気持ちは、今のところない。おそらくこの先も大丈夫だと思っている。
しかし、この状態になれるまでに数年かかったのも事実だ。
まあ、ようするに、パチンコ依存は、ほとんど中毒の病気みたいなもんだ。
で、パチンコが多くの人の人生を台無しにしてしまっている。
これからも若い人たちの人生を壊していくのだろう。
パチンコさえなければ、幸せな人生を送れたであろう人たちが、不幸になっていく。
ほとんどの人は、こういう事実を知っているのに、なぜかパチンコを廃止しようとする世論が形成されない。なぜなのだろうか?
おそらくジャーナリストの怠慢だと思う。
パチンコはギャンブルであり、違法だということを、テレビの報道番組をはじめとした、ジャーナリストは追求するべきじゃないのか?
パチンコを違法にするよう、世論に訴えていくべきじゃないのか?
それなのに、パチンコのCMを大々的に垂れ流して、パチンコ産業の片棒を担いでいるとは、日本のテレビは終わったというほかないでしょ。
ヤノマミ族
NHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」だ。
ヤノマミ族とはアマゾンあたりに住む狩猟採集民で、人類学101でも名前が出てくるぐらい有名な部族である。ちなみに、Yanomamoというスペルなので、今日まで俺はヤノマモと呼んでいた。ヤノマミだったと、たった今、知った。すこし恥ずかしい。
さて、今日はこのヤノマミ族の番組について一言。
最初に言っておきたいことは、俺はテレビが好きではない。他の国の人(特に「未開」と呼ばれているような民族の人たち)が出てくる番組は、トンデモない番組ばかりで、本当に腹が立つ。
そういうことで、普段はテレビをあまり見ないのだが、今回はこの番組を途中からたまたま見始めて、そっから一気にぐいぐいと引き込まれてしまった。
全般的な印象は、よく出来ているなということだった。
私は太平洋が専門で南米はまったくしらない。だからヤノマミ族は会ったこともないし、そっち関係の論文をちゃんと読んだことも無いので、評価のしようがないのだが、全体的な印象としては、誇張とかはなさそうな感じだったし、好感のもてる番組づくりがなされていたような気がする。ちょっとだけナレーションのしゃべり方がうざかったが、言ってる内容はいいことを言っていたと思う。
なので、番組自体にけちをつけるつもりはない。しかも、このような番組を通して日本人を啓蒙するというのがNHKの役割だろうし、それは十分に理解できる。
番組自体は出来る限り視聴者に誤解を与えないように配慮していたと思う。だから番組がこれ以上何かをできたとは思っていない。
しかし、それでも、なお、このような番組を見る視聴者がどのような見方をするかということまで、NHKは考えるべきなのではないかと思った。
まず一点目として子供への影響である。ほとんど裸の状態の女性が多数現れたり、出産直後の赤ちゃんが映されたり、大型動物の解体シーンが映されたりと、教育上あまり子供に見せられない映像があったのではないだろうか。
いくら、この番組が人類学的には非常に貴重な映像で、啓蒙活動にも大きく寄与しているとしても、子供たちが、この番組を見ただけで本質的な何かを理解できるとは到底思えない。そうならば、休日の昼間に流すべき内容ではないように思う。
さらに、子供だけではなく、大人にしてもすべての大人がこの番組から同じようなメッセージを受け取ると考えることは楽観的すぎるような気がする。
性表現の是非などという低俗な話をしているのではない。そうではなくて、例えば、日本は近代国家であり、近代国家に住むことが幸せだと信じている人がこの番組を見たら、おそらくヤノマミ族は野蛮な民族としてしか映らないのではないかというようなことを言っているのである。
近代社会を賞賛するエスノセントリズムに似た思い込みなどを排除するために人類学が存在し、そのような多様な視点を提供されて初めてこのような映像を理解できるような気がするのである。そして、それは逆ではない。つまり我々は異民族の映像を見ただけで、文化を相対的に見れるようになるのではなく、文化を相対的に見れるようになってこそ、異民族の映像を理解できるようになるのではないかと思うのである。
そのためにどのような映像を流すべきなのかは正直よくわからない。ただ人類学者は異文化をどのように表象するかという問題を長い間議論してきたし、まだ結論が出されたわけではない。異文化を表象するという行為は非常に難しいトピックなのである。そして、この問題は、人類学というアカデミックな閉鎖空間においてよりも、一般の人たちと直接つながっているマスメディアにおいて、より重要なトピックになってくるはずである。
もちろん、この番組製作者はそれを十分承知で挑戦しているのであろう。だから、この番組を非難するだけというのは、おそらく間違いだ。それでも、ここまで真摯に作られたであろう番組の製作者だからこそ、今後の番組作りは、さらに異民族のことを考えた番組作り、そして日本人にどのように発信していくかということを考えていってほしいと思うのである。