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アプリ制作がんばってます

やっとお絵描きアプリが完成に近づいてきた。といっても、まだ解決していない問題がいくつかあって、いつ完成するかはまったく未定なんだけど。。。とりあえず、自分的には結構いい感じに出来てきた。
このブログの前回のエントリーで紹介した時は、升目が荒かったんだけど、それだと単純な形しか描けないから、升目をもう少し細かくして升目の数を多くしてみた。

で、ネットで見つけた写真を取り込んでドットアートを作ってみた。なんで、この写真を選んだのかということに関してはノーコメント。別に深い理由はまったくない。↓

DotArtアプリ1




この写真を下絵にして升目に色を塗っていく。升目を細かくしたので画面を拡大できるようにした。↓

DotArtアプリ2




色を変更する画面は前とほとんど同じ。まだ改良の余地がありそうな気が。↓。

DotArtアプリ5




で、こんな感じに仕上がる。↓

DotArtアプリ3




これが設定画面。ファイル名と写真を変更できる。あと、升目の形は正方形か円が選べるようにした。ついでに升目の線の色もグレースケールで変更できるようにした。↓

DotArtアプリ6




これがファイルを保存したり開いたりする画面。前回の時はボタンだけで実際は保存とか出来なかったんだけど、今回はファイルを保存したり開いたりできるようにしてある。ただ、開けるファイルは一つだけで、開くファイルを選んだりすることはまだできない。


DotArtアプリ4



こっちは升目の形を円形にしたところ。

DotArtアプリ7



ということで、結構完成に近づいていて、自分的にはちょっとうれしい。本当は半年ぐらいかかると思っていたのに、1ヶ月程度でここまで出来ちゃったので感激している。もちろん俺が頭いいんじゃなくて、Objective-Cというこのプログラム言語が簡単に習得できる言語で、しかも使いやすいってことなんだけどね。それに、このプログラムを作るソフトも便利機能満載だし。

ただ、問題はこっからのような気が。。。ファイルを開く画面で、できればギャラリーのように描いた絵を並べておいて、絵をクリックしたら、その絵が開くというようなものを作りたかったんだけど、サムネイルにした絵を並べるのはちょっと難しそう。なのでテーブルビューにファイル名と絵を並べようかなって思っているんだけど、それすらも少し難しそう。ということで、この2、3日、テーブルビューとかを勉強しているんだけど、なんか、面白くないし、はかどらない。というか、そもそもロード画面というかロードの仕方というか、そこらへんの構造をどうしたらいいのかっていうことが自分でもはっきりイメージできていないのから何をどう勉強したらいいかもわからずにいる。うーん。困った。。。


今、作っているアプリ

ブログを書かないといけないと思いつつ、またもや文章が書けない日々が続いていた。今回はツイッターをやりすぎて長文が書けなくなったという理由ではない。そうではなくて、頭が理系モードになってしまっていたから書けなかったのだと思う。先月、経済学の本とかを(入門書ばかりだが)片っ端から読んでいて、頭が経済脳になっていた。で、7月はプログラミングの方が調子でてきて、プログラムのことばかり考えていた。経済学もプログラミングも、ある意味答えのある学問だ。私はこういう答えのある学問を理系モードの学問だと考えている。よく理系と文系の違いは実証主義的かどうかだとか、反証可能かどうかなどというもっともらしいことをとうとうと述べている理系の先生がいるが、理系と文系の違いとはそういう違いではなくて、世の中の様々な現象や出来事を説明しようとするかどうかだと思うのだ。世界を説明しようとする姿勢があれば理系モードであり、解釈しようと試みるのが文系モードだということだ。例えば、経済学だったら、経済活動の裏に何らかの法則があると仮定して、その法則を探して経済活動がなぜそのような動きになるのかということを説明しようと試みる。そこに科学的姿勢が見て取れる。一方、芸術作品を鑑賞するとき、我々は絵画や音楽の裏側に何らかの法則を探し求めているわけではない。そうではなくて作品をいろいろな角度から吟味し堪能する。芸術作品に限らず、評論などでも、答えのない問いをああでもない、こうでもないと様々な視点で解釈し、そのような解釈を繰り返すことで、新しい見方で答えのない問いを理解しようと試みる。そこには唯一の答えがあるわけではないし、もちろん説明を求めているわけではない。むしろ答えのない問いを楽しんでいるのだ。それは芸術作品を楽しむ姿勢と同じであろう。このような姿勢が文系モードの姿勢だと思う。

だからオカルトであろうと科学であろうと、世の中を説明しようとする姿勢としてはどちらも科学的理系モードということになる。例えば、Xファイルというドラマのモルダー捜査官は科学で説明できない現象を認めているからオカルト的人間だと思っている人がいるかもしれない。しかし、実は、宇宙人の存在や霊魂の存在を認めることで、論理的に説明しようと試みる姿勢は十分、科学的であり理系人間の典型だといっていいだろう。

まあ、詳しいことは、また今度違うところで述べたいと思うのだが、ようするに頭が理系モードになってしまっていたため、なんとなく文章を書くのが億劫になってしまっていた。理系モードだと、唯一の答えばかりを追い求めてしまって、面白い文章が書けないからだ。と長々と言い訳じみたことを書いてしまったが、あまりも長いことエントリーをアップしていなかったら、ブログのトップページに広告が勝手に入ってしまい見苦しいので、がんばって文章を書くことにした。といっても、最近プログラミングのことで頭が一杯なので、面白いネタを書けそうにない。仕方がないので、私が作っているプログラムなどに興味を持つ人はあまりいないと思うが、とりあえず今作っているプログラムを紹介したい。まだプログラムを習い始めて半年だし、全部独学なので、あんまりすごいものは作れていないのだが、自分的にはよくがんばったなーってちょっと感動しているので、プログラミングとかに詳しい人は、さらっと流してください。

で、アプリなんだけど、実はついこの前まで、ひたすら本を読んで勉強していた。だからあんまり面白くなかった。まあそこそこ面白いんだけど、やっぱり決められたことを、書いていても面白くない。それが数週間前に、なんとなく自分で何かを作りたいと思い、勢いでボールゲームを作ってみた。


ボールゲーム



まだまだ欠陥だらけのゲームもどきなんだけど、それでもいろいろなテクニックを使ったので、自分的には楽しかった。で、気をよくして、半年前にアイデアは浮かんでいたドット絵のアプリを本格的に作ろうと思って、作ってみたら、結構いい感じに作れた。まだ開発途中なので、もう少し機能を付け加えるし、他のドット絵を書くアプリとの差別化も図らないといけないのだけど、とりあえずベースになる部分はこんな感じかなーって思っている。


アプリ画像1



この画面がドット絵を描く画面。下に並んでいる色を選んで、ドットを叩いていき色を塗っていく。


アプリ画像2



で、この画面が新しい色を作る画面。ここで作っては、最初の画面に戻って、ドット絵を仕上げていく。


アプリ画像4



ドット絵が描けたらこの画面で保存したり写真に撮ったりできる。まだ保存はできないが。。。


アプリ画像3



で、これが撮った写真を、iPhoneに標準装備されているアルバムで写真を見ているところ。

まあ、とりあえず、こんな感じのアプリを作っています。たいしたアプリに見えないと思うけど、画面を切り替えたときに変数のやり取りをするのとかは、簡単そうで実は結構大変だったのです。完成までにはまだまだ時間がかかりそうだけど、ここまで作るのに半年ぐらいかかるかと思ったら、2週間程度で作れてしまったので、あと数ヶ月もがんばったら、もう少しましなアプリになるかなーっと一人で期待しています。ただやっぱり独学だと、基本的な部分とかがスポーンと抜け落ちたりしていて、つらいんだけどね。とりあえず、今はドット絵を保存できるようにしたい。それが今の目標です。あと、今回は個人的な内容で、あんまり面白くない話ですいません。


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シャーマンの話

この前、ドラマ「トリック」の劇場版がテレビで放映されていた。「トリック」は10年ほど前、深夜番組枠で放送されていたらしいのだが、私がこのドラマの存在を知ったのは去年のことだ。去年、お気に入りのブログで「トリック」が紹介されていて面白そうだったので第一期を見た。そしたらベタベタなノリが私のツボにはまってしまい、一気に全話見てしまった。ちなみに、いつもだったらここで、深夜番組つながりから、深夜番組のドラマといえば特命係長もおすすめだ。特命係長には日本的な美徳や正義、ヒロイズムなど日本文化のエッセンスがつまっているのである!とかなんとか、くだらない話をはじめて、どんどん論点がずれていき収拾がつかなくなって、前置きにならないような前置きをだらだらと書いているうちに、何を書きたかったのかすら自分でもよくわからなくなってきて、思考能力が低下して、最後にやけになってエイっとばかりにブログに公開したあとに後悔する(←あ、ここダジャレね)というのが、私のブログのいつものお約束パターンだった。しかーし、こんな悪習は断ち切らねばならない!。。。少なくとも今日だけでも断ち切りたい(←ちょっと弱気)。ということで、今日は、余計なことは書かずに、直球ど真ん中で「トリック」の話を続けたいと思います。

といっても、「トリック」の内容を取り上げるわけではない。「トリック」から連想される話、つまりシャーマンについて今日は書きたいと思う。なんで、こういう話をするかというと、実は半年ほど前にシャーマンのことについて書いたのだが、次回に続くとか調子のいいことを言いながら、続きを書いていなかったんだなー、これがまた。まあ、私のブログでは、よくあることなので、誰も気にしていないと思うのだが、一応、これでも自分的には約束を先延ばししてしまっていることに少しだけ罪悪感を覚えていたのです。「書く書く詐欺」みたいだからね。まあシャーマンねた以外にも、私のブログには続きを書くといって書いていないネタがごろごろしているわけだけど、一日一善、ローマの道は一日にして成らず、千里の道も一歩から、一日一歩三日で三歩、三歩進んで二歩下がる~ってね(つーか、あいかわらず、うっとうしいね、俺の文章)・・・。まあ、ようするに、とりあえず、一つ一つこつこつと消化していこうと考えていたわけで、そんなときに、「トリック」のドラマを見たので、今回はシャーマンねたを終わらせちゃおうとドラマを見ながら、急に菅さん並みにやる気を出したわけであります。ということで、今日はシャーマンネタをしゃべらせていただきます。ちなみに「トリック」ねたも、以前、軽く書いたことがあるので、そちらも読んでもらえると嬉しいです。その時書いたことは、超常現象を科学的に解明する科学的思考法と解釈学の違いについてみたいなことを書きました。リンクは関連エントリーに載せてあります。

さて、そういうことでシャーマンなのだが、まずはこの「トリック」のあらすじを紹介したい。と言っても、あらすじを書くのは苦手なので、今回もウィキペディア先生にご登場願おう。ただ今回はドラマの内容についていろいろ書くわけではないので、どういう話かということだけサラっと読んで貰えればいいかなと思います。

ある日、上田を山奥の万練村(まんねりむら)に暮らす中森翔平という青年が訪ねてくる。万練村には「カミハエーリ」と呼ばれる霊能力者が村を治める 掟があるのだが、その選定には全国から募集した霊能力者同士を競い合わせる、いわば「霊能力者バトルロイヤル」ともいうべき大会が行われ、最後に勝ち残っ た者がカミハエーリとされるという。そして最近、翔平の祖母である先代カミハエーリが亡くなったため、村では大会が催されようとしていた。参加者の一人で もある翔平から、この因習を止めさせるため、本物の霊能力など無いことを証明して欲しいと頼み込まれた上田は、万練村へ赴くことにする。
一人では心細い上田は、奈緒子を騙して連れて行こうとするも、体よく断られてしまう。実は奈緒子もまた、クビになったステージの興行主から、偶然カ ミハエーリ選びの大会参加を勧められており、優勝者に与えられる村人からの貢ぎ物や隠された財宝を狙って、大会に参加する事に決めていたのだ。
それぞれ別の目的で万練村を訪れるも、結局は鉢合わせしてしまった奈緒子と上田。お互いが知り合いだと知られては困る2人は、財宝を手に入れるために結託し、大会を勝ち抜こうと画策する。
やがて大会が始まり、参加者達は各々が持つ霊能力を披露、自分こそが本物の霊能力者だと主張する。だが一人の参加者・鈴木玲一郎により、大会は凄惨な命の奪い合いへと進展する。

(ウィキペディア)



ということで、村を治める次期霊媒師を選ぶために全国から我こそはという霊媒師に来てもらって一番強い霊媒師を選ぶという話だったのだが、このドラマの中の霊媒師が村を治めるという設定が興味深く、しかも以前のエントリーにつながる内容だったので、そのあたりについて述べてみたい。

まず、このドラマの霊媒師はどのような設定になっていたのかということを確認すると、次のような感じだ。

  1. 妖術で村を守ることによって村人の信頼を得た霊媒師が村を統治してきた。
  2. 霊媒師の妖術のほとんどは偽物のトリックだった。
  3. 霊媒師を世襲制にしてしまうと能力のないものが村を統治してしまう危険があるので、霊媒師を選ぶときは毎回全国から能力のある霊媒師を探してきていた。

なぜこのような霊媒師の設定に着目したかというと、シャーマンがどのように村の指導者になっていったのかということが、このドラマの設定に反映されているように見えたからだ。たぶん、このドラマの霊媒師の設定を聞くと、昔の社会ではこういう霊媒師のような人たちがいてムラとか国家を支配していたんじゃないかなって考えている人が多いと思う。つまり漠然とこのドラマの霊媒師にシャーマン像を重ね合わせ、過去にはこのようなシャーマンがムラや国家を統治していたのだろうと考えたと思うのだ。特に日本では女性シャーマンが村を統治するという設定は馴染み深いだろう。なぜなら卑弥呼の存在を歴史の授業で学ぶからだ。邪馬台国の女王卑弥呼は鬼道を使って邪馬台国を治めていたといわれる。邪馬台国や卑弥呼が実在していたのかどうかも、まだ議論の余地があるわけだが、もし魏志倭人伝の記述が正しかったとするならば、卑弥呼はシャーマンとか聖職者のような存在だったと考えるのが自然だろう。宗教と政治のかかわりは日本だけではない。例えば西洋中世の王国などはキリスト教会の後ろ盾が必要だったわけだし、世界中のいたるところで政治と宗教は切っても切れない関係にあった。まあ、普通に考えれば、科学が発達する以前においては呪術や妖術などを使うものが特別な力を有していたと見なされており、そのような特別な力で国家を統治していたと考えても不思議ではない。

宗教と政治の関連で言えば、呪術研究の第一人者のジェームズ・フレイザーは呪術から宗教に発展して科学になったと想定したわけだが、彼は国家の発達初期に現れた政治的リーダーはシャーマンのような呪術師だったと考えた。これら呪術士たちは呪術を使っていたわけだが、フレイザーによると呪術とは「間違った因果律」を想定した疑似科学に近いものであった。フレイザーの呪術研究は有名なのだが、呪術は大きく分けて、類感呪術と感染呪術に大別できる。どちらの呪術も科学的な根拠はない。つまり科学的には因果関係のない二つの事象に、間違った因果関係を想定して、呪術の効果があるとしているのだ。フレイザーによると、このような呪術を行使する者たちは意図的に民衆を欺いてあたかも呪術に効果があったとしていたので、詐欺師に近い存在であったという。そういう詐欺師に似た呪術師たちが社会を統治していたのだ。

で、それが宗教団体になって・・・(と思ったんだけど、この宗教団体の部分はほとんど思い出せないので飛ばします)、最終的に科学が宗教に置き換わったという進化論的発展仮説をフレイザーは立てたのだ。つまり呪術や宗教と政治は古くから深く関連していたわけである。フレイザーは19世紀後半の近代主義の思想家であり、理性や科学に絶対の信頼を置いていた。19世紀の思想家のほとんどは進化論者であり、キリスト教を完全に排除して人間の理性の究極の形である科学によって素晴らしい社会が創造できると信じていた素朴な近代主義者たちだったので、フレイザーもその路線で呪術⇒キリスト教⇒科学という発展段階説をとっていたわけだ。

まあ19世紀の文化進化論というのは今はすこぶる評判はよくないわけだが、ただ宗教が政治と密接に関わっていたというのは確かだろう。実際、宗教人類学では祭祀王や神権政治などが議論されている。つまり国家形成の初期には(国家以前の首長制社会や部族社会でもそうだが)、神との契約や宗教的な力が王権の正統性を担保していたわけで、そこに宗教や聖職者が深く関わっていたのは確かだと思う。

ただ司祭とか聖職者というのは、シャーマンとは異なる存在である。それは沖縄のノロとユタの違いに見られるという。その違いを研究しているのがシャーマニズム研究の第一人者(だと思う)の佐々木宏幹先生だ(先生と勝手に呼んでいるが面識はない)。佐々木先生によると沖縄の王朝と関係の深かったのはノロという聖職者集団なのだが、その聖職者とは別にムラにはシャーマンが存在していた。それがユタと呼ばれる女性たちだ。面白いことにユタは反権力の存在なのだという。だから権力側には組み込まれなかった。このシャーマンの反権力という特徴はほかの地域でも見られるようだ。だから国家形成の初期においてもシャーマンが権力に組み込まれる可能性は低かったと考えられる。つまりシャーマンが祭祀王になったというシナリオは実は無理があるのだ。なぜシャーマンは反権力の傾向にあるのか。なぜシャーマンは権力側の聖職者集団と対立してしまうのか。そのあたりの話が結構面白いので、ここで一気に結論まで紹介したかったのだが、時間が遅くなってしまったので、次回に続く。

関連エントリー
シャーマン

ドラマ「トリック」に関連したエントリー
「説明」と「解釈」



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Instagram、ツイッター、フェイスブック (後編)

前回の続きです。前回のエントリーはこちら

ということで、ツイッターでは3種類の情報がやり取りされているわけだが、フェイスブックでやり取りされている情報も基本的にはこの3種類だ。だからツイッターとフェイスブックの違いはやり取りされている情報の質的な違いではなくて、情報を発信するときに、その情報を受けとる相手を想定しているかどうかにあるのではないかと思う。

前回述べたようにツイッターでは自分がフォローしている相手と自分をフォローしてくれている人は基本的には一致していない。だからツイッターでつぶやくとき、そのつぶやきを見てくれているフォロワーの人たちを完全には把握出来ていないと思う。さらにフォローしていなくてもその人のつぶやきを見ることもできる。だから、自分のつぶやきを誰が見るかなんて誰もわからないのだ。つまり世界の中心で独り言を叫んでいるようなものだ。

一方、フェイスブックでは友達リクエストで承認した相手だけが自分の友達リストに入る。そして自分の発言は基本的に友達リストに登録されている相手しか見ることができないことになっている(プライバシー設定を変更したりすることはできるが、デフォルト設定ということで話を進める)。だから、何かをつぶやくとき、漠然とではあるが、ある程度誰が自分のつぶやきを見てくれるかということを想定してつぶやくことができる。つまりフェイスブックでは自分の友達につぶやくのに対し、ツイッターでは誰も想定せずにつぶやくのだ。もっと言えばツイッターでは不特定多数の人間がひしめく未知の世界に開かれているのに対し、フェイスブックでは友達リストに登録されている閉じた空間の中で情報交換をしているような感じだ。だからこそフェイスブックでは身内ネタや自分の身の回りねた、仲間しか写っていないスナップ写真などが掲載される。どれもこれも赤の他人がみたら、あまり面白くないものだが、仲間同士では面白い。そのような情報の共有によってさらに仲間意識は強化されていくだろう。ツイッターでもゆるい人間関係が構築されるとよく言われてきたがフェイスブックの仲間意識とは根本的に異なる。

さて、このような世界に開かれたツイッターと、仲間うちで楽しむフェイスブックの違いは、ツイッターのリツイート機能とフェイスブックのLikeボタンの違いにも反映しているような気がする。リツイートは、誰かのつぶやきを自分のフォロワーにも見せたい時にリツイートボタンを押すと自分のフォロワー全員がそのつぶやきを見ることができるという機能だ。ツイッターは情報を拡散するツールとして極めて有効に働くのだが、その拡散のスピードを高めているのが、このリツイート機能である。フェイスブックのLikeボタンも基本的には同じような機能を提供している。例えば私が友達AさんのつぶやきにLikeを押したら、Aさんとは面識のない私の友達BさんもAさんのつぶやきを見ることができる。もちろんBさんだけでなく、私の友達全員が見ることができる。ということで、ここまでだったら、リツイートとLikeボタンは似たような機能と言えるかもしれない。リツイートとLikeボタンの大きな違いは、その次の段階、つまり友達の友達のつぶやきを拡散するときに顕著になる。

ツイッターはもともと友達リストというようなものが存在しておらず世界に開かれているから、誰でも他人のつぶやきに反応できる。だから、誰かがリツイートしてきたつぶやきが面白いと感じたら、そのつぶやきを誰が発したなどということを考える必要はない。誰のつぶやきでも気軽にリツイートすることができるのだ。それはさらに私のフォロワー、私のフォロワーのフォロワー、そのフォロワーのフォロワー・・・とリツイートされていき、最終的には膨大な量の人がそのつぶやきを見ることになるのだ。

それに対して、フェイスブックは基本的に友達かそうでないかの境界線がはっきりしている。だから友達が見知らぬ人にLikeボタンを押したりコメントを書いたりしてそのポストを見ることができたとしても、それに反応することに躊躇するだろう。なぜなら、そのポストは友達の知り合いのものであって、自分の直接の知り合いのものではないからだ。その結果、そのポストされたものは、ツイッターのように何度もLikeボタンを押されて拡散していくということはあまり起こらない。友達リストの範囲内で終わってしまうのだ。これがツイッターとフェイスブックの大きな違いだと思う。

最初に述べたようにツイッターでもフェイスブックでも3種類の情報がやり取りされているわけだが、2番目と3番目の情報はツイッターでもフェイスブックでもどちらも有効に機能すると思う。クチコミ情報や近況報告をする場合はツイッターでもフェイスブックでも有効に機能するだろうが、リアルな知り合いの延長線上に位置づけられるフェイスブックの方がクチコミ情報の信頼度は上がるかもしれない。挨拶したり近況報告を友達に伝えたいのであればフェイスブックの方が有効だが、なんとなく独り言をつぶやくならツイッターでつぶやくのもいい。ツイッターだったら一時的に時間を共有し擬似的な人間関係を構築することもできる。ということで、ツイッターとフェイスブックはコンセプトは若干異なるが、上の二つの情報をやり取りする上では、どちらもうまく機能するはずだ。

しかし、問題は1つ目の情報である。つまり芸術作品や自分の意見などを発表する場としてどちらが役に立つかということを考えた場合、多分ツイッターの方がより有効なメディアになると思う。なぜなら、フェイスブックでは自分の作品や意見を見てくれる人が友達リストのメンバーに限られてしまうわけだが、ツイッターではブログと同じようにネット上の人たち全員に開かれているからだ。だから、より多くの人たちに見てもらいたいのならツイッターを選ぶべきだと思う。

さて、長々と書いてきてしまったが、Instagramの話に戻りたい。以前のエントリーで書いたようにInstagramでも、ツイッターでやり取りされている3種類の情報と同じような情報を写真を使ってやり取りすることができると思うし、そのような3種類の情報を交換するべきだと思う。つまり芸術的な写真(一番目の情報)、近所の店や新商品などのクチコミ情報を伝える写真(2番目の情報)、そして今何をしているかといった情報を伝えるための写真(三番目の情報)だ。これら三つの情報がやり取りされてこそ、Instagramが写真版ツイッターとして、他の写真サイトとは異なったサービスが提供できるようになると思うのだ。

しかし、そうはいっても、やはり芸術的なかっこいい写真を見せたいという人が多いだろうとは思う。そしてそのような1番目の情報に含まれる芸術的な写真をやり取りするのであれば、フェイスブックよりも世界に開かれたツイッターのような機能が必要になってくる。つまりLikeボタンよりもリツイート機能の方が有効に働くはずなのだ。

現在Instagramを楽しんでいるときに感じるのは、フェイスブックのようにどこか閉じた世界に写真を見せているような気持ちになってしまうことだ。Instagramは友達承認システムではなくツイッターのようにフォロー・フォロワーを採用している。だから友達リストに完全に閉じているということはない。ただリツイートがないから自分のフォロワー以外にに自分の作品を発見してくれるチャンスがない。人気写真に選ばれれば不特定多数の人たちに見てもらう機会も得ることができるが、それに選ばれる確率は結構きつい。だからフォロワー以外には写真を見てもらえないと思いながらアップしている人が多いのではないかと思う。リツイート機能さえあれば、爆発的に拡散されていくであろう写真がほんの一部の人にしか見てもらえないのは残念なことだ。

写真の著作権とかも関わってくるのからリツイート機能を付けられないという人がいる。ツイッターのつぶやき以上に写真は自分の作品・自分の所有物という概念が強く出てくるから、あながち的はずれな意見とは思えない。しかし、この問題とかは、Instagramにアップするときにユーザー名が自動的に写真に書き込まれるなどの機能を付ければ解決されるのではないかと思う。それに著作権とかにうるさい人はもっとしっかりしたサイトに作品をアップするだろうし、Instagramを利用している人は、自分の作品を独占するというよりも、むしろ自分の作品を拡散して欲しい人が多いのではないかと思う。だからリツイート機能はつけたほうがいいんじゃないかなーと思うのだ。ということで、人気写真のコーナーに選ばれない私の個人的な単なる願望でInstagramにはリツイート機能が必要なんだということを力説したいがためだけに、長々とした文章を書いてしまったわけです。付き合わせてしまって申し訳ありません。それと結論がしょぼくてすいません。

関連エントリー
Instagramで遊んでみる
Instagramを考える
Instagramを考える2
Instagramを考える3 Instagramとツイッター
Instagram、ツイッター、フェイスブック (前編)

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Instagram、ツイッター、フェイスブック (前編)

iPhoneを使っている人は知っていると思うのだが、iPhoneアプリはアップデートが結構頻繁に行われる。だから何も考えずにアプリをどんどんダウンロードした人は、毎日相当数の更新情報がくるはずだ。で、その更新情報の全てを把握出来ている暇人などあまりいないと思う。とりあえず更新マークが出たら一括更新ボタンを押してすべて更新しちゃうんじゃないだろうか。私とかはそもそもダウンロードしたことすら覚えていないアプリが結構ある。責任転嫁はあまり好きではないが、こればっかりは私だけの責任ではないと思う。まず責められるべきはフォルダ機能だと思う。

去年まではiPhoneにはフォルダ機能というものが存在していなかった。だから9ページかそこいらのなかにアプリをすべて並べておかないといけなかった。一ページに16個のアプリが入るから、全部で150くらいのアプリということになる。150個というと結構な量に聞こえるが、実際にはiPhoneを買ったばかりのやんちゃ坊主はアプリを毎日のようにダウンロードするもんだから1ヶ月か2ヶ月もするといっぱいいっぱいになってしまう。もう一つの問題点は、アプリの配置問題だ。アプリを使うときは通常アプリが並べてあるページにいかないといけない。後ろの方のページまでページを繰っていくのは結構しんどいから、よく使うアプリを最初の方のページに並べて、あまり使わないアプリは後ろの方に並べていた。何をダウンロードして、何をどこにおくかというのが、iPhoneユーザーの腕の見せ所だったのだ。雑誌とかにも、有名人のiPhoneにはこのようなアプリがこういう順番に並んでいるとか特集が組まれたりしていたほどだ。アプリの選択を通して世界でひとつだけの自分のiPhoneを作り出せていたのだ。だから結構気合が入っていた。

それが、iOS4になって、念願のフォルダが出来て、必要なアプリが最初の数頁にすべて置けちゃうようになって、結局、3ページ以降はあってもなくてもいい物置と化してしまった。だから最後のページにあるフォルダの中に放置している無料アプリなんて思い出せるはずもない。そういうことで、アプリの更新画面でこんなアプリ持っていたんだというような奇妙な再発見をすることもしばしばだった。と、また前置きがすごく長くなってしまったのだが、そういうことで、Instagramも何度か更新されていたのは、知っていたのだが、最近はほとんど触っていなかった。まあInstagramは前に少しはまっていた時期もあったので、アプリの存在を忘れたことはなかったのだが、開けるのも面倒になっていたのだ。それが、昨日半年ぶりぐらいにアプリを開いて使ってみたら、結構機能が充実していて驚いた。そういうことで、今日はInstagramの話をちょっとしてみたい。この前、2回にわたって書いていた分類の話はどうしたという人もいるかもしれないが、至極ごもっともなご意見です。すいません。別に忘れた訳ではないので、近いうちに分類の話も書きたいと思っているのですが、もう少し待ってください。。。というか、あんな話を楽しみにして下さっている人がいるかどうかも定かではないのだが。。。まあ、勝手にいると仮定して脳内妄想をたくましくしながら生きていこう。

さて、いつまでもだらだらと前置きを書いていても仕方ないので、Instagramの話に入りたい。このアプリについては前に何度かエントリーを書いたのだが(関連エントリーへのリンクは文章の最後に載せておきます)、簡単にいうとInstagramは写真共有のiPhoneアプリだ。写真共有といえばFlickrとかが有名だが、Instagramはスマートフォンに特化している点が特徴だ。スマホで写真が撮れて、それを簡単に加工して、そのままアップできるというお手軽さがInstagramの一番の特徴なのだ。で、今回更新された内容を見てみると、結構いろいろな部分が改善されていることに気がつく。例えば写真の一部分だけにピントを合わせ、他の部分はぼかす、tilt-shiftという機能や、Likeボタンを押した写真も見ることができるようになったこと。また、自分の写真をツイッターやフェイスブックなどいくつかのSNSにいつでもアップできるようになったことなのだ(以前はInstagramに写真をアップしたあとはSNSに写真をアップできなかった)。他にも改善された部分があるのかもしれないが、とりあえず目立った改善点はこのあたりだと思う。実際、だいぶ使いやすくなった印象をうける。ただ残念なことに、まだリツイート機能がない。だから、Instagramの世界はどことなくフェイスブックのような身内だけの閉じた世界で写真を楽しんでいるような気分になってしまう。ツイッターのように世界に開けているという実感がわかないような気がする。
ツイッターとフェイスブックはSNSとひとくくりにされることがある。ビジネスの世界では2009年から2010年の夏ぐらいまではツイッターがもてはやされていたが、2010年の冬ぐらいからフェイスブックが騒がれ出した気がする。だから、ツイッターとフェイスブックが同じようなものだと勘違いしている人もいるかもしれないが、実はまったく異なるコンセプトで発達してきたような気がする。どういうことかというと、ツイッターは自分の意見や作品を一方的に提示する傾向が強いのに対して、フェイスブックは相手との対話を重視しているような気がするのだ。もちろん厳密に分けられるわけではない。しかし、ツイッターはブログの流れを組んでいるのに対し、フェイスブックはミクシィに近い存在なのではないかと思う。

ツイッターはゆるい人間関係のSNSと言われるように、フォローのされ方が極めてゆるい。有名人や気になるつぶやきをしている人がいたら、誰でも簡単にフォローできる。フォローする相手の承認を得る必要がないのだ。だから気になったらどんどんフォローしていけばいい。ただフォローしたからといって相手にフォローしてもらえるとは限らない。フォローすることとフォローされることはまったく別の話なのだ。フォロー返しが礼儀だと勘違いしている人も多いが、基本的にはフォローしてくれたからといってフォローのお返しをする義理もなければ、むしろしない方が礼儀だと思う。ツイッターは友達ゴッコをする場所ではないからだ。むしろ情報の交換が前提になっていると思う。

以前のエントリーで、私はツイッターのつぶやきは3種類に分類できると述べた。一つ目は自分の意見や感想、また俳句・ツイッター小説などの芸術作品など、自分のオリジナルの作品。2つ目は有益情報。例えば新聞記事や近所のスーパーの安売り情報、気になる本や、便利なグッズ、生活術など多くの人に教えてあげたら喜ばれるような情報だ。3つ目は有益な情報ではなくて、ただのひとりごとのようなつぶやき。誰かが知りたい情報というわけではないが、そのような言葉のやりとりで人間関係がうまくいくような言葉だ。例えば「おはよう」や「おやすみ」の挨拶。今何をしているか、これから何をするかといったつぶやきなどだ。ツイッターで流れているつぶやきはこの3種類に大別できると思う。(すいません。文章が終わりませんでした。なので、誠に勝手ながら続く)
続きはこちら


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私は、保守主義のコミュニタリアンです。文化相対主義を追求するなら、すべての文化を尊重する保守主義しかないと信じています。ただリベラルと保守はある程度両立する概念だと思っているので、基本的にはリベラルでもあります。なので、自分としては中道右派ぐらいのつもりです。日本が好きです。時々右よりの発言をします。でも危ない人間ではありません。構造主義が好きなのですが、ポストモダンも好きです。あとマルクスも好きです。

専門は考古学です。地理情報システム(GIS)や統計学、空間分析、文化人類学(特に宗教人類学と経済人類学)、社会思想、進化考古学、景観考古学、人文地理学、数理生物、行動生態学などを勉強してきました。CRMや少数民族の文化復興運動についてもいろいろと考えています。最近はサブカルチャー特にオタク文化に興味があります。経済学は大の苦手です。

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